北のセーフイメージ(1) 病と支配のアイヌ絵史|春木晶子

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初出:2020年05月25日刊行『ゲンロンβ49』

第2回
第3回

安心のかたち


 日常を一変させた新型ウイルス。その「見えない恐怖」に怯える人が少なくない。しかし、いやむしろだからこそ、ウイルスの姿は毎日のように、「見える」。電子顕微鏡で撮影された拡大写真、CGによる3Dモデル、それらを簡略化したイラスト。見えないはずのそれをあらゆる方法で可視化したイメージが、新聞にテレビにインターネットに、感染をはるかに上回る規模で蔓延する。あの不気味な、突起に覆われた球体のイメージを、もはや誰もが思い描くことができよう。ウイルスだけではない。感染状況の推移を示す種々のグラフやマップ。江戸時代の瓦版に登場したという疫病除けの妖怪アマビエ。「見えない恐怖」を「見える安心」に変えるべく生み出されたイメージたちは、恐怖を可視化せずにはいられない、わたしたちの性をも、あらわにする。

 それは古代から通底する人間の性であろう。中国古代の辟邪(=邪悪をける)思想に言及した小林太市郎によれば、人間の吉凶禍福は皆、「神示と鬼物」の為すところと信ぜられたので、「人は神示を祀ってその福を享け、鬼物を除けてその害を除かねばならぬとされ」、「鬼物の形像を画図に現はすことが即ち之を辟くる所以と為された」★1。画像を描くことに期待されたこの呪術的(マジカル)な力は、「科学」に基づく知が急速に普及した江戸時代にあってなお、衰えるどころか、むしろ増大したと見え、高度な印刷技術と出版流通システムを背景に、疫病退散を祈る魔除けの絵画が大量に印刷されては消費された。

 今日のコロナイメージの氾濫とそれを消費する心性は、江戸時代の状況とよく似ている。江戸時代に魔除けの絵画を消費した人も、今日血眼になってグラフの変化に一喜一憂する人も、もとめるものは、科学的知識や正しい情報などでは決してなく、ただ一つ、「安心」であろう。安心できる説明を、それもわかりやすいイメージを、人はもとめてやまない。しかし今日、臆面もなく「安心」をもとめ、憚りなくその権利を主張する人は、その裡にある暴力に、それが、傷つけ、損なう、加害者の振る舞いにもなり得ることに、果たして気がついているだろうか。

「安心」は、支配の原理と、巧妙に結びついている。


生理学が身体奥処おくがの「深い」「らい」虚部について洞察を得られたのは、十八世紀地理学、人類学の、遠い「異」国をめぐり、遠い「な」習俗をめぐる議論を動かしていた支配的メタファー群の同様な、関連・比較のシステムによるところ大であった。★2


 バーバラ・M・スタフォードによれば、18世紀ヨーロッパで、大航海時代と帝国主義がもたらした地理的、人類学的関心は、身体内部にも向けられ、あらゆる未知を可視化しようとする欲望が夥しい数のイメージを産み、「知の視覚化」と呼ぶべき現象が興ったという。高山宏が着目するように、同じ現象は同じ時代に日本でも巻き起こっていた。
 そうした動向に沿いつつ、知識人や大衆の好奇と恐怖が入り混じる眼差しに晒されてきた存在に、「蝦夷」/「アイヌ」がある。「アイヌ」とはアイヌ語で「人」を意味し、今日では民族の名称に用いられている。その名が定着する前、北海道が蝦夷地あるいは蝦夷ヶ島と呼ばれた頃、そこに暮らし、「日本人」――この呼称も括弧付きのものだが――から「異人」と見なされた人々は、「蝦夷」と呼ばれた。本稿では、異人と眼差された蝦夷/アイヌを「アイヌ」、彼らを異人と眼差した「日本人」を(アイヌも「日本人」に同化されていくので)慣例に従い「和人」と称する。

 和人によるアイヌの造形を紐解くと、そこからは意外にも、病と支配の密接な関係が、ありありと浮かび上がってくる。どうやら蝦夷地支配のイメージは、疫病退散のイメージと分かち難く結びついていたようだ。アイヌは文字を書かず、絵を描くことをしなかったので、彼らは「セルフイメージ」を持ち得なかった。代わりに彼らが持ち得たのは、和人から押しつけられた「安心のかたち」、いわば「セーフイメージ」ばかりであった。

病は北から鬼門から


 川越宗一の『熱源』(2019)が直木賞を受賞したのは、国内が新型ウイルスの話題で持ちきりになる、ひと月ほど前のことだ。本書は19世紀後半から20世紀前半の樺太/サハリンを主軸に、日本やロシア/ソ連といった「国家」に翻弄され、故郷を喪失した、人種や民族や国籍の異なる人たちの交錯を描く長編歴史小説である。それが描き出すアイヌ民族ヤヨマネフクの前半生は、図らずも今日の感染症の流行を彷彿とさせる。ヤヨマネフクは、幕末に樺太に生まれ、明治になって北海道の対雁ついしかりに移住し、その村とともに成長し、結婚し、子を儲ける。しかし、コレラや痘瘡(疱瘡ほうそう)といった度重なる疫病が、同胞を、村を、そして最愛の妻をも、彼から奪い去る。のちに樺太に渡ったヤヨマネフクは、アイヌのための学校を建てようとする仲間のために尽力し、「衛生や伝染、免疫の知識があれば、あんなに人が死ななくてもよかったかもしれない」と、周囲を説得し、資金集めに奔走する。彼の亡き妻は、「病気の種を体に入れるなんて、気持ち悪い」と言い、種痘しゅとう)(ワクチン接種)を拒否していたのだった。

 疫病で命を落とした同胞を、来る日も来る日も焼いては運ぶ。『熱源』が描くその壮絶な光景によって、一幅の絵が思い出された。《種痘施行図》(1857年、縦70.4cm 横92.2cm、東北福祉大学芹沢銈介美術工芸館所蔵)【図1】である★3

【図1】《種痘施行図》(東北福祉大学芹沢銈介美術工芸館所蔵。掲載許諾取得済み)

春木晶子

1986年生まれ。江戸東京博物館学芸員。専門は日本美術史。 2010年から17年まで北海道博物館で勤務ののち、2017年より現職。 担当展覧会に「夷酋列像―蝦夷地イメージをめぐる人・物・世界―」展(北海道博物館、国立歴史民俗博物館、国立民族学博物館、2015-2016)。共著に『北海道史事典』「アイヌを描いた絵」(2016)。主な論文に「《夷酋列像》と日月屏風」『美術史』186号(2019)、「曾我蕭白筆《群仙図屏風》の上巳・七夕」『美術史』187号(2020)ほか。株式会社ゲンロン批評再生塾第四期最優秀賞。
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