愛について──符合の現代文化論(5) 少女漫画と齟齬の戦略(後)|さやわか

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初出:2020年6月26日刊行『ゲンロンβ50』

 70年代以降、日本社会の基盤を成すイデオロギーが崩壊し、それまで人々が何気なく受け入れていた恋愛観や結婚観、家族観が揺らぎ始めた。筆者は、このイデオロギーの一大変動こそが、今日の日本で見られる多くの軋轢の根底にあると考えている。

 少女漫画はこの新しい時代性をいち早く感じ取り、応答したジャンルだ。具体的に言うと70年代には多くの少女漫画家が、汚れのない恋愛の最終目標として結婚を目指す恋愛物語、すなわちロマンティックラブからの解放を模索した。この連載では前回までに、山岸凉子、大島弓子といった作家たちのこうした試みを、記号と意味が一対一に符合することから逃れようとする「齟齬」であるとした。

 その齟齬の戦略は、後の時代にどう対応していくのか。今回はそれを辿っていこう。


 そもそも70年代の少女漫画は、なぜ結婚を目標とするロマンティックラブを否定したのか。それはロマンティックラブで描かれる結婚が、要するに代々の家系を維持し、職業や財産を子孫へ継承する永続主義へ帰結し、またそれを是とするものだったからだ。

 ロマンティックラブは、自由意志による恋愛の末に結婚することは尊いと、読者に感じさせる。ところがそこで古い価値観と相まって、「純潔を守る」ことの徹底、つまり婚前交渉の否定に結びつく。自由恋愛を推奨していたはずのロマンティックラブが、いつの間にか家系存続を目的とした生殖と出産を目指す、旧来的な結婚観の強化へと利用され、夫婦をイエの社会制度に組み込むわけだ。

 本来、人は互いの愛情がなくともセックスをしたり、結婚することが可能だ。これは、近代以前に世界中で見られた性習俗や結婚制度に思いを巡らせれば容易に理解できる。ロマンティックラブは、そうした人々の恋愛に対する自由さを崇高なものだとした。しかし近代社会は、セックスや結婚は愛情が存在してこそ行われると強調し、その結果、個人が愛情に率直に生きることを肯定していたはずのロマンティックラブが、なぜか自由の制限につなげられてしまった。

 70年代以降のイデオロギー崩壊とは、人々がこの矛盾に疑問を抱くようになったという意味である。その意識の目覚めによって、少女漫画もロマンティックラブを安易に描かないようになった。このジャンルの主な読者が恋愛物語を好むからこそ、作家たちは恋愛について突き詰めて考えるようになり、結果的にロマンティックラブの矛盾に自覚的になっていく。ロマンティックラブ的な物語類型を扱うにしても、そこに批評的な問題意識を持つようになったのだ。
 こうして70年代の少女漫画は、若者らしい心情や恋愛を繊細に描き、それゆえに結婚観や家族観、ジェンダーなど現代人が抱える問題についての深い洞察を行うジャンルとなった。前回で紹介した大島弓子や、彼女を含めた「二四年組」と呼ばれる一連の作家たちは、そうした作風を持つ描き手の代表格として、大人や男性読者にも注目されていった。


 少女漫画に限らず、恋愛を人々の自由な愛情の発露として捉え、また結婚においても家系の存続より両者の愛情こそを重視する意識は、70年代以降の社会全体に広がった。ただ、実はその結果、かえって人々は恋愛や結婚へ不安を抱くようになっていった。

 なぜだろうか。社会学者の橋爪大三郎は、結婚やセックスが、愛情あってこそのものと考えられるようになった弊害を次のように書いている。

 愛情の確認を経て婚姻へいたる身体を一様にとらえたイデオロギーは、“純潔”観念である。純潔とは、婚姻にいたるまで正当化されないタイプの性愛表現がまだ控えられている場合に、その境界に与えられた記号的標徴である。
 純潔は、性交(=男性性器を膣に挿入すること)と密接に関連づけて、解釈されてきた。[中略]婚姻が聖別され、夫妻のあいだでの性交渉が正当なものとされたのは、それが生命の再生産を遂行する社会的に是認された唯一の仕方だからであった。ところがこれを逆からみると、性交以外の性愛表現であるならば、愛情を追求する過程で実行されても、純潔を破棄したことにはならず、古典的な性愛観にもとづく性愛倫理に違背したことにもならない(と解する余地がある)ことになる。
 とりわけ今世紀、欧米諸国で顕著に生じた性愛文化の地すべり的な変動は、実際、このような性愛倫理の全面的な変容にうらづけられている。★1


 橋爪が言っているのは、こういうことだ。まず近代の社会規範は、結婚やセックスには、愛情が伴うとした。つまり結婚やセックスに、記号的な意味として、愛情が分かちがたく符合した。これによって人は愛情なくして結婚やセックスができないこととなり、純潔のままで結婚し、子供をもうけるロマンティックラブが、旧来の家族制度を守る理想的モデルとして目指されることになったのだ。

 だが愛情なくして人が結婚できないならば、結婚の前段階で既に愛情の存在が明らかでなければならない。にもかかわらず、婚前のセックスは純潔ならざるものとして禁じられており、人々は肉体関係を持つことで愛情を確かめることもできない。

 そこで人々は、発想を逆転させる。婚前のセックスが純潔を破る禁忌なのであれば、つまりセックス以外すべての婚前コミュニケーションは純潔である、と考えることにしたのだ。純潔という概念を免罪符にして、橋爪の言葉で言えば純潔を「記号的標徴」にして、婚前の恋愛や性を自由に楽しむことを正当化した、と言ってもいい。

 前述した少女漫画の達成も含め、60年代末から70年代以降に自由恋愛を礼賛する風潮が起こったのは、右のような経緯によるものだった。近代の社会規範が貞淑を求めたにもかかわらず、人々の規範意識はむしろ性や恋愛の自由へ向かっていったことになる。

 だが橋爪が示唆するのは、それにとどまらない。彼が言うのは、セックスや結婚に愛情が符合したことで、人々が自由を謳歌するようになったというより、むしろそれらの行為をしあぐね、思い悩むようになったということだ。
 それはなぜか。前述のように、結婚やセックスは、本来なら愛情が伴わなくても行えるものだ。しかし近代に現れたイデオロギーが、これらに愛情という意味を根拠なく符合させたことで、人々は自身の結婚やセックスに愛情が伴うかどうか、常に内省しなければならなくなった。過去には特段の意識を持たずにセックスや結婚生活を営んでいたからこそ、突如そこに愛情を実感すべきだとされた近代以降の人々は、不安を覚えるのだ。あるいは、強い愛情を感じた相手がいた場合に、ならば自分は、この相手とセックスや結婚がしたいのだろうかという一種の強迫観念で、他者との適切な距離感を見失ってしまうケースもあるだろう。

 こうした現代人を、橋爪は「性的無規範状態(アノミー)」と呼んでいる。愛情という意味を符合したことで、かえって結婚やセックスが記号的な空虚さを持つようになる。結果として人々は、何を基準にセックスや結婚をすればいいかわからなくなり、虚無的に、あるいは無軌道に振る舞うようになる。




 実際、この流れを受けて、80年代以降には多くのフィクションで、恋愛が自由に、そして時には野放図に描かれるようになった。 日本ではテレビドラマ『金曜日の妻たちへ』(1983年)のように不倫を描いた物語が流行したり、村上春樹『ノルウェイの森』(講談社、1987年)以降には「純愛」がブームになったりした。たとえば女性隔週刊誌『微笑』(祥伝社、1988年7月30日号)は、『ノルウェイの森』のブームによって『朝日新聞』紙上で起こった読者同士の論争を、面白おかしく報じている。

 そして、極めつけは、19才の女の子による投稿だろう。彼女は、『ノルウェイ…』を読み終わって男性観が変わったという。
「この本の主人公は、好きな女性を本当に大切に思い、自分をさらけ出し、その人との精神的つながりを求めることに努力しています」
 肉体しか求めない男性、平気でワイ談をする無神経な男――そうした男性に対する不信感が、修正されたというのだ。
 そして、『ノルウェイ…』を本当の“純愛小説”とみなし、主人公たちの“純愛”で結ばれる姿に、限りない羨望を向ける。


 純愛ブームによって、旧来的な社会規範を逸脱した恋愛を描く人気作品は次々に生まれるようになる。その当初、同じテーマを扱った先行例として参照されたのが、前回までに紹介した、70年代の少女漫画である。したがって80年代以降のポスト・ロマンティックラブを描く日本のフィクションには、70年代の少女漫画が描いた内容を発展的に受け継いでいるものが多い。

 文学には、その影響が特に強く表れている。山田詠美のように、少女漫画タッチの絵で『シュガー・バー』(1981年)『ヨコスカフリーキー』(1986年)など性的アノミー以後の恋愛漫画を描き、のち作家に転身した者もいる。またデビューするやいなやブームを呼び、人気作家となった吉本ばななも、大島弓子からの影響を公言している。実際、彼女の商業デビュー作であり海燕新人文学賞を受賞した「キッチン」(1987年)は、大島の短篇作品「七月七日に」(1976年)との類似が指摘されている。山本周五郎賞を受賞した『TUGUMI』(1988-89年)では、井上ひさしが選評として「少女漫画風とかいろいろ難点はあります」とも述べている。

 その他にも、80年代以降の日本では、疑似家族、ジェンダー、自由恋愛など、70年代の女性漫画家が描いたモチーフを積極的に採り入れた文学作品が注目され、読者や評者もその影響を感じながら前向きに評価した。要するに80年代以降の文壇では、70年代における少女漫画の達成が純愛ブームという形で再発見されたのだ。
 純愛ブームはゼロ年代以降にも続き、文壇に限らず、フィクション全般で散発的なヒット作を飛ばしながら今日にいたっている。社会学者の土井隆義は、ゼロ年代半ばに若者に支持されたケータイ小説について「たとえば、第一回日本ケータイ小説大賞を受賞した『クリアネス』は、自宅で売春をしている女子絵大生がホストと恋に落ちる物語だが、選考会では『ピュアな恋』と評された。また、同じくケータイ小説として書籍化された『恋空――切ナイ恋物語』でも、女子高校生がレイプ、妊娠、流産といった過激な体験を次々と重ねていく」と書いている★2。つまり土井は、性的に堕落しているにもかかわらず「純愛」と称するケータイ小説の恋愛観に新奇性を見ているわけだが、こうした恋愛観は80年代の『ノルウェイの森』から続く、愛情と符合した結婚やセックスを果てしなく探し求める(=純愛)性的アノミー状態と同根であり、そうしたフィクションがゼロ年代以降も人気を集めているのだと考えればしっくりくる。つまり純愛は一過性のブームではなく、事実上、80年代以降の日本人の価値観の根底で流れ続けている概念だと言える。


 では、先行して性的アノミー状態を描いていた当の少女漫画は、80年代以降にこの純愛パラダイムにどう対峙しただろうか。サブカルチャー評論でよく言及される作品としては、『ヤングユー』(集英社)『FEEL YOUNG』(祥伝社)他のヤングレディース向け雑誌で活躍する作家による作品がある。系譜的に並べれば、岩館真理子『うちのママが言うことには』(1988‐1995年)、岡崎京子『pink.』(1989年)、桜沢エリカ『メイキン・ハッピィ』(1992-1993年)、安野モヨコ『ハッピー・マニア』(1996-2001年)などが挙げられるだろう。

 これらの作家や作品は、性的アノミー状態に陥った現代的な恋愛や結婚に戸惑い、新たな生き方を探る人々を描いている。だが、ヤングレディース向け雑誌は対象読者が20代を中心とした若い社会人女性である。厳密に言えば少女漫画ではなく、少女漫画を経た、高年齢化した読者層を持つジャンルだと言える。

 読者が大人であるがゆえに、こうしたジャンルの作品は現実に即して問題意識を深め、読者の共感を誘うものになることが多い。職場の人間関係を描いたり、性風俗業界を描くなど、実際の社会そのものをリアリスティックに描きながら、消費社会、職業、ジェンダーなど、そこに生きる女性が直面する諸問題を、やはりストレートに訴えるのだ。簡単に言えばこうした作品は、絵空事のような物語ではない。その設定とストーリー内容によって、性的アノミー状態の時代を真に迫って描いている。

 それゆえにこのジャンルの漫画は社会反映論的なサブカルチャー評論の俎上にも挙げやすい。だが一方で、山岸凉子や大島弓子らが、少女漫画、あるいは漫画の持つ記号性を自覚し、その意味の符合に齟齬を発生させることで現実問題に相対したのとは別の方向性を持った試みだと言える。山岸らが少女漫画の図像も含めた、形式そのものの改変を目指したこととは、源流は同じでも、既に別の路線へ進んだものだ。


 だが山岸や大島のような批評性を持ち、少女漫画の表現を逸脱しようとする作品が消えたわけではない。サブカルチャー評論や一般読者が積極的に語らなくなっただけで、少女漫画ではそれぞれの時代に応じてこうした齟齬の戦略を行う作品が絶えることなく、現在までいたっている。その例として、ここでは神尾葉子『花より男子』を取り上げよう。

さやわか

1974年生まれ。ライター、物語評論家、マンガ原作者。〈ゲンロン ひらめき☆マンガ教室〉主任講師。著書に『僕たちのゲーム史』、『文学の読み方』(いずれも星海社新書)、『キャラの思考法』、『世界を物語として生きるために』(いずれも青土社)、『名探偵コナンと平成』(コア新書)、『ゲーム雑誌ガイドブック』(三才ブックス)など。編著に『マンガ家になる!』(ゲンロン、西島大介との共編)、マンガ原作に『キューティーミューティー』、『永守くんが一途すぎて困る。』(いずれもLINEコミックス、作画・ふみふみこ)がある。
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