展評──尖端から末端をめぐって(10) コロナ禍と「常設展」|梅津庸一

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初出:2020年07月17日刊行『ゲンロンβ51』

 パープルームがある相模原の通りを歩いていると、歩行者の顔に街路樹の葉が当たるほど枝が伸びている。通り沿いの飲食店はどこも活気がない。これもいまや見慣れた光景になってしまった。まるで今が非常時なのか平常時なのか時々わからなくなるくらい、コロナ禍は日々の生活に馴染んでしまった気がする。

 パープルームのアトリエで作業をしていると、外から「梅津さん! もうご飯食べた? 寿司食べに来なよ!」とよく通る大きな声が聞こえてくる。声の主は、隣のアパートにある「みどり寿司」の大将だ。わたしは作業を中断し、2階の窓から下に佇んでいる大将に向かって「すぐ行きます!」とこたえる。これは特段かわったやりとりではないが、このようなやりとりが当たり前になるまでには紆余曲折があった。今回はそんなやりとりの背景にあるものを、パープルームギャラリーで開催された「常設展」★1や「常設展Ⅱ」★2と絡めながら語ってみたい。

【図1】安藤裕美《誰もいなくなった相模原のジョナサン》、2020、キャンバスに油彩、605×727mm
 

 パープルームのある建物に住み始めて11年になる。相模原という土地にこだわりや愛着があったわけではない。たんに広くて家賃が安い物件を探し求めた結果、この場所に住むことになっただけだ。それに当時は、うらぶれた郊外で他人から干渉を受けずにひっそりと自身の創作活動に打ち込むのが美術家にとっての「研ぎ澄まし」だと思っていた。当然、近所の住人との付き合いはまったくなかった。わたしは、美術の営みとは世間から距離をとるのが普通だと思い込んでいた。いや、実際はそうではなかった。今振り返ってみると、たしかに相模原では引き籠っていたが、同時に都心にあるコマーシャルギャラリーに「純度の高い作品(商材)」を度々納品しに行き、美術界から忘れ去られないよう定期的に他人の展覧会のオープニングパーティーに顔を出し続けていた。それがわたしにとっての美術の営みだった。

 震災後、既存のインフラや美術の制度への信頼が揺らぎ、もともと自分の中にあった小さな疑問はどんどん膨れ上がっていった。このような状況を打開するために2013年に立ち上げたのがパープルームである。震災を機に、日本のアート界の慣習に最適化し、成り行きに身を任せてきた自身の活動を反省して、同世代の作家仲間との関係を断ち再出発しようと決意したのだった。

 詳しい話は省略するが、こうして始まったパープルームの活動は思ったよりも長続きしており、もはやいわゆる「プロジェクト」や「アートの実践」の範疇を超え始めているという実感がある。当初わたしは30代の時間の大半をパープルームにつぎ込むことになるとはまったく思っていなかった。震災以前は作家としての軸がふわふわして地に足が着かない状態に悩み続けてはいたが、私生活の方は順調だった。今でも時折、あの頃の方が現在よりも幸せだったのかもしれないと思うことがある。わたしはそんな極めて個人的な「邪念」を振り払うために美術やパープルームの活動により没入していったのかもしれない。パープルームには日頃から多くの人が出入りし、常に「活性」の状態が維持されるように心がけているし、実際それはある程度は成功していると思っている。わたしにとって美術やパープルームの活動は、あり得たかもしれない別の幸せに見合うものでなければならない。そんな強迫観念に取り憑かれながら活動してきた。


 数年前まで、じつはパープルームは近隣住民からしばしばカルト集団と疑われ、ただ集まっているだけで警察に通報されたことさえあった。町内でパープルームはずっと浮いた存在だったのである。しかし2018年末にパープルームギャラリーの運営を始めてから少しずつ状況が変わり始めた。
 パープルームギャラリーは、いわゆるホワイトキューブを踏襲した典型的なギャラリーだ。3m×3m60cmのなんの変哲もない小さな空間だが、いくつか特徴がある。まず相模原駅から離れた飲食店が並ぶ通り沿いにあり、同じ建物の隣のテナントはラーメン屋である。美術のギャラリーであるにもかかわらず、ギャラリー内には常にラーメンの匂いが立ち込めている。運営面の一番の特徴は、ギャラリーでの作品の売り上げが100%作家にいきわたるシステムだろう。ギャラリーの維持費が売り上げから捻出できないので常に赤字ではあるが、どんなタイプの作家でも比較的呼びやすい。その結果、パープルームギャラリーは思いついたアイデアをすぐに実践できる、いわば思考実験の場として機能している。わたしはパープルーム予備校に住んでいるため、1階のパープルームギャラリーの業務と日常生活が常に混じり合い、美術の営みと生活が文字通り一体化している。さらにパープルームギャラリーは展覧会の開催にあわせて毎回冊子を発行しており、これまでに16冊発行してきた。これらの冊子は商業ギャラリーがつくる展覧会リーフレットとは違い、作品図版、批評以外にも作品の制作過程や作家のバックボーンにも言及している。さらに展覧会ごとにデザインや形式もすべてゼロから考案する。展覧会タイトルのロゴをわたしが手描きのレタリングでつくることもある。パープルームギャラリーの冊子は展覧会に付随するものではなく、パープルームの作品でもある。つまりパープルームギャラリーは、いわゆる商業ギャラリーとも通常のアーティストランスペースとも違う原理で運営されているのだ。

【図2】パープルームギャラリーの冊子
 

 パープルームギャラリーのお客さんの大半は相模原の住民ではなく遠くからやってくる。もともとアートファンだった人以外にも数学者や農学部の学生など様々な人がここを訪れる。ギャラリーを運営しはじめてから、観客との距離感や交わす言葉の質が以前とはだいぶ変わってきたと実感している。また、パープルームギャラリーの前を通る多くの相模原の住民もギャラリーの中の様子をガラス越しに覗いていく。これまで謎の集団として近隣住民に不安を与えてきたパープルームの活動が、このギャラリーによって、ガラス越しにではあるが開示されたと言えるだろう。


 昨年の1月にはじめてみどり寿司を訪れて以降、より大きな変化があった。みどり寿司は、冒頭でも説明したようにパープルームの隣のアパートの1階にある。同じアパートの上階にはパープルームメンバーのアランが住んでいる。

 みどり寿司は驚くべき安さで美味しい寿司を提供する創業36年の大衆寿司屋である。相模原の寿司屋組合において中心的な存在らしい。みどり寿司はたんに飲食店である以上に、近隣住民にとっての大事な社交場になっている。いつも地元客で賑わい、客同士も顔なじみが多いようで店全体で言葉が交わされている。わたしはまさかすぐ隣にこんな空間が広がっているとは思わず、はじめてみどり寿司に入った時は戸惑いを覚えた。その後何回か通ううちに、パープルームの裏手でみどり寿司の大将と挨拶を交わすようになった。
 ある日、大将がアルバイトを募集していると言うのでパープルームのメンバーであるシエニーチュアンを紹介した。シエニーチュアンは仕事ができる上に気もきくのでみどり寿司の即戦力になった。それ以降、みどり寿司との距離はますます縮まっていった。パープルームメンバーみんなで食べに行くことも多く、わたしたちはいつも単価の安いネタ(サーモン、イワシ、鉄火巻、納豆巻)ばかりを頼むが、大将は嫌な顔一つせず最高の寿司を握ってくれる。さらに誰が何をオーダーするかも大将は把握している。

 わたしが朝方までパープルームのアトリエで制作をしていると、市場で仕入れをしてきた大将の車がやってくる。昼過ぎには大将の威勢のいい声がパープルームの中まで聞こえてくる。全ての業務を終え帰宅するのは夜の12時を過ぎることが多い。そんなみどり寿司のバイオリズムが自然と伝わってくる。また、パープルームの裏手で大将に遭遇すると、まるで同業者のように「調子はどうだい?」と声をかけてくれる。わたしは大抵「まぁまぁですね」とこたえるのだが、こうしたやりとりが1日1回はある。わたしはみどり寿司を通して相模原の社会とようやく出会ったのだ。

 


 今回わたしたちが「常設展」と「常設展Ⅱ」を開催したパープルームギャラリーには、このような背景がある。これは「常設展」にとって非常に重要なものだ。というわけで、前置きがだいぶ長くなってしまったが、ここで両展の話に入ろう。

 今回の展覧会は、どちらも緊急事態宣言が発令されていた期間に開催された。コロナ禍の中で緊急事態宣言が発令されたのは東京オリンピックの延期が決まってすぐの4月7日だった。最初は東京、千葉、埼玉、神奈川、大阪、兵庫、福岡の7都府県で発令され、4月16日からは対象が全国の都道府県に拡大された。そんな状況の中、パープルームギャラリーでは予定していた展覧会が2つほどあったが、コロナ禍の状況を鑑みて3月上旬から休廊していた。

 宣言の発令後、影響は思ったよりもすぐに現れた。日本橋三越本店で開催予定だった「フルフロンタル 裸のサーキュレイター」展の延期が決まったのである。この展覧会は準備に1年以上の時間と少なくはない資金を費やした。しかも、多くのセカンダリー★3を扱うギャラリーから作品を借りていたため、作品の返還期限の関係で中止になる恐れもあった。パープルームのメンバーであるわきもとさきは、職場であるファミレスの深夜営業がコロナ禍の影響で急に廃止になり事実上の無職になってしまった。しかも深夜営業はコロナ収束後も再開しない見通しとのことだった。現在は新しいバイト先が見つかったが、そこもまた接客業なのでコロナ感染のリスクの面で不安がないとは言えない。

 また、みどり寿司も客足が遠のき危機的状況に追いやられた。神奈川県は東京都に比べて休業補償の額がずっと少なく、休業している余裕がない。つまり店を開ける以外の選択肢はないのだ。みどり寿司だけではなく相模原の飲食店は軒並み危機に瀕している。世間ではリモートワークが推奨されているが、リモートワークとは大抵の場合パソコンでできる仕事を指している。社会がリモートワークだけで回るはずがない。わたし自身のことで言えば、2年前までは介護職のバイトを4年ほどしていたが、現在はなんの副業もしていないので活動自粛は収入が大きく減少することを意味していた。
 アート界に目を向けると、ドイツ政府はアーティストに対する補償が手厚いので日本政府もそれを見習うべきだという意見が散見された。だが、そもそも「アーティスト」の定義自体を疑問視する意見はあまり見られなかった。政府にアーティストへの補償を要請するとなれば、アート界はひとつの業界団体としてまとまる必要がある。わたしもアーティストとして普段なんの恩恵も受けていないかと言えばそんなことはないし、美術制度を多かれ少なかれ内面化しているという自覚はある。しかしながら、わたしはアーティストとして生活や活動を国から積極的に補償してほしいとは思わない。最近ネットで見かけた「美術への緊急対策要請」というキャンペーンの「美術は人間に不可欠な創造的活動」★4という文言にも違和感を覚えた。というのも「美術」が人間にとって大事という主張は美術の側の人間の傲りではないだろうか。たとえば赤瀬川原平の「千円札裁判」(1965-67年)において「これは芸術である、だから無罪だ」という主張があったが、それと同じような傲慢さを感じたのだ。わたしはあくまでも一市民としてアートの活動に取り組んでいきたいとあらためて思った。


 みどり寿司の大将はいつお客さんが来てもいいように万全の態勢で構えている。足の速い生ものを揃え、朝から下ごしらえをしてお客さんが来るのを待っている。コロナ禍の影響でお客さんがまったく来ない日もいっさい手を抜いたりはしない。そんな大将の姿勢にわたしは感銘を受け、1日でも多くみどり寿司に行くようになった。1週間のうち6回行った週もあったくらいだ。お客さんのいない店内に入ると、だいたい決まって大将が不安そうにテレビのコロナ関連の番組を見ていた。

 大将の握った寿司を食べながら、わたしは同じ創作者として、大将の寿司に勝る作品を作れていないのではないかと思うことがある。当たり前のことだが、寿司を握るためには相当の技と経験が必要である。寿司は創作物としてかなり厳密につくられている。

 みどり寿司と出会う前は、せいぜいたまに回転寿司に行く程度で、寿司とはあまり縁がなかった。しかし、みどり寿司と出会い繰り返し寿司を食べるうちに、その妥協のない作り込みに気づき、「これはすごい」と思うようになった。他方わたしが美術の世界で作っているものには、良くも悪くも誤魔化しや欺瞞が含まれている。寿司と美術作品を比べるなんて素朴すぎると思われるかもしれないが、わたしは本気でそう思っている。

【図3】みどり寿司
 

「常設展」の開催を思いついたのは緊急事態宣言が発令される前だった。いつもは外部からゲスト作家を招いて展覧会を組織するが、今回はパープルームメンバーによるグループ展だった。それを「常設展」と名づけたのは、非常時だからこそ平常時を象徴する展覧会にしたいという願いからである。今思えば、わたしはパープルームギャラリーの休廊という不自然な状態から「平常さ」を取り戻したかったのかもしれない。このような考えやプランをパープルーム予備校生に話すと、皆乗り気だった。予備校生たちは生活費を稼ぐためにアルバイトをしているが、リモートワークをしている者はいない。皆、対面での接客業だ。もちろん、そのような状況下で「常設展」を開催することに不安がなかったわけではない。しかし結果的に、わたしは「常設展」を通じてとても感動した。はじめは自分がなにに感動したのかよくわからなかったが、今となってはある程度説明ができる。
 そもそもどんな小さな組織も維持していくためには多くの困難が伴う。みどり寿司のように大きな店舗を維持することに比べればたいしたことはないが、パープルームのように目的がはっきりしていない上に仲の良いメンバーが集まっているわけでもない集団を維持するには、水面下で細かい工夫や配慮が必要だ。パープルームは、これまで美術大学をはじめとする美術教育産業の制度的欠陥を指摘する役割を担い、集団としての存在意義を担保してきた。「予備校生」という名称もその設定を守るために付けられたものだった。しかし、予備校生という名称ではわたしと予備校生との間に当然ながら序列が生まれてしまう。いくら対等な関係を心がけていても、どうしても無理が生じてしまう。だが、それでもわたしはこの「予備校」という設定にこだわり続けてきた。それがこのパープルームという集団を守ることにつながると信じていたからである。

 けれども、コロナ禍の中でパープルーム「常設展」を開催することがすんなり決まった時、わたしはふと「設定などなくても、パープルームという集団があるだけで悪くないのかもしれないな」と思った。わたしは予備校生に素直に感謝していた。これこそがわたしたちが7年かけて培ってきたものかもしれないと思った。そして、「常設展」が終わったら「予備校生」という設定はやめてメンバーになってほしいと提案しようと決めた。

 それから急ピッチでそれぞれが作品をつくり、できる限りのコロナ対策を模索した上で、4月28日から「常設展」を無事オープンすることができた。お客さんが来るのか不安だったが、蓋を開けてみればギャラリー内は多くのお客さんで賑わい、いわゆる「密」の状態となった。しかも、会期中メンバー全員の作品がコレクターに売れた。コロナの影響で収入が激減し家賃が払えない状態のメンバーもいたので、作品が売れて非常に助かった。展覧会に来たお客さんは隣のみどり寿司へ案内した。おかげで、みどり寿司はシャリが連日なくなるほどの大盛況だった。

【図4】みどり寿司を宣伝する筆者のツイートの一例
 

 会期中はツイッターを駆使し、ステマと思われてもおかしくないほど露骨に宣伝を繰り返した。もはやこの行為が「現代アート的」かどうかなんてどうでもよくなっていた。もともとわたしは、アートを通じた町おこしや「食とアート」といった話にはずっと批判的だった。しかしアートにおけるそのような自分の信条は、平常時になんとなく培われた趣向に過ぎないのではないかと思うようになった。もちろん、コロナ禍はわたしに人情や人とのつながりの大切さを教えてくれたなどとナイーブに言うつもりはない。しかし、美術作品には、関係各所に気を使った政治的なメッセージではなく、誰にも気づかれない個人的な欲望や禍々しさを宿すことができるのだ。この点に気づいたことこそが、わたしの「感動」の正体だったのかもしれない。それを確信したことで、わたしは展覧会の枠組みや美術界での振る舞いに神経質になることなく、もっとおおらかに活動していける気がしている。


 パープルームという集団がどれくらい持続可能性を持っているかはわからないが、寿司を握ることが趣味だと断言するみどり寿司の大将のように、わたしも自分の仕事により没頭していきたい。そして身近な人や環境を大事にしていきたい。

★1 出展作家は梅津庸一、安藤裕美、アラン、シエニーチュアン、わきもとさき、松澤宥。安藤裕美《誰もいなくなった相模原のジョナサン》などコロナ禍の光景が反映された作品も見られた。会期は2020年4月28日-5月5日。
★2 出展作家は梅津庸一、安藤裕美、アラン、シエニーチュアン、わきもとさき、播磨みどり。「入れ子状の室内画としての展覧会」が目論まれた。ギャラリー内には格子が設置され家や模型などを主題にした作品が並んだ。またみどり寿司で食事をしたお客さんに「パープルストリートにおいでよ」という冊子を配布するキャンペーンも行われた。会期は2020年5月23日-5月30日。
★3 1度売買された作品を市場に出すこと。オークションなども含まれる。
★4 以下を参照。URL=https://sites.google.com/view/artforall-jp/
 

梅津庸一

1982年山形生まれ。美術家、パープルーム主宰。美術、絵画が生起する地点に関心を抱く。日本の近代洋画の黎明期の作品を自らに憑依させた自画像、自身のパフォーマンスを記録した映像作品、自宅で20歳前後の生徒5名と共に制作/共同生活を営む私塾「パープルーム予備校」の運営、「パープルームギャラリー」の運営、展覧会の企画、テキストの執筆など活動は多岐にわたる。主な展覧会に『梅津庸一個展 ポリネーター』(2021年、ワタリウム美術館)、『未遂の花粉』(2017年、愛知県美術館)。作品論集に『ラムからマトン』(アートダイバー)。作品集『梅津庸一作品集 ポリネーター』(美術出版社)今春刊行予定。
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