つながりロシア(13) コロナ・パニックと東方正教会(1)──この世の終わりとよみがえったラスプーチン|高橋沙奈美

シェア

初出:2020年08月21日刊行『ゲンロンβ52』

パンデミック──この strange な時代


 新型コロナウィルスの感染の波が世界を覆い始めた頃、私は研究のためドイツに長期滞在していた。新規感染者数と犠牲者数が増加し、ロックダウンが始まる中で、周りの人びとは口々に「strange / странное」な時代だ、と言った。初めてこの言葉を聞いた時、先行きの見えない不安が募る社会を「奇妙」と形容することにわずかな違和感を覚えた。しかし、strange という単語を調べてみれば、これに「未知の」とか「見聞きしたことのない」という意味があることが分かる。この「新しい」時代には、日ごとに情勢が変化し、発信される情報は多岐にわたり、ときに相互に矛盾する。いまだかつてないほど、私たちには、自分の力で信頼できる情報を見極め、自分自身で判断する力が求められている。

 


 本来、私たちには移動の自由が保障されている。社会主義時代の東ドイツに生まれ育ったドイツのアンゲラ・メルケル首相の声明★1は、権利の重みを十分に理解しながら、それを制限せざるを得ない状況に政府が直面していることを明言した点で際立っていた。しかし、日本の現状を見るに、私たちはいとも容易に自分たちの権利を権力に預け、「自粛要請」に従っているのではないか。それは感染するリスクのみならず、自分の周囲から感染者を出すリスクと責任から逃れたいという思いの裏返しではないだろうか。自らの権利をより大きな権威に委ね、孤立や責任から逃れようとする社会については、ナチズムを経験したユダヤ人の社会心理学者エーリッヒ・フロムが『自由からの逃走』で描いている。

 一方、こうした社会の流れに反して、自分たちの権利を訴え続ける人びとがいる。その多くは、外に出て他者と交流することが、自分のアイデンティティ、つまり自分自身の存在の根幹にかかわる人びとである。私が研究対象としている東方正教会(後述)の伝統的信者たちも、こうした人びとの部類に入る。彼らは宗教的に熱心なだけでない。彼らの多くは、自分の命さえ顧みず信仰を貫いたソ連時代の殉教者たちの話をそう遠くない過去、個人的かつ具体的な身近な出来事として記憶している。

 


 本稿では、ロシアとウクライナの正教会が社会隔離政策にどのように対応したのかを紹介する★2。2020年3月、欧州各地でロックダウンが始まって間もなく、正教会の指導部は隔離政策に従って感染症から信者たちを守るべきか、衛生管理を徹底した上で信者たちの拠り所であり続けるべきか、大いに揺れた。ロシアとウクライナでもその対応は分かれたし、細かく見ていけば教区ごとにその対応は異なったともいえる。教会は伝統的かつ確固たるヒエラルキーをもつ組織であるが、新型ウィルスに対しては指導部の決定が行きわたらず、結果として分派さえ生まれた。今号ではロシアを、次号ではウクライナの事例を紹介する。個別の事例を詳細に紹介することで、社会隔離政策への教会の対応は、生命の危険に対して信仰の自由をどこまで尊重すべきか、という問いへの態度によって規定されたのみならず、コロナ・パニック以前の教会と権力の関係、教会と信者の関係によって大きく左右されるものであったことを明らかにしたい。

東方正教会とは


 東方正教会(Eastern Orthodox Church)とは、キリスト教の一宗派である。ギリシア正教会、ロシア正教会などと呼ばれることもあるが、すべて同じ東方正教会である。現代のロシアでは人口の6-7割が正教徒を自認すると言われる(ただし地域差は大きく、あくまで平均の話である)。ただし、正教徒を自認する人びとのうち、伝統的な信仰生活を送る正教徒はそのうちの1割程度である。伝統的正教徒は、日曜ごとの教会での祈祷(奉神礼)に参加する他、教会暦に従って教会の祝日を祝い、食事制限や服装規定を守っている。当然、外から見えるそうした実践を支えているのは、熱烈な信仰である。
 古代のローマ帝国においてキリスト教は、ローマ、コンスタンティノープル、アンティオキア、アレクサンドリア、イェルサレムの「五本山(ペンタルキア)」と呼ばれる5つの総主教座を拠点として発展した。東西ローマ帝国の分裂に伴って、西のローマ・カトリックと、コンスタンティノープルを中心とした東方正教会では、教義や典礼、教会慣例が異なる発展を遂げた。ローマではラテン語を典礼語としたのに対し、東方正教ではギリシア語を典礼語として用いたことから、「ギリシア正教」の名が生まれた。

 東方正教会は、ローマ教皇に当たる教会の突出した指導者をもたない。東方正教会は特定の管轄領域をもつ16の独立教会(地方教会)に分けられ、管轄内の信者・聖職者は各教会が監督し、教会運営上の問題についてもそれぞれに審議・決定する。たとえば、ロシアの正教徒は「ロシア正教会」が、日本の正教徒は「日本正教会」(ロシア正教会管轄下の自治教会で独立教会ではない)が監督するが、どちらも同じ東方正教徒である。19世紀後半以降の帝国の崩壊と国民国家の独立、そして20世紀の移民の増加によって、教会の管轄領域は、世俗国家の領域とは別の複雑で入り組んだものとなっている。

 また、聖堂で行われる祈祷や儀礼を典礼と呼ぶが、正教会の典礼は、五感に強く訴える演劇的なものであるとよく指摘される。金や宝石で豪華に装飾された聖像画イコンや、ときに天井まで届くイコノスタス(聖像画を掛けた壁)は聖堂の壁を埋め尽くし、鮮やかな祭服をまとった聖職者が儀礼を取り仕切る。祈りは歌となって典礼の間中響き続け、聖職者が振る香炉の匂いは聖堂に染みついている。信者たちは聖像画や聖遺物、十字を切る聖職者の右手を敬い、口づける。日曜の奉神礼では、パンとワインがキリストの肉と血に変容された後、大きな1つの器に入れられ、その日聖堂に集まった信者たちに、1つの匙を使って分け与えられる(領聖)。それらはキリストの尊血と尊体であるから、一滴たりともひとかけらたりともこぼすことがあってはならない。信者が領聖を受けた直後に、聖職者の補助者が信者の口元を布で拭うが、この布も同じものを使いまわす。教会という密室の中で、信者が密集し、聖句を歌い上げ、聖なるものに口づけし、領聖を分かち合う典礼は、感染症の伝播という観点からはこの上なく危険な場であることは間違いない。

ロシアでのロックダウン開始と復活祭


 欧州各国がロックダウンを宣言し始めた2020年3月中旬、ロシアには感染拡大の波は未だ到達していなかった。しかし、脆弱な医療体制を見越して、政府は早めの対策に乗り出した。3月16日、ロシア政府は外国人の入国禁止を発表、首都のモスクワ市内では50人以上が集まるイベントの禁止も決定された★3

 同時期、正教会は教会を閉鎖することに二の足を踏んでいた。3月14日、ロシア正教会の渉外部長であり、教会のナンバー2でもあるイラリオン府主教は動画配信を通じて、コロナウィルスから身を守るための方法として、手洗い、外国旅行の延期、免疫力を向上させるための生活改善などを奨励した。そして、動画の最後には、できるだけ頻繁に祈り、多くの領聖を受けるよう、信者に呼びかけた★4。また26日にはイラリオン府主教が再び動画配信を行い、パンデミックの状況下であっても、教会における領聖は一定の条件を満たせば可能であることを説いた★5。イラリオン府主教によれば、19世紀にロシアでジフテリアやチフスが流行した際、領聖に使うスプーンを消毒した歴史がある。変化したパンやワインから感染することはないが、領聖に用いるスプーンや布自体はウィルスを媒介する恐れがあり、これをきちんと消毒することが重要であるという主張であった。

 


 未知のコロナウィルスに対する恐怖と感染防止のための行動制限が少しずつ拡大する状況を、正教会は復活大祭(パスハ пасха)を迎えるための準備期間である「大斎」の時期に迎えた。復活大祭は移動祝日であり、正教会の場合、2020年の復活大祭は4月19日であった。キリストの復活を祝うこの祭日は、日本でも「イースター」として少しずつ知られるようになっている。復活大祭に先立つ40日が大斎期と呼ばれ、2020年は3月2日から始まっていた。正教徒たるもの、大斎期には頻繁な痛悔機密(罪の告白と赦し)と領聖および、食事の厳しい制限(肉は当然ながら、魚、卵や乳製品などの動物性食品、酒、植物油にも制限がある)を通じて、自分の信仰と向き合うべきとされている。こうして心身を清め、正教徒にとって最も重要な祭日である復活大祭に備えるのである。

 この祭日は正教徒にとって1日限りのものではない。復活大祭当日の1週間前、キリストがイェルサレムに入城したことを祝う「棕櫚しゅろの主日」から、キリストが磔刑に処せられる金曜までを記憶する「受難週」、大斎の中でも最も荘厳な1週間が始まる。そうして迎える次の日曜日が、キリストの死からのよみがえり、死の克服を祝う復活大祭なのである。

 これがどのようなものか、イギリス出身の正教の聖職者ティモシー・ウェアは次のように書いている。

 正教の礼拝の中で最も感動的で印象的なのは受難週である。日ごとに、時を追って教会は主の受難に突入していく。受難がその頂点に達した聖大金曜日の夜、十字架から下ろされ横たわるキリストの聖像が、行列を組んで聖堂の周囲を運ばれる。そして復活祭深夜の歓喜の早課が始まる。この深夜の礼拝に参加すれば必ず、そこに宇宙的な歓喜が渦巻いているのを感じ取れるに違いない。キリストは過去の呪縛と未来の恐怖から世界を解き放ち、教会全体が闇と死に対するキリストの勝利に凱歌の歓呼を上げる。★6


 復活を祝う期間は、復活大祭後の40日間にわたる。熱心な信者に限らず、正教文化圏に住まう人びとにとって復活大祭はクリスマスよりもずっと大きな意味がある。色づけしたゆで卵と「クリーチ」と呼ばれる干しブドウなどが入った甘い菓子パンを教会で清めてもらって、家族や友人と分かち合うことが、長く厳しい冬を終えて大地が芽吹きだすこの時期のロシアの風物詩となっている。さらに、非常に卑近な見方ではあるが、復活大祭は正教会にとっての「書き入れ時」でもある。正教徒を自認する信者たちのうち、日常的に教会に通うものが1割に満たないことはすでに紹介した通りだ。しかし、復活大祭の時ばかりは、普段教会と縁のない生活を送る、世俗的な「信者」たちもこぞって聖堂に足を運び、クリーチを清めてもらったり、ロウソクを購入したり、健康祈願をしたりする。そのすべてには「寄附」という形で金銭の授受が伴う。教会財政は信者の寄附によって成り立っており、たくさん人が集まるほど、教会財政も潤う。最も重要な祭日である復活大祭に、聖堂を閉鎖することは、物心両面から考えて、正教会が如何としても避けたい事態であった。

 


 そうした正教会の願いとは裏腹に、3月29日にモスクワで、翌30日にはサンクト・ペテルブルクで市民の外出禁止が決定した。これを受けてついに、教会の指導部もまた、政府の施策を受け入れる姿勢を鮮明にした。29日の日曜の説教で、ロシア正教会の主座主教、すなわちトップであるキリル総主教は、総主教から「祝福」という形の許可が出るまで教会への参祷を控えるように信者に対して呼びかけた★7。感染拡大防止に関して、ロシア正教会は、科学的視点からの助言とそれに基づく政府決定に従うものであることを宣言したのである★8

 ロシア正教会の首座聖堂であるモスクワの救世主ハリストス大聖堂を始め、ロシア各地の大聖堂や修道院では、3月中から奉神礼の模様がテレビやインターネットで生中継され始めており、復活大祭の奉事の様子も大々的に中継された。復活大祭当日の深夜、私が YouTube 内を検索した限りでも、6チャンネルでインターネット中継が行われていた。正教会が運営するチャンネルのみならず、実質的な国営メディアである「ロシア・トゥデイ」や「RIAノーボスチ」などでも復活大祭の典礼が放映された。

地方によって異なる教会の対応


 しかし、復活大祭を前に出された総主教の「自粛要請」に、信者たちが唯々諾々と従ったわけではなかった。教会における聖職者のヒエラルキーは絶対であり、何事にも高位の聖職者の「祝福」という許可が不可欠である。しかし、一般信徒は必ずしもこの権力構造に組み込まれているわけではなく、総主教の呼びかけに従わなかったという理由で教会コミュニティーの中で居場所を失うことにはならない。外出禁止令下のモスクワでは、保守的正教徒からなる市民団体「ソーロク・ソロコフ」★9が、復活大祭に向けて聖堂を信者に開放するよう求める請願を、プーチン大統領宛に提出した★10。彼らは、信者にとって教会は薬局や食品スーパーよりも大切なものであり、復活大祭の時期に聖堂を閉鎖することは信者の感情を害する行為であると訴え、4万4000を超える署名を集めることに成功した。

 既に述べたように、モスクワやサンクト・ペテルブルクなどの大都市では、感染者数も多く、外出禁止令が出された。他方、感染者数が少ない地方、あるいは感染者がまったくいない地方もあり、外出制限のための行政措置は地域によってまちまちであった。先に紹介したキリル総主教の呼びかけが「信者」に向けられたものであったことに注意されたい。つまり、聖堂での参祷中止は個々の信者への要請であって、実際に聖堂を閉鎖するか否かの決定は、各府主教区の決定に委ねられていたのである。ロシア正教会の管轄領域は、それぞれに独自の運営組織をもつ府主教区に分けられている。府主教区のトップである府主教らは、世俗の世界では知事と比較しうる存在である。各府主教区は府主教の監督下で、管轄下の教会人事、財政、運営の細々した問題に対処している。各府主教区の社会隔離政策への対策は、それの置かれた地方自治体との関係に影響を受けて決定された。

 ロシア・メディアRBKの調査によれば、復活大祭の期間、(ウクライナと係争中のクリミア半島を含む)85の自治体のうち、43の地域で信者のために聖堂を開放することが決定された★11。ただし、これらの決定に際して府主教区が自治体の決定に従ったわけでは必ずしもない。サンクト・ペテルブルク特別市を除くレニングラード州、ロシア中南部のサラトフ州や、北西部のコミ共和国、ウラル地方のスヴェルドロフスク州などでは、聖堂を開放する教会を自治体側が強く批判し、両者の対立はときに著しく緊張した。コロナウィルスに対する危機感や対策が十分とは言えない状況で、聖堂を開放し、復活大祭を教会で祝おうとする聖職者や信者に対し、マスコミはこれが感染の温床となる可能性を指摘し、自治体は警官を警備に立たせて信者の不安を掻き立てた。一方の教会は、自分たちの信仰の自由の権利が蹂躙されていることを訴え、世俗権力を「反キリスト」と決めつけるという非難の応酬が行われた★12

新しいトリックスター


 結局のところ、ロシアでは復活大祭によって感染が拡大したとは断言できない。また、イタリアのように聖職者が高い割合で罹患・死亡するという事態も起こらなかった。開放された聖堂内に入ろうとする信者を、警察が阻止して衝突したというような事件も特段報じられなかった★13。その代わり、コロナ・パニックによってロシア正教会には新しいトリックスターが現れた。ロシア最後の皇帝一家が銃殺されたウラルの中心都市、エカテリンブルクの郊外の修道院に君臨する禁欲修道士(スヒマ僧)・修道司祭セルギーである。
 東方正教会において、修道士になることは、世俗の世界との決別を意味する。修道士は洗礼名とは異なる修道名を与えられ、従順、清貧、純潔の誓いを立てねばならない。同時に、修道士たちは、集団生活の中で自らに課される様々な労働を行って、修道院を維持することにも努める必要がある。修道士の中でも、より一層高度な修道生活を送るのが、禁欲修道士と呼ばれる人びとである。彼ら/彼女らは修道士になる際に立てた3つの誓いをさらに厳格に順守することを求められる一方、修道院における労働やマネジメントの作業からは解放され、ただ祈りによって神との合一を求める。セルギー修道士は、こうした禁欲修道士であり、修道院内の聖堂における典礼を奉事することのできる修道司祭もであった。

 セルギー修道士の前半生については、現在、その犯罪的な過去が次々と明らかにされている★14。1970年代前半、警官として働いていた彼は、職務怠慢によって解雇され、1985年には、強盗目的の凄惨な殺人事件を起こした。収監されたウラル地方の矯正労働キャンプでロシア正教と出会い、修道士となる。彼は殺害されたロシア最後の皇帝と同じ、ニコライ・ロマノフという名をもっていた。奇しくも、エカテリンブルクは皇帝一家が殺害された地である。ニコライ2世一家は、2000年にロシア正教会で聖人と認定され、エカテリンブルクの教会は彼らをこの地域にゆかりのある聖人として熱心に崇敬している。セルギー修道士は熱烈な君主主義を説き、皇帝一家崇敬の中心地であるガーニナ・ヤーマ男子修道院で新たな聖堂建設に手腕を発揮した。その後、ガーニナ・ヤーマ修道院の分院に拠点を移し、その周囲の森林を切り開いて巨大な中央ウラル女子修道院を設立した。

 中央ウラル女子修道院は、今や厳重に警備されて立ち入りが容易ではない修道院となってしまったが、私は2015年にここを訪れたことがある。皇帝崇敬の調査のためにエカテリンブルクを訪問していた私は、ガーニナ・ヤーマ修道院への案内を地元の君主主義の男性信者に依頼した。彼はガーニナ・ヤーマ修道院へ私を案内した後、現在の皇帝崇敬の在り方について知りたいのであれば、訪れるべきはここではなく、別の新しい中心地だと言って、私をこの女子修道院へ連れて行ってくれた。延々と続く森林の中の道を車で飛ばしていくと、突然巨大な真新しい聖堂が次々と目の前に現れた。修道院の敷地内には、聖堂や修道女たちの住居の他、児童養護施設やホスピスが併設され、さらに新しい巨大な聖堂が建設されている途中であった。女子修道院である以上、修道院長は修道女であるが、セルギーは修道院の聴聞司祭となり、カリスマ的な魅力によって実質的に修道院を取り仕切っていた。アポイントを取らずに訪問したので、内部の人たちに話を聞くことはできなかったが、案内の男性が意味していたのは、セルギー修道士とその周囲の熱烈な皇帝崇敬だったことが今なら理解できる。

 コロナウィルスの否定によって、セルギーが注目を集める以前、彼はナターリア・ポクロンスカヤと近い関係にある司祭ということで多少知られていた。「美人すぎる検事」として、2014年のロシアによるクリミア併合の際に日本でも有名になったポクロンスカヤは、その後ロシアの国会議員となり、ニコライ2世に対する過剰な崇敬によって、スキャンダルを起こした。彼女のニコライ2世崇敬の背後にある、ロシア至上主義、反ユダヤ主義を支えていた人物の中にセルギー修道士がいたとみられる。

つかの間のラスプーチン


 セルギー修道士がロシア・メディアを騒がせるきっかけとなったのは、感染症対策のために聖堂を閉鎖した教会を批判し、新型コロナウィルスの存在そのものを否定した4月末の日曜の説教であった★15。修道院を管轄するエカテリンブルク府主教区は即座に反応し、翌日にはセルギー修道士の聖職者としての資格を停止した★16。セルギー修道士がこれに従うことはなく、ウィルスはビル・ゲイツの陰謀であると断定し、個人番号の付与や生体認証パスポートの導入によって、プーチン政権はロシア民族を隷属化の危機にさらしていると破天荒な非難を展開した。新型ウィルスのワクチンと新しい移動通信システムの5Gによって、ロシア人が「アンチキリスト」の支配に下るという彼の教説は YouTube を通して流れ続けた。
 府主教区に対しては、前総主教アレクシー2世と並べたスターリンの肖像画を背景に、正しい信仰に立つ自分たちが迫害されているかのように訴えると同時に、自分たちを修道院から追放することはできないと脅す動画を公開した。セルギー修道士のこうした振る舞いに対して府主教区は、7月3日、教会裁判を経てセルギー修道士から聖職身分を剥奪することを決定する。これを受けて、セルギーの批判の矛先は、プーチン政権のみならず、キリル総主教とロシア正教会それ自体にも向けられることになった。彼は、現在のロシアの敵は正教会だと指弾し、フリーメーソン、シオニスト、ユダヤ教正統派に操られたロシア権力が、神を冒涜し、聖堂を閉鎖し、欲望が渦巻く不実な社会を招いていると非難した。セルギーは、「正教のツァーリの支配する革命前のロシア」を過度に理想化しており、これへの回帰を訴えている。プーチン大統領やキリル総主教が自分に全権を委ねれば、すべての問題は3日で解決すると豪語したのである。

 セルギーの主張は矛盾に満ち荒唐無稽ではあるが、これは彼が独自に考え出したものでは決してない。コロナウィルスにまつわる様々な陰謀説や、パンデミックの否定は、ロシアに限らず世界各地で見られた現象である。また、反ユダヤ主義やロシアの「救世主」に偶像化されたニコライ2世の崇敬とロシア至上主義を奉じ、AIや生体認証技術などのテクノロジーに対する強い忌避感は、実はロシアの歴史の中で途切れることなく現れ続ける「終末論」の一変奏である。「この世の終わり」を切望する人びとにとって、コロナ・パニックは「終末」の始まりとして映った。「この世の終わり」には、世界を支配する「アンチキリスト」が現れる。現実のロシア社会で生きることに絶望した人びとにとって、この世のあらゆる秩序を破壊する「アンチキリスト」は、自分たちを絶望に陥れたもの、自分たちが憎んでやまない「他者」を破壊し尽くす存在でもある。その後に再臨するはずの「キリスト」によって、正しい信仰をもつ「われわれ」は永遠の救済を得るはずだ、というのが「終末論」の大筋だ。この文脈に乗せれば、支離滅裂に思えるセルギーの主張が、ある種の人びとが切望するものであることが分かる。セルギー修道士の存在は、正教会の指導僧にとって、極端で厄介なものではなるが、決して新しい特異な異端ではないのである。

 それにもかかわらず、ロシアのメディアでは猛烈なセルギー批判が展開している。はじめ、セルギーの修道院経営の問題に着目したのはBBCであった。BBCはこの修道院で日常的に繰り返される児童虐待について報道し、この修道院が、精神的な問題を抱える女性や、家族から切り離された未成年を集めた施設であることを明るみに出した★17。これは、かつて修道院の児童施設に暮らしていた複数の若者たちのインタビューに基づく報道で、その中には顔写真や実名を出したものもあった。

 この後、セルギー批判はあっという間にロシア・メディアで注目され始めた。ロシア国営放送でも、かつてセルギーが犯した強盗殺人について、行政や司法機関の文書を調べ上げてその事実関係を明るみにした。さらに、エカテリンブルク府主教区に残されたセルギー関連の文書を紹介。セルギーは自身の経歴を偽り、殺人事件を隠して、府主教区をすっかり騙して修道士になりおおせたという構図を打ち出した。セルギーは、犯罪者上がりの屈強な男たちに修道院を警備させ、常態的な児童虐待を行い、絶望や恐怖と救済の切望の狭間に落とし込んで修道女や信者を支配するという、大きな問題を抱えた人物として報道されたのである。スキャンダラスな破戒僧は、もはやコロナウィルスとは無関係に、ロシアのメディアを日々賑わせている。中央ウラル女子修道院の院長は逃げ出し、修道院はロシア正教会のコントロールを離れた、新たな異端の牙城となった。

 ロシアの宗教学者ロマン・ルンキンは、感染症対策でフラストレーションをため込み、ロシアで感染を拡大させている犯人を見つけたい人びとにとって、セルギーは格好の攻撃対象となっていると指摘する★18。すなわち犯罪者的な過去をもつカリスマ、それに群がる狂信的でヒステリックな女性たち、感染症対策に無関心でウィルスの温床となる教会である。彼らにとってセルギーは、まさによみがえったラスプーチンとでも言うべき存在である。くだらないが、恐ろしく、スキャンダルにまみれ、世間の好奇心を刺激してやまない。ただし、ラスプーチンと違って、セルギーはロシアの最強権力に取り入るどころか、これに真っ向から対立した。メディアの容赦ない批判と追求は留まるところを知らず、それは社会のフラストレーションが一気に発散されているかのようである。他方で、プーチン大統領やキリル総主教は、社会の批判やプロテストが自分たちに向かわなかったことを、つかの間よみがえった現代のラスプーチンにひそかに感謝しているかもしれない。

「終末論」を越えて


 実際の感染拡大より速いスピードで社会隔離政策が次々と実行されたロシアにおいて、正教会はそれに疑問の声を突きつける大きな組織でありえた。しかし結局のところ、ロシア正教会もまた、社会隔離政策に対して有効なプロテストを生み出すことに失敗した。それどころか、教会にはびこる無知蒙昧や自民族中心主義がコロナ・パニックという形で露呈することとなった。

 連綿と続いてきた宗教的伝統や、命がけで守ってきた信仰の自由に対する意識は、それによって個人の生命を犠牲にしてもいいのか、という疑問の前に大きく揺らぎ、キリル総主教は、社会隔離政策に従って参祷を控えるよう信者たちに要請した。しかし、今一度、聖堂を開放するという選択肢を取った主教区が全体のうちの約半数に上ったことを思い起こしたい。そうした決定をした府主教の1人サラトフのロンギンは、社会隔離政策によって教会の抱える問題、つまり社会生活の中で教会が占める重要性が著しく低下していることが明るみに出たと主張している★19。ロンギン府主教は、聖堂の中での交わりは奉神礼の生中継に替えられるものではないと強く訴え、行政をはじめとする様々な社会的圧力に抗して、祈祷を希望する信者のために聖堂を開放した。ロンギン府主教の対応は、感染症対策と個人の生命を重視するリベラル陣営からは非常識だと非難され、終末論的な異端や排外主義的ナショナリストの正教徒からも、敵視されるものとなっている。ロンギン府主教は、現代社会の中で教会が社会にとって重要な存在であり続けるために、信者共同体による相互扶助や、聖職者たちが慎重でありながら、責任感に満ち、自己犠牲をいとわない存在であり続けるよう求めている。ロシア正教会の中には少数で目立たない存在ではあるが、弱者救済や相互扶助のために尽力してきた信者・聖職者がいる。極端で単純な異端に陥らず、現実社会に対応しながら、相互扶助と救済の問題を考えるという営みは、決して途絶えてはいない。

 次回は伝統的な信仰の強さではロシア以上ともいえるが、複雑な政教関係と教会分裂の問題を抱えるウクライナについて紹介したい。


★1 2020年3月18日にメルケル首相が行ったテレビ演説の日本語訳全文について、以下を参照(URL= https://japan.diplo.de/ja-ja/themen/politik/-/2331262)。
★2 本稿は、2020年4月24日に「ゲンロン・カフェ」で行われたイベント「復活2020──コロナ・イデオロギーと正教会」(URL= https://genron-cafe.jp/event/20200424/)で紹介した内容に、その後の新しい変化を加筆して展開した論考である。イベントのレポートがゲンロンαで公開されている(URL= https://webgenron.com/articles/article20200428_02/)他、イベントの動画が Vimeo にて公開されている(URL= https://vimeo.com/ondemand/genron20200424)。
★3 ロシア政府のコロナウィルス感染防止対策については、政府の公式サイト「ストップ・コロナウィルス」(URL= https://стопкоронавирус.рф/information/)に掲載されている。外国人の入国一時停止措置についての文書は以下(URL= https://стопкоронавирус.рф/ai/doc/35/attach/Rasporiazhenie_Pravitelstva_RF_635-r.pdf)。また、モスクワ市の決定については市の公式サイトの情報を参照(URL= https://www.mos.ru/news/item/71048073/)。
★4 正教会の教えや時事問題などについて、府主教イラリオンを中心に発信している正教ポータルのビデオ発信より(URL= https://www.youtube.com/watch?v=wo2G8lJfjOI)。
★5 同上(URL= https://www.youtube.com/watch?v=M9MQLKXGPnw&t=6s)。またロシア正教会は感染症対策を早い時期から取り始めている(URL= https://www.interfax.ru/russia/698599)。
★6 ティモシー・ウェア(松島雄一監訳)『正教会入門──東方キリスト教の歴史・信仰・礼拝』新教出版社、2017年、349頁。
★7 キリル総主教の説教全文について、正教会の公式サイトを参照(URL= http://www.patriarchia.ru/db/text/5613859.html)。
★8 3月30日、キリル総主教はソーシャル・ディスタンスについて監督する連邦庁(消費者権利保護・福利分野監督庁)に対して、正教会は政府の指示に従うものであることを明言する文書を提出した(URL= https://стопкоронавирус.рф/ai/doc/62/attach/pismo_patriarha.pdf)。
★9 字義通りの意味は40×40で、中世モスクワの教会の行政単位が「ソローク」(ロシア語で40は同綴り違強音の「ソーロク」)と呼ばれていたことから、本来はモスクワの多数の教会の一体性を指す。ただしここから、革命以前のモスクワには40×40、すなわち1600の聖堂があったという転義が生じ(実際はそれほどの聖堂はなかった)、「ソーロク・ソロコフ」は、モスクワにかつての聖堂を「取り戻す」ための市民運動として始まった(URL= https://foma.ru/strazhnik-hrama.html)。
★10 URL= https://www.citizengo.org/ru/rf/178484-otkroyte-hramy-na-pashu
★11 URL= https://www.rbc.ru/politics/16/04/2020/5e9715289a79475afe6558ea
★12 レニングラード州、スヴェルドロフスク州、コミ共和国での対立について、BBCの報道を参照(URL= https://www.bbc.com/russian/features-52337961)。
★13 サラトフ州では、復活大祭の参祷自粛を求める知事を府主教が批判したが、復活大祭の当日、教会周辺を警備した警官は信者を教会へ通し、騒動は免れた(URL= https://www.kommersant.ru/doc/4326141)。
★14 URL= https://www.vesti.ru/article/2438130
★15 URL= https://novayagazeta.ru/news/2020/04/26/161034-duhovnik-poklonskoy-v-hode-propovedi-proklyal-teh-kto-zakryvaet-hramy
★16 エカテリンブルク主教区の府主教キリルによる指令(URL= http://www.ekaterinburg-eparhia.ru/news/2020/05/27/23325/)。
★17 URL= https://www.bbc.com/russian/features-53250902?fbclid=IwAR1frBnJRBP25E9lJAHFrj5FkjH1YOU1rSy7nNU6WILp6dYa2cL5_hb-Skk
★18 URL= https://www.ng.ru/ng_religii/2020-06-30/9_489_sample.html
★19 正教系のメディアによる2020年6月4日の府主教ロンギンのインタビュー(URL= https://tsargrad.tv/shows/kolco-cifrovogo-kontrolja-szhimaetsja-mitropolit-longin-o-covid-19-setevyh-lzhecah-i-neojazychnikah_257821)。

 

【アイキャッチ写真】正教会の司祭が復活祭の菓子「クリーチ」を聖別する様子。高橋は2020年、コロナ禍のなかでの復活祭をドイツ・ブレーメンの正教会で迎えた 撮影=高橋沙奈美

高橋沙奈美

九州大学人間環境学研究院。主な専門は、第二次世界大戦後のロシア・ウクライナの正教。宗教的景観の保護、宗教文化財と博物館、聖人崇敬、正教会の国際関係、最近ではウクライナの教会独立問題など、正教会に関わる文化的事象に広く関心を持つ。著書に『ソヴィエト・ロシアの聖なる景観 社会主義体制下の宗教文化財、ツーリズム、ナショナリズム』(北海道出版会)、共著に『ロシア正教古儀式派の歴史と文化』(明石書店)、『ユーラシア地域大国の文化表象』(ミネルヴァ書房)など。
    コメントを残すにはログインしてください。

    つながりロシア

    ピックアップ

    NEWS