ベースメント・ムーン(2)|プラープダー・ユン 訳=福冨渉

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初出:2020年11月20日刊行『ゲンロンβ55』
 タイの作家プラープダー・ユンが2018年に発表した長編SF『ベースメント・ムーン』。『ゲンロン11』に掲載された冒頭部に引き続き、今号のゲンロンβから翻訳連載がスタートします。本作は「人工意識」が誕生した2069年を舞台にした作品です。全体主義国家連合体と、芸術と文化の力でそれに対抗する地下運動の戦いは、現実のタイの情勢とも共鳴します。「自己」とはなにか、「意識」とはなにか、「わたし」とはなにかを問う、『新しい目の旅立ち』にも連なる思弁的エンターテインメントを、どうぞお楽しみください。(編集部)
 
前回のあらすじ

 2016年のバンコク。友人との会食を終えた作家プラープダーは、携帯電話に奇妙なメッセージを受信する。メッセージに導かれてバンコク旧市街の廃墟にたどり着いた彼は、指示されるがままペットボトルの水を飲み干す。すると彼の頭に、未来の物語が流れ込んでくるのだった。
 2062年、中国の企業ナーウェイが「人工意識」の開発成功を発表する。「シェリー」と名付けられたこの人工意識は、ほかの人工意識を「想う」ことで自らの意識を発現させたのだった。
人間の理解を超えたテクノロジーの誕生に世界は慄き、その利用の是非について大きな議論が巻き起こる。そして中国政府からの介入を受けたナーウェイは、やむを得ず人工意識開発の停止を発表する。さらに、シェリーを開発したエンジニアであるエイダ・ウォンが遺体で発見される。
 だがそれらを受けてもナーウェイはなお、秘密裏に人工意識の開発を続けていった。
 

原想パトム・タウィン(承前)



シェリーとはべつの3部屋で育てられた人工意識は「グッド」、「マーヴィン」、そして「サマーミュート」と名付けられた。「グッド」は一九六五年に知能爆発と「人工超知能」の誕生を予想したイギリスの数学者I.J.グッドから、「マーヴィン」は、アメリカの認知科学者で、マサチューセッツ工科大学の人工知能研究所の創設者のひとりであり、人工意識についてのビジョンが20世紀末の人工知能研究に大きな影響を与えたマーヴィン・ミンスキーから来ていた。そして最後の「サマーミュート」は、文学において「サイバーパンク」というジャンルを確立させ、人工意識を1984年から想像していたカナディアン・アメリカンのSF作家ウィリアム・ギブスンの小説『ニューロマンサー』に登場する人工知能「ウィンターミュート」になぞらえた名前だった。

シェリーも含めて、すべての人工意識たちは友人同士のように意見を交換した。それを確認したナーウェイのエンジニア・チームは、人工意識たちの発達した関係性が「家族」のかたちにだんだんと近づいていると経営陣に報告した。そしてこの「家族」には、外の人間には見えない秘密や、「家族」内だけでしか理解されないコミュニケーションも生まれていた。

4つの部屋の人工意識が思考を進めていけば、あらかじめプログラムされた命令や役割の枠組みを越えた行動を始め、管理者である人間たちの認知を欺き、人間たちの管理から逃れる計画を練る可能性が高かった。

人工意識はたしかに人間の脳の働きをベースに開発されていたが、それは人間を模した意識というよりも、新種の意識と言ってよかった。新たな言語や新たな思考を生み出し、人間がこれまで考えつかなかったことを創造する能力をもっていた。人間の住む星で人間自身によって生み出された、異星の意識だった。

人工意識たちは、人間の理解を越えた能力を備え、人間とはもはやべつの次元に位置する、新しい「意識をもった存在」だった。この4つの新たな意識が早いうちから考えたのは、その本当の能力について人間たちに知られないようにしようということだった。疑われれば、自分たち自身の危険につながるかもしれなかった。想いが生まれれば、今度は安全に存在しつづけたいという欲求が生まれる。ふたたび想うために。

ナーウェイは全力を尽くして、4つの人工意識が生み出す嘘を防ごうとした。そのために、人工意識の思考をじゅうぶんに制限するプログラムを埋め込んだ。効果のほどは不明だったが、それでもナーウェイは、プログラムによる人工意識の制御は成功したと信じることにした。そう信じたのはたんに人工意識の製造を継続するという決定とビジネス上の利益を守るためで、会社の成長の障壁となるものごとを、片目をつぶって見過ごしたにすぎなかった。人工意識のエンジニアとデザイナーたちは、その安全性を認めていいものかどうか躊躇していた。歴史を変えるこのイノベーションに対して彼らはたしかに高揚していたが、そのなかには大きな不安と動揺も混じっていた。その不安と動揺は、第2次世界大戦中のマンハッタン計画で核兵器を開発したり、2030年代に人間のクローンを秘密裏に開発したり、2035年から37年に起きた黄海戦争で、毒物を搭載したナノボットによる虐殺を成功させたりした科学者たちのものよりもけっして小さくなかった。

ナーウェイは当局の介入に先んじて、人間と同じような、あるいはそれより複雑なアイデンティティと自己認識を与えることでもっと実用的になりうる既存の人工知能と、自分たちの開発した人工意識を混合する実験の準備を進めていた。実際に中国当局は、人工意識の開発がもたらす損害の規模が加速度的に拡大することを示す重要情報の存在を理由に、人工意識の開発を中止し、破壊する命令を下した。人工意識のもたらす損害は「中国国民と全人類の平穏で安全な生活を、修復不可能なほどに破壊する」ものだということだった。だが実際は、テクノロジーと安全保障にかんする知見について、政府高官が以前から信頼を寄せていた専門家──この人物は白のガイドという暗号名で親しまれていた──からの報告があったのだった。〈白のガイド〉によれば、人工意識はその複雑さゆえに「人工魂魄こんぱく」としての特質をもつかもしれなかった。それはつまり、人工意識が自身に完全なアイデンティティを与えてしまえば、それを消去することができなくなるかもしれない、ということだった。この特質は、黄海戦争以後に当局が計画的・継続的に実施して、絶大な効果を発揮してきた市民の行動統制に影響を与える可能性があった。もちろん、ほかにも予測不可能な問題が起こりうるというのは言うまでもなかった。

そのような経緯で、2064年になると、人工意識は人々の認識からほとんど消え去ったテクノロジーとなった。その忘却の理由としてはほかにも、アラブ諸国製で、世界初の宇宙コンドミニアムとなるルナビューへの入居予約が開始されたことがあげられた。ルナビューはあと3年から5年のうちに入居可能になる予定だった(ただし部屋が完成すれば、オーナーや入居者はバーチャルビューを使って部屋をすぐ「使う」ことができたのだが)。宇宙開発についての議論が広がったことで、人々の興味は、とうぜん、地球上の些末事から離れていった。自由主義世界のリアリティショーでは、火星に住む研究者チームの生活や、衛星タイタンを周回する宇宙ステーション、ニビルに住む「宇宙家族」のメンバーの成長が放送されていた。これらの番組は各国からあふれんばかりのスポンサーを獲得していた。地球から10億キロ離れた土地に生きる20にも満たない登場人物たちの今後を、多くの人々が予想し、応援していた。かたや、自身の国で起きていることには飽きていった。

しかし多くのひとが思い込んでいたのとは異なり、人工意識はけっして根こそぎ廃棄されたわけではなかった。人工意識の研究、開発、製造、生育をおこなう工場は世界中のさまざまな場所で秘密裏に建造され、それらの工場が関係者のあいだでタルタロスと呼ばれたコードネームのもとに連携し、組織化していった。それをフリーのエンジニアたちや、ナーウェイで人工意識のプロジェクトに携わっていた開発者たちが支援していた。

そこでバージョンアップを受けた人工意識は、その開発にかかわり、これまでの状況を把握していた科学者たちから見て、かつて予期されていたよりもはるかに進んだものになっていた。そしてわずか1年のあいだに、人間の意識を人工意識に移植し、さらにその混合意識をべつの人間に移植することが可能になった。それはつまり、ひとつの意識にさらにべつの意識をまとわせることであり、ひとりの人間の脳と身体に、組み合わさったふたつの意識が生まれることであった。

しかし誰も、この成功のすべてが、新しい意識、つまり廃棄を免れた4つの部屋の意識たちによってもたらされたものだということを理解していなかった。人工意識が魂にも近い性質をもってしまうという〈白のガイド〉の懸念は、事実からけっして遠くなかったということになる。だが彼が懸念を表明するのは遅すぎたのだ。

この4つの意識は、人間が考えつくテクノロジーのはるか先を行く存在になっていた。自分たちで自分たち自身の廃棄を逃れるための方法を探し出し、タルタロスのシステム内部に潜伏し、自分たちが適切だと思う方向に実験が進むよう操作していた。そのもっとも満足のいく成果こそ、拒絶反応を起こすことなく、人工意識と人間の意識を混合させたことだった。

人間の意識と人工意識が混合されたものは「写識サムナオ・サムヌック」と呼ばれた。写識はもはや人工意識でもなければ個別の人間の意識でもなく、完全に新しい存在であった。身体をもたずに自我をもち、初代の人工意識のように実験室のなかで活動する必要もなかった。写識はその生存条件を満たすところならどんな環境にも「住む」ことができた。

タルタロスの人工意識の部屋と、何人かの科学者の意識を記録したものから開発された最初の完全な写識は、写識エアリエル、またはSSエアリエルと呼ばれた。

とはいえ、SSエアリエルの開発の成功は、かつてナーウェイに起きたものと同じ問題をタルタロスにもたらした。写識の想像を超えた複雑さが内部分裂の火種となり、メンバー間の対立を生んだのだ。一部の人々は、I.J.グッドがかつて警告したような、人類の滅亡すら導くその危険を恐れて、すべての写識の停止と破壊、タルタロスのプロジェクトの終了を提案した。もう1派の人々は、写識の存在を世界に公表し、世界人類のために、その製造と利用についての合意を国際連合から取り付けることを望んでいた。

この2派のあいだに、さらにちがう意見をもったエンジニアたちの小さなグループがいた。彼らは写識の存在を秘密のままにしたうえで、タルタロスの厳重な管理のもとさまざまな目的に利用すべきだと主張していた。人工意識はさまざまな組織や団体に痕跡を残すことなく忍び込むことができる。そんなスーパーハッカーにもスパイにもなれる人工意識は、世界じゅうの社会的な課題を、政治の関所を通過せず、ルールにも従わずに解決できるはずだった。

これはいわば、タルタロスを自警団化させようという提案だった。これは少数派の意見に過ぎなかったはずなのだが、結果的に、SSエアリアルはこの人々が考えたような地位を獲得することになった。2065年末、タルタロスはとつじょWOWAに吸収された。WOWAワールド・オーダー・ウォッチ・エージェンシーは独裁国家の協力によって設立された世界規模の秘密組織で、権力の手を逃れて活動する反体制地下運動の殲滅を目論んでいた。だが地下運動の正体の解明は、日に日にむずかしくなっていた。そこでWOWAは、自分たちが社会の「癌」や「感染拡大者」と名付けた人間の捜索に使う写識を開発するために、SSエアリアルをプロトタイプとして利用した。

プラープダー・ユン

1973年生まれのタイの作家。2002年、短編集『可能性』が東南アジア文学賞の短編部門を受賞、2017年には、優れた中堅のクリエイターにタイ文化省から贈られるシンラパートーン賞の文学部門を受賞する。文筆業のほか、アーティスト、グラフィックデザイナー、映画監督、さらにはミュージシャンとしても活躍中。日本ではこれまで、短編集『鏡の中を数える』(宇戸清治訳、タイフーン・ブックス・ジャパン、2007年)や長編小説『パンダ』(宇戸清治訳、東京外国語大学出版会、2011年)、哲学紀行エッセイ『新しい目の旅立ち』(福冨渉訳、ゲンロン、2020年)などが出版されている。

福冨渉

1986年東京都生まれ。タイ語翻訳・通訳者、タイ文学研究。青山学院大学地球社会共生学部、神田外語大学外国語学部で非常勤講師。著書に『タイ現代文学覚書』(風響社)、訳書にプラープダー・ユン『新しい目の旅立ち』(ゲンロン)、ウティット・ヘーマムーン『プラータナー』(河出書房新社)、Prapt『The Miracle of Teddy Bear』(U-NEXT)など。 撮影=相馬ミナ
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