あなたに北海道を愛しているとは言わせない(後篇) 「世界の終り」とナチュラルピースフル・ワンダーランド|春木晶子

初出:2020年11月20日刊行『ゲンロンβ55』

前篇はこちら

『ゲンロンβ54』に掲載した前篇につづき、〈ゲンロン 佐々木敦 批評再生塾〉第4期総代の春木晶子さんによる『あなたに北海道を愛しているとは言わせない』の後篇をお届けします。本稿は批評再生塾の最終課題として提出され、最優秀賞を受賞した論考に大幅な加筆・修正を加えたものです。同塾の主任講師であり、最終選考会の選考委員も務めた佐々木敦さんに、解題をよせていただきました。春木さんはなぜ「批評」という形式を必要としたのか。本編とあわせてお読みください。(編集部)

 

解題 佐々木敦

 春木晶子さんは、私が主任講師を務めていた「批評再生塾」第4期の最優秀賞、同塾はその年で終了したので、結果として批評再生塾の最後の「総代」になった方である。

 批評再生塾では毎回、ゲスト講師による課題に応じて受講生が批評文を執筆し、その中から私が3名を選出してプレゼンを行なわせ、口頭試問を経て、ゲストの方と講評、採点し、その回の順位が発表され、点数がどんどん累計されていく。しかし最後の課題では得点上位グループでなくともチャンスがあり、春木さんはそのラストで一発逆転勝利(?)を決めたのだった。

 とはいえ登壇率は比較的高かったし、日本美術史を専門とする学芸員という本職がゆえの専門知識と、単にそれに留まらない発想力と論述の粘り強さには、講義スケジュールのごく初期から一目置いていた。しかしながら、誰が総代になるのかは毎期決まるまで私にもさっぱりわからなかったので、彼女に決まった時には(私も推したのだが)少なからず驚きもしたし、同時にさもありなん、と思ったものである。それだけ最終講評会に提出された春木さんの批評文には力があった。着眼、分析、構成、文体、1本の批評文はさまざまな要素から成り立っているが、煎じ詰めれば「何を」「どう」論じているか、がすべてである。春木論文には、もちろん完璧というにはまだまだ程遠いものだったとはいえ、批評としての鋭さと輝きがあった。最後の批評再生塾で彼女を総代として世に送り出したことは、今も私の誇りである。

 本論文は、その最終論文をかなりの時間を掛けてリライト、ブラッシュアップしたものである。改稿、加筆の作業に私はまったくかかわっていなかったので、今回、論述内容の深化と展開、そしてヴォリュームの増加によって、再生塾に提出されたものとは大きく様変わりしたテクストを一読し、大変感心した。春木さんはアカデミシャンとして研究論文も多数書かれているが、これは「批評」としか呼びようのないものである。それはつまり、客観性と主観性の狭間で理路を紡ぎ、論究する対象をとことん追い詰めながら、そのことによって「書く私」も不可逆的に変容していく、複層的な体験としての思考の軌跡を記述するということだ。この論文ではそのような「体験」が、「北海道」と「村上春樹」という双つの固有名をめぐって旋回してゆく。

 実際のところ、これは「北海道論」と「村上春樹論」の非常に独特なアマルガムになっている。出発点にあるのは、春木さん自身が北海道の出身であるという端的な事実だ。通常、批評主体の個人的なプロフィールが論述の前提(あるいは動機)としてあることを明示するのは多少とも危険な試みだと私は思っているのだが、この文章はそれなくしては書かれることさえなかっただろう。春木さんは自身の「北海道」への積年の思いによって色付けられた視線が論述をさまざまな意味でフィルタリングしていることを隠そうとはしていない。だがしかし同時に、そこからどこまで遠くに行けるか、という批評/家の「冒険」が、ここでは存分に物語られてもいる。

 生まれ育った神戸を舞台とする小説を2作著したあと、村上春樹が次なる作品の舞台としたのは北海道だった。このことの理由と意味にかんしては当然ながらすでに多くの論が存在する。だが本論文の書き手は、春樹はなぜ北海道を選んだのか、という問いを、北海道が春樹を引き寄せたのはなぜか、という問いへと変換する。その結果、恣意的な主題を通して作品―作家を論じる文芸評論とも、特定のトポスをめぐる広義の学際的研究とも異なる、或る意味ではアンバランスな、しかしそれゆえに魅惑的な批評文が誕生した。心して読まれたい。

 

1、痛みを忘れた塔

 北の広場の中央には大きな時計塔が、まるで空を突きさすような格好で屹立していた。もっとも正確には時計塔というよりは、時計塔という体裁を残したオブジェとでも表現するべきかもしれない。何故なら時計の針は一カ所に停まったきりで、それは時計塔本来の役割を完全に放棄していたからだ。★1(村上春樹『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』より)

 村上春樹『羊をめぐる冒険』から、次なる物語へと羊を連れ出そう。

 もとから日本に生息していない動物であるうえ、育成のメリットがゼロになったのにかかわらず羊は、ナチュラルでピースフルな北海道のアイコンとして親しまれている。それは、安穏の皮に身を包み、可哀そうで空虚な己が身を隠蔽する北海道の、ひいては近代日本の比喩であった。奇しくもこの動物は、かつて彼の地が「蝦夷地」と呼ばれていた時分には、そこが忌まわしき方位であることを隠蔽するために持ち出された干支でもあった。『羊をめぐる冒険』が「羊」のモチーフを通して表現しているのは、加害の記憶が眠る北の果てを、自己の一部として飼い慣らす、肥大化した「中心」たる日本の自己愛の生態だ。

 具体的には、4つの自己愛の発露が描き出されていた。第1に、羊を押し着せる加害者たる人に宿る「羊」とそれを取り巻く謎の組織、第2に羊を纏いながらもそれを忘却する「僕」、第3に羊をうまく着こなせない「羊男」、第4に羊を拒絶し自死する「鼠」である。村上春樹が糾弾するのは、わかりやすい悪である「羊」とその組織よりもなお、加害の自覚のない「僕」であった。「僕」が自らの皮、すなわち己の欺瞞に気がつきうなだれながらも立ち上がるところで、本書は終わる。

 自己愛に隠された加害と忘却の構造を暴き、欺瞞に満ちたセルフイメージの皮を剥ぎとり、自己の姿に直面すること。『羊をめぐる冒険』において試みられていたこれらの主題は、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』で、さまざまに変奏されつつ追及されている。

 

 2つの別世界での物語が交互に進行しつつ、すれ違っては重なり合う、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』。一方の舞台である「世界の終り」は、「壁」に囲まれた静謐な世界だ。街の人々は、自我のごとき自らの「影」を切り離され、記憶や心をなくしながらも平穏に暮らしている。彼らは、あらかじめ定められた職業や習慣に従うばかりであることに、すなわち「壁」の意思に従うばかりであることに、なんの疑問も抱かない。感性を失いながらもただただ生を送る住人たちは、『羊をめぐる冒険』の「僕」の悪夢で、「何も語らず、何も思わず、ただ僕をみつめていた何万という羊たち」そのものだ。街の人たちを操る「壁」は、『羊をめぐる冒険』でやはり世界を裏側から操っていた「羊」に重なる。

 そんな「世界の終り」に迷いこんだ「僕」は、街の決まりに従って影を切り離されるとともに、「夢読み」と呼ばれる職業を与えられる。その街には一角獣が暮らしていて、図書館にはたくさんの一角獣の頭骨が保管されている。その頭骨から「古い夢」を読み取ることが「夢読み」の仕事だ。「僕」はその仕事を手伝う「図書館の女の子」にひかれつつ、切り離された自らの「影」と密かに接触し、「世界の終り」からの脱出を図る。「僕」は「影」のもとめに応じてその世界の地図をつくるが、なかなかうまくいかない。それは、「のっぺり」とした札幌で「東西南北の感覚が消滅し」疲弊した、『羊をめぐる冒険』の「僕」を想起させる。

 完結した閉じた世界と見える「世界の終り」には、自らの影を殺しきれなかった人々、すなわち心を残す人々が暮らす「森」があり、南の「たまり」と呼ばれる巨大な水のたまりには(「影」によれば)「出口」がある。街の人々は、「森」にも「たまり」にも、決して寄り付かない。そこは隔絶された、禍々しさをたたえた場所だ。そこは、『羊をめぐる冒険』で冒険の終着点となる十二滝町の山荘と同様の役目を担う。物語の最後に、「影」はその世界から去ることを決意し、「僕」はそこに留まり「自分がやったことの責任を果たす」と決意する。あたかもそれは『羊をめぐる冒険』で、羊を宿しながら自死する〈鼠〉と、その死を悼みながらも生き続ける「僕」のようだ。

 システムによる記憶の収奪、のっぺりとした街、僻地へと追いやられた忌むべき場所。『羊をめぐる冒険』における北海道と『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』における「世界の終り」は、こうした特徴を共有する。秋のはじまりから長く厳しい冬のできごとが語られる、乾いた、いろどりの乏しい「世界の終り」。その淵源にあったのは、『羊をめぐる冒険』における北海道ではなかったか。

 

 ただし、「世界の終り」にあって、『羊をめぐる冒険』の北海道には見出せいないモチーフがある。街の中心に立つ、時を刻む機能を失った時計塔だ。

 時を刻む機能を放棄することは、歴史に背を向けることを意味するだろう。それは、自身の来歴を忘れ行く末を思うことのない、自らの生に固有の歴史を持たず固有の目的を持たない街の人々の象徴だ。例えば「僕」に親切に接する「大佐」は、かつて彼を「戦いに駆りたてたもの」や、「名誉や愛国心や闘争心や憎しみ」を忘却し、壁の中の「安らぎ」に生きる。彼が、かつて自分が傷つけたり損なったりしたものに対して思いを馳せることは、ない。

「影」は言う。「世界の終り」は「不自然で間違っている」と。「不自然で間違っているなりに完結している」と。

たしかにここの人々は[……]誰も傷つけあわないし、誰も憎みあわないし、欲望も持たない。みんな充ち足りて、平和に暮している。何故だと思う? それは心というものを持たないからだよ★2

心は獣によって壁の外に運び出されるんだ。[……]獣は人々の心を吸収し回収し、それを外の世界にもっていってしまう。そして冬が来るとそんな自我を体の中に貯めこんだまま死んでいくんだ。彼らを殺すのは冬の寒さでもなく食料の不足でもない。彼らを殺すのは街が押しつけた自我の重みなんだ。[……]それが完全さの代償なんだ。そんな完全さにいったいどんな意味がある? 弱い無力なものに何もかもを押しつけて保たれるような完全さにさ?[……]それが正しいことだと君は思うのかい? それが本当の世界か? それがものごとのあるべき正しい姿なのかい? いいかい、弱い不完全な立場からものを見るんだ。獣や影や森の人々の立場からね★3

 若森栄樹は、「世界の終り」を「孤立した島国である日本のメタファー」とみなす★4。一元化のもと固有性や歴史を失い、弱い無力なものの犠牲のうえに立つ身勝手なその世界は確かに、加害の歴史を忘却し安穏の皮に自らを包む日本の比喩と解することができよう。

 先に述べたように『羊をめぐる冒険』では、そうした身勝手な近代日本の矛盾と隠蔽の有り様が、羊と北海道に重ねられていた。その被害者として登場するのが、アイヌの青年であった。北海道の北東の十二滝村で、ひっそりと死を迎えたアイヌの青年。十二滝町となったその町の山奥の山荘では、近代日本のシステムの支配に戸惑う羊男が暮らし、鼠はそこで抵抗のために自死する。アイヌの青年と羊男と鼠はそれぞれ、「世界の終り」で「完全な」街の犠牲となる獣、森に追いやられた人々、そんな世界は間違っていると糾弾してそこを去る「影」に、対応する。

 獣の死を悼むことも、森の人々を気遣うこともない、痛みを忘却した街の人々。その象徴たる時計塔に応じるものは、『羊をめぐる冒険』の北海道には見出せない。しかし今日の北海道には、「世界の終り」の塔よろしく、歴史に背を向けることとなった塔がある。慰霊の機能を失い痛みを忘却した北海道百年記念塔だ。前篇で述べた通り、開拓の痛みを刻むために建てられた北海道百年記念塔は、ナチュラルでピースフルな観光イメージと引き換えに今まさに倒されようとしている。

 それが倒れようが倒れまいが、人々はもはや無関心だ。人々を支配しているのは、そうした象徴たる塔ではなく、実体のわからない物言わぬ「壁」であり「羊」、すなわち目に見えぬシステムであるからだ。

 機能を失い象徴としてのみ立ち続ける塔。『羊をめぐる冒険』の北海道には、その塔に対応するものは見出せないと述べた。しかし本書で、北海道と関わりなく登場するものに、塔に相当するものが見出せる。

「鯨のペニス」である。

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1986年生まれ。江戸東京博物館学芸員。専門は日本美術史。 2010年から17年まで北海道博物館で勤務ののち、2017年より現職。 担当展覧会に「夷酋列像―蝦夷地イメージをめぐる人・物・世界―」展(北海道博物館、国立歴史民俗博物館、国立民族学博物館、2015-2016)。共著に『北海道史事典』「アイヌを描いた絵」(2016)。主な論文に「《夷酋列像》と日月屏風」『美術史』186号(2019)、「曾我蕭白筆《群仙図屏風》の上巳・七夕」『美術史』187号(2020)ほか。株式会社ゲンロン批評再生塾第四期最優秀賞。

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