観光客の哲学の余白に(24) 顔と虐殺|東浩紀

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初出:2020年12月25日刊行『ゲンロンβ56』

 シラス開設や『ゲンロン戦記』で慌ただしい年の瀬だが、悪についても引き続き考えている。『ゲンロン10』『ゲンロン11』に掲載した論考「悪の愚かさについて」を引き継ぐ問題である。 

 20世紀は「愚かな悪」の世紀だった。ぼくたちはその記憶と忘却のうえに、現在のグローバル社会(大量生の社会)を築いている。ひとことでいえばそれがぼくの議論の出発点だが、「愚かな悪」の例は無数に存在する。最近はルワンダの大量虐殺について調べている。 

 

 



 ルワンダでは1994年に、わずか3ヶ月強で全国民の1割から2割、50万人から100万人が殺されるという大虐殺が起きた。当時ぼくは大学院生だったが、死者数を知って驚いた記憶がある。けれどもそれ以上に強い関心は抱くことがなかった。当時の報道では虐殺の原因はツチとフツの民族対立にあると語られ、アフリカの奥地でなにか野蛮なことが起きたぐらいの理解で止まってしまったからである。そもそもヨーロッパを向いた思想系の学生にとっては、死者数の桁がちがっても、ユーゴスラビアの内戦のほうがはるかに気がかりだった。 

 けれどもその理解はまったくちがっていたようだ。虐殺では多数派のフツが少数派のツチを殺した。植民地化以前の王国はツチのもので、歴史的には支配層とされる。それだけ聞くと、虐殺は、多数派の被支配民族が、少数派の支配民族への怒りをついに爆発させた結果であるかのように聞こえる。 

 けれども現実は異なる。ツチとフツは同じ土地に住んでいる。同じ言葉を話し、同じ文化をもち、外見も区別がつかない。近年の考古学的調査によれば、祖先にもちがいはなかったことがわかっている。王国時代も、異民族のツチが土着民のフツを支配したというものではなく、むしろひとつの民族のなかで、支配層がゆるやかにツチと呼ばれていたというほうが実態に近かったようだ。 

 にもかかわらず、両者の対立が民族対立として意識されているのは、あいだに植民地時代が挟まっているからである。ルワンダは第一次大戦後から1960年代まで、ベルギーの信託統治下にあった。ベルギーはツチとフツの差異を民族として固定化し、前者を優遇することで統治を強化しようとした。その結果、逆に独立後はフツが政権を取り、ツチを制度的に抑圧するようになった。そして冷戦崩壊後、経済の低迷や政治環境の変化によって弱体化したフツ政権は、国民の不満を解消するため対立を煽るキャンペーンを始め、それが虐殺につながったのである。つまりは、ツチとフツの対立は人工的に作り出されたものであり、しかも虐殺の背景にはいかにも現代的な政治状況があった。ルワンダ虐殺はとても20世紀的なできごとだったのである。 

 この虐殺については、いくつもノンフィクションや研究書が出版されている。それらを読むと、とにかく大量のひとが、きわめて残酷な方法で殺されたことがわかる。老人や幼児も殺されている。女性は強姦もされている。 

 けれどももっとも衝撃的なのは、そこで加害者の多くがごくふつうの市民で、被害者の隣人ですらあったという事実である。ルワンダ虐殺は犠牲者がとても多く、しかも全土で勃発した。犠牲者の多くは最初の6週間で殺され、その速度はナチスによるユダヤ人虐殺の5倍近かったという推計もある★1。けれどもルワンダには、ナチスが整えたような効率的な交通網も、巨大な収容所もガス室もなかった。それなのになぜそんな速度が実現できたかといえば、虐殺そのものが、同時多発的にあらゆるところで起きたからにほかならない。 

 ルワンダはアフリカでも都市化率が低い国で、多くの国民が農村に住んでいた。前述のようにツチとフツは住み分けているわけではなく、同じ土地に住んでいた。けれども、それぞれの村のなかでは、だれがツチでだれがフツか、だれもが知っていた。その状況が効率的な虐殺を可能にした。つまりはルワンダでは、あるとき、国のあらゆるところで、隣人のフツが顔見知りである隣人のツチに襲いかかり、強姦して殺すという地獄絵図が展開されたのである。おもな凶器は、彼らがふだん農作業に使っているマチェーテ(手斧)だったという。

 

 このできごとにはおそらく哲学的に意味がある。20世紀は虐殺の世紀だった。したがって多くの哲学者が虐殺について考えてきた。 

 ただしそこでは、ナチスによるユダヤ人虐殺(ホロコースト)が範例として選ばれることが多かった。ナチスによる虐殺は、ヨーロッパのとても文明の進んだ国々で起きた。何百万人もの犠牲者が、高度に完成した行政機構によって集められ、ヨーロッパ全土に張り巡らされた鉄道網で移送され、自動車工場のような分業とオートメーションのもとでおそろしく効率的に殺戮された。それはたしかに文明の理念や人間性への信頼を根本から切り崩しかねない大事件で、戦後ヨーロッパの知識人がその考察に取り憑かれたのは当然だといえる。 

 しかし、その選択は逆に、哲学者たちに、虐殺の本質は近代的な官僚主義や殺人手段の機械化と結びついているという、一種の予断を与えてしまったように思われる。ひとことでいえば、近代化が進むなかで社会も技術も匿名化し、人間はたがいを顔をもった存在と認識しなくても生活が営めるようになった、それこそが大量殺戮を可能にしたという理解が支配的になったのである。有名なところでは、ハイデガーやアーレントがそのような議論を展開している。 

 現実には虐殺は古代から存在している。20世紀にかぎっても、ナチスによるもの以外にも多数の虐殺が起こっている。なかにはナチスと同じく数百万人規模の犠牲者を出したものもあり、必ずしも特定の体制や技術を前提にしていない。それゆえ、前述のような哲学者の議論に関心をもちつつも、ぼくは長いあいだ、虐殺の問題をナチスによる虐殺を範例として考えることに違和感を覚えてきた★2。ぼくたちはたしかに、犠牲者の顔が見えないからこそ、ひとを安易に大量に殺すことができるのかもしれない。けれども他方、顔が見えれば大量に殺さないのかといえば、けっしてそんなことはない。顔が見えても大量に殺すことはある。 

 ルワンダ虐殺はまさにこの点で、虐殺をめぐる哲学者たちの議論に新しい視点を加えるものになるのではないか。ルワンダ市民はツチかフツかを記載する身分証明書をもっていた。それはたしかに虐殺に利用された。けれどもそれ以上に犠牲者の選別に役立ったのは、だれがツチでだれがフツか、だれもが知っているという濃密な人間関係だった。ツチは匿名性によってではなく、顔によって虐殺されたのだ。20世紀の哲学は、このような虐殺についてほとんど考えていない。

 

 なぜそんな虐殺が起きたのか。大まかな背景は前述のとおりだが、直接の引き金は悪質なヘイト・プロパガンダだったといわれている。 

 プロパガンダの中心は1990年に創刊された『カングラ』という新聞だった。同紙は独立を装っていたが、じっさいは政権の支援を受けており、フツによるツチの支配を強化するために「フツ至上主義」のイデオロギーをばらまいていた。そんななかで隣国のウガンダから、かつて同国に逃げたツチたちによる武装勢力(ルワンダ愛国戦線)が侵攻してきた。反ツチ感情はますます高まり、キャンペーンも過激になっていった。とはいえ政権の弱体化は明らかで、93年の8月にはルワンダ愛国戦線と平和協定を結ばざるをえなくなった。 

 ところがこの妥協がかえってフツ至上主義者の態度を硬化させた。『カングラ』を中心とするグループは「千の丘の自由ラジオ」(RTLM)なるラジオ局を開局し、ヘイトをますます組織的に展開するようになった。ツチはゴキブリだ、ゴキブリは殺せ、女でも子どもでも殺せといった言葉が日常的に飛び交うようになった。そして94年の4月、大統領が暗殺されると(犯人はいまもわかっていない)、RTLMは暗殺はツチの仕業だとして全フツに復讐を呼びかけ、それに呼応して同時多発的に虐殺が始まったのである。数年にわたって放置され、政権すら管理できなくなったヘイトがフェイクニュースによって一気に燃え上がるというこの構図は、現在の日本でもけっしてひとごとではない。『カングラ』の創設者でRTLMの株主でもあったハッサン・ンゲゼは、のち犯罪人として告発され、ルワンダ国際法廷で2003年に終身刑を宣告されている(2007年に刑期35年に減刑)。 

 アーレントは『イェルサレムのアイヒマン』で、アイヒマンが「凡庸」な人間だったことを強調している。彼にはユダヤ人への特別のヘイトはなかった。にもかかわらず、否、むしろだからこそ、彼は虐殺にためらいなく従事できた。 

 その逆説こそが問題だというのがアーレントの主張であり、じっさいそれはそのとおりだ。しかし、ルワンダ虐殺の例を考慮すると、この問題もまたべつの角度から考えることができる。ナチスにおいてはヘイトはスケール(大規模化)できなかった。だから犠牲者を匿名にし、ヘイトを中立化する制度と技術が必要だった。けれどもそれはけっして必然ではなく、原理的には、犠牲者を顕名のまま、すなわち顔の見える状態のまま、ヘイトをまるまるスケールすることも可能なのではないか。それがルワンダで起きたことなのではないか。 

 匿名性によってスケールする中央集権的な大量虐殺と、顔(固有名性)によってスケールする同時多発型の大量虐殺。ナチスによるユダヤ人虐殺とルワンダ虐殺をかりにそんなふうに対比させることで、虐殺の問題をもっと広い視野から捉えることができないか。そんなことを考え始めている。

 

 ぼくがルワンダ虐殺に関心をもったのは、じつは、『あれから――ルワンダ ジェノサイドから生まれて』と題された写真集兼インタビュー集をオフィスで手にしたのがきっかけである★3。写真家の名前はジョナサン・トーゴヴニク。知らない名前だったが、ページを開いた瞬間にめくる手が止まらなくなった。 

 同書には、2000年代の半ばに撮影された母子の写真と、そのほぼ10年後に撮影された同じ母子の写真(母親が亡くなっている場合もある)が、両方のインタビューとともに収められている。母は虐殺時にフツに強姦されたツチの女性たち。子は強姦で生まれた子どもたち。フツに人生を壊され、フツを憎み、しかしそれでもフツと共存しなければならない母親たちの苦悩が、性暴力による子であることを告知され、その現実と折り合いをつけねばならない子どもたちの戸惑いとともに記録されている。彼らの言葉は形容しようもなく重い。 

 トーゴヴニクが撮影し話を聞いた母子のすがたは、ルワンダが直面した困難を象徴している。虐殺では100万を超えるフツが殺人や略奪に参加した。虐殺が始まって3ヶ月後、1994年7月にルワンダ愛国戦線が全土を制圧すると、彼らの多くは隣国に逃げ出した。そして数年後に国際機関の指導のもと戻ってきた。とはいえそれほど多数のフツを刑務所に入れることができるわけもない。新政府は和解と復興をアピールする必要もあった。それゆえ彼らの多くは、とりあえずは、かつて住んでいた村に、すなわち隣人をその手で殺戮した当の集落に帰ることになったのである★4。そこには自分が殺したツチの親族が生き残っていることも少なくなかった。強姦した相手が生き残っていることもあった。トーゴヴニクは、家族を殺し、自分を強姦したフツの男性と再会した女性たち、「父」と対面した子どもたちの言葉も伝えている。 

 虐殺の加害者と被害者(の遺族)が、おたがいに顔をはっきりと知ったまま、それでも同じ土地で暮らし続けるということ。それは想像を絶する経験だが、国民の多くが虐殺者になってしまったルワンダではそれしか選択肢がない。これもまたナチスによるユダヤ人虐殺では起きなかった現象である。顔の見える虐殺は、顔の見えない虐殺よりも、この点では残酷な世界をつくる。 

 ルワンダ虐殺について記されたもっとも有名な本のひとつ、『ジェノサイドの丘』の著者のフィリップ・ゴーレイヴィッチは、フツたちの帰還が始まった直後、政府首脳が「忘却のプロセス」が必要だと語ったことを驚きをもって書き留めている★5。ゴーレイヴィッチも指摘するように、ナチスによるユダヤ人虐殺については、つねに記憶の必要性が語られてきた。そのために証言が集められ、博物館が建てられてきた。ところがルワンダでは、まったく逆に忘却こそが求められているのだ。加害者と被害者がともに生き続けるために。 

 顔の見える虐殺は、歴史と記憶の関係もより複雑なものにしてしまうのである。

 

 ルワンダの西の国境はキヴ湖のうえを通っている。琵琶湖の4倍ほどの大きな湖だ。対岸はコンゴ民主共和国である。 

 その湖畔にキブエという地方都市がある。多くのツチが住み、殺された町で、生存者の証言のなかにしばしば名前が出てくる。虐殺後アメリカに渡り、スピリチュアル系の作家として成功したイマキュレー・イリバギザは、そこから15キロほど離れた村に住んでいた。イリバギザは、牧師の家の小さなバスルームに、7人とともに91日間隠れ続けて難を逃れた女性である★6。 

 イリバギザの証言をグーグルマップと照合しながら読んでいたら、キブエの湖岸に、いまでは多くのリゾートホテルやヴィラが建てられていることに気がついた。ルワンダは2000年代に高い経済成長率を実現し、「アフリカの奇跡」と呼ばれた。いまは観光やITに力を入れているようで、日本語でも検索すれば情報が手に入る。若い起業家でルワンダに渡っているひともいる。無数のツチがマチェーテで身を切られ、血みどろで放り込まれた湖畔にホテルが立ち並ぶのも、すなおに復興の証と喜ぶべきなのかもしれない。日本でも戦後25年の1970年には、すでに多くのひとが戦争を忘れていた。ぼくが生まれたのもそのころだ。 

 けれども、虐殺者と犠牲者たちの傷は、ほんとうにそれだけで見えなくなるものなのだろうか。もしコロナ禍がなければ、「悪の愚かさについて」の最終章を書くまえに、いちどルワンダを訪れたかったと思う。 

 


★1 武内進一『現代アフリカの紛争と国家』、明石書店、2009年、278頁。 
★2 ぼくの著作をお読みのかたならばわかるように、この問いは、30年近くまえのデビュー作「ソルジェニーツィン試論」から近作の「悪の愚かさについて」まで、ぼくの哲学を貫くひとつの軸になっている。「ソルジェニーツィン試論」でぼくが試みたのは、ひとことでいえば、カフカに対してソルジェニーツィンを立てることで、虐殺の哲学におけるアウシュヴィッツの位置を相対化することだった。 ただこの問題は、まじめに取り組もうとするとかなり複雑な操作が必要になる。というのも、いま虐殺についてなにかを考えようとすると、選ばれる言葉そのものに、すでにナチスによるユダヤ人虐殺の特権化が刻まれていることを意識せざるをえないからである。 お気づきの読者もいるかもしれないが、ぼくは本稿では意図的に「ジェノサイド」という言葉を使っていない。ルワンダ虐殺は英語ではルワンダ・ジェノサイドと呼ばれる。また戦後、多くの哲学者もジェノサイドという言葉を使って思考している。それゆえふつうならジェノサイドという表現を使うところだが、じつはこの言葉は、そもそもナチスによるユダヤ人虐殺を名指すため1940年代に生み出された新語であり(発案者のラファエル・レムキンへの影響という点では1910年代のトルコによるアルメニア人虐殺も大きいのだが、とりあえず話を簡略化する)、また1948年に採択された「集団殺害罪の防止および処罰に関する条約」、通称ジェノサイド条約で定義された国際法上の概念でもある。つまりは、なにかをジェノサイドと呼ぶという行為自体に、それがナチスによるユダヤ人虐殺と同じタイプの犯罪であり、人道への挑戦として諸国一致して戦うべきものだという含意があるのだ。 したがって、なにをジェノサイドと呼び、なにをジェノサイドと呼ばないかは、政治的に繊細な問題を孕む。たとえば、スターリニズム下における大量殺戮をジェノサイドと呼ぶべきかどうかは、法学者や歴史学者のあいだでいまも意見がわかれている(ノーマン・ネイマーク『スターリンのジェノサイド』、根岸隆夫訳、2012年、みすず書房、参照)。ルワンダ虐殺についても、国際的にジェノサイドと認められるまでには数年の時間がかかった。けれども、ぼくが考えたいのは、より広く「ひとがひとを大量に殺すこと」一般の問題である。それゆえ本稿では、論点が多少あいまいになることを承知のうえで、不要な議論を巻き起こしかねない「ジェノサイド」を避けた。 
★3 竹内万里子訳、赤々舎、2020年。同書は同じ訳者で同じ出版社から2010年に刊行された『ルワンダ ジェノサイドから生まれて』の続編にあたる。同書がゲンロンの社内にあったのは、訳者の竹内氏がゲンロン新芸術校の講師として予定されていて、資料として購入されていたからだった。のち氏には、新芸術校担当の上田洋子経由でルワンダ関連の必読書を教えていただいた。記して感謝する。 
★4 とはいえ彼らは無罪放免になったわけではない。のち彼らは「ガチャチャ裁判」と呼ばれる特殊な形式の裁判によって、それぞれの村のなかで裁かれることになった。ガチャチャ裁判は2002年から2012年にかけて全国各地で行われ、約196万件を審理し、約100万人を裁いた。虐殺で多くの司法関係者が殺されたため、ガチャチャ裁判の判事は投票で選ばれた一般市民が務めた。地域住民が主体となり、加害者と被害者が膝を突き合わせて虐殺に向かい合い、服役や賠償を決めるというこの裁判に、多くのひとは和解を期待した。けれども現実はそううまくいかなかったという。片山夏紀『ルワンダの今』、風響社、2020年、参照。 
★5 フィリップ・ゴーレイヴィッチ『ジェノサイドの丘』新装版、柳下毅一郎訳、WAVE出版、2011年、427頁。 
★6 イマキュレー・イリバギザ、スティーヴ・アーウィン『生かされて。』、堤江実訳、PHP文庫、2009年。

東浩紀

1971年東京生まれ。批評家・作家。東京大学大学院博士課程修了。博士(学術)。株式会社ゲンロン創業者。著書に『存在論的、郵便的』(第21回サントリー学芸賞)、『動物化するポストモダン』、『クォンタム・ファミリーズ』(第23回三島由紀夫賞)、『一般意志2.0』、『弱いつながり』(紀伊國屋じんぶん大賞2015)、『観光客の哲学』(第71回毎日出版文化賞)、『ゲンロン戦記』、『訂正可能性の哲学』、『訂正する力』など。
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