イスラームななめ読み(3) 大日本帝国の汎イスラム主義者|松山洋平

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2021年1月27日刊行『ゲンロンβ57』
『ゲンロン』本誌で人気のコラム、松山洋平さん「イスラームななめ読み」を『ゲンロンβ』で連載いただけることになりました。大日本帝国期のアジア主義者たちに大きな影響を与えた「汎イスラム主義者」、イブラヒム。東京にひっそりと祀られる彼の墓から、彼の日本への旅、その遠大な理想、彼を利用しようとした日本政府の企図をたどります。どうぞお楽しみください。(編集部)
 
満州国の五十万、支那の三千万、東印度の五千万、比島の五十万、泰の五十万のイスラム教徒と互に手に手をとって吾が国が、イスラム教徒覚醒運動史上におけるこの伝統をさらに発展させ、ただに東亜のみならず、世界イスラム教徒の圧制者たる英国打倒の大業に邁進する義務と決意とを有することはいうまでもない。問題は、この日本の決意を掬み、これに協力する世界イスラム教徒の覚悟にある。吾等は世界三億のイスラム教徒がイブラーヒーム翁の檄に応え、その強烈無比なる信仰を武力化し、諸君の頭上に君臨する不信者英国並びにその共犯米国に対し、コーランの教える如く「汝らやがて討ち破らるべし、地獄へ追わるべし」と叫んで躍起せんことを庶幾して止まないものである。──読売新聞、1944年4月26日、社説「世界のイスラム教徒奮起せよ!」[★1]


 東京都府中市に、多磨霊園という公営墓地がある。西武多摩川線を多磨駅で降り、西に10分ほど歩くと、大きな松の植えられた霊園の入口にたどりつく。園内は区画整備され、多くの樹木が植えられている。豊かな緑地を確保するために、墓地自体の面積は敷地全体の50パーセント以下に抑えられているという[★2]。春には桜が満開となり、秋には紅葉の色に墓地が染まる。園の周囲には背の高い建物がないため、季節ごとに色を変えるこれらの木々が、青空の下でよく映えて美しい。園全体の設計のみならず、個々の墓もユニークなデザインのものが多く、目を奪われる。多磨霊園の造形は、近代の日本において、霊園を建設する際の理想的なモデルとされてきた[★3]

 多磨霊園は日本で初めて造られた公園墓地である[★4]。この種の墓地の建設は、仏教から距離をとった明治政府による新国家建設の過程で求められた事業だった[★5]。一時は建設計画が滞ったが、東京市の人口増加という現実的課題に後押しされ、市の一大事業として大正12年に開設が実現した(なお、設立当時の名称は多磨墓地である)。

 現在、霊園の面積は128万237平方メートルと広大で、40万を超える人々が埋葬されている[★6]。著名人の墓も多い。特別区画として設けられた名誉霊域には、東郷平八郎、山本五十六、古賀峯一(いずれも海軍大将)3名の墓がある。その他、高橋是清や西園寺公望といった政治家、与謝野晶子や三島由紀夫といった歌人や小説家、思想家、実業家、芸術家など、霊園のあちこちに各界の著名人が眠っている[★7]

 多磨霊園は、単に日本の公園墓地建築を代表するというだけでなく、明治以降、近代日本が歩んだ歴史の一端を記憶する施設であるとも言える。

 

 霊園の正面入口から見て、斜め右の方向に少し歩いた所に、「外人墓地」という区画がある。宗教や国を基準にいくつかの墓のまとまりが作られていて、十字の付いたキリスト教の墓や、中国風の墓が目立つ。

 この「外人墓地」の一角に、イスラム教徒の墓が並ぶ場所がある。

 墓の数は100を超えない程度で、簡素な造りのものが多い[★8]。土葬のためにおのおの広めに設けられた土の上に、アラビア語・トルコ語・英語・日本語など、様々な言語の書かれた墓石や立て札が添えられている。埋没者はチュルク系が多いが、中国人や日本人の墓もある。

 これら一群の墓の、一番奥の列の中ほどに、アブデュルレシト・イブラヒム(عبد الرشيد إبراهيم:1857年生まれ、1944年没)という人物が眠っている。本コラム冒頭に引用した読売新聞の社説で、「イブラーヒーム翁」と呼ばれている人物である。かれは、ロシア帝国領内に生まれたタタール人ウラマー(イスラム法学者)で、世界を股にかけて活動した汎イスラム主義者であった。1944年、東京に没し、この多磨霊園に埋葬されている[★9]

 イブラヒムは、西シベリアはトボリスク県のタラという村に生まれた。ロシア領内のマドラサ(イスラム教学校)で基礎教育を受け、カザフ遊牧民の間でイマーム(礼拝先導者)職や教師を務めた後、イスラム教第2の聖地マディーナに渡り学研を深めた。帰郷後にはムスリム宗教協議会のカーディー(大裁判官)に任ぜられている。

 イブラヒムはウラマーであったが、同時にジャーナリストでもあり、大旅行家でもあり、革命家でもあった。

 ロシアの対イスラム政策に不満を抱いていたイブラヒムは、1894年にイスタンブルに移り住むと、祖国のイスラム教徒の覚醒を促す言論を発信する。1904年にはロシア当局によってオデッサの監獄に収容されるが、釈放後もロシア各地のイスラム教徒と通じ、政治的連帯の可能性を模索している。

 もっとも、イブラヒムの最終的な目標はロシア領内のイスラム教徒の独立ではなかった。かれが見据えていたのは、特定の民族や地域に限定されない、世界規模でのイスラム教徒の独立と統一である。その可能性を模索するため、かれは、1907年からおよそ2年間にわたる世界旅行を開始する。

 イブラヒムが最初に日本を訪れたのは、この世界旅行の最中である。
 

多磨霊園「外人墓地」区画内にあるイスラム教徒の墓 撮影=筆者
 
 イブラヒムの最初の日本滞在は、1909年の2月から同年6月までの4か月間に及んだ。此度の世界旅行の全期間が2年だったことを考えると、非常に長期の滞在であったと言える。訪日の目的は、チュルク系イスラム教徒の独立運動への協力を日本に求めることにあった[★10]

 日本にいる間、イブラヒムは日本政府からの厚遇を受けた。日本に向けて出港するウラジオストクでは、早々に日本領事館の書記らから案内を受け、入国後には、市中のみならず、衆議院や造幣局、病院や大学、報道機関などを見学する機会を得ている。大隈重信・徳富蘇峰・伊藤博文・内山良平など、政府中枢の政治家・軍人、有力なアジア主義者らと面会し、親交を深めた。明治天皇からの恩賜も(間接的に)受け取っている。日本の紙面でもイブラヒムの訪日が好意的に報じられた。

 ところで、イブラヒムはなぜこれらの要人と会うことができたのだろうか。それは、日本の政府関係者、および在野のアジア主義者たちが、世界各地を繫ぐこのイスラム教徒の活動家に、特にロシア工作に関わる利用価値を見出していたからである。独立運動のために日本の協力を仰ぎたいイブラヒムもまた、オスマン帝国から中央アジア、ロシアにまで広がる広大なイスラム・ネットワークと連帯するメリットを日本側に説いている。両者の利害には、一致する部分があった。

 イブラヒムは、かれと交流した多くの日本人に非常な好印象を与えたようである。かれを「先生」、「父」と慕うようになる者も多く、かれの許でイスラム教に改宗する要人もあった。イブラヒムの訪日は、それまで東アジアしか視野になかった日本のアジア主義者の意識に大きな変革をもたらしたと言われる[★11]。イブラヒムの述懐によれば、かれはあるとき、犬養毅や頭山満ら東京の名士数名から、モスクやマドラサ建設の提案を受け、日本におけるイスラム教弘布の大任を切願されたという[★12]。イブラヒムの記録したアジア主義者らの発言に鑑みるに、かれらはイスラム教徒に対して、日本国内で活動するキリスト教徒の対抗勢力としての役割も期待していたようである。

 5月には、イブラヒム・大原武慶・頭山満・河野廣中・犬養毅・中野常太郎らが集い、アジア主義を掲げる政治結社、亜細亜義会が結成される。かれらの決起文が残されているが、その1行目には、イブラヒムの手によるものであろう、「アッラーの御名において」(بسم الله)とのアラビア語が書かれている[★13]。亜細亜義会結成の報は、オスマン帝国を通じてイスラム諸国でも広く報じられた[★14]

 6月に日本を離れた後、最終目的地のイスタンブルに到着したイブラヒムは、ほどなくして今回の旅の詳細を記した『イスラーム世界』という2巻本の旅行記を出版する[★15]。日本についての記述は非常に多く──本書の副題は、他でもなく「日本におけるイスラームの普及」であった(!)──、今回の日本滞在が、イブラヒムに接した日本人だけでなく、イブラヒム自身にも大きな刺激を与えたことがうかがえる。なお本書は、中東諸国に日本の風俗を紹介した最初期の作品であり、今日に至る中東諸国の日本観に大きな影響を与えている。
 

イブラヒム 出典=若林半『回教世界と日本』、第5版、大日社、1938年、図版5頁
 
 その後イブラヒムは、汎イスラム主義者としての活動を文字通り世界各地で精力的に展開した。戦時下のオスマン帝国では特務情報機関に所属し、文筆活動を通して各国のイスラム教徒にジハードを促すのみならず、複数の戦争において自ら前線に赴いている──多磨霊園のイブラヒムの墓石に記されたいくつかの敬称の中に「ジハード戦士」(مجاهد)とあるのは、このような事情による。

 そして、最初の訪日から20年以上がたった1933年、イブラヒムは日本を再訪する。此度の訪日は、日本政府の招聘によるものだった[★16]

 当時日本政府は、中央アジアや東アジアのイスラム教徒を反共・反漢勢力と認識し、外交戦略としてかれらを懐柔する方針を定めつつあった。イブラヒムの招聘はその一環としてなされたものである。かれの広い人脈と権威を、在日イスラム教徒の操縦、および、アジアのイスラム教徒の懐柔・統治に役立てようという目算であった。

 日本から来日の打診を受けたころ、イブラヒムのいたオスマン帝国はすでに崩壊し、世俗主義を国是とするトルコ共和国が建国されていた。イブラヒムはトルコにおいて活動を制限され、憲兵の監視下にあった。日本からの招聘は、年老いてなお汎イスラム主義者としての理想を捨てようとしないイブラヒムにとって、あるいは最後の希望だったのかもしれない。来日直前に発表した論考の中でかれは、日本と連帯してジハードを遂行することは、すべてのイスラム教徒にとっての義務であると、高らかに宣言している[★17]

 来日したイブラヒムは、日本政府やアジア主義者らと協力しながら、日本国内での宣教・教育・政治活動に従事する。国外のイスラム系諸民族に対しても、日本との連帯を訴え続けた。
 

イブラヒムと頭山満。中央は内田良平 出典=『回教世界と日本』、第2版、1937年、図版6頁
 
 日本の回教政策(回教工作)は、満州事変を機に急速に活発化した。本格的に西方に進出した日本は、アジアに広がるイスラム教徒を懐柔する課題に直面したのである。この時期以降、イブラヒムは日本政府から重用されるようになる。1938年に開所した東京回教寺院の初代イマーム(礼拝先導者)に任ぜられ、東京イスラム教団団長、大日本イスラム教団連合会代表にも据えらている[★18]

 日本にとって、イスラム教徒の懐柔は、満蒙対策、対ソ防衛、東アジア統治のための現実的戦略であり続けた[★19]。一時期は、オスマン帝国第34代スルタン、アブデュルハミトⅡ世(1842年生まれ、1918年没)の孫アブデュルケリム王子(1906年生まれ、1935年没)を擁立し、中国西北部に、日本の傀儡となるイスラム帝国を建設することも検討されていた[★20]。西方だけでなく、南方の植民地においても、イスラム教勢力の取り込みは一貫して統治上の重要事項と認識されていた[★21]

 日本内地では、東亜経済調査局、回教圏攷究所、回教及猶太問題委員会、大日本回教協会(初代会長は林銑十郎)など、イスラム教圏を対象とした調査・研究・政策立案を任務に含む諸々の機関が設立された。

 政府は、在日イスラム教徒とも緊密な関係を維持し、日本国民に対してもイスラム教についての啓蒙を推進した。たとえば、1940年には、大日本回教協会と東京イスラム教団が、松坂屋との共催で「回教圏展覧会」を展開している[★22]。この展覧会は、松坂屋の建物正面に巨大な広告を掲げる大々的なものであった[★23]。展覧会に併せて、各国要人を招いた全世界回教徒第1次大会なるものも開催されている。

 その間、神戸と東京に日本を代表するモスクが建設されたが、イブラヒムが初代イマームに就任した東京回教寺院の建設にあたっては、アジア主義者や犬養毅・大隈重信らの呼びかけを通じて、財界の著名人や3大財閥から土地の提供や献金がなされた。

 モスクの落成式には、黒竜会頭山満、陸軍大将松井石根、海軍大将山本英輔、満州国皇帝愛新覚羅溥儀のいとこ溥侊などが顔を並べた他、インド・中華民国・満州・タタール・朝鮮など、アジア諸地域の「回教徒代表」や、アラブ諸国の要人が列席した。落成式に続いて行なわれた祝賀式では、君が代が斉唱され、「天皇陛下万歳!」、「回教徒万歳!」と叫ばれたことが記録されている[★24]

 戦中の日本において、「イスラム教」は、大日本帝国がアジア諸国と繫がるための重要な経路として認識されていたのである。イブラヒムは、そのシンボル的な存在として扱われていた。

 しかし、イブラヒムが逝去した翌年、終戦によって一連の回教政策は打ち切りとなり、政策に関係する諸々の研究機関も閉鎖・解散する。1945年、日本敗戦の影で、多磨霊園に眠る1人の汎イスラム主義者の夢もまた、静かに潰えたのだった。
 

多磨霊園「外人墓地」内にあるイブラヒムの墓 撮影=筆者
 
 筆者がイブラヒムの墓を最後に訪れたのは、2019年の盛夏のことである。

 かれの墓の上には膝丈ほどの雑草が繁茂し、むかい側の墓からはさらに背の高い草が垂れ、イブラヒムの墓石の半分ほどを覆っていた。たまたま前日に雨が降ったためか、墓の周辺は汚れ、あまり頻繁に手入れがなされている様子ではなかった。率直に言えば、世間から完全に忘れられた人間の墓のようでもあった。

 しかし、イブラヒムという人物を忘れ去ることは、日本とイスラム教の関係史の、或る重要な局面を忘れ去ることも同時に意味する。

 かつて、日本とイスラム教は、奇妙な邂逅を果たしていた。日本人は、世界中のイスラム教徒にジハードを促し、日本が戦う「聖戦」への参加を呼びかけた。また、実際に多くのイスラム教徒を統治下に置き、戦争に動員した。

 戦後日本社会は、この邂逅の事実をもはや覚えていない[★25]。「イスラム」という言葉が日本の歴史の中に現れるとすれば、未来のことであると考えられているだろう。「イスラム教は日本とは縁遠い宗教」、「日本はこれまでイスラム教とあまり関わりを持たなかった」という言葉は、イスラム教をめぐる言説の中に散見される。たしかに、仏教やキリスト教と比べれば、イスラム教が日本の歴史に与えた影響は小さい(かもしれない)[★26]

 しかし、少なくとも或る一時、多磨霊園に眠るこの汎イスラム主義者は、大日本帝国とともにジハードののろしを上げることを夢に見ていた。そして、かれを利用した日本人たちもまた、イスラム教徒によるジハードと提携し、アジアを解放する大義を語っていた。雑草の生えたこの古い墓は、忘れられたその記憶に触れることができる、わずかに残された場所の1つである。

★1 読売新聞、1944年4月26日、朝刊、2頁。旧字、異体字、歴史的仮名遣いは現代の表記に改めた。
★2 東京都多磨霊園「多磨霊園の花と緑」、2013年、1頁。
★3 槇村久子「多磨墓地をはじめとする公園墓地の成立・展開と今日的課題」、『造園雑誌』、第55巻第5号、1992年、122頁‐123頁。
★4 村越知世『多磨霊園』、東京都公園協会、2011年、4頁。槇村久子、前掲論文、122頁。
★5 村越知世、前掲書、四頁‐五頁。明治新政府はその他、神職による葬儀執行を可能とする法令や、火葬禁止令を布告するなどし、葬儀の神道化を進めた(勝田至編『日本葬制史』、吉川弘文館、2012年、248頁‐253頁)。
★6 東京都公園協会「東京都多磨霊園案内図」、2019年、裏面。
★7 村越知世、前掲書、152頁‐155頁。東京都公園協会、前掲冊子、裏面。
★8 1つの墓に複数名が埋葬されている場合もあるため、埋葬されている人数はもう少し多いだろう。
★9 以下、本コラムで言及するイブラヒムの経歴や日本での経験については、特に言及しない限り小松久男『イブラヒム、日本への旅:ロシア・オスマン帝国・日本』、刀水書房、2008年、およびアブデュルレシト・イブラヒム『ジャポンヤ:イブラヒムの明治日本探訪記』、小松香織・小松久男訳、岩波書店、2013年に依る。
★10 シナン・レヴェント『日本の"中央ユーラシア"政策:トゥーラン主義運動とイスラーム政策』、彩流社、2019年、51頁‐52頁。実際に日本を知った後のイブラヒムは、日本におけるイスラム教の普及と、イスタンブルのカリフと日本の政治的連帯を強く意識するようになる。
★11 シナン・レヴェント、前掲書、52頁‐53頁。
★12 イブラヒム、前掲書、409頁。
★13 小松久男、前掲書、85頁。
★14 同会はその後、イスタンブルのカリフにモスク建設の許可を求め、日本へのウラマー派遣を要請している。後にカリフからモスク建設の許可を得るものの、この時期の建設計画は具体化せず、その後立ち消えとなった。亜細亜義会は、辛亥革命後に大亜義会と改称し、奉天に本部を移している。なお、亜細亜義会のメンバーである大原もイスラム教徒であったが、戦前・戦中にイスラム教に入信した日本人には、アジア主義が多かった。
★15 なお、本書は書下ろしではなく、旅行中にもイスタンブルに原稿を郵送し、定期的に公開されていたものをまとめたものである。本書の日本滞在記の部分を中心に邦訳されたものがイブラヒム『ジャポンヤ』である。
★16 イブラヒムの来日にあたっては、政府関係者だけでなく、アジア主義者からも働きかけがなされたと言われる(若林半『回教世界と日本』、1937年、7頁)。
★17 小松久男、前掲書、150頁‐151頁。
★18 東京回教寺院のイマームにはイブラヒムとは別の人物が就任することになっていたが、最終的に、在日イスラム教徒をまとめるにはイブラヒムが適任との判断がなされた(松長昭『在日タタール人:歴史に翻弄されたイスラーム教徒たち』、東洋書店、2009年、31頁‐51頁。田澤拓也『ムスリム・ニッポン』、小学館、1998年、96頁‐108頁)。
★19 回教政策のより具体的な目的・戦略については、坂本勉「アブデュルレシト・イブラヒムの再来日と蒙疆政権下のイスラーム政策」、坂本勉編箸『日中戦争とイスラーム:満蒙・アジア地域における統治・懐柔政策』、慶応義塾大学出版会、2008年、1頁‐81頁に詳しい。
★20 シナン・レヴェント、前掲書、157頁‐164頁。新保敦子『日本占領下の中国ムスリム:華北および蒙疆における民族政策と女子教育』、早稲田大学出版部、2018年、69頁‐72頁。松長昭、前掲書、41頁‐42頁。メルトハン・デュンダル「オスマン皇族アブデュルケリムの来日」、坂本勉編著、前掲書、135頁‐177頁。当時トルコ政府は、日本がカリフを擁立するのではないかと、この動きを警戒したようである。
★21 倉沢愛子「動員と統制:日本軍世期のジャワにおけるイスラム宣撫工作について」、『東南アジア:歴史と文化』、第10号、1981年、69頁‐121頁。日本のイスラム教徒に対する政策にはもちろん、かれらに対する文化的配慮に欠ける部分もあった(新保敦子、前掲書、45頁‐46頁。澤井充生「皇居遥拝した回民たち:日本の回教工作にみる異民族への眼差し」、『人文学報』、第513-2号、2017年、107頁‐129頁。澤井充生「日本の回教工作と清真寺の管理統制:蒙彊政権下の回民社会の事例から」、『人文学報』、第483号、2014年、69頁‐107頁など参照)。
★22 重親知左子「松坂屋回教圏展覧会の周辺」、『大阪大学言語文化学』、第12号、2003年、179頁‐191頁。小村不二男『日本イスラーム史:戦前、戦中歴史の流れの中に活躍した日本人ムスリム達の群像』、日本イスラーム友好連盟、1988年、319頁‐328頁。
★23 大日本回教協会編『記録 回教圏展覧会:全世界回教徒第一次大会来朝回教視察団』、大日本回教協会、1940年、21頁。
★24 「月刊 回教圏」、第1巻第1号、回教圏攻究所、1938年、48頁。小村不二男、前掲書、295頁‐299頁。松長昭、前掲書、45頁‐48頁。新保敦子、前掲書、37頁‐38頁。なお、東京は、大東亜におけるイスラム教徒の中心地となることが構想されていた(日本外政協会編『帝国焦眉の回教施策:東京を大東亜回教徒の指導中心地たらしむべき方途 其の1(調査部調書第一号)』、日本外政協会、1943年)。
★25 一時的・部分的にイスラム教圏への関心が高まっては忘却されるこの事態については、これまでも懸念が示されてきた(たとえば臼杵陽「戦時下回教研究の遺産:戦後日本のイスラーム地域研究のプロトタイプとして」、『思想』、第941号、2002年、191頁。小林寧子「イスラーム政策と占領地支配」、倉沢愛子ほか編『岩波講座 アジア・太平洋戦争 7 支配と暴力』、岩波書店、2006年、89頁‐90頁。鈴木規夫『日本人にとってイスラームとは何か』、ちくま新書、1998年、第5章)。しかし、今日も状況は変わっておらず、日本とイスラム教の関係を論じるための、戦前から現代までを貫くような視座は日本社会には共有されていない。
★26 ただし、以下のような事実もある。前述の通り、イブラヒムの訪日はアジア主義者の構想に影響を与えた。頭山満のような影響力を持つアジア主義者も、イブラヒムを含むイスラム教徒と親密な関係を生涯持ち続けた。1938年の東京回教寺院の開堂式では、黒竜会が事務を取り仕切り、頭山が開扉を担当している(松長昭、前掲書、46頁)。頭山はまた、東京イスラム教団の名誉顧問でもあった(小村不二男、前掲書、439頁)。また、イスラム教という要素は、大東亜戦争の在り方に直接の影響を与えている(松浦正孝『「大東亜戦争」はなぜ起きたのか:汎アジア主義の政治経済史』、名古屋大学出版会、2010年、356頁‐375頁)。イスラム教徒の操縦・懐柔の成否は、実際、日中ソ間の戦局を大きく左右した(関岡英之『帝国陸軍 知られざる地政学戦略:見果てぬ「防共回廊」』、祥伝社新書、2019年、第2章、第3章)。中国では、日本による回教政策の失敗が共産党側に協力する回民の増加を促した。この結果は、日中戦争における共産党の勝利、さらには中華人民共和国建国の遠因になった可能性がある(新保敦子、前掲書、第2章、第4章、331頁)。鈴木規夫(愛知大学教授、1957年生まれ)は、「大東亜共栄圏」というアイディア自体が、汎イスラム主義に着想を得たものである可能性を指摘している(鈴木規夫、前掲書、181頁)。たしかに、「大東亜共栄圏」という言葉を発案した松岡洋右は、在日イスラム教徒と非常に緊密な関係にあった(満鉄会・嶋野三郎伝記刊行会編『嶋野三郎:満鉄ソ連情報活動家の生涯』、原書房、1984年、449頁‐478頁)。イスラム教が日本の近現代史に与えた影響は極めて大きいという見方も、けして見当違いとは言えない。

松山洋平

1984年静岡県生まれ。名古屋外国語大学世界教養学部准教授。専門はイスラーム教思想史、イスラーム教神学。東京外国語大学外国語学部(アラビア語専攻)卒業、同大学大学院総合国際学研究科博士後期課程修了。博士(学術)。著書に『イスラーム神学』(作品社)、『イスラーム思想を読みとく』(ちくま新書)など、編著に『クルアーン入門』(作品社)がある。
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