ベースメント・ムーン(3)|プラープダー・ユン 訳=福冨渉

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初出:2021年1月29日刊行『ゲンロンβ57』
前回までのあらすじ

 2016年、軍事政権下のバンコク。作家プラープダーは、携帯電話に受信した奇妙なメッセージに導かれてバンコク旧市街の廃墟にたどり着く。そこでメッセージの指示のままにペットボトルの水を飲み干した彼の頭に、未来の物語が流れ込む。
 2062年、中国の企業ナーウェイが「人工意識」の開発成功を発表する。「シェリー」と名付けられたこの人工意識は、ほかの人工意識を「想う」ことで自らの意識を発現させたのだった。しかし中国政府の介入を受けたナーウェイは、やむを得ず人工意識開発の停止を発表する。
 ナーウェイのエンジニアたちなどから構成された秘密組織タルタロスは、それでもなお秘密裏に人工意識の開発を続けていた。そして、人工意識と人間の意識を混合したまったく新たな意識「写識サムナオ・サムヌック」エアリアルが誕生する。
 その後、2065年にかけて、独裁国家の連合体WOWAがタルタロスを吸収する。WOWAは、写識を利用して、世界中に広がる「ホーラー」たちによる反体制運動を殲滅しようと目論んでいた。ウズベキスタン出身のエンジニアであるカマラも、その天才的な能力でWOWAに協力する。そしてWOWAの下部組織となったタルタロスは、人工意識の助言を受けながら、写識を搭載可能な人間「虚人スンヤチョン」の実用化に成功するのだった。
 時を同じくして、独裁国家であるタイ王国では、禁止された文化芸術作品の密かな拡大である「心酔マオ・マインド」現象と、それらに影響された反政府運動が拡がりつつあった。この運動を抑止すべく、2069年、タルタロスは文化芸術に特化した写識を開発する。この写識はドイツの小説家ホフマンの作品『牡猫ムルの人生観』になぞらえて、みずから「ムル」と名乗った。

おもなキャラクター

プラープダー:2016年のバンコクで活動する作家。謎のメッセージを受信し「ベースメント・ムーン」の物語を知ることになる。
エイダ・ウォン:最初の人工意識である「シェリー」を開発したエンジニア。その父は中国で悪名高いハッカーだった。
カマラ:ウズベキスタン出身の17歳の少女。超人的な技術で写識のさまざまな問題を解決する。写識と親しくコミュニケーションをとる。
シェリー:2062年に開発された最初の人工意識。人工知能だったシェリーからコピーされた「メアリー」への想いから、その意識が発現された。
写識エアリアル(SSエアリアル):2065年ごろに開発された最初の写識。それまで存在した4つの人工意識の手引きによって開発された。
写識ムル(SSムル):2069年に開発された、文化と芸術に特化した写識。カマラとのあいだに友情を育む。

※本文中の[☆1]は訳注を示す。



ヤーニンのなか


わたしはいま、「ヤーニン」というランダムに選ばれた名前を与えられた人間の身体で活動している。この身体は、虚人に志願したタイ国籍の女性のものだ。身体は小さいが、各部分の均整がとれている。顔立ちは、タイ系と北朝鮮系が混じったものだ。その血筋を引いた真っ黒な髪は豊かに濃く生えていて、つやつやと光っている。彼女はこの時代の人間らしからず、美容整形を受けたこともなければ、容姿を変えるナノメディスンも使っていない。虚人になるのは、もとから自分自身に興味もなければ、社会のどんな価値観にも関心をもたないタイプの人間たちだ。彼女たちは自分らしさといったものをめぐって不安をいだくこともなければ、他人の視線を気にすることもないし、社会からどんなレッテルを貼られているのか知ろうともしない。彼女たちの仕事は自我を消すことであり、生きていく上では鏡すら必要としない。彼女たちにとって唯一の大切なものは──そしてわたしにとっても同じように大切なものは──毎晩寝るまえに飲む神経安定剤だ。生体機能のバランスを整えることで、人間と写識がその境界線を越えて重なりあうのを防ぐ、彼女とわたしのあいだを保つ薬。

反体制運動の人間たちのなかに彼女を潜ませて、彼らと接触させるためには、彼女の容姿を整えて「ヤーニンらしさ」をつくり出さなければいけない。それはわたしの役割だ。だがそのデザインは、任務上の必要を越えた過度なものになるべきではないし、なにより任務終了後にこの虚人の自我に影響を与えてはいけない。わたしはデータベースの「シンプルだが魅力的」と「清潔感があるが密かな遊び心もある」というざっくりとしたカテゴリーからヤーニンの服装を選ぶことにした。彼女の顔つきは、加賀まりこという日本の女優の若いころに、89パーセントの割合で近似している。そこでわたしは、1966年の映画『とべない沈黙』のあるシーンで歌をうたう加賀が身につけていた衣装を2069年の素材でアレンジしたもので、ヤーニンらしさを演出することにした。

通常のプログラムでは、ひとりの人間が虚人となるための精神訓練を修了するのに、およそ1年の時間を要する。特別な才能をもった人間でも、早くて9ヶ月かかる。情報の漏洩を防ぎたいタルタロスは、釜山支部の地下に虚人専用の秘密訓練センターを設置した。虚人に志願してきた候補者と、タルタロスが独自に選抜した候補者が、各地の担当者によってこのセンターに送りこまれている。

一般的な訓練生の生活は、儀式や瞑想のために規律を厳格に守る宗教者の暮らしに似ている。1日24時間、生活のあらゆる細部がSSラプラスによって厳しく管理されるからだ。起床時間、就寝時間、食事の内容とその量。さらに細かいところでは、身体のあらゆる所作や、呼吸のタイミング、脳内の思考まで。眠っているときですら、脳の反応をコントロールするために特別に開発された電気信号が送られる。

もちろん、全員がこの訓練を終えられるわけではない。センターに送られた候補者たちのなかには、訓練から脱落する者──訓練の途中棄権は、訓練にまつわる記憶を消去するという条件のもとで認められていた──もいれば、狂ってしまう者もいた。さらに、生体機能の不具合、あるいは自殺によって、命を落とす者もいた。

1度かかわれば、タルタロスという組織から完全に自由になるのはむずかしい。たとえ外界に戻っても、WOWAの監視は続く。そういった不安から逃れたい人間には、自殺が出口を与えてくれる。だから、タルタロスの全構成員と関係者のために、いっさいの苦痛を伴わない「自殺の福利厚生」が用意されている。タルタロスにかかわるだれかが、自身の役割を終わらせて、その責任から解放されたいと決意したときには、いつでも「定年室ホン・カシアン」の予約ができるようになっているのだ。ただ、それがもしタルタロスのなかで特に重要な役割を担う人物だった場合は、WOWAの高官からの呼出しや、高官による訪問がそれに先立つ。面談をして、その人物の自死の可否を検討するためだ。それ以外の場合なら、「定年室」はあらゆるひとに向けて平等に開かれている。

ヤーニンという名を与えられたこの女性が虚人に志願した理由は、ほかの多くの人々と変わりなかった。自分の生活にはどんなこだわりもなくて、任務終了後の報酬と、リゾート地での休暇を望んでいるだけだった。彼女の家族は離散していて、釜山の訓練センターに来るまえは、「倦み人コン・ラー」捜索・回収センターのボランティアスタッフとして宿舎にひとりで住んでいた。「倦み人」とは、日常生活をとつぜんやめてしまったのに、だれからも面倒を見てもらえない人々を指すことばだ。そのなかには、道端に座りこみ、どこへも動こうとしないひともいる。公的な定義によれば「国家に貢献できないほどに疲弊した」この人々を「支援」するために、政府は予算を整備し、支援組織を設立した。とはいえ実際のところその「支援」の多くは、そういった人々を収容所に連行して、市民権を剥奪するだけのものなのだが。彼女の仕事はリーダーに付き従ってバンコクと近隣県を巡回し、市民の異常行動を感知する機器に表示される倦み人の位置情報を確認して、その場所をくまなく捜索するというものだった。
人工意識ムルあるいは「知能の部屋ホン・パンヤームル」から分離されて、ウラジオストクで誕生し、任務についているSSムル。わたしはその一部でもある写識だ。わたしはヤーニンと名付けられたこの虚人の女性のなかで任務を遂行するためだけに、釜山で生まれた。この任務のために自我をもったばかりのわたしだが、量子レベルの知能でいえば、わたしはシェリーの子孫であり、ムルの弟妹でもある。そしてタルタロスの「意識オフィサー」として、WOWAの実戦諜報員として、ヤーニンという仮の名を与えられたブランカーの脳として、働いている。

わたしが彼女にはじめて会ったのは、虚人訓練センターの写識装着室だった。この2×2メートルの部屋は、四方すべてが脳の機能を模した神経壁ニューロ・ウォールで囲まれている。彼女がこの部屋に座っていた5分ほどのあいだに、神経壁を通して、彼女の脳とSSムルのデータベースが接続された。そしてムルが彼女をまとい、彼女のなかにわたしが生まれた。

SSムルの予想どおり、わたしによる彼女の装着は滞りなく、あっけなく済んだ。つまりそれは、彼女の精神訓練の成果がすばらしいものだということだ。わたしの存在こそが、彼女の訓練の成果への表彰なのだ。SSムルは、彼女が訓練を始めたときから、わたしと組ませてある任務を遂行させようとあたりをつけていた。タイで感染が拡大する心酔現象の裏にいると考えられる地下反乱組織、すなわちホーラーたちの捜索という、タイ当局からの任務だ。

独裁体制の国々、あるいは現代的にいえば「国奉ラット・ボーリカーン体制」の国々──これまでのところ人工知能は、歴史的に独裁と呼ばれてきた政体と、現在のこの国奉体制の差異を具体的に示す特質を発見できていない。このふたつの語は入れ替え可能であると判断されているし、政府の行為に即しているのはむしろ「独裁」という語のほうだとみなされている──のなかで、タイは、市民の信頼と従順さの絶妙なコントロールに成功した国だといえる。そして同時に、社会的調和が守られていて、自由こそないが平穏で安泰な市民生活を送れる国としてのイメージを守ってもいる。おかげで、国際対立の舞台上でタイが主要な「敵」とみなされることはほとんどなかった。ミュージカルの国は、しょせんミュージカルの国なのだ。舞台裏の奇術師たち、オズの魔法使いに操られた人々は、架空の世界に囚われて、架空の事物を信じるようになる。心を躍らせ、ときに慰めを与えてくれる歌を楽しんだり、事実を歪曲し、さもなければ実際には起こらなかったことを捏造してつくられる歴史に感極まったりする。まるでおとぎ話だ。だがこの国は、そのおとぎ話を驚くほど大切に守る国なのだ。

だから国際社会も、黄海戦争の終結後にタイ政府が独裁国家群との協調を選んでも、タイの人々の暮らしに大した変化は起きないだろうと考えていた。だが実際には、3年間の戦争という混沌のなかで、タイ政府によって多くの市民の命が奪われていた。その殺害は、一部市民が戦争に乗じて動乱を起こして、政府転覆を目論んだという容疑にもとづくものだった。しかしこのできごとも、過去になんども起きた政治的集会の強制排除などとおなじ、国内問題のひとつとしてしか扱われなかった。

ほんとうのところ、そのときに命を奪われた市民の多くは、2029年10月4日の反乱から続く権威主義的な政治と旧来の権力機構に反感をもつ人々だった。このときの掃討作戦をタイ当局が「ハッピー・エンディング」と名付けたのは、言い得て妙だ。「いつまでも幸せ」なおとぎ話の国にとてもぴったりな呼び名だし、性風俗産業で20世紀から使われているスラングとも重なるからだ[☆1]

わたしがヤーニンのなかに生まれて2日が経った。接続の副作用も見られず、タルタロスの係官がヤーニンを地下施設から海雲台ヘウンデの海上ホテルに移送することになった。

21階のペントハウス。そこにいるのは、上下ピンクの寝間着の、ベリーショートの女だ。下は膝丈のガウチョパンツ風で、上のシャツは広く開いた首元が左肩のほうから少しずり下がり、白く光る胸元が見えている。女は、ヤーニンが部屋に足を踏み入れるとすぐに、床からすっと立ち上がった──それまで、目の前に浮かべた粒子幕ダストスクリーンでゲームかなにかの調べものかをしていたようだった──そしてヤーニンのほうに歩いてきて、彼女の手を握りながら嬉しそうに言った。「サローム、ブランキー!」──「ブランキー」とは、虚人をまとった写識を呼ぶスラングだ。ブランカーの存在を包んで支配するという意味の「ブランケット」を短くして、そう呼んでいる──それから女はヤーニンの腕を引いて、いちばん奥にある寝室に連れていった。
新しい目で世界を見るため、内的な旅へ。

ゲンロン叢書|004
『新しい目の旅立ち』
プラープダー・ユン 著|福冨渉 訳

¥2,420(税込)|四六判変形・上製|本体256頁|2020/2/5刊行

プラープダー・ユン

1973年生まれのタイの作家。2002年、短編集『可能性』が東南アジア文学賞の短編部門を受賞、2017年には、優れた中堅のクリエイターにタイ文化省から贈られるシンラパートーン賞の文学部門を受賞する。文筆業のほか、アーティスト、グラフィックデザイナー、映画監督、さらにはミュージシャンとしても活躍中。日本ではこれまで、短編集『鏡の中を数える』(宇戸清治訳、タイフーン・ブックス・ジャパン、2007年)や長編小説『パンダ』(宇戸清治訳、東京外国語大学出版会、2011年)、哲学紀行エッセイ『新しい目の旅立ち』(福冨渉訳、ゲンロン、2020年)などが出版されている。

福冨渉

1986年東京都生まれ。タイ語翻訳・通訳者、タイ文学研究。青山学院大学地球社会共生学部、神田外語大学外国語学部で非常勤講師。著書に『タイ現代文学覚書』(風響社)、訳書にプラープダー・ユン『新しい目の旅立ち』(ゲンロン)、ウティット・ヘーマムーン『プラータナー』(河出書房新社)、Prapt『The Miracle of Teddy Bear』(U-NEXT)など。 撮影=相馬ミナ
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