革命と住宅(4)第2章 コムナルカ──社会主義住宅のリアル(中)|本田晃子

初出:2021年5月21日刊行『ゲンロンβ61』

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3 相互監視の空間

 硬軟さまざまな方法によって推進された住宅の「圧縮」政策だが、少なくとも都市部の住宅不足を解消するには焼け石に水だった。革命後の内戦期間中こそ、食糧難や水道などのインフラの停止によって都市から脱出する人びとが増えたものの、ソ連全体の都市人口は1926年までの間に2000万から2600万へと上昇した[★1]。それに反比例して、1923年時には6.4平方メートルだった住人あたりの居住面積は、1926年には5.8平方メートルまで下落し、労働者階級に限ってみると4.8平方メートルにまで減少している[★2]。新経済政策(ネップ)期には、このような住宅難の解消や、国有化した住宅の管理負担を軽減するために、都市の不動産に対しても市場原理が導入された。これによって一部の住宅の私的所有の許可や、接収された住宅の元の持ち主への返還、不動産の売買や賃貸契約の部分的な自由化などが実施された。

 しかしネップの終焉とともに不動産の自由な取引は再び禁じられ、住宅に対する管理の再強化がはじまった。党は住宅不足への対策として、1927年には「自己圧縮 самоуплотнение」政策を導入する。それまでの「圧縮」政策は、部屋数に余裕のある住宅から余剰分の部屋を拠出させるというものだったが、「自己圧縮」は一人あたりの最低居住面積(9平方メートル)以上の部屋に住んでいる住人に、他人を同居させるというものだった。住宅管理委員は担当地域内の「自己圧縮」できそうな住人を探しだし、余剰スペースの拠出を強要した。もし住人が抵抗するようであれば、当局に通報することもあった。こうして一室内に赤の他人同士が同居する状況が生まれたのである。

 同時に住宅と労働の紐づけも強化された。1929年には年金受給者など労働に従事していない人びとに対して、国有化された住宅からの強制立ち退きが開始された。相手が歩行すら困難な老人であろうと、容赦はなかった。1932年には、仕事を不当欠勤した者など、勤務態度不良者に対する住宅からの追放も開始された[★3]。勤務上の過失や失職は、住む場所を失うことに直結するようになったのである。しかも住宅の支給は原則的に男性世帯主を基軸にしていたため、たとえば夫が職を失うと、その妻や子どもたちまで住まいからの退去を迫られた(たとえ妻がフルタイムで働いていても、既婚女性には住宅はめったに支給されなかった)。

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1979年岡山県岡山市生まれ。1998年、早稲田大学教育学部へ入学。2002年、東京大学大学院総合文化研究科超域文化科学表象文化論分野へ進学。2011年、同博士課程において博士号取得。日本学術振興会特別研究員、北海道大学スラブ・ユーラシア研究センター非常勤研究員、日露青年交流センター若手研究者等フェローシップなどを経て、現在は岡山大学文学部准教授。著書に『天体建築論 レオニドフとソ連邦の紙上建築時代』(東京大学出版会)。

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