【『ゲンロン12』先行掲載】訂正可能性の哲学、あるいは新しい公共性について(部分)|東浩紀

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初出:2021年8月30日刊行『ゲンロンβ64』
『ゲンロン』の最新刊『ゲンロン12』が、9月17日に刊行されます。
 東浩紀による巻頭論文は『観光客の哲学』の新章にあたる書き下ろし。プラトン、ポパー、トッド、ウィトゲンシュタイン、クリプキ、アーレント、ローティなど、数多くの思想を参照しつつ、「観光客」と「家族」の関係を考えます。リベラルと保守の対立によって硬直した政治を、どうすれば解すことができるのか。その糸口を探る論考です。
 以下に同論考の冒頭部分を先行掲載します。本誌発売をお待ちください。(編集部)
 
 ぼくは2017年に『観光客の哲学』と題する本を出版した。幸いなことに好評で迎えられ、賞もいただいた。

 けれども同書には大きな欠落がある。「観光客の哲学」と題する第1部と「家族の哲学」と題する第2部が接続されておらず、観光客について考えることと家族について考えることがどう関係するのか、きちんと説明できていないのだ。

 同書の中核となる問題意識は、政治はいま友と敵の観念的な対立に陥っており、その対立を抜け出す必要があるというものである。ぼくは、脱出のためには「観光客的な連帯」について思想的に検討することが必要で、そのモデルは「家族」に求められると議論を展開した。したがって、著者みずから記すのも申しわけないのだが、観光客の話と家族の話がつながらないのは致命的な欠陥だといえる。両者のつながりが示されないのでは、あの本の議論は完結しない。

 そしてじっさい、その欠陥のせいで同書は少なからぬ読者に困惑を与えてしまったように思う。そもそも「観光客」と「家族」は、日常的にはかなり語感に隔たりがある言葉である。

 観光客という言葉には、信念もなければ方針もなく、好奇心に導かれるままあちこちに顔を出す無責任な消費者という印象がある。ぼくは『観光客の哲学』では、その印象を肯定するかたちで議論を組み立てた。観光客は無責任でふらふらしている。だからこそ、友にも敵にも分類できない存在として新しい政治的思考の出発点になりうる。

 それに対して、家族という言葉のもつ印象はまったく異なる。ひとは特定の家族に生まれ落ちる。家族をころころと変えることはできないし、成人になり新しい家族を迎えれば責任も生じる。

 いいかえれば、家族という言葉には、観光客とは対照的に、むしろ友と敵の分割を強化する機能がある。目のまえで多くのひとが苦しんでいる。だれを助けてだれを助けないか。その選択が迫られるとき、ひとはしばしば家族の比喩を使う。家族は助ける、けれども家族以外は助けないといういいかたをする。じっさい近代国家は、みずからを家族に喩えることで、移民や難民の排除を正当化してきた。家族的な思考は、むしろ観光客的な思考の対極に位置するものではないのか。

 この疑念はもっともである。しかし、だとすれば、観光客と家族をつなぐ議論はますます重要なものとなるはずだ。ぼくはこの4年、それを欠いたまま同書を出版したことに対して、ひそかに後悔を感じ続けてきた。

 



 それゆえ、欠落を埋める論考を書くことにした。以下に掲載するのは、そのために書かれた8万字ほどの長い原稿である。この原稿は、もうひとつこれから書き下ろす論文とともに、2022年前半に出版される『観光客の哲学』増補版の第3部(新しい部)に収められる。『観光客の哲学』では章番号は部の区別にかかわらず連番なので、この論文は第8章となる。

 なぜそれが『ゲンロン』に掲載されているのか。訝しむ読者もいるかもしれない。ぼくは本誌には、前号まで2号続けて「悪の愚かさについて」と題する論考を寄せていた。今号にもその続きが掲載されるはずだった。

 予定が変わったのは、ひとことでいえばコロナ禍のせいである。ぼくは「悪の愚かさについて」では哲学と紀行の融合を試みていた。哲学の言葉はどうしても抽象的で身体性に欠ける。それを特定の場所の経験とつなぐことで、社会や歴史を扱う新しい語りを生み出せないか。それが出発点にある問題意識だった。じっさい第1回ではハルビンと旧満洲への旅、第2回ではチェルノブイリへの旅が要になっており、第3回でもなんらかの旅が原稿の中心になるはずだった。けれどもパンデミックが勃発し、国外への旅はほぼ不可能になり、国内の旅にも強い制限がかかることになってしまった。これでは続きを書くことができない。そこでべつの原稿を発表することにしたわけである。

 とはいえそれだけでもない。『観光客の哲学』の増補部分を掲載することにしたのは、コロナ禍のもと、同書の問題提起が、出版時の想定を超えてあらためて重要なものになったと考えたからでもある。

 



 さきほど記したとおり、『観光客の哲学』では「観光客」と「家族」が鍵概念になっている。4年前の時点では、それらはけっして流行のテーマではなかった。観光客の急増はビジネス面でこそ注目されていたが、社会のありかたを捉えるうえで重要な現象だとは考えられていなかった。家族の役割に注目すべきだという主張も──少なくともリベラルのあいだでは──時代錯誤なものだと思われていた。

 ところがこの1年半で、ふたつの言葉をとりまく環境は劇的に変わってしまった。コロナ禍以前は観光客は歓迎されていた。日本政府は、2020年に年間4000万人、2030年には年間6000万人の外国人観光客の受け入れを目標としていた。日本だけでなく世界中が観光産業の成長に期待を懸けていた。それがいまや観光客は、感染を広げ市民の安全を脅かす存在として、世界中で警戒される対象になっている。感染そのものは遠からず収束するだろうが、それでも、国境を越えた観光客の移動がかつてのように自由で気軽なものになるのは最後の最後だろう。観光客への視線はまったく別ものになってしまった。

 他方で家族への視線も大きく変わった。コロナ禍以前は、家族や家といった言葉は、リベラルの知識人にとってあまり肯定的なものではなかった。彼らは、教育にしろ介護にしろ、その負担をできるだけ家庭から公共へ移すことが重要だと考えていた。
 ところが突然、世界中で、ひとはみなできるだけ「家」「ホーム」に閉じこもるべきであり、教育も介護も自宅で行うべきであり、仕事はテレワークで済ませ、身体的な接触は同居家族とのあいだにかぎるべきだという主張がおおっぴらに行われるようになった。それでは教育や介護の質の平等は保てないし、同居家族がいないひとは孤独を強いられることになる。ところがそれに対して、少なくとも日本では、2020年のあいだほとんど異議が唱えられなかった(2021年になると多少反発も見られるようになった)。「ステイホーム」や「おうちごはん」はいまやすっかり日常の語彙に入り込んでいる。けれども「ホーム」にしろ「おうち」にしろ、排除的で差別的な含意をもちうる言葉であり、リベラルはそのことを強く警戒していたはずである。それがこれほど手放しで肯定される状況を、コロナ禍のまえだれが想像することができただろう。

 パンデミックの初期には留学生や外国人労働者の帰国も相次いだ。ぼくたちはいま、どこが家なのか、だれが家族なのか、どこが祖国(ホームランド)なのか、たえず意識して行動を決定しなければならない状況に放り投げられている。

 その変化のなか、「観光客」と「家族」は、ともにこれからの社会の性格を考えるうえでいっそうアクチュアルな概念に生まれ変わったように思われる。人々はいま、観光客的な開放性を排除し、家族的な閉鎖性を信じることで「感染症に強い」新たな社会を構築しようと試みている。けれどもそんなことがほんとうに可能だろうか。開放性と閉鎖性、「観光客的なもの」と「家族的なもの」は、それほどはっきり対立するものなのだろうか。いいかえれば、そもそも家族は閉じられているものなのだろうか。開かれているものは危険で、閉じられているものは安心といった二分法が、どこまで維持できるだろうか。

 ぼくは感染症の専門家ではない。だからコロナ対策の妥当性を論じることはできない(SNSではいろいろ書いているけれど)。けれども、それこそ専門家として、援用される概念の分析を行うことはできる。本稿ではコロナ禍が主題的に扱われるわけではない。けれども以上の時代的な背景のうえで書かれたものであることを、念頭に置いて読んでくれると嬉しく思う。

 



 本稿は独立した論考である。『観光客の哲学』の欠落を補うのが目的ではあるが、議論のおおすじは同書を未読の読者でも追うことができるように配慮している。

 とはいえ同時に、本稿は同書増補版への収録を前提とした文章でもある。理解がむずかしいところや説明が不十分なところは残ってしまっているかもしれない。読者の寛容を乞いたい。

A 家族的なものとその敵 プラトン、ポパー、トッド





 ぼくはさきほど、家族の役割はコロナ禍のまえには肯定的に捉えられていなかったと記した。そこで思い浮かべていたのは、たとえば、現代日本のリベラルを代表する社会学者、上野千鶴子の「おひとりさま」肯定論である。

 上野は2000年代の半ば、日本の既婚女性は夫や子どもにあまりにも束縛されているので、老後は離婚し独居老人=「おひとりさま」として公的なサービスに頼るほうが幸せになるし、行政もむしろその生きかたを支援すべきだと問題提起し、大きなセンセーションを巻き起こした★1。家族に過剰に頼ることは、ひとの自由を奪うし、社会の改善も阻むと彼女は考えた。家族という小さな単位への執着は、大きな公共の実現にとってはむしろ障害になるというわけだ。この主張そのものには説得力がある。

 ところで、家族と公共を対立させるこの発想はけっして彼女固有のものでも、また現代日本のリベラルに固有のものでもない。それはむしろ、リベラル、というよりもさらに広く、ある種の知的伝統において繰り返されてきたもののように思われる。たとえば本誌の姉妹誌である『ゲンロンβ』には、半年ほどまえから本田晃子の「革命と住宅」という論考が掲載されている。ソ連時代の住宅建築を扱ったものだ。
 本田の論考によれば、革命後のソ連では、労働者を家庭から解き放ち、家事や育児などを公的なサービスに置き換えるため、住居の設計が根本的に見直されていた。同論考は、1925年にモスクワで行われたある集合住宅の設計コンペを例に挙げている。そこでは、共同食堂や共同浴室、保育園やリクリエーション・ルームなどの整備が要件に入っていた一方、ひとりあたりの居住面積を6平方メートルにまで切り詰めることが求められていたという。それらの条件からみえてくるのは、発注者が「住民は睡眠以外の時間は基本的に共有スペースで過ごすものと想定」していたことである★2。革命後のソ連においては、いまふうにいえば、「ステイホーム」とはまったく逆の、なるべくホームにいない生活様式が推奨されていたわけだ。それは上野が推奨する「おひとりさま」にまっすぐ通じている。

 本田の連載は「革命は『家』を否定する」という一文で始まっている。よく知られているように、共産主義は私的所有を否定する。家族は私的所有の場そのものである。共産主義国家が個人と公共を家族の媒介なく直結しようと試みたことは、いわば論理的な必然だった。

 本田はその直結の理想の起源を、19世紀に活躍した社会主義者、ニコライ・チェルヌイシェフスキーが記した『何をなすべきか』という長編小説に求めている。同書は、ひとことでいえば、若い女性が一念発起して裁縫工場の経営に乗り出す小説である。そこでは、労働者が共同で工場を管理し共同で生活するさまがたいへん理想的に描かれ、主人公が伝統的な結婚観や家庭観に疑いを抱くさまも記されている。それゆえフェミニズムの歴史においても注目されることがある。

 この小説は革命前のロシアで広く読まれ、レーニンをはじめ多くの活動家に影響を与えた。レーニンには同じタイトルの著作まである。同書が革命後の住宅設計に大きな影響を与えているのは、本田が指摘するとおりだろう。同書が描く社会主義的で楽観的な人間像はドストエフスキーの仮想敵のひとつでもあり、その緊張関係は『観光客の哲学』の第7章でも取りあげている。ドストエフスキーは、現在の分類でいえば、リベラルに批判的な「保守」の側の作家だった。

 



 とはいえ、このような家族の否定の起源は、近代の社会主義や共産主義よりもはるか遠くにまで遡ることができる。哲学史的には、それはプラトンに求められる。(『ゲンロン12』へ続く)
 

★1 上野千鶴子『おひとりさまの老後』、法研、2007年。
★2 本田晃子「革命と住宅」第1回、『ゲンロンβ57』、2021年。
 
 
正義は、開かれていることにではなく、つねに訂正可能なことのなかにある。

『ゲンロン12』
飯田泰之/石戸諭/イ・アレックス・テックァン/井上智洋/海猫沢めろん/宇野重規/大森望/小川さやか/鹿島茂/楠木建/桜井英治/鈴木忠志/高山羽根子/竹内万里子/辻田真佐憲/榛見あきる/ウティット・ヘーマムーン/ユク・ホ/松山洋平/山森みか/柳美里/東浩紀/上田洋子/福冨渉
東浩紀 編

¥2,860(税込)|A5判・並製|本体492頁|2021/9/17刊行

 
目次
[対談]観光客の民主主義は可能か 宇野重規+東浩紀
[巻頭論文]訂正可能性の哲学、あるいは新しい公共性について 東浩紀
試し読み(3)
試し読み(4)近日公開予定
[特別掲載]ステイホーム中の家出 2 前篇 柳美里
特集 「無料とはなにか」
[論考]無料についての断章 楠木建
[論考]無料はパリから始まった 1836年の広告革命 鹿島茂
[論考]贈与の境界、境界の贈与 桜井英治
[座談会]無料は世界をよくするのか 飯田泰之+井上智洋+東浩紀
[論考]フリーと多様性は共存するか 飯田泰之
[論考]無料フリーではなく自由フリーを 反緊縮加速主義とはなにか 井上智洋試し読み(外部サイト)
[論考]反自動化経済論 無料はユートピアをつくらない 小川さやか
[特別掲載]ショベルカーとギリシア 鈴木忠志 聞き手=東浩紀+上田洋子
[随想]所有を夢みて ウティット・へーマムーン 訳=福冨渉
[論考]死の記憶と忘却 タイ現代文学ノート特別篇 福冨渉
ゲンロンの目
「ステイホーム」試論 記録された現実から見えること 石戸諭
環八のドン・キホーテと都市生活者の受難 高山羽根子
逃げる写真 竹内万里子
[論考]理論と冷戦 第3回 ハイデガー、フーコー、イラン革命 イ・アレックス・テックァン 訳=鍵谷怜
[論考]芸術と宇宙技芸 第3回 山水画の論理にむけて ユク・ホイ 訳=伊勢康平
[創作]虹霓こうげいのかたがわ 第4回ゲンロンSF新人賞受賞作 榛見あきる 解題=大森望
[創作]ディスクロニアの鳩時計 午後の部XI 海猫沢めろん
コラム
イスラエルの日常、ときどき非日常 #1 現代イスラエル人とは誰か 山森みか
国威発揚の回顧と展望 #3 「主義」から遠く離れて 辻田真佐憲
イスラームななめ読み #5 ノックの作法と秘する文化 松山洋平
ロシア語で旅する世界 #11 アート・アクティヴィズムとポスト・ソ連のロシア社会 上田洋子
 

東浩紀

1971年東京生まれ。批評家・作家。東京大学大学院博士課程修了。博士(学術)。株式会社ゲンロン創業者。著書に『存在論的、郵便的』(第21回サントリー学芸賞)、『動物化するポストモダン』、『クォンタム・ファミリーズ』(第23回三島由紀夫賞)、『一般意志2.0』、『弱いつながり』(紀伊國屋じんぶん大賞2015)、『観光客の哲学』(第71回毎日出版文化賞)、『ゲンロン戦記』、『訂正可能性の哲学』、『訂正する力』など。
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