賭博:夢:未来(1)懐疑と夢とを両立したい|市川真人

初出:2012年2月20日刊行『ゲンロンエトセトラ #1』

 しばしば「勝負ごと」と呼ばれるように、博打と切っても切れぬのが「勝ち負け」という概念だ。その醍醐味が勝ちの恍惚にあるか負けの哀切にあるかはさておき、勝ち負けなしに博打は成立しない。言い換えれば「勝ち負け」のあるところにはすべて博打が存在しうる。次にすれ違うのが男か女か、ニュートリノが光の速度を超えるか否か、学校から家までの道のりを白線だけ踏んで帰れるかどうか……いつでもどこでも誰とでも、博打は始まることができる。

 というわけで、日々是好日ならぬ「日々是博打」をテーマに博打の対象を広げるべく、新タイトルでの第一回。日常のなかに博打を見つけ、博打に哲学を感じとり、さらには日本と世界の未来に賭けてみるのがコンセプトである。そこに勝ち目(という言葉自体が、サイコロ博打の「出目」に由来する博打用語なのだけれども)があるのかないのか、ドルもユーロも華厳の滝のように落下し景気が上向く気配もないのに円相場だけが上昇して、社会と文化と経済と、それぞれの構造が変わりつつある私たちの明日は、丁半どっちだ?

 

 そんな2012年を迎える年末年始の数日を韓国・ソウルで過ごしたのだが、元旦に名実共に新年の訪れる日本と違い、中国や韓国などのアジア圏では今なお旧正月のほうが主流だという。そのぶん小規模な西暦の正月はどこかまだクリスマスと地続きでもあるらしく、リースと松飾りが一体化したような装飾品がそこかしこに目に入る。一週間ほど前の日本がそうであったようにカップルや家族連れの姿が目立つ街中で、ふと気づいたのは、そんな彼ら彼女らが掌でもてあそぶ端末のほとんどが、スマートフォンに思われることなのだった。

 ソウルいちばんの繁華街だというミョンドンのカフェでは、ほとんどのひとがタッチパネルの薄型端末を手にしている。二つ折りやスライド式の「携帯電話」を持つひとも一部いるけれど、そちらに耳を澄ませて聞こえるのは大抵が日本語だったりするのだから、ファッションや装飾品では十年二十年前と比べてはるかに難しくなったふたつの国のひとたちの判別も手にした電話で可能ではないか――そう思えてしまうほど、くっきりとした違いがあるのだった。

 使っている方にはとうにおわかりのとおり、「携帯電話」と「スマホ」は似て非なるものだ。ここ四半世紀における構造上最大の変化のひとつは情報ネットワークと無線化によって私たち個々人が端末化したことだが、なかで携帯電話は、初期のPHSが家庭電話の子機を持ち出す技術だったことに象徴されるとおり、概念的には「固定電話を持ち運び可能にしたもの」だと言える。その登場はむろん画期的だったにせよ、あくまで従来の「電話」メディアの延長線上から生まれたものであって、そこにブラウジングやカメラやワンセグといった通話以外の機能がひとつずつ付加されてきた、いわば「足し算」の端末なのだ。

 対してスマホは「掛け算」の端末である。そこにあるのは電話ではなく、音声も文字も画像も一元化して扱うOSと、その上で動くアプリケーションだ。同一のフォーマット上で複数の機能が連動し連鎖し乗算されることで、新しい機能と組み合わせが抽出される、ある種の「生き物」だと言ってもいい(当面の成功不成功はともかくAppleがiPhone 4Sに搭載したSiriが象徴的だ)。スマホにとって「通話」は無数の機能の一部に過ぎず、極端な話、通話機能が「×0」されてはるか後景に退くことも想像できぬ未来ではない(事実、私たちがスマホに触れる総時間のうち、通話の割合がどれほどあるだろう)。

 足し算の端末と掛け算の端末、どちらに未来があるかは、言うまでもない。愛国心や愛校心といった、自分(の一部や一時期)が帰属するコミュニティへの愛着も、別のコミュニティへの憧れも反発も基本的には感じないぼくだけれども、上記の光景を目にしたときは、なんとも言えず悲しくなった。

 その印象がより強まったのは、翌晩、医療の現場でいかにタブレット端末が有効でありうるかをわずか数秒で伝えようとするSamsung GalaxyのテレビCMを見たときだった。韓国では1990年代から国策で電子情報化が進められ、医療分野でも電子カルテや医療用画像蓄積通信システムが普及しつつあるという。けれども日本の私たちの一般的な日常に紙のカルテやMRIの画像管理が無縁なように、韓国においても電子カルテは視聴者やGalaxyの現在あるいは将来のユーザーの大半に、直接は無関係なものでしかない。にもかかわらずその映像には、単に端末や医療の技術的な可能性にとどまらず、彼らが抱く「未来」全般のイメージと、それが現実となる確信(あるいはその決意)が埋め込まれていて、韓国語などまるで聞き取れぬぼくにも強く伝わってくるのだった。

 対して日本のテレビが流すスマホやタブレット端末のCMは「テレビが見られる」「写真が撮れる」「ゲームができる」と語る。それら「あなたが今していることが、より便利にできますよ」的イメージの、なんと退屈なことだろう。手堅い「現在」や局所的近未来はあっても、そこには社会全体に及ぶ「未来」も「夢」も存在しない。ならば「ガラケーで十分」と思われて当然だ。

 ことは韓国という一隣国との比較でもなければ、たんに携帯端末ひとつの問題にも止まらない。ぼくの主な守備範囲である文学ひとつとっても、去年一年かけて日本と海外の小説数十作を読み比べてみると、前者には端的に「夢」が欠けている。ジャンルを区切って言うならば、それ自体が夢の物語であるSFやファンタジーが一定の興味を誘うのは土地と時代を問わず自明の理だとして(夢と現実との乖離の大きさが一定以上に支持の広がりづらい原因かもしれないが、コミックやアニメーションに目を向ければ、その「画」の現実感が乖離を一定程度埋めてもいる)、他方で昨今の人気ジャンルとされるミステリーは、ヒガシノでもヒガシガワでもミチオでもマホカルでも「言葉でこんなトリックが可能なのか」という驚きを見せることは稀だ。まして「純」文学とされる作品たちの多くの、なんとも繊細で、そうであるがゆえに狭隘なことか。
 その繊細さが可能にする言語と脳の直結や、現実を哲学に還元する可能性をぼくはあくまで愛するし、そこに文学の本質のひとつがあると個人的には信じはする。けれども単に物語だけを追うなら、非モテ凶相の私小説作家が一躍スターダムにのしあがり、映画化されてイケメン俳優の主演ばかりか人気アイドル起用のために原作にない役まで作られる……という荒唐無稽な実話の方が、(作品自体の夢のなさとは無関係に)よほど夢があるように見えるだろう。

 むろん、誰もが夢だけを語ればいいというものではない。明治以降のこの国が凝縮された期間に「近代」に漸近しえたのは、文明開化や高度成長の抽象的な夢と目の前の現実との距離を悟性的な分析判断が埋めてきた結果でもあるのだし、そうした営みを欠いたまま、それ自体の曖昧さが映し出すことを可能にする子供じみた「夢」は、しばしば無知や無自覚と紙一重でもあるだろう。

 しかしそれでも、いや、だからこそ言論=批評は夢を語るべきなのだ。かつて小林秀雄は「批評とはついに己れの夢を懐疑的に語ることではないのか」と言った。懐疑と夢という一見相反する二項を携えることは、創造的な批評と批評的な創作の義務であり、本質的に懐疑とともにある彼らにのみ可能なことである。なにしろ前述の電子カルテも、実は日本の技術で作られているのだから、足りないのは夢を語ってみせる言葉であり、それを納得させるに足る懐疑に違いない。ならばそこに賭けるのは、決して分の悪い勝負でもないだろう?

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1971年生まれ。文芸評論家。早稲田大学文学学術院准教授。著書に『芥川賞はなぜ村上春樹に与えられなかったか』(幻冬舎新書)、『現代日本の批評 1975-2001』『現代日本の批評 2001-2016』(共著、講談社)など。

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