父親が語る「子育て」──『おおかみこどもの雨と雪』から考える「アニメ」「子育て」「孤独」|細田守+東浩紀

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初出:2013年05月31日刊行『ゲンロンエトセトラ #8』

東浩紀 ゲンロンカフェにようこそ。今日はアニメ監督の細田守さんにお越しいただきました。細田さんとは先月、『おおかみこども』の広告記事のために対談を収録する機会★1がありました。そこでは作品だけではなく、子育ての話も盛り上がったんです。そこで意気投合したこともあり、今度は作品よりも子育てに焦点を当てて、同じ父親の立場の人間としてじっくりとお話ししようということで今回のイベントが実現しました。というわけで、普通のアニメイベントとは異なる話がでてくるかと思います。客席にはカップルの方も何組かいらっしゃって、心なしか普段のカフェとは雰囲気も違いますね。今日はよろしくお願いします。

細田守 よろしくお願いします。

子育ては偶然に左右される


 さっそく本題というか、子どもの話に入ろうと思います。最近実感しているのは、とにかくどんどん時間が過ぎていくということです。うちの娘がまだ小さいときに、小学生の子どもを持つひとから「小学校に入ったら成長が早いよ」と言われたんだけれど、そのときは言葉の意味がわからなかった。で、いま娘は7歳なんだけど、たしかにすごく早くなっている。

細田 うちの子にしても、4ヶ月から5ヶ月になるまでの1ヶ月だけでも「前に比べてすごく早かったな」と思ってますからね。いま、ちょうど離乳食を食べ始めたところなんですけど、子どもって予告なしに変わっていくんですよ。たとえば3ヶ月までは「泣くか寝るか」しかなかったのが、そこから急になんの「ウニャー」とか「ウワー」とかいう言葉を出しはじめて。その変化も気づかない間に起こる。離乳食も予定通りのタイミングで始めたんだけど、離乳食が始まる前からウンコがもう臭くなってきて。体のなかでそういう準備が始まるんですよね。そうやって次々に変化していくので、その変化に気持ちが追いついていくだろうか、ということはすでに思っています。

 保育園や幼稚園の子がすごく大きく見えるでしょう?

細田 そうそう。「すごく立派だな!」って思う。

 ぼくも子どもが1歳のときに3歳くらいの子を見て、「なんて立派なんだ! こんなでかい奴がこの世界にいるのか!?」くらいに感じた(笑)。「もう小学生になったら大人と同じだろ! 犯罪を犯したら罰するべきじゃないか?」と思ったくらいです(笑)。

細田 それに、明らかに年下のはずの親御さんでも、大きな子を育てていると年上に見えてきますね。すごい先達なわけじゃないですか。だから尊敬の眼差しで見てしまうんですよね。

 子どもを保育園に入れると、保母さんの若さに衝撃を受けます。「えっ、20歳!?」みたいな。ぼくは大学で教えていたので、同じ年代の女の子がいかに頼りないかよく知っている。だから「20歳の女の子が子どもの面倒を見るなんて大丈夫か?」と思うんだけど、これがけっこう大丈夫なんですよね。みんな一回、保育園の先生になったほうがいい(笑)。みんな若いのにすごくしっかりしている。

細田 うちはまだ幼稚園や保育所に入れるかどうか、微妙なところですね。住んでいる市が、待機児童があまりにも多くて、申し込んでもいつ順番が回ってくるのかわからない。東さんのところはすっと入れたんですか?

 ぼくの娘は2歳児保育から入りました。2歳児保育でも倍率は高かったんですが、うちは幸運なことに近くの保育園に急遽欠員が出たんですね。しかも、その保育園は改修前の木造園舎で、最寄り駅やバス停から遠く、当時はあまり人気がなかった。だからすんなりと入れたんです。ところが、これが結果的にはとてもよい保育園だったんですね。大きな公園に隣接していて、たしかに駅からは遠いんだけれど環境はすごくいい。データ上は園庭の面積も狭いのだけれど、公園のグラウンドが使えるので広々としていました。

細田 なるほど。データだけで見ると環境がよくないけれど……というわけですね。

 そうです。実は子育てをしているとそういうことがたくさんある。ネットでデータを見較べて、それだけで最適なところを選ぶのは難しい。たとえば、保育園の園長先生がどういうひとなのかはとても重要な情報ですが、数値化できないからネットでは調べられない。なにもかもが個別の判断で、かなり偶然に左右される。保育園の選択に限らず、子どもができてからそういう偶然の出会いに左右されることが多くなったと感じますね。

細田 そもそも子ども自身が一人ひとり違うし、親の子育てに対する態度や経済的な状況もみんな違う。そこで保育園や幼稚園が一律に同じようなサービスを提供してたら、かえって個別のニーズに応えられないですよね。だからこそ、認可保育園にもいろんなところがあるというのは合理的なんでしょうね。ニーズに合うかどうかは、実際に行ってみなければわからないわけですけれど。

子どもはアナログな世界に生きている


 ぼくたちはネット世代と言われます。細田さんも初期作品から、インターネット的な集合知を重要なモチーフとして取り上げていました。そういうことを知っているいままでの細田ファンから見ると、『おおかみこども』は「ネットがまったく登場しない」点で驚くかもしれませんね。
細田 真逆のことをやってますからね。

 ぼくもネット支持派の人間ではあるのですが、子育ての過程で、数値化されにくく、ネットでは集められない情報がたくさんあることにあらためて気づかされました。いまの保育園の情報はその一例です。

 あと、子どもを保育園に通わせて衝撃を受けたのは、子どもたちがいまでもみんな手で工作をしていることです。当たり前のことなんですが、彼らは携帯やタブレット端末を使うわけではない。でも、ぼくたちは意外とそのことを忘れている。卒園時に園児一人ひとりにわたされるメッセージにも、プリントアウトされた写真が貼り付けられていて、そこに先生から「この遠足ではこうだったね」などと手書きで書かれているんですね。これには素朴に感動しました。保護者にメールが送られてきて、「卒園ファイルは次のリンクからダウンロードしてください」などと言っても、子どもは絶対に見てくれない(笑)。モノとして渡されるからこそ、初めて彼らに届く。

細田 そうです、そうです。

 だから、そういう意味でもデジタル化できない。デジタル化すると効果が失われる部分はかなりあると思います。

細田 それは、ぼくもいますごく興味を持っていることです。うちの映画のプロデューサーのひとりに、7歳の子どもがいます。子どもは携帯を持っていないので、お父さんやお母さんとは直接話をするし、手紙を書くこともある。園や学校には徒歩で通う。ここにはぼくらが携帯やパソコンで済ませていることを、この現代においても置き換えないで暮らしているひとがいて、それが子どもなんですよね。小さい子どもたちが、そういう、かつてぼくらが手放したようなアナログの世界で暮らしているというのはすごくおもしろい。『おおかみこども』で花が携帯持っていないことに対して、「いまどきそんな女いないよ」と批判を受けたのですが、そういうひとはいくらでもいるし、別にそれでもかまわない。とくに子どもはそうで、そのなかからなにが見えてくるのかは重要なことだと思います。

子どもを持つということは、弱者とともに暮らすこと


 おっしゃる通りです。これはしばしば言っていることなんですが、子どもを持つということは、高齢者や障害者のような「弱者」といっしょに暮らすのと似た経験です。たとえばベビーカーと車椅子は稼働範囲が似ている。したがって必然的に、子どもをもつ親はバリアフリーにも敏感にならざるをえない。これは一例ですが、ぼくが「子どもを持って良かったな」と思うのは、抽象化していうと「家庭のなかに弱者が入ってくる経験ができた」からなんです。親が要介護になったり、配偶者や子どもが事故で障害者になったりするひとはたくさんいますが、子どもを持つひとはそれよりも多い。子育ては「社会的弱者と暮らす」ことのとても一般化された形態で、これはできるだけ多くのひとが体験すべきだと思う。もちろん子どもの場合、その時間は一瞬です。うちの娘みたいに7歳になってしまえば、ベビーカーは使わないし、歩く速度もあまり変わらない。でも最初の数年は社会の見方が変わる。

細田 ぼくらがそれまで見ていた世界と、ベビーカーを連れて見る世界は、全然違いますからね。高架がある駅には2階に昇るエレベーターがありますけど、普通に過ごしていたらほとんど使いませんよね。だけどベビーカーがあると、「エレベーターがないと困る」ということになる。エスカレーターでは絶対に登っちゃいけないし、階段を使うときはもう大変で、ベビーカーを閉じて小さくして、それをたすきがけして持って歩いて行かないといけない。階段を1階から2階まで登るだけでも、とても長いプロセスがある。

 それまでまったく気づかなかったのに、あ、ここには3段段差があるなとか。

細田 そうそう!

 3段の段差なんて、普段歩いているときは全然気にならない。でもベビーカーを押しているとその3段が本当に牙を向いてくる。ベビーカーだけだったらまだいいんですけど、買い物をしているとベビーカーにいろいろ荷物がくっついてるんですよね。

細田 ベビーカーを閉じるために荷物を全部降ろさなきゃいけない。

 ふたりいればなんとかなるんだけど、ひとりの場合は、荷物を下ろして、抱きかかえて、荷物を運んで、もう一回乗せて、シートベルトを締めて、また荷物を……もういやだ! みたいな(笑)。

細田 (爆笑)。

 冗談ではなく、そうなるんですよね。そしてここで大事なのは、これって実は、子育てだけの問題ではなく、社会で様々な障害を抱えている方が日々経験していることだということ。それが見えるのと見えないのとでは社会の見えかたが全然違うので、そういう意味でも子育てはいい経験なのではないか。

細田 「大変なプロセスを経ないと階段ひとつ登れないんだな」と思う一方で、道を歩いているひとが手助けしてくれる場面にもたくさん出くわしますよね。それまでは、自分ひとりでなんでもできるから、自分を手助けしてくれるひとなんていないわけですよ。そうすると、「ベビーカーを持ち上げるのに手を貸してくれる」とか、「ドアを開けてくれる」とか、そういうことを瞬間的にできるひとたちの存在がすごくありがたく思えてくる。

世界は子どもを産むひとのために


 いまの世の中、子育ての難しさをアピールする情報だらけです。「待機児童が多い」とか「子どもを産んで育てるのに3000万円かかる」とか。確かにそうだと思うんですよ。正直、いま20代、30代のひとで、子どもを作って経済的な利得があるかといえば、それはないんだと思う。けれど、これはなかなか難しい話で、というのも、そういう経済的な合理性を突き詰めていくと、結局は「この世の中に高齢者はいないほうがいい」「障害者はいないほうがいい」みたいな話に近づいていく。それでいいのかと。

 逆に、ぼくが子どもを作って思ったのは、むしろ「この世界は子どもを産むひとのために作られている」ということだったんですよね。昔はそう思ってなかったんです。社会は大人のためにあると思っていた。そう思っていたからこそ、「もっと深夜営業の店増やせ」みたいに思っていた。でも子どもを作ってからは、そうじゃないんだと気がついた。そして冷静に考え直してみたら、そりゃそうに決まっているなと。次世代を育てないと人類は滅びる。だから社会は基本的に子どもを育てるためにこそある。子どもを作るか否かを経済的合理性で判断するような話は、その基礎の基礎が見えなくなってこそ現れてくる論理なんですね。

 これはけっこう具体的な話で、そうすると、急になんのために町中に公園があるのかわかるようになった。ぼく、それまでああいう小さな公園がなんのためにあるのかわかってなかったんですよ。

細田 (笑)。
 昔は「誰がこれ使ってるんだ? 要らないんじゃない?」と思ってたけど、要りますよね。

細田 ベビーカーの行動範囲は思ったより狭いので、近くに必要なんですよね。

 そう。あちこちに小さい公園が必要なんですよ。そういう当たり前のことがわかるようになりました。

細田 かつては、「女性は深夜労働をしてはいけない」などというように、女性が仕事をする上でのいろんな決まりごとがあって、それが80年代後半の男女雇用機会均等法で、「男女の仕事上の境界を撤廃しましょう」ということになった。じゃあそれまでのやりかたは無意味で完全に間違っていたのかといえば、そうではない部分もあったのではないか。それなりの意味はあったはずで、それをまるで否定してしまうのは果たして良いことなのかと考えてしまう局面は正直ありました。うちは奥さんが仕事をしているあいだ、本人が望んでいたにもかかわらず、なかなか子どもができないということがあったので。

 よくわかります。

細田 そういうことも含めて、本当に世界の見え方が違ってきましたね。

父親にできること


 細田さんは何年生まれですか?

細田 1967年です。

 ぼくは1971年生まれですから、4歳違いですね。ぼくたちの世代は、基本的にリベラルだと思うんです。男性と女性は対等であるべき、みたいな発想が基本ですり込まれている。だから当たり前のようにそう思っていたのに、子どもを作ってからは「男女が対等であるという言葉は、なにを意味していたんだろう?」と、ふと立ち止まってしまう瞬間がある。

細田 わかりますよ。

 ぼくと細田さんはその感覚を共有していて、だからこの対談が実現しているわけですね。むろん、ぼくたちは決して「女が子育てをするべきだ」と考えているわけではない。しかし同時に、子どもを作るという経験を現実にしてしまうと、父親と母親にはかなり違う役割があるということにも気がつかざるをえない。

細田 それは痛感します。

 これは身体の違いに起因するのでどうしようもない。そもそも子どもは母親から産まれてくるんだから、スタートからして違う。そして、そういう現実に直面して、ますます「対等とはなにか」について考えざるをえなくなる。子育てへの参画と簡単に言うけれど、ではなにをもって参画なのか。

細田 さすがに産むことはできないし、授乳もできない。でも搾乳して哺乳瓶で与えることはできる。

 搾乳はビビりますよね。搾乳機はマジでドン引きしました!(笑)

細田 でも必要なんですよね。

 そうなんですよ。で、保存して電子レンジで温めるんですよ。そこもまた生々しい。

細田 母乳で育てていると、お母さんがずっと赤ちゃんの側にいないといけない。でも四六時中そうしてると、お母さんが休めなくなる。お母さんが休むときだけミルクを与えればいいかというと、母乳でずっと育ててるとミルクを飲まない子もいるんだよね。だから搾乳しなきゃいけないわけです。

 男性は女性を助けることはできる。でも、出産直後の育児に直接参加するのは難しい。あえてこういう表現を使いますが、そこには、生まれて間もない赤ん坊がまだ「人間」になってないということも大きいと思うんです。初期の育児は、人間以前のむしろ動物を育てているという感覚でしょう。視線すら合わない。視線が合うまでに数ヶ月かかるんだけど、最初に視線が合ったときは「ああ、ようやく人間がうちに現れた!」という気持ちになりました。

細田 絶望的になるんですよね。なんの反応もないから。

 母親は授乳で身体的に接しているからいいんだけど、男性はコミュニケーションできないんですよ。

細田 ちょっと疎外されたような気分になるんですよね。

 疎外というか、「とくにやることがない」みたいな。

細田 いやいや、掃除したりとかあるでしょう(笑)。

 あと洗濯とか……。記録はどうですか? ぼくはおもに記録係になりました。昔は運動会で写真を撮っている父親をバカにしたもんですが、でもいざ父親になってみると、よく考えると運動会では写真を撮るくらいしかやることがない(笑)。実際問題、保育園の運動会に行くって、それだけで半日拘束ですよね。別に金にもならないし、やることがない。子どもたちはお遊戯をやってるけど、別にクオリティ的に感動するようなものでもないし。

細田 う、うーん(苦笑)。

 でもとにかく半日はそこにいるわけで、じゃあなにやるかといえば撮影になっちゃうんですよ。それやってはじめて居場所があるというか。

細田 要は「こういう役割を演じてますよ」というパフォーマンスが必要だと。

 ビデオが父親に存在価値を与える!

細田 それはやっぱり悲しいね。ぼくもそうなっていくのかな……。

 しかもそのビデオは見ない!

細田 見ないですよね(笑)。父親の役割って、そういうどうでもいいところに追いやられていくのかな。
 冗談はともかく、実際はケース・バイ・ケースで家族によってずいぶん異なると思います。うちの場合は、娘がとにかくママが大好きなんですよね。妻は娘にすごくやさしいんですよ、ぼくから見ても。その圧倒的なケアのクオリティに、ぼくはとてもじゃないけれど対抗できない。娘に「チャンネル変えて」と言われても、ぼくは「自分で変えたら?」みたいな感じでまったく動かない。でもそこで「はいはい」とか言ってチャンネルを変える存在がいるとなると、妻のポイントがどんどん上がっていくわけです。

 そういえば、うちの娘はアニメが大好きで、細田さんの作品だととくに『デジモンアドベンチャー』が大好きで、もう30、40回と見ています。

細田 本当に? 十何年も前の作品だよ?

 本当です。しかもDVDが終わると、「もう一回!」と言ってね。ぼくはこれにはつきあえない。でもうちの妻は延々とつきあうので、これは適わないなあ……と。

細田 「違うの見ない?」とか言わないんですか?

 むしろ「同じものが見たい!」って感じです。

細田 ぼくらでいえば『カリオストロの城』のカーチェイスのシーンだけを延々見たい、みたいな欲求は子どものころあったわけだけど。つきあう方の視点は、いままでなかったわけだからね。それはしんどい。

 あの反復につきあうと、子ども的にはポイントが高いみたいですよ。

細田 子どもに見せるものを作っていこうと思うと、親が横でつきあっていても飽きないものを作らないといけないのかもしれないね。

 うちの妻は娘に付き合ってジブリを死ぬほど見たために、「ジブリは何十回も見ると見えかたが変わってくる」という次のステージに入ってるようです(笑)。

細田 反復もまんざら悪いことじゃないですね。「映画監督になるには同じ映画を10回以上見ろ」みたいな話もあるから、奥さんは映画の真理をかなりつかんでるかもしれないですよ(笑)。

孤独を描いた映画


 前回話題になった「孤独」というキーワードに話を持っていこうと思うんですが、ぼくが『おおかみこども』を見て素晴らしいと思ったのは、「つながれない」関係を主題に描いていたからです。最近は「ソーシャル」や「つながり」の話が流行ですが、ぼくは子育ての問題というのは、典型的な「つながれない」種類の問題だと思っています。どういうことかと言うと、ひとは自分自身の弱点や秘密を晒すことはできるんです。たとえば、実はぼくは障害をもっているんですよ、性的少数者なんですよと言うことはできる。けれど、自分の子どもの弱点や秘密についてはあまり言えないと思うんですね。子育てをしているといろいろな問題に直面しますよね。アレルギーとか、病気とか、コミュニケーションが苦手とか。では、そういうことをブログに率直に書いて似た問題を抱える親とつながれるかといったら、なかなか難しいと思うんですよ。なぜなら、それは自分の問題ではなく、子どもの問題だから。自分とは違う人間のプライバシーをしゃべってしまうことになるから。そういう状況は決定的に親を孤独にすると思います。

 言い替えれば、「他人の人生に責任を持つこと」は、必然的に人々を孤独にするということですね。

細田 よくわかります。

 もうひとつ別の例を付け加えると、3.11のあとに「放射能が来る!」って大騒ぎになりましたよね。あのときもし子どもを持っていなかったら、ぼくも、「東京に放射能が降ってくるかもしれないけど、まあどうってことないでしょ」という感じでなにも対応しなかったと思うんです。でも、自分ではない人間の責任を取らされてると、そういう判断ができなくなって、リスクをできるだけ低く取るという選択になる。「この子の将来に問題があったらまずいから、とりあえずは最大限の安全策を取る」という話になる。それは合理的かと言われたら、合理的ではない。合理的ではないけど、自分ではない人間の人生について結果責任を取らされたら、そういう行動しか取りようがない。ここ、なかなか伝えにくいですが。

 いずれにせよ、親というのはそういう存在だと思うんです。他人の人生の結果責任を取らされる存在。その結果、悩みを言えなくなってひととつながれなくなる。『おおかみこども』は、そういう孤独をテーマにした作品だと思いました。だって、花ちゃんに「うちの子どもはおおかみだ!ってブログに書けばいいじゃん」とは言えないですよね(笑)。いま世の中で言われている「つながり」って、そういうことばかりじゃないですか。

細田 同じ悩みを抱えてるひとが集まって、孤独を癒したいっていうね。

 けれどそれだけが人生じゃない。ぼくはずっとそう思っていたので、『おおかみこども』には感動しました。

なぜ子育ては疑似科学化するのか


細田 子育てって、子どもにとってなにがいいかというのが割とブレやすいですよね。それは『おおかみこども』を作っていても思ったことなんですけど、育児について本やブログを読んでいろいろと調べていると、途中で「調べすぎるとヤバいぞ」という危機感を持つようになって。ネットはあまり見ないようにして、本も定番的なものだけに限定したんですね。子育てには、すごくいろんな意見があるから、そこでブレると作品もブレてしまうと思って。「読めば読むほどますますわからなくなる怖さ」みたいなものがあった。

 子育ては、いろんなひとたちがいろんな哲学を持ってやってるものですからね。親だけじゃなくて、病院によっても全然考えが違う。
細田 うちの子が産まれた産院が、母乳育児を強く推進してるところだったんですよ。うちがそこを選んだのは、妻の実家の近くにあったからで、これは純粋に「たまたま」です。そこの母乳育児は徹底していて、産まれてすぐからずっと横に寝かせるわけです。昔の妊婦さんって、産後にちょっとした休憩があって、そこからいっしょに寝るということをやるんだけど、いまのハードな母乳育児だと、産んだ直後から始まるんですよ。

 母乳イデオロギーに限らず、育児法はどこか疑似科学の集合みたいなところがある。みんななにかの方法を信じて、すごい勢いで神経質になってるというか。あれは大変だと思いますね。

細田 野良仕事もそうですよ。『おおかみこども』に畑を作るシーンがありますが、畑を作るのにもたくさんの意見があるわけです。収益をたくさん出す畑の作りかたから、耕さずにやる自然農法というのまで様々あって。いろんなタイプの農業をされている方を取材したんですけど、取材すればするほど言ってることがひとによって全然違うわけですよ。だから結局、自分でどういう畑にするかを選択して決めていかなきゃいけないんですよね。同じ地域でも粘土質かそうでないかとか、水はけの具合とか、水の引きかたとかによって全然違ってくる。でも、教える側が「自分が正しい」って思ってやっているという意味では、育児法と同じですよ。

人生は「たまたま」の積み重ね


 同じ土地でも数メートル違えばまったく土壌の性質が違ってくる。結局、偶然によって左右される度合いがすごく大きいから、体系づけてしゃべろうとするとどこか疑似科学にならざるをえない。

 その構造は子育ても同じですね。ひとりの人間が20人、30人の子どもを育てることはまずないから、みんな個別事例を一般化して話す。そうすると絶対に疑似科学になってしまう。しかも聞き手のほうも、みな数度しかない機会に勝負をかけてるから、先輩の言うことをすごく素直に聞いてしまうところがある。3.11のときも同じことを思いました。ぼくは3.11と子育ての問題は深く関係していると思っているんです。結局すべてが「たまたまこうなった」みたいなことの集積でしかない。「被災者」と言ってもそれぞれ全部違っている。

 こういう言いかたをするとまた怒るひとがいると思うけど、3.11、とくに原発事故の問題って、「人間がどう生きるか」ということのひな形になっていると思うんです。人生は本当は偶然の集積でしかないわけです。「こういう会社に入れば、こういう年収になって……」みたいなものではまったくない。いい会社に入ったとしても、たまたま上司とうまくいかなくなったら? それならやり直せるかもしれないけど、たまたま交通事故にあったら? これでライフプランは崩れてしまう。人生はいろんな「たまたま」の蓄積でしかないのに、人はそれを一般化し捉えようとする。けれど、そんなひとたちも「たまたま性」を痛感せざるをえなくなったのが、3.11だったとぼくは思っている。

 いずれにせよ、人間の人生はみな偶然の集積で、だから孤独にならざるをえない。そういうひとに対して「あなたを見ているひとはいるんですよ」というメッセージを送るのが、芸術の在り方だとぼくは思います。今回の『おおかみこども』は、その課題にきちんと直面していると思いました。

細田 そうなんだよね。体験主義というか、体験したものがそのひとにとっての真実になってしまうというところがある。でもその体験というのはそれぞれバラバラなわけだから、真実がいっぱい生まれることになる。そこでどれが真実かを探っても、折り合うはずがないですよね。子育て映画みたいなものがいままでありそうでなかったのは、ひょっとしたらそういう理由だったのかもしれない。要するに、真実がいっぱいあるわけだから普遍化できないという。

 もちろんこの映画を見て「自分の子育てにはありえない」みたいに言うひともいる一方で「共感する場面が数多くあった」というひとたちの反応を見ると、「やっぱりやってよかったな」と思うんだよね。商業映画としては、「クレームが起こりそうなものに対しては近づかない」という態度もあるわけです。でもそこを逃げていると、新しい挑戦ができなくなる。「クレームがあるから描写するのはやめましょう」というのは、ものづくりの態度ではない。だから、「こんなのありえない」的な主張が起こることも覚悟してやらなきゃいけない。それによって「見てよかった」というひととちゃんと握手ができれば、ぼくとしては良かったと思いますね。

なぜ花はいつも笑っているのか


 前回の対談で「子育ては孤独なんだ、花は孤独なんだ」という話をしましたが、いまはそういうこと言ってはいけない空気がありますね。でも、『おおかみこども』は、「シングルマザーが地域の力を借りて、がんばって子どもを育てる話」ではないと思うんです。

細田 全然ないですね。

 花ちゃんって、いつもヘラヘラ笑ってるけど、けっこう寂しいひとだと感じました。

細田 そう。あの笑ってる描写は、そうじゃないことの裏返しとしての表現です。そこをどう捉えるかで、この映画の解釈は全然違ってきますよね。あと、ラストシーンにしても、やり遂げて充実していると見るのか、孤独になって寂しいと見るのかでまったく違う。「子どもたちが独立して花はひとりぼっちで寂しくないのか?」という短絡的な話じゃないんですよね。もし仮にジャンル映画っぽくお約束のハッピーエンドにしてしまうと、そこから抜け落ちるものがあまりにも多くなる。そういう見えかたの違いを恐れて表現を抑えてしまうと、なにも生まれないですよ。せっかくこのモチーフを描いているのに、最終的に「ひとりでいる花」を描かないのは絶対に違うよな、と思う。つまり「寂しさを受け止めた上での幸福」という到達点に花はラストシーンで行き着いたわけで、だから東さんが的確に「孤独」と言ってくれたのは、すごくうれしかった。

 現実にも、みな家族仲よく暮らしているようであっても、そのなかで孤独を抱えていたりする。花ちゃんも雨や雪を育ててるし、雨や雪も周りの環境に支えられてすくすく育ってるように見えるかもしれない。でも、お互いなにか孤独なものは抱えている。花はあの映画では、最後まで「自分の子どもたちがおおかみだ」と誰にも明かしていないですよね。

細田 ええ。明かさないんです。

 そういうところを見ないお客さんもいる。

細田 「秘密を洗いざらい言ってしまわないと心を開いてないんじゃないか」とかね(笑)。みんな孤独が怖くてたまらないのでしょうね。でもさっきの東さんの話にも通じるけど、かりそめの「つながり」などよりも大切なものを見つけているひとはいるんじゃないか。秘密を秘密のまましっかりと自分のなかにしまえる人生を主体的に選んだり、ちゃんと孤独であることを受け容れる力のあるひともいるんじゃないですかね。花はそういうひとだとぼくは思うな。

 まあただ映画というのは、一回見た時点で終わるものじゃなく、時期を経てまた見てみると、同じ作品が違うものに見えるということがよくあるわけです。人間は変わっていくものなので、経験や成長を経て、昔はあまりわからなかったことがわかるようになるかもしれない。この映画で描いていたことが、ピンと来るときが来るかもしれない。時期をずらして見ることによって、自分の変化を自覚できる。そういう機会にこの映画がなれたらうれしいな、と思うんだよね。

【図1】イベント当日の様子。父親の子育ての悩みと創作の関係で盛り上がった


距離の重要性


 このへんで質疑応答に移りましょう。会場で質問のあるかたはいらっしゃいますか。
──幼稚園や保育園を選ぶにあたって、なにかアドバイスはありますか?

 そうですね……。ぼくは家から近いところがいいと思います。冗談みたいに聞こえるかもしれませんが、けっこう本質的なんです。

 まず、親としては安心感につながる。ぼくは子どもができてから、この件に限らず、とにかく物理的な条件が大事だと感じるようになりました。たとえば、通勤時間が15分、30分、1時間では、そう違わないような気がするのだけれど、子育てだとこれがずしっと効いてくる。「1キロメートル先のちょっといい保育園」と「200メートル先のちょっと悪い保育園」であれば、普通は遠い方を選びます。ちょっと足を運べばいいだけじゃないかと。でも、200メートルの距離感が与えてくれる安心感や便利さというのはすごく大きい。そういう意味で、近さはすごく大事です。広さについても同じです。娘が通った保育園は、園の面積自体はそんなに広くなかったのだけれど、近くに公園があったから遊び回れる空間は広かった。「狭いけれど設計を工夫してます」みたいなものは、子どもには通用しないんですよ。そういう、単なる広さ、単なる近さみたいな要素がすごく大きいというのが、ぼくが子どもを相手にしていたときの実感です。

 あとは、もし事前見学ができるならば、工作物がいっぱい貼ってあるところがいいと思います。とにかく手作りのものがいっぱいあるところは大丈夫な感じ。注意書きがワープロか手書きかとか、そういうところに目を向けてみるといいんじゃないでしょうか。

細田 東さんは「近いほうがいい」と言いましたけれど、ぼくの知り合いでは「遠いほうが結果的によかった」と言うひともいるんですよ。認可保育園に入れなくて、私立の遠い保育園に行かざるをえなかったんだけど、お母さんが自転車に乗るのが苦手なひとでね。それで、歩いて25分の保育園に毎日通わせることになった。都会なのに往復で50分歩くんですよ。でも結果的には、それで子どもが丈夫になって、病気知らずな生活を過ごすことができたんだって!(笑) 極端な例だとは思いますけど。

 あ、反論されてしまった! むろんぼくの話も、たった一例を経験しただけの一般化なので、あまり深刻には聞かないでください(笑)。

 ただとにかく、親と子どもが快調であることがいちばんですね。あとは子どもの性格。うちの娘はすごく社交的なんですけど、そうじゃない子どももいる。社交的な子どもだったらみんなで遊ぶのが好きだろうし、そうじゃない子どもだったら絵を描いたり絵本を読んだりするのが好きなのかもしれない。そういうことによっても理想の保育園は変わってくるので、やはり一概に言うのは難しいですね。

細田 それでもあえて理想を言うならば、やっぱり本や絵に触れる機会が多いところがいいですね。

 ぼくも最初は同じことを思っていましたが、保育園にどれだけ本があろうとぼくの自宅には敵わないような気がして、最近はあまり気にしなくなりました。(笑)

細田 自分の好みの絵本や児童文学は家にあるけど、子どもが行く保育園には、自分たちの知らないような絵本や児童文学が置いてあってほしいんですよ。

 でも実際にそこ置いてあるのはアンパンマンだったりして(笑)。アンパンマンの覇権はすごいですよ。遊具もアンパンマンの顔をしたものが圧倒的に多い。

細田 でしょうね(笑)。それでも、そういう版権物以外のものも絶対にあってほしい。とくにぼくはかつて東映という商業主義の権化みたいな会社にいて、キャラクタービジネスに積極的に加担してきました。それだけに、もっとそうじゃないものがあってほしい、というのは強く思うんですよね。たとえば『おジャ魔女どれみ』の登場人物たちは、作中で『どれみ』みたいな番組を見ているかというと、全然見てないでしょう(笑)。美術設定のどれみの部屋には版権物なんて一切ないですよ。ところがそれを見ている子たちは、どれみの版権物を買って部屋に置いてるわけです。制作スタッフはそういうジレンマを抱えながらアニメを作っているところがある。こう言うと欺瞞と捉えられるかもしれないけど、商業主義にまみれているようであっても、制作スタッフの「こうあってほしい」という理想は作品のなかに込められているんじゃないか、という気はします。

 そういえば森本千絵さんは、いま「goen°」(ゴエン)という会社で、子どもたちに「coen°」(コエン)というワークショップをやっています。そういう、自分の仕事と近いところで幼児教育に対してアプローチする方法があるんだなと思って、感心したことがありますね。

 教育というのはある種の暴力みたいなところがあると思うんです。真っ白なところに書きこんでいく、本来はとても大変で怖いことなんですよね。幼児教育や初等教育というのは、本当に難しいものだと思います。

細田 東さんも、ゲンロンカフェの延長線上に幼児教育を考えてみてもいいんじゃないですか?

 ええっ? どうかなあ。ぼくの客層を考えると、「小学生の女の子がいっぱいいるらしいぞ!」みたいな残念なひとたちが集まるかも(笑)。

父親と母親の違い


──母親だと、出産なり授乳なり、否応なく起こるイベントによって親である自覚が生まれると思うのですが、男親にはどういうタイミングでそれが生まれるんでしょうか?
 うーん。結論から言うと、ぼくはいまだに父親の自覚がありません。そう言うしかないような気がする。少なくとも、ぼくになにかの自覚があったとしても、うちの妻の持っている自覚に比べるとまったくレベルが低い。情けないけれど、それが正直な実感です。細田さんはどうですか?

細田 うちの子どもはまだ5ヶ月ですけれど、前は奥さんが抱いてると泣き止むのに、自分が抱くと泣き止まないことに、かなりヘコんでいたんですよ。「これはもう太刀打ちできない」と思っていたんですけど、最近は子どもがだんだん寛容になってきて、自分が抱いてても笑ってくれるようになった。そうすると、それまで疎外されてた分、うれしくなりましたね。自覚というのとは違うかもしれませんが、いまはそれで前向きになれています。で、もうちょっと質問を本質的に捉えるならば、ぼくは母親だけが特権的に母性を持っていて、父親にはそれがないというのは幻想だと思います。どっちも同じようなものだという気がする。そもそも母性ってなんでしょうね?

 母性も個体差が大きいと思います。しかも、厄介なのは、その個体差は必ずしも性格だけじゃなくて、ホルモンのような生理的条件によって決まってくるということ。女性の場合、妊娠時から生化学的なバランスが変化してくる。人間の脳はあくまでハードウェアなので、女性はその変化を心の変化としても経験してしまう。ここはどうしても男性と違う。ぼくの場合は父親になっても身体が変わっていない。言葉のレベル、意識のレベルでしか変わっていない。でも妻は身体のレベルで変わってしまっている。もちろんそこであきらめずに、頭のなかで一生懸命シミュレートはしてみるのだけれど、一方で結局シミュレートでしかない、ということもわかってしまう。

細田 ぼくの意見は、東さんがいまおっしゃったことと逆なんです。もちろんホルモンバランスみたいな変化はあるかもしれないけど、すべて母性なるものがなせる業だとは考えたくないんですよね。それよりももっと男親、女親両方に当てはまること――たとえば、誰かが責任を持たなきゃいけないからやるんだという部分だってあると思うんです。『おおかみこども』で言えば、死んだ夫と「ちゃんと育てます」と約束したことが動機付けになっているところがある。要するに、母親だからできるわけじゃなくて、その約束があるからできる。そこは両親どちらにも当てはまることではないか、と。

 意見の違いが出てきましたね。――お話を聞いていて思ったんですけど、たしかに、ぼくが『おおかみこども』を撮ったとしたら、夫への約束は入れなかったような気がします。「亡き夫への約束なんてもので子どもを育てることができるわけない!」みたいに考えたような気がする。

細田 なるほど。

 他方、あの夫の死はとてもよかったですね。下水で死んでしまうという設定がいい。おおかみおとこは劇中ではとにかくかっこよく描かれてるからそういう印象を与えないけど、あれ、要は、父親になったけどやることないからちょっとうまい鶏でも獲ってくるか、という感じで変身したわけですよね。でも妻からすれば、そんなの獲ってこなくてもいいんです。完全な空回りなんですよ。さっきの運動会撮影問題と同じで、居場所がないから頑張っちゃってる。そしてそれで下水に落ちて死んでしまうのだから、かなりまぬけな死にかた。

細田 ただ、ぼくたちだって、そういう目に遭わないとも限らない。ぼくだってこういう商売してるけど、いつ経済的に破綻して約束を果たせなくなるかはわからない。いや、映画監督に限らず、公務員だろうが会社員だろうが、母親だろうが父親だろうが、同じようなリスクを背負ってると思います。だから、ああいう惨めな死に方というのは、嫌だけど十二分にありえる。突然の病気とか、事故とかも含めればそれこそいくらでも起こりうる。

 同感です。だからこそとてもリアルだった。でもぼくは、本当は花ちゃんにとっては――監督のまえで「本当の花」について語り出すのもどうかと思うけど──、約束はそこまで大きいものではないんじゃないかと思うんです。一応免許証を置いてみたり、「しっかり育てるから」と呟いてみたりするのだけれど、現実に子ども育てているうちにそんなことはだんだん忘れていくはず。

細田 それはそうです。約束がすべての原動力ではないでしょうね。ただあの台詞は、本当はいっしょに子どもの成長を見守りたかったパートナーの気持ちを慮ったものだと思います。ぼくがもし花の立場だったら、やはり果たせなかったパートナーのことはずっと頭から離れないだろうな。

『サマーウォーズ』と母親の死


──お子さんが生まれることによって、おふたりのご両親に対する印象というのはどう変わりましたか?

細田 親がどういう風に相対化されるか、という話ですね。

 そうですね…….。ぼくの小説家としてのデビュー作は、『クォンタム・ファミリーズ』(河出文庫)という作品です。「クォンタム」というのは量子のことなんですね。核家族という言葉があるでしょう。英語では「ニュークリア・ファミリー」ですね。量子家族というのは、そんな「核も作れない」、つまり核家族も作れないという意味の造語なんです。

 ぼくたちは団塊ジュニアと呼ばれます。ぼくたちの親にあたる団塊世代というのは、基本的に地縁や血縁から逃れて東京に出てきた、コミュニティから自由になりたい個人主義者でした。つまり団塊世代というのは、要は家族を作りたくなかった世代なんですね。それでも、時代の制限もあって、多くのひとが家族を作った。作ったんだけど、うまく作れない。団塊世代と団塊ジュニア世代はそういう関係にある。これは一般論としてもそうだし、個人の実感としてもそうなんです。ぼくの父親と母親の関係は決して悪くはない。けれどもすごく緊密なわけでもない。彼らは家族なるものをうまく作れないひとたちだったんだな、といまではそう思います。

 というわけで、質問へのお答えとしては、ぼくの場合は、子どもが生まれることで、「ああうちの親も家族を作ることに戸惑っていたのだなあ」とあらためて思ったという感じでしょうか。細田さんは富山の大きな家のご出身だから、同世代でもぼくとは感覚が違うと思うのですが。
細田 いや、全然大きくはないです(笑)。父は次男で、つまり分家でした。ですから本家から封建的な扱いをされていたほうです。田舎でしたし。

 ぼく自身としては、子どもが産まれて親が相対化されたというよりは、前作の『サマーウォーズ』が完成する直前くらいに母親が亡くなったので、そこで相対化されたという気がしますね。

 母の危篤の連絡を伯父から受けたのはちょうど『サマーウォーズ』のアフレコ直後。これからダビングを控えて忙しさの真っ最中でした。なので「ちょっと行けない」と答えたら、伯父さんにものすごく怒られてしまいました。「お前はなんなんだ! ガタガタ言わずに来い!」と。現場としてはとても行けない状況なんだけど、行かなきゃいけなかった。スタッフに無理を言って4日間だけ休ませてもらって、母の死に目に遭い、ひとりっ子なので喪主をやり、葬式を出させてもらいました。

 母親が生きてるときは、やっぱりリアルタイムのことしか気にならないんですよ。病気で8年くらい入院してたんで、ずっと「死なないでほしいな」は思っていたのだけれど、いざ亡くなってしまうと、母親の人生全体のことを考えざるをえない。そこで、「母親の人生のなかで、自分はどれだけ母親の幸せに貢献してきたか」と考え直してみると、ほとんどなにも貢献していなかったのではないかと思ってしまった。母親が生きているときになにもできなかった以上、その気持ちをどこに向けるかっていったら、それはもう子どもに向けるしかないのではないかと思うんですよね、普通だったら。ただぼくはその時点で子どもがいなかったので、映画に向けるしかなかった。そういう経験が『おおかみこども』を作る動機につながったんじゃないかと。母親に対する自分のなかの言い訳や後悔が、色濃く作品に反映されている、という気がします。

 なるほど。『サマーウォーズ』をほぼ作り終わったあとにお母様が亡くなり、『おおかみこども』の絵コンテや設計図ができあがったあとに子どもが生まれたわけですね。それぞれの作品が母の死や子どもの誕生を予告するような物語になっている……。

細田 そう言うとなんだか運命論的なんだけど、逆に言うと、そういった出来事があったから作品が生まれたところがある。映画はやっぱり人生を描くものだから、自分の体験する人生と無縁ではいられない。たぶん「いつか母親の話を作ろう」と思って映画監督になる奴なんてひとりもいないと思うんだよね。けれど、人生を辿っていくなかで、その問題にぶち当たることがある。そこをどういう風に解決するか。実生活の子育てのなかで解決するか、表現の手段を持ってるひとはそのなかで解決するか。そういうことだと思うんですよ。ぼくはいま、幸いにも子育てに向き合っているのだけれど、一方で『おおかみこども』という作品のなかにも、その悩みが書き込まれている――そういうお答えでどうでしょう?

 いやいや、素晴らしすぎる答えだと思います! 今日は本当に長い時間ありがとうございました。


2013年3月3日 東京、ゲンロンカフェ
構成=前田隆弘

★1 「『親』のためのアニメ」、『ゲンロンエトセトラ #8』、2013年。

細田守

1967年、富山県出身。1991年に東映動画(現・東映アニメーション)へ入社し、アニメーターを経て演出(監督)になる。1999年に『劇場版デジモンアドベンチャー』で映画監督としてデビューを果たす。その後、フリーとなり、『時をかける少女』(06)、『サマーウォーズ』(09) を監督し、国内外で注目を集める。11年、自身のアニメーション映画制作会社「スタジオ地図」を設立し、『おおかみこどもの雨と雪』(12) 、『バケモノの子』(15)でともに監督・脚本・原作を手がけた。最新作『未来のミライ』(監督・脚本・原作)は第71回カンヌ国際映画祭・監督週間に選出され、第91回アメリカアカデミー賞の長編アニメ映画賞や第76回ゴールデングローブ賞のアニメーション映画賞にノミネートされ、第46回アニー賞では最優秀インディペンデント・アニメーション映画賞を受賞した。

東浩紀

1971年東京生まれ。批評家・作家。東京大学大学院博士課程修了。博士(学術)。株式会社ゲンロン創業者。著書に『存在論的、郵便的』(第21回サントリー学芸賞)、『動物化するポストモダン』、『クォンタム・ファミリーズ』(第23回三島由紀夫賞)、『一般意志2.0』、『弱いつながり』(紀伊國屋じんぶん大賞2015)、『観光客の哲学』(第71回毎日出版文化賞)、『ゲンロン戦記』、『訂正可能性の哲学』、『訂正する力』など。
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