訳者解題(ボリス・グロイス「ロシア宇宙主義──不死の生政治」)|上田洋子

初出:2016年4月1日刊行『ゲンロン2』

 本論考は、『ゲンロン2』に掲載された、ボリス・グロイス「ロシア宇宙主義──不死の生政治」の翻訳者解題として執筆されたものです。コロナ禍下で「生かすこと」の意義が深く問われるようになったいま、社会と国家が行使する生権力の目的に個人の「不死」をおくロシア宇宙主義や、その起源とされるニコライ・フョードロフの思想は大きな意味をもちます。上田洋子によるこちらの解題から、グロイスの論考もぜひお読みください。(編集部)

 

 ここに訳出したのは、2015年刊行の論集『ロシア宇宙主義コスミズム Русский космизм: антология』に、編者のボリス・グロイスが寄せた序文である。ここで「秩序ある宇宙」と訳した космос(コスモス)は、カオスの対義語で、広漠とした宇宙ではなく、人間による宇宙の把握、あるいはそこにもたらされた秩序を示すものだ。同論集は、美術家でキュレーターのアントン・ヴィドクレが2013年からモスクワのガラージ現代美術館で行っている研究プロジェクト「これが宇宙だ」に関連して編まれ、この美術館と出版社 Ad Marginem との共同事業として刊行された。

 グロイスは、日本でもよく知られる思想家で美術批評家。彼の仕事については『ゲンロン1』に掲載されたインタビュー「アメリカの外ではスーパーマンしか理解されない」の解題で紹介しているので参照されたい。ヴィドクレはニューヨークとベルリンを拠点とする亡命ロシア人。グロイスも寄稿している美術家たちのオンラインプラットフォーム「e-flux」の創始者でもある。

 ロシア宇宙主義の父、ニコライ・フョードロフは1829年生まれ。21年生まれのドストエフスキーや28年生まれのトルストイと同世代である。地方で教職についていたが、67年にモスクワに出て、69年からモスクワ最初の公共図書館、チェルトコフ図書館で司書助手を務める。74年にこの図書館が閉鎖され、蔵書がルミャンツェフ博物館(旧レーニン図書館、現在のロシア国立図書館)に移管されると、フョードロフもそこで司書の職を得た。図書館の全蔵書に詳しいと言われる、伝説の博識の司書だった。博物館のなかで死者が復活するという彼の発想は、アーカイブを扱う司書の仕事と密接に関係している。

 フョードロフはドストエフスキーともトルストイとも交流を持った。フョードロフの思想を、ドストエフスキーはフョードロフの弟子ニコライ・ペテルソンから送られた書簡を通じて知った。ドストエフスキーは友愛や不死に関する彼の思想を高く評価し、晩年の長編『カラマーゾフの兄弟』でそれを展開している。フョードロフとトルストイを結んだのも、同じペテルソンだった。彼はフョードロフと出会う前、トルストイが開校した学校の教師をしていた。ペテルソンからフョードロフのことを聞いたトルストイは、わざわざルミャンツェフ博物館に会いに行ったという。宗教哲学者のウラジーミル・ソロヴィヨフは、ドストエフスキーからフョードロフの思想を知り、のちにフョードロフと親交を結んでいる。

 フョードロフの著作は、生前は書籍化されることはなく、その思想はおもに口伝えで広まった。彼の死後3年が経過した1906年、ペテルソンともうひとりの弟子コジェーヴニコフの手で、論集『共同事業の哲学』第1巻が刊行された。第2巻が出るには、さらに1913年まで待たねばならない。しかし、フョードロフは当時の思想界で大きな影響力を持った。ソロヴィヨフ、パーヴェル・フロレンスキー、セルゲイ・ブルガーコフら宗教哲学者、思想家ニコライ・ベルジャーエフ、地質学者ウラジーミル・ヴェルナツキーら、多くの思想家や科学者が、宇宙とその秩序について思考し、宇宙主義の思想を発展させた。ロシア宇宙工学の祖、コンスタンチン・ツィオルコフスキーは、10代の頃に図書館でフョードロフと出会って薫陶を受けた。ツィオルコフスキーは、復活した先祖たちが住むための宇宙空間の開拓、移動手段としてのロケットの開発を夢見て、実際にロケットの原型を考案することになる。

 グロイス編纂の論集には、ソロヴィヨフやフロレンスキーら、フョードロフの思想をキリスト教の文脈で発展させた論者たちのテクストは収録されていない。これは、ソ連時代の1980年代からロシア宇宙主義研究の著作を出していた、スヴェトラーナ・セミョーノヴァの立場とはっきりとした対照を見せている。彼女の著作は『フョードロフ伝』(安岡治子、亀山郁夫訳、水声社)、『ロシアの宇宙精神』(アナスタシヤ・ガーチェヴァとの共編著、西中村浩訳、せりか書房)が日本語に翻訳されているが、宇宙主義の紹介において神秘主義的な観点に重きを置いている。他方、グロイスは、ロシア宇宙主義を、社会主義と近代主義の論理的展開のひとつとして捉えている。彼の考えでは、ロシア宇宙主義は、キリスト教信仰の喪失と、そこから生じたキリスト教的な魂の不死に対する不信感から生まれた、身体(物質)への信仰の表れにすぎない。それがヨーロッパ思想のなかで特殊な位置を占めているのは、ロシア人が唯物論を、思想や理念を現実に具現化するプログラムだと捉えているせいなのだ(2015年6月12日、ガラージ現代美術館におけるヴィドクレとの対談)。グロイスの論集に収録されているのは、人類の「復活」というキリストの約束を真に受け、そのまま実行に移そうとする唯物主義者たちのマニフェストなのである。

 文化史家のスヴェトラーナ・ボイムは、フョードロフが「物質には創造的な潜在能力があり、それは人間を通して具現化される」と信じていたと指摘する。そして、それによって「人間はその物質を徹底的に保存する責任を負う」のである。こうした物質と人間の相互的な関係は、アーカイブの理想形でもある。収蔵品は、それを管理する人間によって、潜在的な力を発揮する。しかしそのためには、管理される側の物質だけでなく、管理する側の人間も、正しく組織化されていなければならない。とはいえ、それが全体主義のユートピアでありディストピアでもあることは、ザミャーチンの『われら』に描かれている通りだ。

 博物館を通した不死の思想を受け継いでいる者のひとりに、ソ連出身の現代美術家、イリヤ・カバコフがいる。カバコフは1990年のグロイスとの対話のなかで、自分がそれまで耳にしてきた日常のあらゆる声を集めてテクスト化し、それを冷蔵庫のようなもので保存して、復活に備えるのが自分の仕事だと語っている。「テクストを書くことは、そのテクストを別の惑星に送ることだ」とカバコフは言う。無意味な言葉を書き留め、無意味なものを蒐集し、カタログ化する。そうすれば、もしかしたら自分も、それら無意味なものとともに復活することができるかもしれない (Кабаков И., Гройс Б. Диалоги 〈1990-1994〉)。こうしたヴィジョンには、まさに、この論文でグロイスが指摘しているような、神の国での復活をあきらめたあと、それでも自己保存しようとする人間の欲求がうかがえる。

 フョードロフの果てしない復活の夢のひとつは、空想と現実の混合物が現実の空間のなかに具現化する、現代美術のインスタレーションに受け継がれている。個人の思考や夢を現実空間に復活させること──それはまさに芸術のテクノロジーが持つ力であるだろう。

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1974年生まれ。ロシア文学者、ロシア語通訳・翻訳者。博士(文学)。ゲンロン代表。著書に『チェルノブイリ・ダークツーリズム・ガイド 思想地図β4-1』(調査・監修、ゲンロン)、『瞳孔の中 クルジジャノフスキイ作品集』(共訳、松籟社)、『歌舞伎と革命ロシア』(共編著、森話社)、『プッシー・ライオットの革命』(監修、DU BOOKS)など。展示企画に「メイエルホリドの演劇と生涯:没後70年・復権55年」展(早稲田大学演劇博物館、2010年)など。

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