タイ現代文学ノート(6)「文学賞」の終わり|福冨渉

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初出:2018年05月25日刊行『ゲンロン8』
 2017年12月7日、ネット上でちょっとしたドラマがあった。タイで「もっとも権威ある」と形容されることの多い文学賞、「東南アジア文学賞」に関するものだ。

 ちょうどその前日は、2017年の東南アジア文学賞の受賞作発表日だった。2009年に同賞を受賞した作家ウティット・ヘーマムーンが、同賞についての肯定的な投稿を自身のフェイスブックページにおこなったところ、ウティットとも親交の深い作家のワート・ラウィー★1がその投稿内容と文学賞そのものに対する強烈な批判を「エアリプ」で加えたのだ。

 どちらの投稿にも、またたく間に数百を超える「いいね!」がつき、多くの人がその投稿をシェアした。双方の意見に対して、支持するコメント、反対するコメントが入り乱れ、ちょっとした炎上騒ぎの様相を呈した。その騒ぎに疲弊したのか、その後何日と経たないうちに、ウティット・ヘーマムーンは自らのフェイスブックページを一時的に閉じた。その後一度だけページを再開し、嘆きとも詩ともつかない文章を投稿していたが、2018年1月末の時点で、ページは再び閲覧できなくなっている。

 



 東南アジア文学賞は、1979年にタイで設立された文学賞だ。「東南アジア」という名前を冠するとおり、ASEANに加盟する10ヶ国すべてが参加している。もっともその選考は国ごとになされるし、受賞作家同士の交流や、受賞作品の各国語への翻訳が十分になされているわけでもない。それぞれの国の受賞者や受賞作品の情報も、特にニュースにもならない。正直、タイ以外の国でこの賞がどのような位置付けで、どのような認知をされていて、受賞作家たちにとってどれほどの意味があるのか、判然としないところがある。そのため、本稿ではタイにおける東南アジア文学賞に絞って記すことにする。

 この賞では選考される作品のジャンルが、詩集、短編集、長編作品の順番で年ごとに入れ替わる。2017年は短編集が対象だった。例年は4月ごろに作品の受付を締め切り、文学研究者を中心とした選考委員会による2度の選考を経て、9月から10月ごろに一次選考結果・二次選考結果・最終的な受賞作が順次発表される。しかし2016年と2017年は、前国王ラーマ9世の崩御・火葬と時期が重なったため、受賞作の発表が12月になった。

 2017年の受賞作は、チダーナン・ルアンピアンサムットの短編集『檻の外のライオン สิงโตนอกคอก』だった。この年の東南アジア文学賞の最終候補作は、全部で8作あった。どの作品も前評判が高く、若冠25歳でほぼ「無名」のチダーナンが受賞したことは、いくらかの驚きをもって受け止められた★2。とはいえ、彼女の作品を以前から追っていた編集者たちは、いずれ話題になるだろうと考えていたようで、彼らのそういった発言や、彼女自身のインタビューなどが発表されるにつれ、受賞結果そのものについての議論は落ち着いていった★3

 ただ、受賞する作家がいれば、もちろん受賞しない作家もいる。最終候補に入りながら受賞を逃した作家たちの一部には、フェイスブック上で悲しみを吐露する者もいた★4。だが多くの場合、その悲しみは「名誉ある賞」の受賞を逃したことによるものではない。前述のウティット・ヘーマムーンの投稿はその点について触れている。

受賞したリー[チダーナンのあだ名]、おめでとう。そして光が射さなかった他の人々については、ぼくはいつもためらってしまう。なにを書いて励まし、慰めればいいのかわからない。[……]これまで、東南アジア文学賞はこの国でとても大事な賞だった。他の文学賞よりも名声と名誉が与えられる賞だからだ(賞金は一番少ないけれど)。けれども他の賞よりなにより特別なのは、[受賞によって]天地がひっくり返るほどに変化する発行部数だ。そのおかげで、作家は生活していくことができる。★5


 正確な統計や数値が存在するわけではないので、これまでに筆者が見聞きした数字をまとめるだけになるが、いわゆる純文学の書籍では、初版1000から2000部というのが平均的な数字になる。これは、作家のネームバリューなどにかかわらず、ほとんど同じ数値のようだ。よほどの話題作でもなければ、初版分ですら、まず売り切れることはない。書籍の委託販売が基本のタイにおいては、この部数が限界だ。これ以上の部数になると、取次や出版社には負いきれない返本リスクが生じてしまう。
 これが、東南アジア文学賞を受賞すると激変する。受賞直後に重版がかけられて、タイ全土の書店の店頭に本が山積みにされる★6。普段からこういった書籍を主に扱っている独立系書店だけでなく、通常は純文学にはほとんど注目しないチェーンストアの大手書店でも同じことが起こるのだ。たとえばプラープダー・ユンが2000年に発表し、2002年に東南アジア文学賞を受賞した短編集『可能性 ความน่าจะเป็น』は2017年末の時点で40版を数えている★7。ウティット・ヘーマムーンが2009年に発表し、同年にこの賞を受賞した長編『ラップレー、ケンコーイ ลับแล, แก่งคอย』はA5判より少し大きな判型で500ページ近い厚さだが、2017年末の時点で22版だ★8

 受賞した作品と作家は、新聞・テレビなどの多くのメディアに取り上げられる。全国の学校で課題図書に指定され、さらに注文が増える。作家は、「東南アジア文学賞受賞作家」の肩書とともに、各地での講演会やワークショップに招聘されるようになる。この肩書が、以後の作品にも、その後のどんな活動にもついて回り、さらに次の仕事につながる。比較的キャリアの短い作家たちが受賞することが多く、彼らが専業作家として生きていくための「登竜門」としての役割を果たしているところは、一時期の芥川賞に似ているかもしれない。

 同じ投稿でウティットは「シーライト[東南アジア文学賞]を受賞することは、タイの作家にとって宝くじの一等に当たるのと同じことだ。そのおかげで、ぼくの経済的状況は良くなった」と述べている★9。経済的・社会的安定を最優先で見たときに、その結果に一喜一憂する人々がいることは当然とも言える。

 このウティットの投稿に対するワート・ラウィーの批判のポイントは二つあった。一つは、作家たちのこうしたふるまいがまるで「人生の良し悪しが文学賞にかかっている」ようであり、そこに一喜一憂する作家たちは「魂を売っている」という、ややナイーブとも言えるものだ★10

 もう一つは、東南アジア文学賞の存在そのものの「欺瞞」を突く意見だった。こちらがこの批判の本質と言えるだろう。


 おい、東南アジア文学賞だけじゃないぞ。あの「創造的な文学」なんてのも、最近になって作られたものなんだよ。てめえら、いい加減に東南アジア文学賞とか創造的な文学とかいう思想にただ従うのをやめて、自分の耳と目を使って考えろ。ちくしょう。俺は誰かが作った檻に閉じ込められていた。だまされて閉じ込められっぱなしで、「読者」のことを考えずにいた、って。★11


 補足が必要だろう。
 東南アジア文学賞の正式名称は「アセアン最高の創造的な文学賞 รางวัลวรรณกรรมสร้างสรรค์แห่งอาเซียน」という。本連載第4回でも触れたように、1970年代までのタイでは、「生きるための文学」と呼ばれる政治的・社会的なリアリズム文学が支配的であった★12。この「生きるための文学」は当時のタイにおける民主化運動と、そこから発展した共産主義運動と結びついていく。そして、70年代後半にタイにおける共産主義運動が瓦解すると、「生きるための文学」もその力を失った。このタイミングで現れたのが、「東南アジア文学賞」、すなわち「創造的な文学」のための賞であった。

「創造的な文学」という言葉は、厳密な定義をもたない、曖昧なものだ。ゆえに、年々受賞作が増えるに従って、その意味が拡張されていった。時代が進み、文学賞の動向が社会的に広く注目されるようになるにつれ、「東南アジア文学賞」と「創造的な文学」という言葉が、タイの現代文学における強力な規範・言説として働くようになっていった★13。ウティットを批判したワート・ラウィーは、そういった歴史を踏まえた上で、東南アジア文学賞が、タイにおける左派文学の潮流を断ち、新しい「知的支配の権力」となるべく生み出された、きわめて政治的なものであると以前から主張していたのだ★14
 その政治性を少しだけ紐解いてみよう。東南アジア文学賞を主催しているのは、バンコクの最高級ホテル、マンダリン・オリエンタル・バンコクだ。同ホテルには、世界中から多くの作家が訪れ、滞在したと言われている。そこで、東南アジアの文学をもっと振興したいと考えたホテルの経営陣が、他のスポンサーに声をかけ、この賞が生まれたというのが公的になされる説明だ。賛同したスポンサーはタイ最大手の航空会社であるタイ国際航空と、タイ最大のゼネコン、イタリアン・タイ・デベロップメントだった。その後、タイ最大の銀行であるバンコック銀行や、タイ石油公社などがそこに加わる。

 さらに第1回の授賞式からシリキット王妃が参加し、選出された作家に対して賞の「下賜」をおこなった。賞の運営委員会の中心で、政府ともきわめて関係の深い多くの超大手企業と王室を取りまとめていたのは、同じく王族であり、ラーマ5世の孫にあたるプレーム・ブラチャット王子だった。公式に発表されている情報だけをこうして並べてみても、これらの人々と企業が1979年のある日、突然に文学の振興を思い立ち、すんなりと文学賞を創設したというのは奇妙なことに思える★15

 ベネディクト・アンダーソンは、1960年代以降のタイにおける中産階級の爆発的な増加と、ベトナム戦争を境として、タイがアメリカの反共路線に同調し、アメリカ合衆国との外交的政治的関係を深化させたことで起きた社会的・文化的変化を、タイの「アメリカ化」と呼んだ★16。アンダーソンはその「アメリカ化」の終焉を、東南アジア文学賞が創設された1970年代の後半、インドシナ半島における共産主義国家の成立と、タイ国内における共産主義運動の瓦解の時期においている。

 もちろん推察の域を出ないとはいえ、こうした状況に鑑みると、東南アジア文学賞の創設が、左派・急進派・共産主義の流れに蓋をして、新しい知的・文学的支配の言説を作り出そうとする体制側の企図だったとするワートの主張にも、頷けるところがある★17。東南アジア文学賞の孕む政治性は、文学賞が権威をもち、多くの作家たちがその受賞をキャリアにおけるひとつの到達点と考えるようになるにつれ、ますます見えなくなっていった。

 



 だがその東南アジア文学賞にも、終わりのときが近づいているのかもしれない。

 近年では、その選考基準や、受賞作の質に対して疑問の声が上がることも多くなった★18。ワートの主張するような文学賞の政治的意味合いや、その空虚さについて認識する作家や読者も増えている。2017年の中頃には、主催者であるマンダリン・オリエンタル・バンコクが、高額の運営資金を嫌って、主催を降りるとのニュースが流れた★19。その後、これについての正式な発表はない。しかし、授賞式は2016年からすでに開催されておらず、公式サイトも2015年の受賞結果を最後に、更新が止まっている★20。こういった状況と相まって、2017年は東南アジア文学賞に関する種々の議論が紛糾した年になったのだった。

 一方、この状況に呼応するように、新しい文学賞も生まれている。2017年末には若手作家のキッティポン・サッカーノンらが、私設の文学賞「亡霊文学賞」の創設を告知した。1970年代に民主化を求めた学生たちのあいだで聖典の如く扱われたタイ文学作品にその名を由来するこの新しい文学賞は、「変化」を目指す作品を選考すると謳っている★21。あるいは筆者が本連載第3回で紹介した、東北タイの作家たちが発行を続けるオムニバス短編集『短編のひさし』★22。年に2回程度の発行ペースだが、毎号で投稿を募り、長い選考を経て掲載作品が決定される。これもある種、文学賞のような役割を果たしていると言えるのではないか。

 軍事政権下でのこういった文学的営為は、明確な政治的思想がその背景にある以上、東南アジア文学賞ほどの広がりをもたないだろう。だが独立系書店の増加と同様、いまのタイにはこういった小さな流れが同時多発的に存在している。現代において文学を生業とする人々は、そのたくさんの小さな流れを的確にとらえては、乗り換えて、また次の流れを見つけるということを繰り返さなければいけないのかもしれない。

 冒頭に挙げた二人の投稿をあらためて読むと、ほんとうは、ウティット・ヘーマムーンもワート・ラウィーも、感じていることに変わりはないのかもしれないとすら思う。ウティットの投稿を引用する。


 この投稿は結局なんだったのだろう? 作家は、なんにしたって書かなければいけない。自分が書いたものに愛されるときが来るまで。その愛を賞として読者に差し出す、その日が来るまで。結論はない。今日だってぼく自身も書いているのだ。★23


 書き続けるということが、こんなにも難しい。

 


★1 วาด รวี(1971‐)。作家、編集者。1990年代後半から作家活動を開始し、短編集や評論集を多く発表している。以前本コラムでも紹介した批評誌『Underground Buleteen』の編集長を務めていたこともあり、現在は自身の出版社 Shine の編集長。
★2 若手注目株のチラット・プラスートサップや、ベテラン作家サーコーン・プーンスック、ガオチャン、東北タイの作家プー・クラダートに、深南部ムスリムの女性作家ウンミーサーラーム・ウマーンなど、どの作家の候補作も、出版時から話題になっていたものばかりだった。
★3 筆者もまだ作品を手に入れていないため、作品の内容についてはなにも言うことができない。ただ「無名」だと思っていたのは主に純文学界隈の人々だったようだ。チダーナンは12歳(!)のときから小説サイトなどに作品を発表しており、ネット上の二次創作・やおい小説界隈では活動を続けていたらしい。本人のインタビューを参照。 "จิดานันท์ เหลืองเพียรสมุท : สาว Y ผู้ได้ซีไรต์" URL=https://themomentum.co/jidanun-leungpiansamut-sea-write/(2018年2月8日アクセス)
★4 たとえば、2017年の東南アジア文学賞最終候補にノミネートされた作家チラット・プラスートサップが、結果を知った直後に投稿した文章がある。URL=https://www.facebook.com/1577366462344820/(2018年2月8日アクセス)
★5 URL=https://www.facebook.com/uthis.haemamool/posts/1957714251163830/(2017年12月7日アクセス)。ただし、2018年1月末時点で、この投稿は閲覧できなくなっている。ここで挙げられている「他の文学賞」だが、大手出版社などが主催する書籍の賞はいくつかある。だが、対象を純文学に絞っていて、かつ社会的影響力が大きいものは、東南アジア文学賞だけと言っていい。
★6 タイ語では「版」も「刷」もすべて1つの単語「ピム พิมพ์」を用いるため、書誌情報から版と刷の区別をつけることが難しい。もっとも、新たに印刷する際には改版することが比較的多いため、本稿ではすべて「版」を用いる。
★7 ปราบดา หยุ่น.ความน่าจะเป็น.กรุงเทพฯ: สำนักหนังสือไต้ฝุ่น, 2017.
★8 อุทิศ เหมะมูล.ลับแล, แก่งคอย.กรุงเทพฯ: จุติ, 2015.
★9 op. cit.
★10 こちらは現在も閲覧できる。URL=https://www.facebook.com/waadrawee/posts/2024880387756608/(2018年2月7日アクセス)
★11 Ibid.
★12 福冨渉「タイ現代文学ノート #4」、『ゲンロン6』、2017年。
★13 มาโนช ดินลานสกุล. วาทกรรมวรรณกรรมสร้างสรรค์ยอดเยี่ยมแห่งอาเซียน. พิษณุโลก: มหาวิทยาลัยนเรศวร, 2009, Ph. D Thesis. なお、書店によっては一般的な純文学のコーナーに「創造的な文学」の札を提げている。
★14 2017年9月26日のフェイスブック投稿に、その主張が顕著に表れている。URL=https://www.facebook.com/waadrawee/posts/1992735097637804/(2018年2月7日アクセス)
★15 東南アジア文学賞の公式サイトに、賞が成立した経緯が記載されている。URL=http://seawrite.com/?page_id=12/(2017年2月8日アクセス)
★16 Anderson, Benedict R.O'G., and Ruchira C. Mendiones, eds. and trs. In the Mirror: Literature and Politics in Siam in the American Era. Editions Duang Kamol, 1985.
★17 1979年にタイ国言語・書籍協会の会長であったノーラニット・セータブットが、最初の運営委員会でなされた会話をこう回想している。「東南アジアに関係する[文学賞]というのは結局、何ヶ国を含めるのかぼくは尋ねた。そのころのインドシナ半島では、ベトナム、カンボジア、ラオスはコミュニストになってしまっていた。[……]結局、[当時の]ASEANの加盟5ヶ国だけを含めることになった。それだけで[共産主義国家を排除するという]意味が通じるからだ」。 นรนิติ เศรษฐบุตร. 10 ปีซีไรท์ คำให้การเรื่องรางวัลวรรณกรรมสร้างสรรค์ยอดเยี่ยมแห่งอาเซียน ปี 2522-2531. กรุงเทพฯ: ดอกหญ้า 1988, 1988, p. 16.
★18 特に顕著だったのは、2014年にデーンアラン・セーントーンの短編集『毒蛇』が受賞したときだ。デーンアランは、短編集の表題作「毒蛇」や、長編『白い影』などで、1990年代から、フランスをはじめとするヨーロッパ諸国で極めて高い評価を得ていた。一方のタイ国内では、ほとんど認知されていなかった。それが2014年になって、海外での評価を追認するように、突然デーンアランにスポットライトが当たったのだ。東南アジア文学賞では、原則として直近3年間の発表作がその候補になる。だが「毒蛇」をはじめ、当該短編集の所収作品の多くがそれよりも前に執筆されたものだった。過去作を集めて出版した作品に「権威ある」文学賞が与えられたことで、その形骸化を指摘する声が多く上がった。この問題についてのアーティット・シーチャンの論考「毒蛇:糸の上で揺れ動く東南アジア文学賞受賞作の価値」は、文学賞にだけでなく、新しく発行した短編集に「解説」を書き加えた作家本人に対しても疑義を呈しており、興味深い。อาทิตย์ ศรีจันทร์. "อสรพิษ : ความง่อนแง่นบนเส้นด้ายของคุณค่าวรรณกรรมซีไรต์." vice versa 1, 2015, pp.267-294. なお「毒蛇」には邦訳がある。デーンアラン・セーントーン「毒蛇」、宇戸清治編訳『現代タイのポストモダン短編集』、大同生命国際文化基金、2012年、215‐258頁。
★19 発端は、2017年9月26日に批評家チャルーンポーン・パラパックプラライがフェイスブックに投稿した内容だった。現在その投稿は削除されているが、以下のニュースサイトで読むことができる。จรูญพร ปรปักษ์ประลัย. "วิกฤตซีไรต์ 2560." URL=https://prachatai.com/journal/2017/09/73411/(2018年2月8日アクセス)
★20 http://seawrite.com/?page_id=23/(2018年2月8日アクセス)
★21 タイ語で「ピーサート(亡霊) 」というタイトルがつけられたその長編作品は、邦訳が出版されている。セーニー・サウワポン『妖魔』、岩城雄次郎訳、井村文化事業社、1980年。
★22 福冨渉「タイ現代文学ノート #3」、『ゲンロン5』、2017年。
★23 op. cit.
 

福冨渉

1986年東京都生まれ。タイ語翻訳・通訳者、タイ文学研究。青山学院大学地球社会共生学部、神田外語大学外国語学部で非常勤講師。著書に『タイ現代文学覚書』(風響社)、訳書にプラープダー・ユン『新しい目の旅立ち』(ゲンロン)、ウティット・ヘーマムーン『プラータナー』(河出書房新社)、Prapt『The Miracle of Teddy Bear』(U-NEXT)など。 撮影=相馬ミナ
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