チェルノブイリの教訓を福島に――世界における科学ジャーナリストの役割(後篇)|ウラジーミル・グーバレフ 聞き手=上田洋子

初出:福島第一原発観光地化計画通信 vol.2

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チェルノブイリとソ連崩壊


上田洋子 チェルノブイリ事故後、ロシアあるいはソ連の文化は変化したのでしょうか? 事故の収束作業は、ちょうどソ連崩壊と時期が重なっていますよね。

ウラジーミル・グーバレフ もちろん、チェルノブイリとソ連の崩壊は直結している。チェルノブイリがそのひとつの要因となったことは明らかです。

上田 そのへんを日本人にもわかりやすく説明していただけないでしょうか? そもそも、ソ連崩壊後に生まれた日本の若い世代には、共産主義体制の国家とは何だったのか、想像することすら難しくなっています。収束作業を推進できたのは、国家が命じ、呼びかけたからだというのも彼らにはわかりにくいと思います。さらに、ポスト・チェルノブイリの状況とソ連崩壊の状況が混乱してしまって、ソ連崩壊後に起こったこともすべてチェルノブイリのせいだと考えてしまっている人もいます。

ウラジーミル・グーバレフ氏

グーバレフ チェルノブイリが起こって、ソ連の人々は変わりました。

 わかりやすい例を挙げましょう。1966年に娘が生まれたときは、娘が教育を受け、夫を得て、子供を作り、家を持って、国に何が起ころうともそれなりの人生を過ごすだろうと、確信を持てた。けれども1991年に孫娘が生まれたときには、孫の将来を不安に思わずにはいられませんでした。教育を受けられるのか、それに家を買うことができるのかについても確信がなかった。確信を持てるか持てないかというのは大きな境界線になります。

 なぜチェルノブイリに多くの若者が押し寄せたのか?われわれが絶対に行くなと言っていたにもかかわらず。それはチェルノブイリが国民全体の厄災として捉えられていたからです。それが遠いウクライナのどこかで起こった事故であろうと、やはり国はひとつでした。だから、収束作業に参加して、国家の厄災を何とかしなければと、多くの人が考えたのです。例えば現在のチェルノブイリ原発所長も、事故収束作業に役に立ちたい一心で若い頃にシベリアのトムスクからチェルノブイリに行った人です。私も同じ感覚でした。だから他の人を派遣するのではなく、自分で取材に行ったのです。

 もっとも今日、同様の事故があっても、私が駆けつけたかどうかはわかりません。今は人間の心理が変化して、10倍や20倍の報酬が支払われるなら行ってもいいという考え方が普通になっています。かつて、チェルノブイリ原発4号機の屋根に向かった若い兵士たちは危険を認識していた。けれども報酬を尋ねる人はいませんでした。チェルノブイリ経験者たちに、今、同じような事故が起こったら収束作業に参加したかと尋ねましたが、大半の人が「否」と答えました。報酬があるなら行くかもしれないと。

 当時、誰より臆病だったのはゴルバチョフとエリツィンでした。ゴルバチョフは短時間だけ滞在してすぐに帰ってしまった。怖れていたんです。エリツィンはロシア国内で被害の大きかったブリャンスク地方に行ったけれど、やはりすぐに帰ってしまった。ゴルバチョフが権威を失墜したのはこのせいでしょうね。その後はソ連が崩壊し、国が分かれて、事故を他人事にしている状況があります。

 われわれは関係ないという感覚が、20余年の間に培われていることは大きな問題です。当初、事故は世界各国の人々を結びつけました。この感覚は発展させる必要があった。チェルノブイリはわれわれ、ロシア、ベラルーシ、ウクライナの厄災ではなくて、全世界にとっての厄災であることを示すべきでした。けれどもゴルバチョフのみならず、指導部全員がそれに反対でした。

上田 イメージが悪くなるからでしょうか?

グーバレフ ゴルバチョフはそもそも何が起こったのか理解していなかった。彼はこの大事故を反ゴルバチョフ派が起こしたと考えたんですよ!(笑)