チェルノブイリの勝者──放射能偵察小隊長の手記(7)|セルゲイ・ミールヌイ 訳=保坂三四郎

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初出:2014年5月15日刊行『ゲンロン観光地化メルマガ vol.13』
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第20話 目撃証言


 放射能偵察中隊に不思議な増員が来た……

 増員は増員であることに間違いない。年格好さまざまな10名の男たちが雑嚢を背負って、居心地悪そうにテントのそばに佇んでいる。1986年7月下旬のことだった。もしかしたら8月に入っていたかもしれない。

 不思議なのはこの連中に出された指令の内容だった。

 毎日ちょうど2レントゲンを受けよ、という指令。

 2 レ ン ト ゲ ン ぴ っ た り。それも毎日。

 思わず頭を抱える。

 その理由は二つある。

 まず、2レントゲンは1日の被ばく線量限度だった。

 ソ連国防大臣から出された指令であることは間違いない(そのようにささやかれていたが極秘だったので実際にその指令書を見た者はいない)。もし間違って2レントゲンより多く被ばくした場合は上司が叱責の対象となった。もちろん上司はひた隠しにして紙の上で正直に申告することなどなかったが。

 大事なのは超えてはならないということ。でも今回はそれとも違う。ちょうど正確に、毎日、すべての兵士が一律に2レントゲン受けろと……

 第二に、のっけから無理な注文だ。私たちが作業する場所の放射線が2レントゲンより低すぎたり、高すぎたりするということではない。偵察隊員がぴったり2レントゲンを浴びて帰ってくるなど確証を持っていえるはずがない。そもそもそれが可能ならおれたち放射能偵察の仕事など始めから必要ない。そんなことに労力を使うなど──それでなくても厄介なことばかりなのに……

 それにしてもおかしい。

 いったいなんのためだ……?

 30分も経たないうちに真相が明らかになった(キャンプではあっという間に情報が広まる)。

 窮屈そうに一箇所に固まっていた連中(まだ所属小隊に分かれていなかった)にあだ名がついた。

 

モルモット。


 


 連中は実験のためのモルモット。ゾーンに来る前に全員が血液検査を受けた。単なる臨床検査ではなく生化学検査だったので指ではなく血管から採血された。ゾーンに来てからは皆がやるような放射能のゴミ清掃を命じられた。そうして毎日2レントゲンずつ放射線に〈曝露〉される。科学というよりも〈科学屋〉に必要なだけの線量(滞在中の線量限度の25レントゲンを超えることはない)を浴びたら除隊前にもう一度採血して生化学検査を行う。研究テーマは〈1日2レントゲンの恒常被ばくによる男性血液への生化学的影響〉、〈急性被ばくによる……〉などいくらでも考えられる。

 私はチェルノブイリ以前も職業柄、軍の発注者と仕事をしたことがあったので、どんな貪欲な集団がこれら数十人を食いものにしているかをよく知っていた(同じキャンプ内のさまざまな部隊にモルモットがばら撒かれていたことに我々はすでに気づいていた)…… でもどうして〈数十人〉でないとダメなのか?

 よい実験とは、とどのつまり信頼性である。そして、なによりも被験者の数が多ければ多いほどその信頼性は増す…… 単純明快だ。

 実際に連中をゾーンの作業に派遣したかどうかは記憶が定かでない。すぐに別のところに連れて行かれたからだ。全てのモルモットはBSOと呼ばれる、部隊で唯一除染に従事する特殊処理部隊に集められた。もっとざっくり言えば、BSOはさまざまな形状や種類の放射能ゴミを掃除するための生きた人間(然るべき機材がないので)を供給する部隊である。いつも班単位で作業するから全員同じ放射線レベルで同じ線量を受ける。だから派遣するのも、線量を管理するのもずっと楽だ。これこそがまさに実験の〈信頼性〉……

 これでこの話はおしまい。

 ちなみに、中隊の誰をどこに派遣するのかを決めていた、私を含む士官数名は安堵に似た気持ちを覚えた。後ろめたいことに手を貸さなくてすんだのだから……

 これで本当におしまい。

 待てよ、ひとつ大事なことを忘れていた。

 もしかしてただの作り話だと思っていないだろうね?

 とんでもない。

 冒頭のタイトルをもういちどよく見てね。

第21話 上等兵Bのキャリア


 人間の記憶とは不思議なもの。多くの良き人々の名前は忘れてしまうのに、ろくでなしの名前だけはしっかりと覚えている。

 とはいえここではフルネームで呼ばずBとしておこう。

 その顔つきや外見は…… 単なる人殺しというよりも、毒殺犯の形相と表現した方がぴんとくるかもしれない。

 Bは疑いを呼ぶ何かを持っている……

 Bは作業班長だったこともあり、私は偵察ルート〈冷却池〉に同行させて測定地点を教えた。最後に「分かったか」と尋ねたら、待ってましたとばかりにうなづき「了解」との返事。

 数日経って判明したのは、せっかく教えたことをBが何も覚えていないということだった。毎日、私たちが初日に測ったのとまったく同じデータを持って帰ってきていた。その上、装甲車から外に出るのを怖がりながら上官としては散々威張り散らしていたので、部下の隊員が今にもBに食ってかかりそうだった。救いようのない大馬鹿野郎……

 Bは偵察隊からもお払い箱だった。偵察任務に参加するには運転手や計測係にしろ最低限の頭脳が求められる。作業班長に求められる資質については言うまでもない。

 その後Bが原発作業班に勤めたのかどうかは記憶にないが、一人抜け駆けして管理棟勤務の名誉を得た。管理棟の入り口には必ず計測係がいて、人々が足などについた泥を建物の中に持ち込まないように監視している。チェルノブイリでは多少なりともまともなドアのそばには水を汲んだ平らな容器──農家の普通のトタン桶から厚さ1センチの鉄で溶接された大型バケットまで──が置いてあり、計測係が通してくれないときにはそこで靴を洗った。

 当時、私たちの中隊ではDP-5検知器が不足していて、偵察のときは他の中隊から借りていた。偵察では各班に必ず検知器が必要だが、他の中隊では10名から20名の原発作業班に1台の割り当てだった。

 Bがその名を轟かしたのは、ほぼ半数の検知器が修理待ちで曹長の寝台の下に転がっていたとき、管理棟玄関で数日間にわたり、故障した検知器を使って放射線検査を行ったことだ。検査しているふりをしたのだ。

 通る人々の足に無反応の検知器DP-5のゾンデを突きつけ、自分で決めたルールに従い適当に何人かを選んでは、戻って靴を洗え、と言う。見せかけの脅しのため…… それでも相手が納得しないときは検知器の目盛りをすぐ鼻先まで突きつける。桶で泥まみれになりたい者などいない。

 毅然とした態度の厳しい検査員だと噂された。

 とんでもない才能の持ち主、B。

 私がBのなかに見てとった非人間性は幸いにして本領を発揮することはなかった。生まれてくる時代を間違ったに違いない……

セルゲイ・ミールヌイ

1959年生まれ。ハリコフ大学で物理化学を学ぶ。1986年夏、放射能斥候隊長として事故処理作業に参加した。その後、ブダペストの中央ヨーロッパ大学で環境学を学び、チェルノブイリの後遺症に関して学術的な研究を開始。さらに、自分の経験を広く伝えるため、創作を始めた。代表作にドキュメンタリー小説『事故処理作業員の日記 Живая сила: Дневник ликвидатора』、小説『チェルノブイリの喜劇 Чернобыльская комедия』、中篇『放射能はまだましだ Хуже радиации』など。Sergii Mirnyi名義で英語で出版しているものもある。チェルノブイリに関する啓蒙活動の一環として、旅行会社「チェルノブイリ・ツアー(Chernobyl-TOUR)」のツアープランニングを担当している。

保坂三四郎

1979年秋田県生まれ。ゲンロンのメルマガ『福島第一原発観光地化計画通信』『ゲンロン観光地化メルマガ』『ゲンロン観光通信』にてセルゲイ(セルヒイ)・ミールヌイ『チェルノブイリの勝者』の翻訳を連載。最近の関心は、プロパガンダの進化、歴史的記憶と政治態度、ハイブリッド・情報戦争、場末(辺境)のスナック等。
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