観(光)客公共論(1)| 東浩紀

初出:2015年6月12日刊行『ゲンロン観光通信 #1』

 本誌は今号より『ゲンロン観光通信』となる。本誌は2年前、福島第一原発観光地化計画とその関連情報を伝えるメルマガとして始まった。紆余曲折を経て、ここにゲンロンの活動全体を伝えるメルマガとして再起動する。観光地化計画はどうなったんだ、と訝しむ読者もいるかもしれないが、ぼくとしては、ここでこれから伝えていく多様なゲンロンの活動こそがその継承だと考えている。『観光地化メルマガ』の終刊号で記したように、原発跡地を観光地にし、世界に開こうというぼくたちの提案は、罪や悪の処理をめぐるこの国の伝統に真っ向から衝突している。ぼくたちにいま必要なのは、長期的で地味な文化戦略だ。

 さて、そんな再起動にあたり、この連載もタイトルを改めることにした。「観(光)客公共論」というこのタイトル、読んで字のごとく、「観客」あるいは「観光客」が生み出す新しい公共性について考えてみたい、という思いを込めている。

 友の会の会報をお読みのかた、あるいはゲンロンカフェに足を運んでいるかたはすでにご存じのように、ぼくはこの1年ほど、これらの言葉をめぐって何回も文章を書き、何回もイベントを開いている。福島第一原発「観光」地化計画を構想するなか、そしてゲンロンカフェで日々現実の「観客」を相手にするなかで、ぼくは、観客あるいは観光客という存在が、現代社会を考えるうえで大きな鍵になるのではないかと考えるようになった。加えて、ぼく自身が、いままでオタクから現代思想までさまざまな現象を対象に展開していた社会論や文化論も、観客/観光客という軸を通すことで、ひとつの統一した像に総合できるのではないかと考えるようになった。新創刊の『ゲンロン』では、そのような思考が編集のひとつの軸になる。

 観客あるいは観光客へのこの注目は、直接には、『思想地図β』で展開したショッピングモール論や『一般意志2.0』のニコ生論、『弱いつながり』のネット論などの延長線上にある。けれどもそれだけではない。たとえば、ぼくがかつて『動物化するポストモダン』で提案した「データベース消費」の概念も、観客や観光客のありかたと深く関係している。

 ぼくが当時注目したのは、マンガやアニメを愛するオタクたちが、読解の対象である原作を解体し、物語を換骨奪胎し、自分たちの好む要素だけを取り出してまったく別種の作品を作り出してしまう「二次創作」の運動である。これは一般には、マニアックなファンが原作の美学を無視して自分の欲望を投射するだけの、あまり知的ではない遊びだと見なされている。けれども、批評的には、むしろそちらにこそ作品の本質が現れていると考えることもできる。なぜならば、対象となる作品が消費者のどのような欲望に支えられているのか、その現実を正確に反映しているのは、じつは原作ではなく二次創作の内容のほうだからである。いくら原作者が美しく重厚な物語を紡いでいるつもりでも、消費者は女性キャラクターのデザインや武器描写の正確さにしか興味がないのかもしれない。だからこそ、二次創作に反映された消費者の欲望(とりわけエロティックなそれ)は、しばしば原作者を苛立たせる。

 この事実は、この原稿での言葉で言い換えれば、二次創作者の視線は「観光客」的だということを意味している。二次創作者は、コンテンツの海を漂流し、気に入った作品の気に入った箇所だけをつまみ食いして、勝手なイメージを作る。それは、原作者あるいは原作を愛する人々には、ときにとても暴力的なものに感じられる。けれども、二次創作の存在は決して市場から排除できない。それどころか、2010年代の現在、二次創作はむしろオタクたちの市場を作り出すうえで欠かせないものになっており、しばしばその隆盛こそが原作者に利益をもたらしている。

 その関係は、観光地の住民と観光客のあいだの関係にとても似ている。二次創作者の視線はしばしば原作の読者を苛立たせる。同じように観光客の視線はときに住民を苛立たせる。けれども観光客の到来は決して排除できないし、その視線は、住民に利益をもたらすだけではなく、ときに観光地を広く世界に開く役割をする。つまりは、観光=二次創作の存在こそが、むしろ観光地を公共に開く役割をするのだ。いま振り返れば、ぼくが『動物化するポストモダン』で伝えたかったのは、オタクたちが「動物化」し愚かになった(つまりは単なる受動的な消費者になってしまった)という単純な話ではなく、むしろ彼らのコンテンツへの視線が「観光客化」し、そのため奇妙な能動性を確保し始めているという話だった。だからこそ、ぼくは同書で、動物化したオタクにあるていど希望を見いだすこともできたのである。

 さて、このような議論は決して単なる言葉遊びではない。二次創作=観光が開く公共の可能性。それは、いま新たな批評誌を立ち上げようとしている弊社にとって、実践的な原理にもなっている。どういうことだろうか。

 この連載の後に続くエッセイで、大澤聡は、『ゲンロン』創刊号の巻頭を飾る予定の共同討議「現代日本の批評」が、かつて『季刊思潮』『批評空間』で行われた似た名前の共同討議の「二次創作」に見えると冗談めかして記している。大澤はその言葉を否定的に用いているが、ぼくとしては、むしろ誇りをもってそのレッテルを受け入れたい。そう、ぼくが『ゲンロン』で行いたいのは、まさに、『季刊思潮』『批評空間』の、そして両雑誌が体現した四半世紀前の思想/批評シーンの「二次創作」なのである。

 新創刊の『ゲンロン』は『季刊思潮』『批評空間』の正当な継承者ではない。そもそもぼくには継承の資格がないし、またいまそれが必要とされているとも思えない。その点では『ゲンロン』は、大澤が記したように、かつての熱心な読者が勝手に作った、単なる二次創作の同人誌にすぎない。けれども、だからこそ、その試みは、批評の歴史をふたたび公共に差し戻す可能性を宿している。柄谷行人や浅田彰や蓮實重彦や中沢新一など、かつてキラ星のごとく輝いた「スタープレイヤー」──あえてこのように表現するのは、そんな週刊誌的な表現が可能なくらい当時は批評に力があったことをあらためて読者に思い出してほしいからである──たちが紡いだ批評の場を、いまふたたび受容しつつ解体し、換骨奪胎し、現在の読者に通用する要素を取り出し組み合わせて、まったく別のタイプの批評の場を立ち上げること。それが『ゲンロン』の、そして弊社ゲンロンとゲンロンカフェの目的である。

 したがって、その試みは、かえって「原作者」すなわち上の世代の人々を苛立たせ、ときに怒りや嘲りすら招くかもしれないと思う。けれども、そのような誤解やすれ違いのリスクなくして、いかなる歴史の継承も文化の再生もありえない。去るゼロ年代、批評の世界は、古い語彙と人文教養に固執する守旧派=村人と、すべてをキャンセルし若者語りとサブカルチャーに身を投じる改革派=旅人に分裂した。少なくともそのように語られる状況はあり、そのために2015年のいま、「批評する言葉」への社会的な期待はかつてなく下がっている。ぼくは、村人と旅人のそんな裂け目を、観光客の視点と二次創作の手法でふたたび縫い合わせたいと考えている。

 だから『ゲンロン』は、観光客の公共性について考える雑誌であるだけではない。それそのものが観光客的な公共性を担うことを目指している。刊行を楽しみにお待ちいただきたい。


かつて、この国には批評があった。本誌は、その復活を目的として創刊された。


ゲンロン1
2015年12月1日発行 A5判並製 本体292頁
ISBN:978-4-907188-12-2

ゲンロンショップ:物理書籍版電子書籍(ePub)版
Amazon:物理書籍版電子書籍(Kindle)版

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1971年東京生まれ。批評家・作家。東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了(学術博士)。株式会社ゲンロン創業者。専門は哲学、表象文化論、情報社会論。著書に『存在論的、郵便的』(1998年、第21回サントリー学芸賞 思想・歴史部門)、『動物化するポストモダン』(2001年)、『クォンタム・ファミリーズ』(2009年、第23回三島由紀夫賞)、『一般意志2.0』(2011年)、『ゲンロン0 観光客の哲学』(2017年、第71回毎日出版文化賞 人文・社会部門)、『ゆるく考える』(2019年)、『テーマパーク化する地球』(2019年)ほか多数。

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