1000年後の人類への物語——SF作家のチェルノブイリ巡礼|吉上亮

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初出:2015年11月13日刊行『ゲンロン観光通信 #6』

 我々は時間の経過とともに、目にしたもの、触れたものを忘却していく。たとえ、それがどれほど悲愴な記憶であったとしても。

 それは再び日常を取り戻すための防衛策のようなものだ。人間は、生きていくうえで必要な多くのものを得るために、手放すべき記憶――過去を意識的・無意識的に選択することを繰り返していく。私たちも、そこから逃れることはできない。

 否応なく、忘れていく。捨てていく。遠ざかっていく。

 しかし、そこで「物語」はひとつの役割を果たす。

 こうして刻一刻と過去に追いやられ、忘却に沈んでいく誰かの記憶――「個別の経験」を「普遍的な経験」というかたちに置き換え、書き記し、保存すること。つまり、後世に語り継ぐ記憶媒体(メディア)となることによって。

 私は作家業を生業としている。

 主な活動分野がSFであるので、取り組むべき主題は必然、その想像力によって未来を描くことになる。現在の人々が構成する社会、文化的な営み、発展を続ける技術――その行き先がどうなるのかを想像し、物語という形態で出力する。それは別の言い方をすれば、未来という鏡に現在をかたちづくっている骨格、その仕組みを映し出すようなものだ。

 ある意味で、SF的想像力で未来を描くことは、現在の世界を分析対象とし、どれほどの時間経過を経ても変わらずそこに残るであろう不変的な枠組みを見つけ出すことだとも言える。いわば、現在の記憶を普遍的な記憶=物語として記述し、未来へ語り継ごうとする試みに他ならない。 なぜ、チェルノブイリ原発を巡る旅についての文章でこのようなことを書くのか。

 予め結論を述べてしまうと、チェルノブイリ原発こそが、そこに携わった者すべてが、100年後、1000年後の未来を想像し、そこに向けて、過去と過去になっていく現在の記憶を保存することへの思考、その想像力の行使を否応なく求められる場所であったからだ。



 チェルノブイリ原子力発電所への訪問は、7日間の旅行日程の4日目のことだった。

 本ツアーは、今から29年前の1986年4月26日に発生したチェルノブイリ原子力発電所事故について、実際に事故が起きた現場を始め、これに連なる悲劇の地を巡り、その記憶に触れていく旅である。

 前日は、ウクライナの首都キエフ市を早朝に出発し、チェルノブイリ原発の周囲30kmに設定された立ち入り禁止区域――いわゆるゾーンの中に入った。

 そこで事故直後に放棄された都市プリピャチを訪れた。30年の時を経て廃墟と化した旧ソ連時代の遺構を覆い尽くすように繁茂する高い背の樹木の群れ、夥しい数の草花が印象的だった。ここだけでなく、一般人の立ち入りは原則として禁じられているゾーン内では自然が旺盛な繁殖を見せており、放棄された廃屋を呑み込んでいる光景を何度も目撃した。人の作り出した建造物たちが、自然の手に委ねられ、朽ちていく。

 しかし、そこに土壌を汚染した放射性物質は極めて長い期間を経てもなお残り続ける。プリピャチは原発から、30年前の事故において多くの放射性物質が降り注ぎ、草木がいっぺんに変色した「赤い森」と呼ばれる森林地帯を挟んで北西の位置にある。同市が放棄されたのも、こうした深刻な汚染によるものだった。 同じように放棄された遺構として、原発訪問直前に見学した旧ソ連時代の秘密軍事施設、チェルノブイリ2がある。この真っ白な巨大な柵ともいうべき一種、異様な外見の建造物は、針葉樹に囲まれた森のなかに聳え立っている。

【図1】


【図2】


 冷戦時代に建造された全高50mを超す巨大なOTHレーダーを足許から見上げると、何重にも積み上げられた鉄骨の組み合わせが幾何学模様を描き、青い空を一面に埋め尽くす光景に視界を奪われる。

 このチェルノブイリ2が他の秘密軍事都市のレーダー施設と違って解体されないのは、放射能汚染もあるが、その大きさゆえに解体しようとすれば大きな危険を伴うためだった。かといって爆破解体すれば大質量ゆえに地震が発生し、チェルノブイリ原発に二次被害を与えかねない。結局、自然に朽ちていくままに任せるしかない。

 ある意味、このチェルノブイリ2は明らかに無理をして作られていた。

 地球の反対側にある仮想敵国たる米国からの核ミサイル発射を探知するためとはいえ、あまりに巨大すぎる建造物になってしまったこともそうだが、この施設を最終的にどう廃棄するかまで(もちろん原発事故という極めて不幸な偶然が重なったにせよ)は想定されておらず、とにかく完成させようと当時の人々がもがきつづけた苦闘が見て取れた。

 そして、この遠い理想に現実の手を触れさせようと挑戦し続けた痕跡は、次に訪れたチェルノブイリ原子力発電所――すなわち30年前に未曾有の原発事故を起こした悲劇の地で再び目にすることになる。

【図3】


 チェルノブイリ原発は、ソ連時代の正式名称を「V.I.レーニン記念 チェルノブイリ原子力発電所」という。この「レーニン記念」の称号は他にレニングラードの原発以外には冠されておらず、極めて名誉あるものだ。つまりチェルノブイリ原発は当時のソ連にとって単なる発電所ではなく、極めてシンボリックな施設であったことになる。

 同施設は、全部で4つの原子炉と事故を受けて建設途中で廃棄された5・6号機、これらの管理施設、冷却施設、放射性廃棄物の保存施設などによって構成される。

 このうち、事故を起こしたのが4号機である。事故直後の収束作業に多くの作業員が動員された末に、「石棺」と呼ばれるコンクリートによって炉心ごと完全に覆われており、その内部には現在でも膨大な放射性物質が残されている。原発見学は、最終的にこの4号機のすぐ傍まで行くことになる。
 まず管理棟に入り、そこで模型による施設の説明を受ける。チェルノブイリ原発を上から見下ろすと、縦に長い管理施設に1号機と2号機がぞれぞれ接続され、3号機と4号機はふたつ一緒にちょうど十字架のようなかたちで接続されている。5号機と6号機は、やや離れて独立した別の施設となっている。

 また、この管理棟の階段には、各階ごとにステンドグラスが嵌め込まれており、〈プロメテウスの火〉から〈宇宙飛行士〉まで、「人が神の火を制御し、やがて宇宙まで至る」一連のストーリーが象徴されていた。それほど原子力技術は、ソ連という国家において宇宙開発と並ぶ重要な主題だったのだ。

 レクチャー後、白の作業着、帽子、靴カバーを身に着け、いよいよ原発内部の見学となる。回転式のゲートを潜り、木製の古びた扉を抜ける。やや薄暗い通路を2度ほど曲がると、全長1kmに及ぶ直線の廊下――いわゆる「金の廊下」に出る。天井と壁面は、その名のとおり金色に塗装されており、踏み込んだ瞬間に、異質な場を歩いていると直感した。

【図4】


 この廊下を進み、程なくすると左手に2号機制御室の扉が現れる。内部に入ると、壁一面に無数のメーターや表示盤が設置された光景に出くわす。チェルノブイリ2でも感じたが、旧ソ連のメカニックは部品や装置などが極度に凝集されており、視覚面での情報密度が極めて高い。そして、そこには明確な美意識が反映されている。

【図5】


【図6】


 ここで特に際立っていたのは、原子炉の稼働状況を示す電光板。そして制御棒の挿入度合いを表示するメーターだった。どちらも大きな円に、前者は発光器/後者はアナログメーターが多数、等間隔で配置されている。その形状は魔法陣を思わせるようなもので呪術的な匂いさえ漂ってきた。

 そして、びっしり並んだアナログメーターを前にして、改めて感じたのは、事故当時、かなりの無茶をして原子力を制御していたのであろう、ということだった。4号機の暴走事故の原因も諸説あるが、基本的には設備不良、技術不足によるものと言われている。

 つまり、このチェルノブイリ原発は、確立された技術ではなく、最先端だが未発達の技術によって試行錯誤が行われていた場所だったのだ。そこは制御というより、挑戦の場であった。制御室が、宗教を否定したソ連で信仰された「科学」という名の宗教の祭壇というべき様相を呈していることからも、それが伺える。

 原発内部の見学は、さらに先へと進む。3号機と4号機を繋いでいた部分まで到達する。天井には大量の配管が通されており、壁面は白く塗り固められている。そして壁の一角にひとつの墓碑が設置されている。原発事故後、そのまま内部に封じ込められ現在も遺体が見つかっていない原発作業員、ワレリー・ホデムチュクの墓である。そこはかつて、4号機へと向かう入り口であったが現在は分厚い石棺の壁によって完全に封鎖されている。

 そして、そこが原発見学における到達可能な最深部だった。20世紀最大の事故と呼ばれたチェルノブイリ原発事故を引き越した4号機から至近の位置に立った瞬間だった。

【図7】


 当時の人類は、原子力を本当の意味では制御できていなかった、ということだ。そして、それは事故後30年が経った現在でも変わっていない。

 原子力は、いまだ私たち人類の手に余る技術、神の火のままなのだ。

 2011年の東日本大震災において発生した福島第一原発の事故を経験した日本人のひとりとして、そのことを実感せずにはいられなかった。

 そして、4号機の至近まで見学した後、現在稼働を停止している巨大な冷却ポンプがずらりと並ぶ冷却水ポンプ室を通り、帰路についた。作業着を返却し、放射能測定のゲートを潜り、再び外に出た。

 こうして原発内部の見学が終了した。

 だが、これですべてが終わったわけではない。

 チェルノブイリ原発において、私たちはもうひとつ重要な施設――4号機の廃炉作業のため建設中の「新安全密封施設」――通称、「新石棺」を見学する機会を得た。

 4号機西側の敷地において建設途中のこの「新石棺」は、全高108mに及ぶアーチ型の巨大構造物である。その建設はフランスを中心とする国際コンソーシアム「ノヴァルカ」が担当している。これには先進各国を始め(日本も)、多数の国家が出資しており、チェルノブイリ原発廃炉作業が、国際的な事業であることがよくわかる。

【図8】


 この「新石棺」も間近で見上げると、とてつもない大きさで迫ってくる。事故を起こした原発を廃炉にするためには、現代の科学力をもってしても、これだけ巨大なものを作らねばならないのか、と唖然とさせられた。

 来年2016年に完成予定で、巨大なレールで移動させ、30年の耐用年数が過ぎた石棺ごと4号機をすっぽりと覆う。そして耐用年数である100年の間に、いまだ確立されていない廃炉技術の研究とともに、廃炉作業を進めていくことになる。

 そこで3.11の事故後、廃炉作業がいまだ継続中の福島第一原発のことを、思い出さないわけにはいかない。

 東京電力は独自技術によって、およそ20年後には廃炉作業を完了する予定だという。

 私は原子力発電の専門家ではないので、それが本当に可能なのか妥当性について論ずることはできない。しかし、欧州先進各国も参加するチェルノブイリ原発では、100年先の未来――すなわち廃炉作業が22世紀までかかるかもしれないという想定で事業を推進している。そこで、日本だけが突出した廃炉技術を開発できるのだろうか、という疑問が生じたこともまた事実だった。

 むしろ、危惧されるのは、今から20年後というのが廃炉には不十分な時間であっても、我々の社会が原発事故を忘却するのに十分な時間として機能してしまうのではないか、ということだ。最悪のケースは、実際は廃炉が完了していないのに、社会的関心が薄れたので、何となく作業が終わったものとして扱い、事故そのものを忘れていくことだ。さすがに、そこまでひどい局面は訪れないと思っているが、もしも、という想像を私たちは拒絶するべきではない。

 なぜなら、私たちは、最低でも20年後、少なくとも100年後、あるいは、もっと先の未来――いつ終わるかわからない廃炉作業という人類未踏の事業とともに歩んでいかねばならない世界に生きているのだから。そして、さらに言えば、私たちはその先1000年、あるいは10万年先の未来をも想像しなければならない。
 チェルノブイリ原発の見学において、最後にひとつ重要な施設についての説明を受けた。「ハヤト2」と呼ばれる使用済核燃料貯蔵施設である。こちらは、建設現場に立ち入ることはできず遠くから見学するだけだったが、コンクリート剥き出しの極めて無骨な外観をしていた。現代の技術では使用済核燃料、そして核汚染物質を根本的に処理することはできない。だから厳重に保存するしかない。そして、未来の人類が何らかの技術によって資源として転用できる可能性に託す。そのために同施設は、1000年後までの使用を想定して作られている。そこでは当たり前のように遠い未来が想像されていた。

 あるいは、フィンランドの放射性廃棄物処理施設「オンカロ」について描いたドキュメンタリー映画『100,000年後の安全』(2010年)では、放射性物質が安全レベルに達するまで10万年を要し、多くの危険を伴うことが警告されている。

 つまり、20世紀と21世紀という時代を生きることになった私たちの社会がその手に掴み、しかし未だに消し方の分からない神の火がもたらす灰――放射性廃棄物に、私たちとその後の人類は、途方もなく長い時間をかけて向き合っていかねばならないのだ。

 しかし一方で私たちは、原子力という技術について、勇み足で即時撤廃をするべきではない。その稼働に大きなリスクを伴う原子力発電は長期的な段階を経て人類が脱していくべき課題であるが、これを単純に抹殺すべき禁忌の技術と見做してはならないからだ。

 大きな事故を起こしたとはいえ、過去に多くの人々が不撓不屈の精神で挑み続けた結果得られたその技術によって今日、私たちの生活が支えられていることも事実だ。私たちは原子力発電の恩恵を受けている以上、けっして何も過ちを犯していない無謬の存在ではない。そして、何より、すでに今ある技術を捨てるだけで問題が解決するわけではない。ゆえに原子力技術は、何としても発展させなければならない。そして、同時に技術を完全に制御すること――その消滅までの技術を確立させなければならない。

 そのために長い年月、世代を重ねながら忘却と戦うことになる。

 先に記したとおり、私たちは否応なく経験を、過去を忘却していく。未曾有の災害に直面したという峻烈な記憶さえも、10年、20年、30年という時間の経過によって断片化していく。私たちは新たに獲得していく日常とともに、少しずつ過去から遠ざかっていく。なお、ここで復興と忘却を地続きで語るべきではないことを追記しておきたい。忘却は風化という文脈において語るべきものだ。復興は何があっても達成されなければならない。傷痕は癒されなければならない。しかし、その記憶を失ってはいけない。

 では、私たちは何を為すべきか。犯してしまった過ちを、どうすれば忘れずに継承していくことができるのか。忘却に抗えるのか。

 そのひとつの方法は、原発事故という記憶を物語とすること。未曾有の災害に遭遇した個別の記憶や経験を「普遍的な人類の物語」として書き記し、未来へと語り継ぐことだ。

 それはきっと、様々なかたちを取るだろう。人類は長い歴史において、多くの物語る手段を発見し発展させてきたのだから。

 だとすれば、SF作家である自分が為すべきことは何か?

 それは、最初に述べたとおりだ。SF的想像力を駆使し、なぜ原発事故という未曽有の災害を、我々の社会は起こしてしまったのか――それをもたらした力学(ベクトル)とは何だったのか、人類社会に決定的な過ちを犯させてしまった普遍的枠組み(システム)とは何なのかを探求し、それを見つけだすこと。そして物語という人類が手にした忘却への対抗手段に刻み込むこと。物語を書き記していくこと。

 それこそが作家という仕事を生業にする者が、1000年後の人類に向けて記述すべき物語、為すべき仕事であると、私は信じている。

2015年11月



撮影=吉上亮+編集部

吉上亮

1989年埼玉県生まれ。小説家。早稲田大学文化構想学部卒。2013年、『パンツァークラウン フェイセズ』(ハヤカワ文庫JA)でデビュー。他の著作に『PSYCHO-PASS GENESIS』(ハヤカワ文庫JA)、『生存賭博』(新潮文庫nex)、『泥の銃弾』(新潮文庫)など。脚本担当作に映画『PSYCHO-PASS Sinners of the System Case.1 罪と罰』がある。
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