【 #ゲンロン友の声】映画、または芸術はどうあるべきだと思いますか?

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 はじめまして。東さんに質問です。東さんは以前の宮台さんとのトークイベント中「シネフィルはウンチクばかり語るから嫌いだ」と仰っていました。それは具体的にどういったことなのでしょうか?私は学生の頃映画を学んでおりまして、シネフィルとまではいきませんが映画は好きですし、周りにはシネフィルと呼ばれるような人もおります。彼らは往々にして映画に運動の快楽のようなものを求めていますが、私は映画において表象だけを語るのではなく、蓮實重彦が否定したような説話論的なものも大事なのではないかと思っております。映画、または芸術はどうあるべきなのか、なにをすべきなのか、というのが現在の私の悩みでありまして、その点につきましても東さんのお考えを伺えればと思います。ご返答宜しくお願いいたします。(埼玉県, 20代男性, 友の会会員)
「ウンチク」という言葉はちょっと違ったかもしれません。ぼくがシネフィル(とだれを呼ぶのかも問題になるのかもしれませんが、とりあえず)の言説でうんざりするのは、細かい業界事情の羅列というよりは(そういう勢力もいて、それはそれで嫌いなのですが)、むしろ彼らの言葉や思考に自然に含まれる「映画の特権化」です。具体的には「シネマの快楽」とかそういうやつです。ぼくは東京大学の表象文化論というコースの出身で、そこはシネフィルの牙城でした。在学当時は蓮実重彦氏がまだ現役で教鞭をとっていて、表象文化論的に世界を見るとは要は映画について語るということだった。他方で『批評空間』ではスラヴォイ・ジジェクが訳され始めていたのですが、こちらもこちらで映画を例に出すのが好きだった。つまりは大学院時代のぼくのまわりには、インテリなら映画について語るのは当然だし、シネマの快楽こそが快楽の王様だというような連中がうじゃうじゃいた。ぼくはそういうのにウンザリしてしまった。ぼくはアニメも観ていたしゲームもやっていたし、それらは明らかに映画に近い画面をもっていましたが、そのような画面の喜びはけっしてシネマの快楽だか享楽だかには入れてもらえなかったからです。いまでもけっして映画批評を書かないのは、あのころのトラウマがあるせいかもしれません。それで、「映画、または芸術はどうあるべきなのか」という質問への答えですが、そんな大きな問いに答えられるわけがないという前提のうえで言えば、大事なのは自分が好きなジャンルを過度に特権化しないことだと思います。おもしろい表現はたいていジャンルの混淆から生じます。というよりも、あらゆる表現が本当はジャンルの混淆から生まれています。映画そのものがつい120年前には存在しなかった。映画が誕生したときには、その周囲にはさまざまな「関連メディア」が存在し(そのなかにアニメーションも含まれます)、映画の映画性もその試行錯誤のなかで生まれたはずなのです。ところが人間はすぐにそういうことを忘れてしまう。そして純粋な映画とか言い出してしまう。そういう言説はすべて警戒すべきであり、またそういう言説にだまされないで創作することが大切だと思います。同じことは文学でも美術でもいえます。純粋な芸術なんてありません。純粋な映画をとるとか純粋な文学を書くとか純粋な美術と作るとか言っているひとたちは、そのようなレトリックを使って権威とお金を獲得しようとしているだけです。(東浩紀)

東浩紀

1971年東京生まれ。批評家・作家。東京大学大学院博士課程修了。博士(学術)。株式会社ゲンロン創業者。著書に『存在論的、郵便的』(第21回サントリー学芸賞)、『動物化するポストモダン』、『クォンタム・ファミリーズ』(第23回三島由紀夫賞)、『一般意志2.0』、『弱いつながり』(紀伊國屋じんぶん大賞2015)、『観光客の哲学』(第71回毎日出版文化賞)、『ゲンロン戦記』、『訂正可能性の哲学』、『訂正する力』など。
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