【 #ゲンロン友の声】憐れみは「キモくて金のないオッサン」を救いますか?

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 先日のボルボでの千葉雅也さんとの対談、タイムシフトで楽しく拝見いたしました。その終盤、東さんがお話していた、憐れみとはエラーであり、本質としてそれはひいきである。そしてそれを制度化してしまうことは偶有性が消し去ってしまう、という議論にはまったく同意いたします。しかし一方で、社会制度の設計を考えた時に、その偶有性から零れ落ちる人間、しかも零れ落ちやすい人間がいることも確かであると思います。例えば、最近twitter(の一部)で話題になっている「KKO(キモくて金のないオッサン)」といった存在です。彼らはその性質から周囲に気持ち悪がられ、疎外されてしまいやすい。つまり憐れみを受けづらい存在です。偶有性を重視する社会は、残酷に彼らを切り捨てていってしまうのではないか、となると、制度的に、つまり必然性を持って彼らを包摂する手段を社会は内包していなければならないと思うのです。偶有性を保持しつつも、そこから零れ落ちる/やすい人々も包摂する社会設計というものについて、東さんの見解をお聞きできれば幸いです。(東京都, 20代男性, 友の会会員)
 いやいや、ちがいます! ぼくが「憐れみの本質はエラー」だと主張するのは、憐れみには原理原則がない、だからだれが憐れみの対象になるかわからない、それは残酷だけど同時に救いでもあると主張するためです。だからKKOだってぜんぜん憐れみの対象になりうる。むろん可能性は少ないかもしれない。けれどもありうる。そこがいいわけです。逆にKKOを「必然的に包摂」する社会を作ろうとすると、必ず、どこまでキモくて金がないオッサンであれば許容範囲で、どれ以上にキモくて金がないとアウトだという境界を設定しなければならなくなる。必然は原理の構築と条件の設定を必要とするからです。というわけで、偶有性こそが、KKOを救う唯一の可能性だと確信してますよ!(東浩紀)

東浩紀

1971年東京生まれ。批評家・作家。東京大学大学院博士課程修了。博士(学術)。株式会社ゲンロン創業者。著書に『存在論的、郵便的』(第21回サントリー学芸賞)、『動物化するポストモダン』、『クォンタム・ファミリーズ』(第23回三島由紀夫賞)、『一般意志2.0』、『弱いつながり』(紀伊國屋じんぶん大賞2015)、『観光客の哲学』(第71回毎日出版文化賞)、『ゲンロン戦記』、『訂正可能性の哲学』、『訂正する力』など。
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