【 #ゲンロン友の声】哲学はなぜ100年も前の古典文献を参照し続けるのか?

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 東さん、twitter上で「哲学はなぜ100年も前の古典文献を参照し続けるのか?」という議論を見ました。趣旨としては、自然科学等では、ニュートン等の古典に立ち返ることは稀で、評価の定まった知見は教科書に集約され+頻繁にアップデートされ、それに加えて最新の研究論文を参照することで教育および研究活動がなされていく。一方、未だに哲学では多くの古典・原典に立ち返る部分が多いのが不思議だという内容でした。私個人の理解では、あくまで程度問題で、哲学の場合は「実験で物理現象に関する仮説検証」したり、「数学の仮定および論理の枠内で証明」をしたりといった誰もが一定のルールのもとで了解できる共通基盤が少ないため、教科書的共通認識ができるまで数百年レベルで時間がかかる(ので例えば教科書だけでなくカントも直接参照する必要がある)と理解しています(逆に言えば、哲学も超長期スパンでは他分野と似た過程を辿っている)。東さんはこの手の疑問に関して、どういったご意見をお持ちでしょうか?(海外・30代男性)
 こんにちは。ゲンロン10の原稿が終わったので久しぶりの返信です。いや、この原稿がまじで最高傑作で・・・とかいうのはともかく、ご質問に答えると、まずは「テーマパーク化する地球」のなかの「人文学と反復可能性」という短いエッセイを読んでくれると助かります。そこにぼくの答えの要点は書かれています。でもまあ読まないかもしれないので、要点を簡単に繰り返しますと、いわゆる理系といわゆる文系(厳密には分けることができないとか、分けるべきではないとか、分けるやつこそ文系脳でバカなんだとか——まじでネットではそういうこと言ってくるひといるんですが——ネットではいろいろ意見がありますが、まあとはいっても世の中ではふつうに分けられているのでわけるとして)、いいかえれば自然科学と人文学は、学の対象が「自然」なのか「人間(社会)」かというところが大きく違います。いいかえれば、探求する対象が、探求する主体(人間)の外側にあるのか内側にあるのか、それがちがうわけです。そしてここからすべての違いがでてきます。たとえば「木」の定義は難しいです。なにをどこまで木と呼ぶのか、そもそも木という分類は科学的に成立可能なのか、いろいろ議論があると思います。しかし、どうのこうのいっても、やはり木は人間とはべつに物理的に存在するわけです。だから木についての知見もまた人間社会の変動とはべつに着々と蓄積できる。他方で「正義」はどうか。これも定義は難しい。なにをどこまで正義と呼ぶのか、そもそも正義という概念は成立可能なのか、いろいろ議論があります。しかし、ここで、その難しさが「木」の難しさと異なるのは、正義はそもそも人間社会の内部にしかないということです。人間とはべつに正義はない。これはいいかえれば、人間社会が変われば正義もまた変わってしまうし、そしてそもそもそのときに、そこでなにが変わったのか、それを測る物差しも存在しないということです。ぼくにとっての正義とあなたにとっての正義、それを比較するための客観的な物差しそのものが存在しないわけです。だから、正義については「実験で物理現象に関する仮説検証」したりとか、「数学の仮定および論理の枠内で証明」するとかは、そもそもナンセンスです。ではどうするか。ふたつの考え方があります。そもそもそんなものについて考える必要はない、正義について考えるのとか時間の無駄、さっさと科学だけやるべしという考えかたです。まあ、それはそれでいいと思います。ネットにいる多くのかたは、質問者さんを含めて、そういう考えかもしれません。けれど、みなさんがどれだけ「正義について考えるのは意味がない」とかいっても、世の中には正義なる言葉はあるし、人々はそれをつかって現実にひとを救ったり殺したりもしていて、そっちは明確な物理的現実だったりするわけです。というわけで、そりゃあ自然科学的に考えるのは無理かもしれないけど、やっぱりなにか考えないとまずいんじゃね?という少数のひとが生まれます。それが哲学をやるということで、ぼくはそのうちのひとりです。で、そんなときどうするかというと、では正義について考えようとして、しかし自分一人でぐぐぐぐと考えていても限界はめっちゃあるわけで、やっぱりだれかほかのひとのの考えも学んだほうがいいだろうということになります。そこで要請されるのが古典です。だから、人文科学の古典は、自然科学とは異なり、それが真実として人々に広く認められたから、その実証性が確認されたから、その結論を前提として受け取るために読むのだ、というようなものではありません。だから哲学に発展も蓄積もないのはあたりまえで、そもそも、ソクラテスの正義とカントの正義とレヴィナスの正義と、それを比較考量するような物差しが原理的にないのだから(というかそもそも彼らはみな正義をギリシア語、ドイツ語、フランス語の正義に相当する名前で呼んでいたわけで、それもそもそも意味は微妙に違うわけだし)、そんな蓄積などできるわけがないのです。そうではなく、人文学においては、古典というのは、たんに、自分だけでものを考えるのに限界があるから読むだけのものなのです。それがおもしろいと思うかくだらないと思うか、それは質問者さんの選択です。ただ、愛や心や正義や真理や欲望や知といった概念は、この意味ではすべて人間の外側にはなにも物理的には存在しないものなのであって、もし質問者さんがそれらの概念あるいは言葉に足を踏み入れようとすれば、必然的にぼくと同じように、「評価の定まった知見は教科書に集約され+頻繁にアップデートされ、それに加えて最新の研究論文を参照する」なんてことは永遠にない世界でさまよい続けることになります。それが哲学というものです。三度繰り返しますが、それがくだらないというひとがいても全然問題ないです。ただ、ぼくはそれが好きだからやっているだけです。そもそも「好き」という概念が哲学的なものですが。(東浩紀)

東浩紀

1971年東京生まれ。批評家・作家。東京大学大学院博士課程修了。博士(学術)。株式会社ゲンロン創業者。著書に『存在論的、郵便的』(第21回サントリー学芸賞)、『動物化するポストモダン』、『クォンタム・ファミリーズ』(第23回三島由紀夫賞)、『一般意志2.0』、『弱いつながり』(紀伊國屋じんぶん大賞2015)、『観光客の哲学』(第71回毎日出版文化賞)、『ゲンロン戦記』、『訂正可能性の哲学』、『訂正する力』など。
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