【 #ゲンロン友の声】情報提供者(壇上の上で話す人、プレーヤー)と観客にはっきり境界線を引くのはなぜでしょうか?

 こんにちは。「東浩紀がいま考えていること」をニコ生で拝聴しました。これからのゲンロンの形と、東さんの著作が楽しみでならないのですが、ひとつ質問があります。ゲンロンでは「プレーヤーではなく、市民(観客)をつくる」といったことをおっしゃっていたと思います。東さんのおっしゃる観客とは、能動的ではなく(受け身でウォッチしているだけ)、全面的に受動的でもない(二次創作、ツッコミ)もする人を想定されていて、ゲンロンでは一方向性と双方向性のハイブリッドな観客的公共性をつくりたい、とおっしゃっていたのが印象的でした。そこで質問ですが、一方向性的情報提供者(壇上の上で話す人、プレーヤー)と観客にはっきり境界線を引くのはなぜでしょうか。観客内からプレーヤーが現れることをあえて想定しない理由がもしあれば知りたいです。なお、プレーヤーとはどのように生まれるものなのでしょうか?1.プレーヤーは常にゲンロンの公共圏の外からやってくる 2.固定化されたプレーヤーで運営していく 3.プレーヤーと観客はシーンによって切り替わる もし近いイメージがあれば教えてください。(東京都・30代女性・友の会会員)

 質問ありがとうございます。この投稿は6月のものなので、じつに半年近くたってからの返信になります。この欄は完全にぼくの気まぐれで運営されているので、気長に待ってくれればと。なお、政治的な質問にはあまり答えません。日韓関係についてどう思うかとか聞かれても答えようがないし……。さて、それはそれとしてこの質問。大事な問いですね。なんでゲンロンには、登壇者(プレイヤー)と観客の区別があって、よくある「哲学カフェ」みたいな「みんな対等に意見をいいあう場」じゃないのかという質問だと思います。で、さっくり答えますと、それはぼくが、ゲンロンでまず「ゲーム」をつくりたいと思っているからなのです。ゲンロンのミッションはなにか。それは新しい人文知が流通する場をつくることです。いいかえれば新しい言語ゲームをつくることです。言語ゲームといまいいました。ウィトゲンシュタインに有名な「言語ゲーム論」という議論があります。この言語ゲーム論なるものはいろいろ哲学的に深く、さまざまな解釈があるのでぼくがここでざっくりと要約するとまた怒る人が出てきそうですが(まあぼくはなにやっても怒られるのですが)、それでもあえて要約すると、そこでウィトゲンシュタインがいったのは、ゲームというのはじつに不安定なもので、プレイヤーは原理的にルールをいくらでも再解釈できるし、ルール自体を変えてしまうこともできるので、プレイヤーとルールだけがあってもゲームは安定しないということです。実際にそれは子どもの遊戯などを考えるとわかります。ではゲームが安定するにはどうしたらいいか。その答えが「観客の存在」ということになります(ソール・クリプキの『ウィトゲンシュタインのパラドックス』では同じことが「共同体」という概念で考察されています)。観客がいるとゲームは安定する。観客は、プレイヤーがいきなりルールを変更したり、ゲームをやめたりするのを許さないからです。同じことが、ゲンロンがつくりたい「人文知が流通する場」についてもいえます。なるほど、登壇者と観客が一緒になってもりあがって議論する、そういう場はいっけんうるわしく見えるかもしれません。いまはそういうのこそ政治的に正しく見えもします。けれども、そういう場というのは、要は参加者=プレイヤーのやる気に支えられているだけなのでじつはとても継続性が弱いのです。これは抽象的な話ではありません。ぼくもかつては研究者の端くれでしたから、研究会やら勉強会やらにいろいろ参加したことがあります。主宰したこともあります。でもそういうのは長く続かない。だってプレイヤーしかいないんです。飽きたらやめちゃうに決まってます。そんなモデルで新しい人文知など立ち上げることができるわけがない(そしてじっさいにさまざまな研究会が立ち上がっては消えています)。だからぼくは、まず、「ゲンロンというゲーム」を「見る」観客をつくろうと考えたのです。そうしなければ、「ゲンロンというゲーム」も存続しないからです。で、ふたたび質問者の疑問に戻りますと、以上の説明でわかるとおり、ぼくがいっている「プレイヤー」とか「観客」とかいうのは純粋に機能の名称です。あるときにプレイヤーだったひとが、べつのときには観客でもむろんいい。というか、ぼくたちのふつうの人生ではそうなってますよね。サッカー選手もコンサートでは観客でしょうし、アーティストも本を読むときには観客=読者です。しかし、大事なのは、それぞれのゲームの場においてみなが対等でフラットであればいいのではない、ということです。ぼくたちはむろん人間としては対等です。しかし、それぞれの場においては、プレイヤーと観客に分割されるべきであり、その分割があるからこそゲーム(コミュニティ)は維持されるのです。すべてのメンバーが対等でフラットなコミュニケーションをするだけではコミュニティは維持できない、これはけっこう深い話で、民主主義論などともつながってくるのですが、それにお答えするのはまた別の機会にしましょう。というわけで、いずれにせよ、これからもゲンロンのよき観客でいていただければ、そして機会があればぜひ登壇してプレイヤーになっていただければ! 今後ともご支援をよろしくお願いいたします。(東浩紀)
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1971年東京生まれ。批評家・作家。東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了。博士(学術)。株式会社ゲンロン創業者。専門は哲学、表象文化論、情報社会論。著書に『存在論的、郵便的』(新潮社、第21回サントリー学芸賞 思想・歴史部門)、『動物化するポストモダン』(講談社現代新書)、『クォンタム・ファミリーズ』(新潮社、第23回三島由紀夫賞)、『一般意志2.0』(講談社)、『ゲンロン0 観光客の哲学』(ゲンロン、第71回毎日出版文化賞 人文・社会部門)、『ゆるく考える』(河出書房新社)、『ゲンロン戦記』(中公新書ラクレ)ほか多数。

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