【 #ゲンロン友の声|015 】文学者は母国語だけを磨いていくべきでしょうか

 夏目漱石が何かの中で、文学者は母国語だけを磨いていくべきだと言っていました。
 それが最も高度な表現をする最も効率の良い戦略だと、『文学論』まで書いた漱石の結論だと思います。しかし、漱石は彼の生きていた時点で、英語がここまで普遍語化することを予測できていたでしょうか? 『日本語が滅びるとき』という本では、現状英語のネイティブであることが、知的表現において圧倒的優位を持つと書いてありました。
 ぼくは正直語学力にあまり自信がありません、今からでも全力で英語を学ぶべきでしょうか? 日本語の持つ表現力、及びその翻訳可能性を日本文化に造詣の深い東先生のお考えをお聴きできれば幸いです。(埼玉県・30代・非会員・男性)

 ご質問ありがとうございます。とても重要な質問です。というのもぼくもまた日本語でしか書いていない人間だからです。そしてそれを悔しく思っている人間だからです。ぼくは英語を読むことはできます。でも話すことも書くこともまともにできません。フランス語はゆっくり読めるだけで、ロシア語は翻訳片手に追えるだけです。つまり仕事としては日本語しか使えない。そして、もはや50歳も近いいま、その条件はいまさら変えようもなく(質問者の方は30代のようなのでまだまだ可能性があると思いますが)、その限界のなかで生きるしかない。つまり日本語を鍛えるしかない。もしかしたらワンチャンぼくの生きているあいだに、AIが哲学的言語もすらすら翻訳してくれる時代がくるかもしれない。ゲンロンカフェの対談も全部外国語に同時翻訳されるかもしれない。そうなったら一発逆転だ。そう思って日々仕事をしています。さて、そんなぼくなので、心情としては、英語だけが言語じゃない、ほかの言語のネイティブだってOKだといいたい。とくに哲学者としてはそういいたい。でも実際、水村美苗のいったとおりいまや英語だけが世界言語であり、英語のネイティブが圧倒的優位なのは疑いえない現実だと思います。漱石がそれを予想していたかどうか、そこは専門家でないのでなんともいえません。ただ、文学者が母国語だけを磨けばいいかといえば(漱石がどういう意図でそれを記したのか、該当箇所がいま思い出せないのでわかりませんが)、もしそれが母国語だけを知ればいいということなのであれば、その意見には反対です。漱石自身も英語と漢文との葛藤のなかで日本語を鍛えたひとでした。文学には言語の複数性が不可欠だと思います。
 ところでこの問題については、ひとつ付け加えたいことがあります。言語の複数性とひとは簡単にいいます。けれど、最近はそれもまた従来と違った捉え方をする必要が出ています。カズオ・イシグロが最近あるインタビューで、「俗に言うリベラルアーツ系、あるいはインテリ系の人々は、実はとても狭い世界の中で暮らして」おり、「東京からパリ、ロサンゼルスなどを飛び回ってあたかも国際的に暮らしていると思いがちですが、実はどこへ行っても自分と似たような人たちとしか会っていない」と指摘したことが話題になっています。これはどういうことかというと、要はリベラルなインテリは、世界を飛び回り、日本語で、あるいは英語やフランス語で話し、複数の言語を操っているようにみえても、みな同じ言語を話しているということです。じっさい、それはぼくの数少ない海外講演の経験からも頷けます。たとえばソウルに行く、あるいは杭州に行く、ロサンゼルスに行く。彼らはぼくの本を読んでいる。だから最初から話があう。最近のジジェクの動画を見た? そういえば人新世って流行してるけど、あれさ、みたいな会話ができる。言語は確かにちがう。いろいろな国からいろいろな学者が来ている。でも結局はみな同じ固有名を、同じ文脈のなかで話している。言語は違うけど同じになっている。それがグローバル化ということです。ぼくはあるときから、そんな状況をとても退屈に感じるようになりました。そしてゲンロンをやるようになりました。イシグロは続けてこう言っています。「私は最近妻とよく、地域を超える『横の旅行』ではなく、同じ通りに住んでいる人がどういう人かをもっと深く知る『縦の旅行』が私たちには必要なのではないか、と話しています」と。つまりは、ぼくたちにいま必要なのは、言語(ラング)を超える「横の多数主義」ではなく、ひとつの言語のなかに複数性を聞き取る「縦の多数主義」なのだと思います。ぼくたちはみな同じ日本語を話していると思っている。でもそれはちがうのです。ツイッターをみればわかるとおり、あるタイプの日本語を話すひとはべつのタイプの日本語を話すひととまったく話が通じていない。そしてあるタイプの日本語を話すひとは、同じタイプの英語やフランス語や中国語を話すひととは、いくらブロークンでも、発音や文法がめちゃめちゃでも話が通じている。繰り返しますが、これがグローバル化ということです。そして、この新たなグローバル化の条件のなかで「言語の多数性」を聞き取るためには、いくら外国語ができてもダメなのです。「同じ通りに住んでいる人」の言語の異質性を聞き取る耳がなければダメなのです。この意味では、これからの21世紀においても、日本語に限らず、英語以外のある特定の言語のなかで耳をすまし続けることには、大きな意味があるとぼくは信じています。(東浩紀)
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1971年東京生まれ。批評家・作家。東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了。博士(学術)。株式会社ゲンロン創業者。専門は哲学、表象文化論、情報社会論。著書に『存在論的、郵便的』(新潮社、第21回サントリー学芸賞 思想・歴史部門)、『動物化するポストモダン』(講談社現代新書)、『クォンタム・ファミリーズ』(新潮社、第23回三島由紀夫賞)、『一般意志2.0』(講談社)、『ゲンロン0 観光客の哲学』(ゲンロン、第71回毎日出版文化賞 人文・社会部門)、『ゆるく考える』(河出書房新社)、『ゲンロン戦記』(中公新書ラクレ)ほか多数。

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