「料理と宇宙技芸」番外編 食材からプロセスへ──三浦哲哉×小松理虔×速水健朗「シン・フード論」イベントレポート

ゲンロンα 2021年5月4日配信
 4月9日、ゲンロンカフェにて「シン・フード論──「おいしい」から社会を考える」という番組が配信された。ゲストは、新著『LAフード・ダイアリー』(講談社)が話題となっている映画批評家の三浦哲哉、今年の3月11日に『新復興論 増補版』(ゲンロン)を刊行したローカル・アクティビストの小松理虔、そして『フード左翼とフード右翼』(朝日新書)などのユニークな食文化論でも知られるライターの速水健朗。番組内では、これからのフード論をめぐって縦横自在に議論が展開されたが、じつはその会場には「料理と宇宙技芸」を連載中の伊勢康平がいあわせていた。
 本稿は、そんな伊勢独自の視点から、対話の模様をお伝えするとともに、その論点をより深めようとするものである。結果的に、イベントレポートであると同時に、「料理と宇宙技芸」番外編ともいえるテクストになった。お楽しみいただきたい。(ゲンロン編集部)

 

和牛とバーベキュー

 当日の議論は、三浦哲哉の新刊『LAフード・ダイアリー』の論評からはじまった。これはさまざまな読み方ができる本であり、単なるロサンゼルスの食文化ガイドや「料理本批評」にとどまらず、異国の地で一から生活を構築していく一家族の奮闘記でもある。同書の多様な側面を語るなかで、司会役をつとめた速水健朗はとくにアメリカのバーベキュー文化に着目した。

 

『LAフード・ダイアリー』で、三浦はバーベキューとは「北米的な食のよろこびの一つの核心」であると述べている★1。たしかにアメリカのドラマや映画では、登場人物がバーベキューを楽しむ場面がしきりに描かれる。そこで速水は、あらためてバーベキューとはなにかと問いかけたのである。

 まず三浦は、こんにちのアメリカにおけるバーベキューの流行を三つに分けた。ひとつはガレージを舞台とし、こだわり抜いたガジェットを駆使して理想のバーベキューを追求する「ガレージの美学」。もうひとつは、伝統的な器具をもちいて、古きよきバーベキューの形式を復元しようとする「オールドスクール」、そして三つめは自然環境との触れあいを求めて森や川でバーベキューを行なう「アウトドア派」だ。もちろん、このほかにも自宅やアパートの庭でカジュアルに行なわれるバーベキューのかたちもあるだろう。

 これを受けて速水は、アメリカではさらにバーベキューのスタイルが地域ごとに細分化されていることを指摘した。三浦が分類した大まかな流れのなかで、さらに地域ごとに焼き方や味つけの流儀が細かく分かれており、それぞれに思想やこだわりが込められているというわけだ。三浦によると、まさにこうした状況を反映するように、ロサンゼルスの図書館にはバーベキュー本の棚が設けられており、そこには多種多様なバーベキュー関連の書籍がおさめられているのだという。

 こうしたバーベキュー事情と関連して印象に残ったのが、肉とりわけ牛肉の販売方法である。三浦によれば、アメリカのスーパーでは、肉のグレードが記載されることはあっても産地が明記されることはほとんどない。これは産地によってブランド化される和牛のあり方とはずいぶん異なっている。筆者なりに整理すれば、肉の産地で地域差を表現するのが日本の和牛産業であり、食材の産地ではなく「ピットマスター」(バーベキューの取り仕切り人)の技術のちがいに地域差をみるのがアメリカのバーベキュー文化であるといえるのかもしれない。

地域ブランドの困難

 小松理虔は、この和牛とバーベキューの文化のちがいのなかに、より切実で根深い問題をみいだした。小松は、福島から地域食の情報発信をつづけるなかで、日本での食のブランディングには特有の問題があることに気づいたという。

 簡単にいうと、それは意外と食材そのものに差がない場合が多いということだ。じっさい、和牛の味わいを産地ごとに識別できるひとはきわめて少ないだろう。

 くわえて、小松が例に挙げたのが漁業である。たとえば、太平洋沿岸で広くとれるメヒカリのように、漁場によって個体の成熟度が異なり、必然的に味わいで差別化できるものはある。しかし、カツオのように国産魚の漁場がほぼおなじものにかんしては、ほんらいはおなじ場所に生息する魚を「産地」によって区別し、それぞれブランディングしなければならないことになる。その場合、まずは水揚げされる場所のちがいによって産地の区別がなされるが、それ以上の差別化は生産者の「こだわり」に焦点を当てるなど、さまざまな物語を付与しながら進めるしかないのである。

 

 そこで小松が語ったあるエピソードは強烈だった。いわきでは、一本釣りができそうな「返し」のついた釣り針が縄文時代の貝塚から出土したことを受けて、一万と数千年前から連綿とつづくいわきの由緒あるカツオ愛が証明されたと語る向きがあるというのである。そして小松は、食材そのもののちがいとは無関係に差別化を強いられるそのようなブランディングの負の側面があらわれた事例が、いわゆる風評被害の問題にほかならないと指摘した。

 こうした傾向に対する一種のアンチテーゼとして、小松が提唱するのが「バックヤード性」★2というキーワードだ。小松によると、福島の食料生産の特徴は、ブランド化や「地産地消」といった方向性とは異なり、なによりまず安定して大量の食材や加工品を首都圏へ供給し、消費社会を支える「バックヤード」としての役割にあるという。

 速水も三浦もバックヤード性という着眼点に賛同していたが、小松によれば、彼がこの発想にいたるまでには複雑な経緯があったらしい。食の情報発信にかかわりはじめた震災直後、小松はむしろ福島の食材をブランド化し、地産地消を促進しようとしていた。けれども試行錯誤のすえ、けっきょく福島では既存のブランドに対抗できるような食材を生みだせないと感じたのだという。そもそも震災以前から、福島の食材(たとえば米)は、ブランドとして十分な競争力をもっていなかった。そこで小松は、食材を収穫したあとの加工や流通に着目し、そこから福島の食の特徴や魅力を発信したいと考えるようになったそうだ。

 たしかに、すぐれた食材はおいしい食事に欠かせない。けれども、一般論として、気候条件にすぐれた産地が勝利を収める食材のブランド化のシステムが、気候的な弱者の排除を条件として成立しているのも事実である。そして産地自体に優劣がない場合、物語の付与に走る(ほとんど不毛な)差異化の競争が生じてしまう。筆者の理解では、小松のバックヤード性が提起している問題はこのような地域ブランドの困難である。それを回避するためには、食材そのものとはべつの次元からフード論を組み立てなければならないのだろう。

カニカマの哲学

 小松のいう「バックヤード」としての福島を象徴するのがかまぼこである。当日の会場には、かまぼこをはじめ小松が厳選した海の幸の加工食品が多数用意されていたが、イベントでは三浦がそれらをつつきながら、突然カニカマの魅力について熱く語りだす一幕があった。

 三浦はこのようにいう——たしかにカニカマは、カニらしく調味された魚のすり身であってカニそのものではない。とはいえ、巧みな加工によってジャンクとは言い切れない絶妙な立ち位置を確保している。カニ自体とジャンクのあいだのあわいを工業的に調整すること、これがカニカマの特性である。あと、細かいことは抜きにして、とにかくカニカマはマヨネーズとの相性がすごくいいのだ……。

 

 三浦のこの発言にすぐさま応じたのが、かまぼこメーカーで勤務していた小松である。三浦につづけてカニカマの魅力を語りつつ、小松は「一正蒲鉾」という新潟のメーカーを紹介した。ここは「サラダスティック」や「オホーツク」といったカニカマのロングセラーブランドを展開しているほか、近年では「うな次郎」といううなぎの蒲焼風の製品に力を入れているという。つまり、カニカマ的な「あわいの妙味」は、いまやうなぎにまで応用されているというわけだ。

 なお筆者は、この原稿を書くにあたって、じっさいにうな次郎を数パック買い込んで試食してみた。

 なるほどたしかに、山椒とよくあう香ばしさや、ほろほろとした中身の質感など高い再現度が光る製品である。もちろん、あくまですり身であってうなぎそのものではない。けれども、その分単価が安いので、もったいぶらずに刻んで炒飯に入れたり、しらすや葉野菜と和えて冷菜にするなど、かえってうなぎではやりづらいアレンジを試してみたくなった。筆者は、うな次郎のよさはこうした技巧への欲を引きたてる力のつよさにあると思う。

 はじめは三浦と小松の熱量にやや気圧され気味だった速水も、「カニカマの哲学」というキーワードを提示し、加工食品を批評する言説の必要性を強調することで、ふたりの議論をパラフレーズしてみせた。そこにいたるまでの三人の対話は非常にテンポがよく、現場にいた筆者からみても、カニカマをめぐって盛りあがる彼らのあいだには異様な高揚感がただよっているのがわかった。それはいわば、長丁場のトークと多大なアルコールが織りなすゲンロンカフェ特有の「神感」なのかもしれない。とはいえ、まさにこの瞬間、筆者はカニカマこそがこの日の議論の核心であり、そこから多岐にわたるトピックのなかに一本のすじを引けることに気づいたのである。

 端的にいえば、それはプロセスのフード論の可能性だ。

 

プロセスのフード論へ

 はじめに言葉の意味をはっきりさせよう。そもそもプロセス(process)とは、過程や手順を意味すると同時に、プロセスチーズのように加工をあらわす言葉でもある。つまりプロセスのフード論とは、食材の選択からではなく、その加工や調理過程から食の思想を立ちあげようとする議論のことだ。今回のイベントで言及されたバーベキューの文化や福島のバックヤード性、そしてカニカマの哲学は、すべてプロセスのフード論の試みとして接続される。そしてもちろん、これは宇宙技芸としての中華料理にもつながっているのだ。

「料理と宇宙技芸」の第3回「黄燜鶏」のなかで、筆者は「スローフード」などのオーガニックな食文化にしばしばみられる「食材に着目し、そこにこだわることでしか、食をつうじた『自然』とのつながりや世界の調和を考えられないという想像力の貧しさ」を批判した★3。ここでは、これをもう少し敷衍して、食材の選択に思想を込めるタイプの思考一般を問題にしたい。たとえば、いわゆるヴィーガンや地産地消がそれにあたる。

 もちろん、筆者はそうした食の実践そのものに否定的なわけではない。そのよさも重要さも理解しているつもりだし、ライフスタイルとしてはじつに尊いと思う。

 けれども、同時に、現状では食の思想としてあまりに無味乾燥であるといわざるをえないのではないか。というのは、環境保護でも郷土愛でも動物倫理でも反グローバリズムでも何でもよいが、とにかく多くの場合、調理以前の食材の選択によってほとんど思想が完結してしまっているからだ。つまり、そこでは調理/加工プロセスという技術的な段階は、思想信条のために課された材料的な制約のなかで、いかによりよい(あるいはましな)食生活を確保するかという工夫の問題にとどまるか、せいぜい健康増進といった食後に得られる効果を礼賛するために、なるべくすんなり通りすぎてしまいたいひとつの局面にしかなりえないのである。

 くわえて、そこに特有の障害があるのも事実だ。たとえば『フード左翼とフード右翼』のなかで速水は、持続可能サスティナブルな農業形態とされる有機農法は、現状あまりに生産効率が低いため、(遺伝子組み替え技術などを駆使しないかぎり)世界的な食糧危機に対処できず、その意味でじつはまったく持続可能ではないことを指摘している★4。また、小松のバックヤード論が示すように、食材レベルだけで食の地域性を考えつづけるかぎり、福島のように地理的・気候的条件によって排除されてしまう地域がかならず出てきてしまうだろう。だからこそ、食材で完結することなく、プロセス(過程/加工)から立ちあがるフード論が必要なのだ★5

 けっきょくのところ、食材の選択をつうじて語れる思想の選択肢はあまり多くはない。「シン・フード論」の豊かな可能性は、むしろプロセスのフード論のなかに秘められているのである。それはたとえば、ピットマスターの技術論であり、カニカマの哲学であり、そして宇宙技芸としての中華料理論だ。

 もちろん、プロセスのフード論は、食材選びに思想を込めようとする姿勢そのものを排除しない。場合によっては、両者の統合も可能だろう。6月に公開予定の「料理と宇宙技芸」第5回では、その統合の可能性を示すために宇宙技芸としての菜食文化について考えようと思っているが、ここでは最後に、予告としてひとつの問題にかるく触れておきたい。

精進料理は「東洋のヴィーガン」なのか

 問題というのは、精進料理は東洋的なヴィーガンなのか、というものだ。近年では、日本でのヴィーガンや菜食主義の普及を受けて、仏教のいわゆる精進料理を東洋的なヴィーガンの実践として「再発見」する動きがある★6。だが結論から言ってしまうと、筆者はこれには少なくともふたつの点で問題があると考えている。

 ひとつめの問題は、動物の殺生を禁じて菜食につとめるといった点だけを取りあげて仏教の精進料理をヴィーガンと結びつけてしまうと、精進料理がほんらいもつプロセスの思想があいまいにされかねないということだ。たとえば、道元の『典座教訓てんぞきょうくん』は、当時ほとんど雑用と化していた「典座てんぞ」という寺の料理職について語った本で、食事作法について述べた『赴粥飯法ふしゅくはんぽう』と並んで、食の思想としての精進料理を語るときに決まって参照されるものである★7。そこで道元は、坐禅や読書だけでなく、日常的な料理のプロセスのなかにも仏道修行の真髄があると主張することで、日本の仏教(とくに禅宗)における料理の価値をひっくり返したのである★8。つまり精進料理は、たんに動物性タンパク質や「五葷(ニンニクやネギなど、避けるべき五つの香味野菜)」を避ければよいというものではまったくないというわけだ。

 もうひとつの問題は、そもそも東洋の菜食文化は仏教の文脈にかぎられないということである。日本では精進料理という用語ばかりが定着しているが、筆者の考えでは、この言葉を採用したことによって日本のフード論は多くの可能性を切り捨ててしまっている。じっさい、中国の「素食スーシー」つまり菜食の歴史は、ほんらいもっとずっと多様であり、そこには、食材の選択ではなく調理のプロセスから思想を立ちあげる可能性が秘められているのだ。さらにいえば、そこに付随する自然観は、「自然派」を標榜する昨今の食文化のものとはまったく異なっているのである。次回の「料理と宇宙技芸」では、中国の素食の伝統をひもときながら、まさにこうした点を明らかにしたい。


 このように考えると、「料理と宇宙技芸」で素食を論じることには、少なからず重要な背景があるように思われる。けれども、正直に白状すると、三浦哲哉・小松理虔・速水健朗の議論を聴くまで、筆者はこのように自分の直感を位置づけることができなかった。むしろ、なんとなく書けそうだしやってみようというくらいの考えしかなかったのである。つまり、この文章の後半の議論は、ほぼすべてが彼らの対話に触発されたものだ。

 さらに、イベントのなかでは、上野公園論や日本酒談義、チーズバーガー論など、ここに書ききれない魅力的な話題がいくつも出てきた。筆者は、この文章を読んだ方々がすぐさま「シラス」のアーカイブにアクセスし、おなじように気づきやきっかけを得てくれればと思う。そうして、ひいては日本のフード論がもっと豊かで刺激的なものになることを願っている。(伊勢康平)

 


★1 三浦哲哉『LAフード・ダイアリー』、講談社、2021年、91頁。
★2「バックヤード性」については、小松理虔『新復興論 増補版』(ゲンロン、2021年)の第3章「バックヤードとしてのいわき」(88-143頁)で詳しく述べられている。
★3 伊勢康平「料理と宇宙技芸 第3回 黄燜鶏」、「ゲンロンα」、2020年10月。URL=https://genron-alpha.com/article20201020_01/ (2021年4月20日参照)
★4 速水健朗『フード左翼とフード右翼——食で分断される日本人』、朝日新書、2013年、148-158頁を参照。
★5 もう少し抽象的にいうと、食材ではなくプロセスに地域性をみるということは、食における地域性を大地から引きはなすということでもある。この重要性は、拙稿「あたらしい東洋哲学はどこにあるのか」(「ゲンロンα」)で紹介した「地域性を思弁する」というユク・ホイのキーワードとの関連性から理解できる。ユク・ホイにとって、技術多様性は多様な地域性の再発明をつうじて構成される。とはいえ、地域性の肯定には素朴なナショナリズムと結びつく危険性がある。したがって、地域性はある具体的な大地や民族に専有されてはならない。例を挙げると、宇宙技芸としての中華料理は、中国固有の宇宙論に彩られており、その意味で地域性をもった技術だといえる。けれども、この技術はけっして中華民族だけに帰属するべきではない。むしろ、中華鍋をもてるすべてのひとに共有されなければならないのだ。ちなみに、地産地消の運動がパトリオティズムをふくみがちなことは、速水が『フード左翼とフード右翼』の109頁で指摘している。
★6 たとえば、渡邊直樹編『地域人 第66号 特集:現代の精進料理』(大正大学出版会、2021年2月)に掲載された石山洸「殺生しないカッコよさが日本の社会を救うかもしれない」(48-51頁)や、森枝卓士「食は生き方そのもの 時代が精進料理に追いついた」(56-61頁)などがその例である。
★7 道元『典座教訓・赴粥飯法』、中村璋八、石川力山、中村信幸訳注、講談社学術文庫、1991年。
★8 吉村昇洋『精進料理考』、春秋社、2019年、20-21頁参照。とはいえ、こうした発想にも問題がないわけではない。というのは、禅宗的な精進料理のなかで調理のプロセスが重要とされるのは、言ってしまえば日常生活のあらゆる細部が修行の一部とみなされるからである。しかし裏返せば、そこでは料理という技術の特異性はほとんど考慮されていないともいえる。



 シラスでは、2021年10月7日までアーカイブを公開中。ニコニコ生放送では、再放送の機会をお待ちください。

三浦哲哉×小松理虔×速水健朗「シン・フード論――『おいしい』から社会を考える」【『LAフード・ダイアリー』『新復興論 増補版』刊行記念】
(番組URL=https://genron-cafe.jp/event/20210409/

 

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1995年生。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程在籍。専門は中国近現代の思想など。翻訳に王暁明「ふたつの『改革』とその文化的含意」(『現代中国』2019年号所収)、ユク・ホイ「百年の危機」(「ゲンロンα」掲載)、「二一世紀のサイバネティクス」(Webサイト「哲学と技術のリサーチネットワーク」に掲載)ほか。現在、ユク・ホイ『中国における技術への問い』の全訳を仲山ひふみと進行中(2021年にゲンロンより刊行予定)。

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