はじめに──ソ連建築の二つの相 『革命と住宅』より|本田晃子

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初出:2023年9月25日刊行『革命と住宅』
 10月1日にロシア建築史家・本田晃子さんの新著『革命と住宅』が刊行されます。本書は「webゲンロン」の人気連載「亡霊建築論」と「革命と住宅」に大幅な加筆のうえ、「ソ連社会主義住宅年表」などの付録を加えて1冊にまとめたものです。発売を記念し、本書の「はじめに」全文を無料公開いたします。革命は「家」を否定する──社会主義の理念を実体化すべく生み出されたソビエト/ロシアの建築の数々から、理想と現実に引き裂かれた大国ロシアの矛盾が見えてきます。 
  
特設ページ:https://webgenron.com/articles/kakumei/

 これは21世紀の戦争のはずだ。確かに、現在ウクライナ・ロシア両国では、日夜上空をドローンが飛び交っている。SNSではフェイクも含めた戦況が即時に伝えられ、シェアされている。しかし同時に、めまいのするような時代錯誤アナクロニスムを感じないではいられない。まるで前世紀の戦争の、下手な再現映像を見せられているかのような……。 

 2000年代以降、プーチン政権は第二次世界大戦、ソ連風にいうなら大祖国戦争を、大文字の、偉大なる勝利の物語へと書き換えていった。1990年代にはさほど注意を払われていなかった5月9日の大祖国戦争の戦勝記念日が、2005年の終戦60周年を境に大々的に祝われるようになったのは、典型的な例といえよう。またその過程で、無数の個人的な悲劇や不条理、無意味な犠牲、敵だけでなく味方の残虐さといった先の大戦の負の側面は、歴史教育からも公的な言説からも排除されていった。 

 そして2022年2月、ロシア政府はファシズムとの闘いを掲げ、ウクライナに侵攻した。まるで「偉大な戦争」を再演しようとするかのように。かつての敵ナチスの姿をウクライナの人びとに投影し、彼らの殲滅を唱えながら。しかも戦況が泥沼化すると、ソ連時代の旧式の兵器や軍装が引っ張り出され、大祖国戦争時と同様に、ロシア軍の兵士たちは背後の味方に銃を突き付けられながら眼前の敵と戦わされている。その光景は、見方を変えれば、葬ることのできなかった過去──端的には、戦後も埋葬されないまま放置された無数の戦死者たち──が、まさに生きている人びとにとり憑き、同じ行為を反復させているかのようにも映ろう。 

 さらに暗澹たる気持ちになるのが、もうひとつの戦争、すなわち、スターリン時代の大粛清を思い起こさせるような国家の自国民に対する攻撃もまた、再現されつつある点だ。ベラルーシのジャーナリスト、スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチが2012年に上梓した『セカンドハンドの時代』には、元ソ連高官がソ連時代について語った次のような言葉が収録されている。 

 


わたしたちの国家は、つねに非常事態体制で存在していたのです。最初の日々から。国家には平和な生活が予定されていなかった。★1 
 

 ソ連時代には、国家建設や宇宙開発、そして諸外国との戦争といった「国家的使命」が、人びとの日常生活よりも常に優先されてきた。のみならず、ソ連、さらに現代のロシアにおいても、非常事態体制はしばしば国家による法秩序の宙吊りや国民への攻撃を正当化してきた。自己の良心や知見によって政府を批判する者を次々と逮捕・投獄し、あるいは才能のある若者たちの国外流出を招き、戦場では兵士を肉の盾としてほとんど無意味に消尽する行為は、今もなお続いている。 

 ミシェル・フーコーの生政治の概念に従えば、近代国民国家は自国民を教育し、良好な健康状態を保ち、「生かす」ことによってその国力を高める。しかしソ連、そしてロシアでは、絶対王政の時代のように指導者が国民を分断し、その安全や生命を脅かす状況が残存しているかのようだ。しかもそれによって、国民にとっての指導者の権威はますます高められている。指導者と国民のサド=マゾ的関係は、2000年代以降はポピュリズムと結びつきながら、一層強化されているようにすら見える。 

 ではそのような非常事態が常態となった環境下で、建築はどのような役割を担ってきたのだろうか。結論から先に述べるならば、ソ連建築は常に過少であると同時に過剰でもあるような状態に置かれてきた。 

 1917年の十月革命からロシア・アヴァンギャルド建築の全盛期にあたる1920年代末まで、建築には過大なまでの期待がかけられていた。たとえば、住宅を一から設計し直すことで、従来の家父長的・資本主義的な「家族」を解体することができる。公共施設を工場のように機能的にデザインすることで、合理的=社会主義的な心身をもった人びとを生み出すことができる。建築家のみならず多くの人びとが、そのような建築の可能性──新しい空間の建設こそが新しい共同体の創出につながるのだという──を、熱狂的に信じていた。 

 しかし、革命家たちや前衛建築家たちの過剰なまでの建築への期待と、当時のソ連における経済的逼迫や建設産業の混迷、深刻な住宅難といった現実との乖離は大きかった。結局のところ、アヴァンギャルドの実験のほとんどは、紙上の建築、つまりアンビルトに終始した。建築家たちの試みのほとんどは、実際に人びとの日常生活や彼らの心身を変革するには至らなかったのである。 

 1930年代に入ると、社会のあらゆる分野において政治による統制が強まり、建築家たちも党と指導者に従属するようになっていった。そして1937年から37年にかけてソ連社会を飲み込んだ大粛清の大波は、ヨシフ・スターリンのライバルになりうる古参のボリシェヴィキや革命前に教育を受けた専門家、高級軍人などを一網打尽にした。建築界の犠牲者は比較的少なかったものの、それでも建築家が専門家として政府や党の政策を批判することはもちろん、自発的に提言を行うことすら困難になった。 

 革命を建築によって実体化しようとする意志もまた、スターリン体制下で指導者に対する個人崇拝へ、指導者を神のようにあがめるための殿堂を築くことへと、すり替えられていった。その最たる例が、本書の後半で詳述する、巨大なレーニン像を頂上に載せたソヴィエト宮殿の建造プロジェクトである。結果から述べるなら、その重要性にもかかわらず、ソヴィエト宮殿が実現されることはなかった。しかしそれでも、ソヴィエト宮殿は強力なプロパガンダ装置として機能した。指導者の権威を文字通りの巨人として可視化しただけでなく、マスメディアを通じて自らのイメージをソ連全土に流通させ、国民の関心を惹きつけることに成功したのである。さらにそれは、ソ連建築の規範やモデルとしても機能した。自らは実体をもたないまま、ソ連の建築がどうあるべきかを指し示し、建築家たちを操って己の分身を生み出す、イデア(理念)としての建築。しかし見方を変えれば、それは建築の亡霊のようでもある。

 記念碑的な建設プロジェクトが国の総力を挙げて推し進められた反面、スターリンや党指導部は、一般市民の生活には興味をもたなかった。党の幹部や御用知識人・芸術家ら一部の新特権階級の豪華な住まいが次々に建設される一方で、一般労働者向けの住宅の建設は需要に対してあまりにも過少であり、革命以前から続く住宅難はさらに加速した。 

 大多数のソ連の都市住民は、バラックやコムナルカと呼ばれる共同住宅に詰めこまれ、一部屋に複数家族が同居するような過密状態で暮らしていた。彼らにとっての住まいは、住宅の最も根本的かつ最低限の役割である、シェルターとしての機能すら果たしていなかった。会話も行動も常時隣人に筒抜けの状態で、辛うじてプライヴァシーが存在するのはトイレの個室のみ。ゆえに大粛清が開始されると、これらの共同住宅は容易に相互監視の地獄と化した。隣人や管理人に密告された場合は、自らの罪状もわからないまま逮捕され、拷問によって架空の罪を自白させられたり、「文通権なしの十年」の刑(=銃殺刑)に処せられたりする。それはフランツ・カフカの不条理小説さながらの空間だった。 

 しかし1941年6月、状況は一変した。独ソ不可侵条約を一方的に破棄したナチス・ドイツによる、ソ連侵攻が開始されたのである。これによって人為的に作り出された非常事態は、文字通りの戦時体制へと移行した。 

 ソ連軍は近代化の遅れに加え、大粛清による混乱もあって、突然の外からの攻撃に、当初はなすすべなく敗退を重ねた。ウクライナやベラルーシは開戦後間もなく占領され、1941年の冬には、早くもモスクワの目と鼻の先にドイツ軍が迫っていた。レニングラード(現サンクトペテルブルク)は900日近くにわたって包囲され、巻き込まれた市民の多くが餓死した。独ソ戦の趨勢を決定したスターリングラード(現ヴォルゴグラード)の戦いは約8カ月にわたって続き、街は灰燼に帰した。一説には、大祖国戦争の期間中にソ連の住宅の約3分の1が破壊され、兵士・民間人を含め2000万人以上が死亡したとされる。 

 戦中はドイツ軍という明確な「外なる敵」の存在のために、相対的にソ連国内に存在する「内なる敵」(潜在的にすべての国民が相当する)への攻撃は緩められていた。けれども戦後間もなく、スターリンは再び統制を強化する。新たなターゲットとなったのは、ドイツ軍の占領地で暮らしていた人びと、東欧やドイツまで進軍した兵士たちだった。ソ連の外の世界を垣間見てしまった彼らは、政治的に疑わしい存在とみなされ、次々に逮捕・投獄された。1953年には、ユダヤ人医師が党幹部を暗殺したという事件がでっち上げられ、ユダヤ人に対する弾圧も開始された。ナチス・ドイツのアウシュヴィッツを生き延びた人びとは、今度はソ連の強制収容所へと送られた。 

 大粛清が再来するかと思われたそのとき、だが指導者スターリンは急死する。その後巻き起こった熾烈な権力闘争を勝ち抜き、彼の後継者の座に就いたのは、党の実権を握る政治局員のニキータ・フルシチョフだった。彼は間もなくスターリン時代の個人崇拝や大粛清を批判し、ソ連体制の一大転換を図った。「雪解け」の時代が到来したのである。建築の領野においても、フルシチョフはソヴィエト宮殿のようなコストを度外視したプロジェクトを名指しで非難し、労働者向け住宅の大量供給へと舵を切った。その結果誕生したのが、家族単位のコンクリート造の集合住宅、通称フルシチョーフカだった。日本でいうところの団地である。 

 それまで建築の記念碑性や美的調和をめぐる議論にかまけていた建築家たちは、フルシチョフの鶴の一声によって、すぐさま方向転換した。1950年代半ば以降のソ連建築界は、どうやって速く・安く・大量に住宅を建設するかという話題一色になる。こうしてフルシチョフ時代、そして続くブレジネフの時代には、ソ連全土の景観を一変させるほど大量の団地が築かれていった。ちなみにこの時期には、黒川紀章のような建築家や、日本における団地開発の中心だった日本住宅公団の一団も、団地を見学するために訪ソしている。

 団地が変えたのは、ソ連の景観だけではなかった。それまでソ連の公的言説では、私的生活における日常的な欲求を満たすこと、物質的な豊かさを求めることは、社会主義の建設や戦争での勝利といった大いなる目的の前に、常に先送りにされてきた。個人の幸せや満足を追求するのは、利己的で女々しい(このような価値判断は常にジェンダー化されていた)行為とみなされていた。先述のアレクシエーヴィチの『セカンドハンドの時代』に収録されたソ連時代を生きた人びとの証言からは、このような価値観が、党員ではないごく普通の人びとの間ですら広く内面化されていたことが読み取れる。 

 だがフルシチョフ時代に、そのような個人や家族の幸福を追求することが、とうとう認められたのである。それまでバラックやコムナルカなどの共同住宅に押し込まれ、集団生活を余儀なくされてきた人びとは、決して広くはないものの、団地の家族単位の住まいへと大挙して移り住んだ。そして新しい家具や家電を買い揃え、「我が家」──もっともソ連では、個人が住宅を所有することは基本的にできなかったが──をより快適な場所にすることに熱中した。それはもちろん、生活水準の向上をもたらしただけではなかった。大量生産された団地、とりわけそのキッチンは、親しい人間だけが集まる私的な空間となった。ささやかながらも、監視や密告を恐れる必要のない、自由な言論空間が生み出されたのである。 

 1964年にフルシチョフが失脚し、レオニード・ブレジネフがソ連の指導者の地位に就くと、「雪解け」の時代はあっけなく終わりを告げた。対外的には、1968年のプラハの春(チェコスロヴァキアの民主化運動)に対する武力弾圧や、1979年のアフガニスタン侵攻などの強圧的な外交政策、いわゆるブレジネフ・ドクトリンが採用され、国内においても言論統制の再強化が進んだ。しかしいったん私的な領域を築いた人びとは、もはや公的な言説を額面通り信じ、熱狂することはなくなっていた。友人や家族の間では、党や指導者を茶化して笑いのネタにする、アネクドートと呼ばれる政治風刺の小話が飛び交った。1980年代には「ミチキー митьки」と呼ばれるグループのような、社会や政治と切り離された場所で、貧しくとも静かに楽しく暮らしたいと考える人びとも出現した。彼らは団地のボイラー係など、低賃金でも自由になる時間が豊富な職に就いて趣味に打ち込み、自宅のキッチンに友人たちを招いては、自由な会話を楽しんだ。 

 ブレジネフ時代の末期、ソ連社会は停滞していたものの、強固なイデオロギーと軍事力はいまだ揺るぎないように思われた。しかしその硬い外皮の内側では、団地のキッチンやボイラー室のような形をとった空洞が膨張しつつあった。そして長年続いた高齢指導者による支配ののち、1985年に若手のミハイル・ゴルバチョフが颯爽と登場したとき、盤石に見えた体制は音を立てて崩れ落ちた。 

 ゴルバチョフは書記長就任後間もなく、体制の抜本的改革「ペレストロイカ перестройка」(直訳すると「建て直し」)と情報公開「グラスノスチ гласность」に取り掛かった。とりわけ彼の推し進めたグラスノスチは、スターリン体制下におけるトラウマ的な過去も含め、それまでブラックボックスであったソ連体制の内実を白日の下にさらすことになった。結果は劇的だった。建築・住宅政策も含めたソ連体制に対する信頼は、完膚なきまでに打ち壊された。バルト三国らソ連を構成する国々は、ソ連からの離脱を次々に宣言しはじめた。連邦も社会主義体制も、もはや維持は不可能だった。こうして1991年の年末、ソ連は正式に解体された。そしてソ連の瓦礫のなかで、新生ロシアが産声を上げた。

 ソ連の解体と資本主義体制への移行に前後して、それまで公有であった工場やオフィス、そして住宅は、個人の所有物となった。もっとも、文字通りの「我が家」の獲得は、人びとに安定した暮らしをもたらしはしなかった。1960年代、70年代に粗製乱造されたソ連型団地は既に耐久年限を迎えていたが、住宅の私有化によって、それまで政府や自治体が負担してきた集合住宅の管理・修繕のための費用は、住人負担となった。しかし一夜で貯蓄が紙切れとなるような経済混乱の渦中で、住人たちにそれらを支払う余力があろうはずがなかった。結果、放置された団地、とりわけその共用部とインフラの荒廃は加速した。もちろん新築住宅の購入など、平均的な所得のロシア人にとっては叶うはずのない夢物語だった。 

 2000年代に入ると、ロシア経済は徐々に安定を取り戻していく。筆者は2007年からコロナ禍前まで毎年のようにモスクワを訪れ、急ピッチで再開発が進み、刻一刻と様変わりする首都の姿を目のあたりにしてきた。戦時下の今もなお、モスクワでは地下鉄の路線はどんどん延び、日本でもあまり見ないようなおしゃれな公園や超高層のオフィス・ビル、さらにはタワーマンションのような超高層アパートメントまでが次々に建設されている。各種メディアや広告は、最新のゴージャスな住宅のイメージであふれている。しかしそのような首都中心部の景観や住宅のイメージとは裏腹に、郊外や地方都市に住む大多数の人びとは、今もまだソ連時代の住空間に囚われたままなのである。 

 そしてこれら老朽化した住宅は、安全なシェルターから危機の空間へと変貌しつつある。水圧や電圧は常に不安定、老朽化したガス管は火災やひどいときには爆発事故を起こす。そして1999年には、一般市民の住む団地が、他ならぬテロの対象となった。同年の8月から9月にかけて、モスクワや地方都市の複数の団地およびショッピングモールに仕掛けられた爆弾が炸裂し、300人近い人びとが死亡した。ロシア政府はチェチェンの独立派によるテロと断定し、報復としてチェチェン内の独立派の拠点グローズヌィへの空爆をただちに行った。だがさまざまな状況証拠により、現在ではこの一連のテロはFSB(ロシア連邦保安庁)による自作自演の可能性が高いといわれている。国家による国民への無差別攻撃は、ソ連からロシアに体制が移行しても継承されているのだ。そして現在ウクライナでは、軍事標的ではなくソ連時代に建設された団地が、ロシア軍の主要な攻撃対象とされている★2。 

 皮肉なことに、ソ連時代の老朽化した団地の建て替えは、チェチェンのグローズヌィやウクライナのマリウポリのような激しい攻撃によって街区ごと破壊された場所において、最も活発に行われている。団地の廃墟が更地にされ、そこに真新しい集合住宅が急ピッチで建設されるさまは、まるでそこで起きた暴力の炸裂をなかったことにしようとするかのようだ。もっともこのような土地の記憶の抹消は、現代になって突然開始されたわけではない。そもそもかつてのソ連型団地こそ、大祖国戦争の戦場だった場所に、その傷跡を覆い隠すかのように猛烈なスピードで建設されたものだったからだ。 

 しかしどれほど土地を更地にし、空間を更新しても、暴力は不可視のトラウマとして人びとの心身に残り続ける。だからこそ、精神分析におけるように、トラウマ的な過去は言葉やイメージ、あるいは記念碑のような媒体によって可視化され、意味を与えられ、特定の場に固定されねばならない。そのようにして過去と距離をとり、客観化し、喪の儀式を完遂せねば、過去は亡霊のように生きている人びとに憑依し、自らと同じ運命を繰り返させようとするからだ。ロシア文化研究者のアレクサンドル・エトキントは、それにもかかわらず、ロシアでは喪の儀式が正しく執り行われておらず、大粛清や大祖国戦争の抑圧されたトラウマは、死者の姿として回帰し続けていると述べる★3。 

 その一例として、『ゲンロン7』の共同討議「歴史をつくりなおす」でも紹介された、草の根の市民運動「不死の連隊 Бессмертный полк」が挙げられよう★4。同運動は、公式行事である戦勝記念日の軍事パレードに対抗するものとして誕生した。大多数の参加者は軍人ではなく一般市民で、戦勝記念日の5月9日に、大祖国戦争に参加した家族の写真を掲げ、当時の赤軍の軍服のレプリカを身につけ、広場で語り合ったり、大通りを行進したりする。この運動は間もなくロシア全土に広まり、現在では1000万人近い市民が参加しているという。死者は死者ではなく、子孫という生者の姿を借りて、現在も生きているというのが運動のひとつの主旨のようだ。だが2022年2月24日以降は、死者と同じソ連時代の軍服姿で練り歩く人びとの姿は、現在ウクライナで架空の「ファシスト」を相手に戦っているロシア軍の兵士たちの姿にも重なって見えるだろう。本物の戦争がはじまっていた2023年に同イベントの集会や行進が中止されたことも、このような文脈からすると示唆的である。

 



 さて本書では、現在に対してこのように強烈な影を落としているソ連という過去を、「建築」という観点から読み解いていく。 

 とはいえなぜ建築なのか。一部の軍事建造物を除いて、一般的に戦争と建築は水と油のような関係にある。戦争は建築物を破壊し、平和が訪れた後、その瓦礫の上に再び築かれるのが建築だからだ。しかし建築は、たとえ意識されていなくとも、社会を構成する非常に強力なメディアの一部である。建築空間はその物理的な強制力によって、人びとの行動や価値観、そして人と人、人と社会の関係にも作用する。たとえば先に述べたように、ソ連の住宅政策はスターリン期とフルシチョフ期の間で大きく変化したが、雑多な人びとの共同生活を前提とする住宅から家族単位の住宅への移行は、(もちろん他にも多くの要因があったとはいえ)人びとの社会へのかかわり方までも変えてしまった。あるいは、スターリン時代に築かれた権威主義的なモニュメントや建築物は、ソ連崩壊後も人びとのメンタリティに作用し続けている。ソ連が常に非常事態体制にあったとするならば、建築はそのような体制の結果として生まれただけでなく、そのような体制を作り出しもしたはずなのだ。 

 ただしソ連建築を読み解いていく際に、本書では議論を大きく二つのカテゴリーに分けてみたい。というのも、建築はわれわれに対して、直接的かつ身体的(とりわけ触覚的・聴覚的・嗅覚的)に作用する場合と、言葉やイメージからなる抽象的な概念として示される場合があるからだ。 

 住宅は、まさに前者の代表格といえよう。「労働者の国」であるソ連において、労働者のための住宅の建設はプロパガンダの中核であると同時に、プロパガンダと現実のギャップが如実に表れる地点でもあった。公的な言説が作り出す「ソ連の日常生活」や「われわれ労働者の住まい」といったリアリティと、人びとが肌で感じるリアル、つまり決してソ連メディアには現れることのない、泥酔した隣人の怒鳴り声や嗚咽、夕食の匂いから饐えた体臭、糞便の臭いといったものが、そこでは衝突し混ざり合うのだ。したがって本書の前半「革命と住宅」では、そのような建築のリアリティとリアルの葛藤の場として、ソ連住宅の歴史に注目したい。 

 本書の後半「亡霊建築論」では、打って変わって純度100パーセントのイデオロギー空間、すなわちアンビルト建築の歴史をひも解いていく。ソ連ではとりわけその建設期と衰退期に、実現されずに終わった、あるいは実現をそもそも念頭に置いていない建築プロジェクトが多数構想された。しかしそれらのすべてを無力な、単なる失敗した計画であったとみなすことはできない。それらの一部は実在の都市や建築空間に優越する純粋な理念として、あるいは批評として振舞ったからだ。のみならずソ連のアンビルト建築は、体制やイデオロギーの相違を超えて、黒川紀章や磯崎新、あるいはレム・コールハースやザハ・ハディドなど、日本や世界で活動する建築家にも影響を与えたのである。 

 膨大な数が建設された労働者住宅とアンビルト建築は、一見すると全く接点のない別の世界の現象のように感じられるかもしれない。けれどもまさにこれらの両極間の振幅として現出したのが、ソ連建築だった。そしてそれは、高邁な精神と、不条理な剥き出しの暴力が複雑に交錯して生み出されたソ連社会そのものの縮図として読むことができるのだ。したがって本書では、現在のロシアを、そしてその不可解な戦争へと至った背景を理解するためにも、建築というメディアを通じて、ソ連という過去を読み解いてみたい。

 


★1 Алексиевич С. А. Время секонд хэнд. М., 2013. С. 128. 邦訳は、スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ『セカンドハンドの時代──「赤い国」を生きた人びと』松本妙子訳、岩波書店、2016年、150頁。 
★2 たとえば2023年1月にウクライナ東部の都市ドニプロの集合住宅を破壊した攻撃では、本来空母などの軍事標的を攻撃するための空対艦ミサイルKh22が使用された。「住宅ビル攻撃は巡航ミサイル、ウクライナに『撃墜能力ない兵器』と当局者」、CNN.co.jp、2023年1月19日。URL=https://www.cnn.co.jp/world/35198836.html(2023年3月23日閲覧) 
★3 Alexander Etkind, Warped Mourning: Stories of the Undead in the Land of the Unburied (Stanford: Stanford University Press, 2013), pp. 12-19. 
★4 乗松亨平、平松潤奈、松下隆志、八木君人、上田洋子「歴史をつくりなおす──文化的基盤としてのソ連」、『ゲンロン7』、2017年、61-65頁。

本田晃子

1979年岡山県岡山市生まれ。1998年、早稲田大学教育学部へ入学。2002年、東京大学大学院総合文化研究科超域文化科学表象文化論分野へ進学。2011年、同博士課程において博士号取得。日本学術振興会特別研究員、北海道大学スラブ・ユーラシア研究センター非常勤研究員、日露青年交流センター若手研究者等フェローシップなどを経て、現在は岡山大学社会文化科学研究科准教授。著書に『天体建築論 レオニドフとソ連邦の紙上建築時代』、『都市を上映せよ ソ連映画が築いたスターリニズムの建築空間』(いずれも東京大学出版会)など。
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