リベラルからラジカルへ──コロナ時代に政治的自由は可能なのか(1)|外山恒一+東浩紀

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ゲンロンα 2020年6月2日配信

 2020年5月25日、コロナウィルスの流行にともなう緊急事態宣言が全国で解除されました。東京では街にひとの姿が戻り「自粛明け」ムードが強くなる一方、本日6月2日には都内で30人を超える新たな感染者が確認され、小池百合子都知事による「東京アラート」の発動が検討されています。
 そうした日々流動する情勢のなかで、人々の自由はどのように担保されるのでしょうか。ゲンロンカフェでは5月10日、革命家の外山恒一氏をお招きし、東浩紀との対談を放送しました。ほとんど同世代でありながら、これまで「パラレルワールド」を生きるように交わらなかったという外山氏と東。そのふたりの対談が実現したのは、コロナ禍における監視社会の進行に対して、共通して強い危機感を抱いていたからでした。なぜ「リベラル」は、自由をみずから放棄する行動を取ってしまったのか。そしてコロナ禍以降、言論人のあり方はどのように変わるべきなのか。人間にとって本当に大切なものとはなにかを根本から問いなおす対話の模様を、2回に分けてお届けします。第2回は6月中旬公開予定です。
 この対談の第1部の模様は、Vimeoにてご覧いただけます。ぜひお楽しみください。(編集部)
 
東浩紀 今日は「コロナ時代に政治的自由は可能なのか?」というタイトルで、革命家の外山恒一さんをゲンロンカフェにお招きしています。外山さんをお招きするのは2回目ですが、ぼく自身はじつは初対面です。外山さん、今日はどうぞよろしくお願いします。

外山恒一 よろしくお願いします。

大衆に勝てないリベラル


 今回のイベントは外山さんのご提案で実現しました。ぼくは外山さんの活動は以前から知っていました。『ゲンロン』での座談会がもとになった書籍『現代日本の批評』について外山さんがサイトで長くコメントをしてくれているのも読んでいます。

 1970年生まれの外山さんと71年生まれのぼくは、社会の大きな変動をほぼ同じように経験しているはずです。しかしそれらに対する反応や、これまでの活動は大きく異なっている。だからぼくとしては、パラレルワールドを生きているようだと思っていた。なので今回のご提案には正直驚きました。

外山 東さんとは以前からお話したいと思っていたのですが、直接のきっかけは今回のコロナ騒動です。ぼくは普段、テレビのニュースをほぼ見ないので世情に疎いのですが、それでも今回のコロナを受けて、人々が進んで自粛に従っていく風潮はおかしいと、徐々に感じるようになりました。補償も十分にされないのに自粛し、同調圧力でお互いを監視し合うような状況に苛立ち始めた。なので個人的に、ネット上で反自粛の宣言をして、ゴールデンウィークに高円寺の駅前で「独り酒」と称して活動を行なったりしました。要するに「街に繰り出せ、集まれ」ということですが、社会全体がこれだけ神経質になってる状況だし、無届集会の主催ということで逮捕される可能性を警戒して、「駅前広場で独りで飲んでるから、絶対に来るなよ」という呼びかけ方をしたんです。結果、駅前に毎日100人くらいが集まって、路上で宴会をしていた。

 その過程で、東さんも今回の自粛に対して異論を提起していていると知りました。しかも論点が反監視社会・反管理社会という点で、ぼくの主張とかなり一致していた。そこでゲンロンにメールを送り、この対談を提案しました。

 光栄です。

 今回のコロナ禍で、いままでの「国家対リベラル」という図式は崩壊し、リベラル論客のほうが国家による強い監視を求め始めています。そこに驚いています。外山さんはコロナ騒動が始まってからのリベラル勢力の動きをどうご覧になっていますか。
外山 がっかりといえばがっかりですが、リベラルなんてそんなものだろうとも思います。ぼくは今回のコロナ騒動で起こった大衆のヒステリーは、1995年のオウム事件以来の、第2弾だと捉えています。オウムのとき、警察による別件逮捕や微罪逮捕に対して、問題にすべきリベラルのひとたちは一斉に黙ってしまいました。こんなことを言うと「嘘をつくな。あのときもリベラルはちゃんと発言した」と反論してくるひとも多いんですが、それはヒステリックな空気がだいぶ収まった後、破防法適用が云々され始めてからのことです。事件勃発直後の、ヒステリー現象の真っ只中で発言しないのではなんの意味もありません。事件勃発から数ヶ月は警察批判は完全なタブーになり、そのなかで宅八郎や鈴木邦男、吉本隆明に絓秀実など、一部のひとだけが異論を唱えていた。そのとき以来、リベラルは役に立たないとぼくは思っているんです。今回もやはり同じでした。ヒステリーに乗じて監視社会化が一気に強まるという、1995年の繰り返しが起きている。

 しかも今回は日本国内だけではなく、ヨーロッパでも事情が同じですね。知識人はたいていロックダウンに賛成してて、ちょっとちがうことを言ったジョルジョ・アガンベンが叩かれているぐらいです。結局リベラルも、緊急事態では自由が制限されるのはしかたがないと言いだしてしまった。

外山 逆に言えば今回のような緊急事態を、普段のリベラルの議論はまったく意識してないわけですよね。そんな議論はお花畑と言われてもしかたがない。

 そうなんですよね。「国家にとって緊急事態だろうがなんだろうが、集会や移動の自由は大切なんだ」と主張できなければ、なんのための言論だったのか。今回はいろいろがっかりしました。

外山 リベラルは民主主義を否定できないんですよ。つまり大衆に敵対するという選択肢がない。だから今回のように大衆がヒステリーを起こし、「強権を行使しろ」と主張すれば、それに従わざるを得ない。

 リベラルはなにかと「かつての戦争が……」と言いますが、第二次世界大戦にも大衆のヒステリーがあり、それに乗らないひとは非国民として扱われた。つまり現在のリベラルがもしタイムスリップして戦前に行ったとしても、なにも戦えないということでしょう。
 
イベント当日の様子(放送画面よりキャプチャ)。ふたりの初の対談は外山氏からの提案で実現した

 

インターネットは自由な言論の場であり得たか


 なぜ日本のリベラルはこれほど「大衆の意志」に弱くなってしまったのか。これはコロナ前から起きていた事態ですね。むかしはネットの大衆運動といえばネトウヨの代名詞でしたが、いまやリベラルも、活動の中心をネットでRTや署名を集める方向へシフトしている。現在のリベラルは、Twitterユーザーの言うがままです。

外山 その問題は重要です。さきほど大衆のヒステリーとオウム事件の話をしましたが、日本におけるネット空間とリベラルの癒着も、そこにはじまりがあると思っています。日本においては、大衆的なヒステリーを国民がはじめて経験した時期に、インターネットの登場が重なった。
 たしかにオウム真理教による地下鉄サリン事件が起きた1995年は、Windows95が発売された年でもあります。「インターネット元年」とも呼ばれました。

外山 そうです。日本ではその偶然の一致によって、ネットが大衆のヒステリーに親和的なものとして定着し、各方面に影響を持ったのではないか。日本のインターネットはその初期から、ヒステリーを通過した大衆の世論の増幅装置でしかないと思っています。

 もちろん昨今のブレグジットやトランプ現象に顕著なように、ネットは日本に限らず大衆のヒステリーと親和的で、とくに現在はその特性が全面化しています。しかし外国が大衆的なヒステリーをはじめて経験するのは2001年の同時多発テロです。つまり、日本とは6年の差があった。そのあいだに欧米ではネット社会があるていど構築され、そのコミュニティがヒステリーに乗らない少数派の発信の場になりえたのだと考えています。諸外国の情勢と日本国内の情勢との差を生み出してる6年というこの時差にぼくはこだわっています。

 ぼくは初期からのネットユーザーとして、日本でもオルタナティブメディアとしてのインターネットを作るチャンスはあったと思っています。たとえば2000年代前半の「はてなダイアリー」には若いライターが集まり、そこでの議論はあるていどマスコミから切り離されていたけど、それなりに影響力があった。1995年からしばらくのあいだ、少数派はインターネットに集まっていたと思う。そのなかから2ちゃんねるなども出てきて、いろいろな活動がありました。

外山 そこがぼくと東さんの歴史観がずれているところですね。オウムの事件のときに監視社会への違和感を持たない日本人が大多数になったので、ネットにははじめから可能性はあまりなかったとぼくは思っている。ネット文化が始まったところで、日本人の99.9%が監視社会を受け入れる体質だったら、それは監視社会化・管理社会化を強化するツールにしかならないだろうと。

 その見通しは長期的に当たり、現実にはそうなってしまいましたね。ですが、やはりぼくは1995年から2005年ぐらいまでのネットには、可能性があったと思います。既存の価値観を壊したのは事実だし、ある種のアナーキーさもあった。もちろんそれはネトウヨ的なものの起源にもなるのですが。

 ぼくは『文藝』2019年夏季号に寄せたエッセイで、平成の30年間を振り返り、インターネットの登場を含め、日本社会に生まれたさまざまな期待が、最終的に裏切られたのが平成という時代だったと書いています。民主党政権の誕生は2009年で、そこまではITを含めて世の中が変わると期待されていた。その時期には、ぼくもインターネットが集める新しい人民の意志について本を書いたことがありました(『一般意志2.0』)。しかしその矢先に東日本大震災が起き、ネットは最終的に現在のような状況になってしまった。いまとなってはほとんどなにも期待できない。

SNSとクリエイティブクラス


 今回のコロナ騒動で世界的にこれだけ外出禁止や移動制限が広がったのは、ネットの影響が大きいと思います。もし20年前に今回のウイルスが来ていたら、これでは社会は成り立たなくなってしまったはずです。オンライン授業だってできなかった。

 これは言い換えれば、今回のコロナ騒動の本質は、感染症の問題でだけでなく、資本主義の問題でもあるということです。ひとことで言えば、社会をどんどんオンラインにしたい勢力がコロナを利用している。「クリエイティブ・クラス」と言われるような、オンラインだけで仕事が完結する人々が、この騒動をきっかけにして自分の勢力を拡大しようとしているということです。

 たとえば日本の大学では、すでに春学期全体の授業をオンラインで行うと決めたところが多い。この流れの背後には、発端となった東京大学が国際大学ランキングを上げたいという事情があると思います。ハーバード大学などのランキング上位校はかなりオンライン授業をしているからです。しかしこれは大学の評価のために、コロナを利用しているだけですよね。
外山 そもそもみんながSNSに時間を割く生活になっていなければ、こんなパニックは起きてないですよ。

 ほんとうにそうです。SNSは、じつはクリエイティブ・クラスの人間が多すぎて社会を反映できていない。Twitterでは大学の授業やライブハウス、劇場ばかりが話題でしたが、実際にそれらが社会のなかで占める割合はそこまで大きくないはずです。

外山 たしかにぼくの知り合いでも、世間一般の比率と比べればですが、SNSをやっていないひとは多い。

 にもかかわらず、報道機関が早くからテレワークと言いだした。Zoomでインタビューして、Twitterで話題を拾えばニュースを作ることができると、記者のほうも勘違いしてしまっているわけです。結果として、SNSで情報を発信している人間の声ばかりが広がる状況になっている。それは社会のごく一部で、SNSで情報を発信していないひとたちが多くいるのに、後者の声を拾い上げる機能を報道が果たしてない。

外山 ジャーナリスト魂はどこへ行ったのか。足で稼がないなら、ジャーナリストをやめろということですよね。

 東さんが書いていましたが、AmazonやUber Eats を使って暮らせる人間はそれでよくても、荷物や食べ物を運ぶ人間がいるという当然のことをだれも気にしない。

 みんな配達員をロボットみたいに捉えている。彼らの存在が完全に匿名化されてしまっていて、できれば自動配達で変わってほしい、と。実際にアメリカでは、配達員のような不特定多数に接する職業についているヒスパニックや黒人のひとたちの死亡率が、白人よりも有意に高いというデータも出てきています。オンライン化によって生み出されるこうした問題に対して、人々はもっと自覚的でないといけない。今回驚いたのは、リベラルを称する人間でこういうことを訴えたひとがすごく少ないことですね。

外山 いちばんいろいろ言わないといけないはずでしょう。

 そういうことをまったく考えず、「医療従事者に対してありがとう」みたいなことばかり言っている。感謝は大切ですが、それで済む話でもないんですよ。

外山 オンライン化については、SNSのパニックに迎合するような政策が行なわれていることも問題です。それによって世界中で、みんなが自粛をさせられている。しかし高齢者や病人以外の致死率は高くないのだから、政府は彼らの避難所として宿泊施設を借り上げ、しばらく無料で安全な環境で暮らしてもらえばいいだけの話です。それ以外の若者や健康なひとは自粛やオンライン化などせず、これまでどおり自由に町に出てもらえばいい。
 疫学的に見ても、なぜそういう議論が広がらないのかわからないですね。

外山 もしかしたら政界や財界のえらいひとがみな高齢だから、自分たちが引きこもっているうちに世代交代を起こされる困る、ということかもしれません。そのあいだに若者だけで社会を回し始めたら、あらゆる分野で世代交代が成功してしまう。世界中の若者はそのことを勘づいて「自粛反対」と暴れたりしています。しかし日本ではそういう動きも起きず、むしろ若者のほうこそ自粛に率先して従っている。情けない状況です。

文化はグレーゾーンである


 自粛のかわりに補償を求める運動があります。ぼくは店舗閉鎖への補償は広くあっていいと思いますが、文化関係者に限るとべつの問題もある。もともと劇場やライブハウスは、さまざまな点で「グレーゾーン」の存在で、だからこそサブカルチャーは生まれてきたわけですよね。だから、今回、「厳しいときは国が守ってください。そのかわり、わたしたちはさまざまな配慮のもとで法律的に正しいことをします」という論理で補償を求めてしまったというのは、のちのち自分の首を絞めるのではないか。ぼくはこういう警戒感が、もっと文化人のあいだで共有されているものと思っていた。ひとことでいえば、文化って本質的に「危険」な存在だから、カタギのようには守ってもらえないよなって感覚です。

 とりあえず、ぼくはゲンロンカフェというスペースを運営する人間として、そういう感覚でやってきたんですよね。だから、自分たちがグレーゾーンなことを行なっているという意識がいまはクリエイターの側にほとんどないようだとわかって、ちょっとびっくりしました。

外山 いかに自分たちが、いざとなったら簡単に潰される存在なのかということにまったく無頓着で、無防備ですよね。

 そうなんですよね。権力批判などはまさに危ういものです。当たり前ですが、敵はとても強い。潰しに来たら潰されてしまう。では国家に抵抗するために大衆を味方につければいいかといえば、それはそれで危険です。大衆は大衆で頭がかたくて保守的だし、なによりも飽きっぽい。彼らが一度味方になってくれても、それがいつまで続くかはわからない。言論人とかクリエイターとかいうのは、その隙間で仕事をするもんだと思っていたんですけどね。

外山 リベラルはそこを勘違いしがちです。人民がクリエイターの味方とは限らないですよ。

 ぼくはそもそも、サブカルチャー文化方面のひとたちはほんとうにひ弱だと思っていました。だからはじめから期待していなかったのですが、それでもせめて、すぐに自粛に応じるのではなく、もっとごねる必要があったと思いますね。「お願いだから閉めてくれ」と言われるまで粘って、恩を売るかたちにして、再開後にグレーゾーンであることに目をつぶってもらうこともできた。しかしサブカルチャーはそういうこともしていない。

 それに対して全国各地には、自粛に応じずに頑固に営業を続けている飲み屋が数多くある。あるいは堂々とはやらずに闇営業的に、8時に閉めているふりをして営業を続けている場所もあります。それはそれでしかたないし、むしろ偉大な闘争ですよ。それに比べて、社会派を意識するサブカル知識人はあまりに軟弱です。彼らのテーマソングはECDの『言うこと聞くよな奴らじゃないぞ』だったのに、いまでは「言うこと聞きまくり」じゃないか。
 それどころか「言うこと聞くから補助金をくれ」になってしまっていますね。今回のコロナでは、自分たちが言うことを聞かない(=自粛しない)のは補助金をくれないからだという議論を展開してしまった。しかし「言うことを聞く」と「補助金をくれ」という主張をつなげるのはよくない。

 ライブハウスでも劇場でも、閉鎖で脅かされるのは人々の「集会の自由」です。ひとが集まらなかったらなにもできないのだから、それは政治的自由のなかでも根本の根本のものです。ある意味では表現の自由よりも重い。それを脅かされていることにこそ、ほんとうは反対の声を上げるべきだった。雇用とか業界維持とかの話は二の次で、まずはひとが集まることは大事ですよ、というところから議論はスタートするべきだったと思います。逆にぼくとしては、今回の騒動で、ゲンロンカフェという場所を持ち、ひとを集めることに大きい意味があることを、あらためて確認しました。

外山 リアルで集まることが基本なのに、最近リベラルは「バーチャルデモ」と言って、SNSの世界のハッシュタグ数で喜んでいるわけです。しかしバーチャルでデモをしても、なにも怖いことはない。実際に町でデモをしたらケンカを吹っかけられたり、殴られたり、そういうこともあり得るわけですよ。そうした緊張感はバーチャルデモにはない。そんなものはなんの責任感もない、趣味に過ぎません。

 さきほどからニコ生のコメントで、じゃあなぜゲンロンカフェは早くから自粛しているのかと聞かれています。その理由は、ぼくは放送でもいいので続けたい、つまり「場を守りたい」からです。まずは、ぼくの信念とお客さんの考えはちがう。そこでお客さんに不安を与えたくない。つぎに、日本人は相互監視が強い。ゲンロンのような小さい会社は監視や妬みによる攻撃に弱い。嫌がらせの通報を跳ね除けて、うちは自粛してませんという体力はありません。

 それを「言ってることとやってることがちがう」とか「ヘタレ」だとか批判するのは簡単ですが、グレーゾーンで持続的に活動するというのは、現実的にはそういうことだと思います。

外山 グレーゾーンをどう守り、維持していくかは大事ですよね。たとえばさまざまな運動において、既得権になっているものがあります。この団体が絡むと警察も口を出しにくい、とか。しかしそれはもともと、その団体が実力で奪い取ったものだから、文句は言えません。グレーソーンとはそういうふうにして、力関係で守るべきものなんですよ。

 ぼくもそう思っています。こういう場所を守るためには、一方で屈するべきときは屈しつつ、でもときどき新聞に出るとか、大企業の社長や議員も登壇するとか、そういうことも含めた力関係をつくっていく必要がある。「おれたち文化だから守ってくれ」というのは、そういう点でも違和感がありますね。

運動は「続ける」ことが大事


外山 『現代日本の批評』を読んでも思ったのですが、いまの話を聞いてあらためて、東さんのここ10、20年の動きはほとんど活動家だと感じます。

 じつはぼくもそう思うんですよ(笑)。
 
東浩紀監修『現代日本の批評 2001-2016』(講談社)

 
 ぼくのそういうところは、もしかしたら浅田彰さんの影響かもしれません。ぼくは浅田さんと柄谷行人さんが中心になって発行していた『批評空間』から批評家としてデビューしました。当時浅田さんがぼくに言った、「ドゥルーズ=ガタリはドゥルーズばかりがえらいと言われているが、ほんとうはガタリがすごいんだ」という言葉が印象に残っているんです。ガタリはさまざまなひとを呼び、ネットワークを作るひとだった。浅田さん自身も、自分はガタリになりたいと言っていた。それがぼくの基底にある。

『批評空間』は最先端の現代思想誌のようなコンセプトで始まりながら、途中から運動に傾斜していった。それが最終的にNAMに結実します。ただ、ぼくはそのころは柄谷さんと話さなくなっていたし、NAMも数年で終わってしまったから、NAMとはなんなのかがよくわからなかった。そのわからないNAMのようなものを、自分なりにもう一回やっているとも言えるかもしれない。

外山 ひとが出会い、相互作用を起こす場を維持しようとするのは、まさに活動家です。だからぼくは東さんに非常に親近感を覚えた。

 とはいえ、外山さんのように運動をやってるひとたちから見ると、ぼくはいろいろぬるく見えるのではないかと思います。でも、それもしかたないと思っているんですよね。

 ぼくは、戦いは「自分が死んでもいい」と思っている精鋭部隊だけで行うものではないと考えています。たとえば、ゲンロンには社員一人ひとりにいろいろな考え方があり、そういうひとたちが集まってはじめて放送や出版ができる。「自粛叩きに負けるやつは出ていけ」では成立しないわけです。むしろ精鋭部隊的な戦い方をしてきたことが、いま活動が先細りしている理由だと思います。

外山 問題は自粛をしたかしていないかではなく、それを悔しいと思っているかどうかです。同調圧力の強い日本だから、自粛すること自体はしかたがない。それは圧力や権力に負けているようにも見えるけれど、負けてもべつにいいんですよ。そんなに簡単に勝てる相手じゃないんですから。さきほどもすこし触れましたが、自粛中も影で営業を続ける飲み屋や、マスターが中継でなにかを発信し続けているライブハウスが全国各地にあります。そういう運動のやり方もある。いちばんよくないのは、自分が悔しいことをごまかし、「むしろ自粛するほうが正しいんだ」と自己洗脳をして、イデオロギー的にも自粛派になってしまうことです。そういうひともよく見かける。

 ぼく自身、今回のコロナ騒動で反自粛運動を行なって狼藉を働いているのは、1995年のオウム事件のときに十分に戦えなかった悔しさがあるからです。当時戦えなかったことを、しかたがないとごまかさずに、悔しいと思いつづけている。そうしないと、つぎに戦えなくなるんです。

 「続ける」はキーワードですね。東京の新規感染者数が抑えられてきたいまのタイミングでは、日本でも自粛ムードは収まって見えます。しかし、世論は日々変わる。そのなかでも筋を通しつづけることが大事なんです。
外山 ぼくは今回のコロナ騒動に対して、保守とリベラルの双方で、大多数のひとが黙ってしまったことを残念に感じています。しかしごく少数の人々が、自粛や同調圧力の強さに対しておかしいと言っている。だからいまこそ、そういうひとを集めるチャンスだと思っている。また今回のようなことは起きるでしょうから、今後も戦い続けるために仲間を集めるチャンスだと。そのための時間が欲しいから、なるべくこの騒動は長引いてほしい(笑)。

命より大事なものを考えること


外山 いま、保守・リベラルの両方ともがコロナ騒動で黙った、と言いました。たしかにそうですが、どちらかといえば右派のほうが自粛に反発しているひとが多い印象がある。やはり右派は、命よりも大事なものがあるという感覚を持っているのだと思います。一方でリベラルには「命が大事」という思想が根強くあって、だから自粛に従ってしまう。

 リベラルの「命が大事」という思想は、1988年の反原発運動の第一次ムーブメントまでさかのぼれます。そのときに反原発派が「原発よりも命がだいじ」というスローガンを掲げて、それが強く浸透したんです。東日本大震災の後もそのスローガンが生きていて、そして今回のコロナ騒動までつながり、リベラルに進んで自粛をさせてしまう。

 よくわかります。「命が大事」という言説については、命より大事なものがないのはほんとうか、と根本的に問うべきです。こう言うとぼくもいよいよ危険人物みたいですが、しかしこれはほんとうに考えないといけない。リベラルと保守のちがいは、個人の命と集団の命のどちらを大事にするか、という軸で再考できますね。

外山 右派は自分の命より、民族や国家といった集団の命が大事ということですね。

 集団の命が大事という考えは、ナショナリズムや全体主義に近づくから危険だと言われます。ぼくも同意します。しかし他方で、人間は目のまえでひとが死にそうだったら、危険でも助けようと思ってしまう。そういう利他性こそ人間性や社会の基礎で、それを否定してもしかたがないわけです。人間は、自分の命より大きいものを持っているからこそ、人間たりえている。全体主義を否定することは大事ですが、それは自分の命だけを考えればいいということとイコールではなかったはずです。しかしリベラルにとってはいつのまにか「命が大事」という狭い話になってしまった。

外山 だからこそこういうときに、リベラルは戦えない。今回、ぼくは自由であるという根本的なことを求めています。だから反自粛・反同調圧力を呼びかけている。自由にとっていちばん重大なのは、同調圧力や監視・管理社会化の進行です。しかし、多くの知識人がそれを焦点化できていないんですよ。

 リベラルが自由についてもっと突き詰めて考えれば、今回のような安易な自粛肯定にはつながらなかったと思う。自由はさまざまなものと両立しない。「命」とも両立しないのかもしれない。それでも人間は自由を求めてしまう存在です。そういうことを原理的に考えなければいけないんですよ。ところがいまの社会は、自由と安全のバランスを求めようとしている。結果が監視と管理の肯定になる。
外山 それこそぼくが「人民の敵」を名乗り、民主主義粉砕のファシストになった理由です。人民の敵でなくては自由は守れない。大衆こそが自由の敵なんです。

 だから大衆と敵対できないリベラルではなく、ラジカルであることが非常に重要だと思う。東日本大震災のときもそうでしたが、ミュージシャンや芸術家が急に政治に目覚めて口を出し始めても、普段はパンクだのなんだとラジカルを装っておきながら、結局はリベラルなことしか言わない。だったら黙っていたほうがいい。現在もっとも政治的な行動とは、政治的なアピールを抜きにしてひたすら活動を行うことです。

 実際、ぼくは革命家として、これほど楽しい日々はない。じつは活動家としては去年の段階で半ば引退しているつもりだったんです。しばらく世の中が激しく流動することはない、と。ところがコロナ騒動が起きて、しかも自粛に抵抗する動きが全然出てこない。これはなにかやらねばと、舞い上がっているところです。

 リベラルとラジカルの区別は大事だと思います。ラジカルというのは、原理的に考えるということですよね。コロナによって社会や人間について原理的に考える人間と、そうではない人間が振り分けられた感じがします。

外山 今回のコロナ騒動は、言論人を判断するリトマス紙のようになっていますね。最初に東さんが言われたように、これまでの保守対リベラル、右対左のような対立ではなくなっている。同調圧力に対して違和感を表明したり、抵抗するひとたちこそ今後活動を一緒にできる、戦える仲間だと思っている。

 いずれにせよ、これからは「反安倍」を掲げるだけでは良識ぶれなくなる。自分や社会にとってなにが大事か、その部分を根底的に考えてるか、考えていないのかがはっきり問われてくると思います。

2020年5月10日 東京、ゲンロンカフェ
構成・撮影=編集部

第2部はこちらから。

本対談は、2020年5月10日にゲンロンカフェで行われたイベント放送「コロナ時代に政治的自由は可能なのか?」を編集・改稿したものです。

外山恒一

1970年生まれ。革命家。「九州ファシスト党・我々団」総統。高校時代に“反管理教育”の活動家となり、89年、『ぼくの高校退学宣言』で単行本デビュー。90年代を“異端的極左活動家”と“売れない文筆家”の二足のワラジで過ごした末、02年、“反ポリティカル・コレクトネス”的な活動に関連して逮捕され、2年間の獄中生活中にファシズム転向。07年に都知事選に出馬、「政府転覆」を呼びかける過激な政見放送がネット上で大ブームを巻き起こす。著書に『青いムーブメント』、『良いテロリストのための教科書』など。近著に、この50年間の若者たちのラジカルな諸運動の歴史をまとめた『全共闘以後』を上梓。ようやくキワモノ扱いを脱しつつある(ことを夢想している)。

東浩紀

1971年東京生まれ。批評家・作家。東京大学大学院博士課程修了。博士(学術)。株式会社ゲンロン創業者。著書に『存在論的、郵便的』(第21回サントリー学芸賞)、『動物化するポストモダン』、『クォンタム・ファミリーズ』(第23回三島由紀夫賞)、『一般意志2.0』、『弱いつながり』(紀伊國屋じんぶん大賞2015)、『観光客の哲学』(第71回毎日出版文化賞)、『ゲンロン戦記』、『訂正可能性の哲学』、『訂正する力』など。
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