読書の歴史に問う、これからの「教養」──池田嘉郎×辻田真佐憲×松井健人「全体主義と帝国の教養」イベントレポート

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webゲンロン 2024年1月9日配信
 2023年12月8日、ゲンロンカフェでロシア史研究者の池田嘉郎、近現代史研究者の辻田真佐憲、そしてドイツ図書館史研究者の松井健人による鼎談が行われた。イベント前半は松井によるナチス時代のドイツについてのプレゼン、後半は池田によるスターリンの読書生活についてのプレゼンからそれぞれ議論が展開する。都度、進行の辻田が同時代の日本の文脈についても確認することで、トークは日・独・ソ三地域を横断する射程のひろいものとなった。とりわけ、それぞれのフィールドを架橋する形で、「教養」という概念とその価値を巡っては三者のあいだで緊張感に満ちた議論が繰り広げられた。5時間に及んだイベントの一部をレポートする。

池田嘉郎×辻田真佐憲×松井健人「全体主義と帝国の教養──ドイツ、ソ連、日本で読書はどう管理されたのか」
URL= https://shirasu.io/t/genron/c/genron/p/20231208

「教養は良いものではない」

 イベントは、松井の学際的な出自や中高生時代の豊富な読書遍歴、そして研究対象と真っ向から対立するような、「教養を良いとはまったく思っていない」という衝撃的な宣言とともに開始された。プレゼンでは、ヒトラーの教養嫌いやナチス時代のマイヤー百科辞典での「教養」概念に対する批判的な記述など、興味深い論点が様々に提示されていく。なかでも注目すべきは、博士号取得者である図書館員(いわば「教養人」)のW・ヘルマンによって作成された焚書リストである。そこには共産主義・ソ連関連・ユダヤ人著書などが焚書の対象として挙げられていた。実際の焚書リストはぜひアーカイブ動画で確かめてほしいが、いずれにせよ、ナチス時代の焚書には「教養人」が大きく関わっていたのである。

 松井によれば、このような「教養」と独裁体制の関係性については、思想家のハンナ・アレントも批判している。アレントは、模範的な「教養人」であったユダヤ知識人のシュテファン・ツヴァイクが政治的にはあまりにも日和見的で、反ユダヤ主義の政治家ルエーガーを「好ましい人物だった」と評価したことを痛烈に批判している。松井はこうした事例から、「教養」なるものが独裁に抵抗し民主化を促進するどころか、ともすれば独裁を支持してそのメカニズムを利する方向に働きかねないことを指摘した。ゆえに、「教養」には実はそれほどの価値はないのではないか、という冒頭の主張につながるのである。

 この主張に対し、池田や辻田は「議論自体は理解できるが、社会の底が抜け、カオスになることを防ぐために一定の『教養』はあってもいいのではないか」という立場をとる。しかし、松井はあくまで「たとえ社会のカオス化を導きうるとしても、様々な意味を背負わされすぎた『教養』という概念は一度無価値化したほうがよい」と述べ、議論に緊張が走る。辻田は「松井が批判したいのは、『教養』概念が必要以上に神秘化されてしまう事態なのではないか」と整理し、松井も「ある種の『スキル』としての教養はあってもいいかもしれない」と応じるなど議論の落とし所も探られたが、この緊張関係はイベント終盤までくすぶり続けることになる。

「教養人」・スターリン

 イベント後半では地域がソ連に移り、池田によるスターリン時代の「読書」についてのプレゼンが繰り広げられた。もっぱら「独裁者」や「度重なる粛清」のイメージで語られるスターリンであるが、実は大の読書家でもあり、いわば「教養人」と言える側面ももっていたのだと池田は指摘する。発表スライドの途中では、ベッドの上で寝転がりながら本を読むスターリンの写真が紹介され、あまりの親しみやすさに思わず辻田が「プロパガンダ写真では」と反応する一幕も(実際の写真はぜひ動画アーカイブで確認していただきたい)。しかし、池田によればこの写真はプロパガンダではなく、もっぱらプライベートな目的で撮影されたものだそうだ。

 基本的にスターリンにとって読書とは、大勢の官僚を統治するための技法を学ぶ「ツール」としてあったとされる。しかし、そうした先行研究の見方に対して、池田は上述の写真などから、スターリンはやはり「趣味」としても読書をしていたのではないかと指摘する。ここに、「教養」を終始嫌ったヒトラーと、「教養」をツールとして有効活用しつつそれだけにはおそらく飽きたらなかったであろうスターリンの対比が垣間見える。池田のスターリン時代のソ連に対するアンビバレントな「愛」がにじむ場面であった。

 ソ連時代の読書状況については、辻田から「読書というと一般に個室で読んでいるイメージだが、ソ連ではどうだったのか」と鋭い質問が投げかけられる場面もあった。池田によれば、そもそもソ連において人びとは共産党幹部以外、基本的に「個室」というものを持たなかった。そのような事情もあってか、ソ連では輪読文化が盛んであったという(こうした論点については、本田晃子『革命と住宅』も合わせて参照されたい)。

「教養」の現在、「教養」の未来

 イベントではほかにも、それぞれ取り上げた著作の内容を超えてさまざまな議論がなされた。とくに盛り上がったのは、意外にも現代の書店のあるべき姿についてである。

 辻田は、ヘイト本などが溢れ返る現代の書店の状況を「カオス」であるとして、その食い止めには少なくとも一定の「教養」が必要になるのではないかと述べる。池田も、岩波文庫など、古典のコーナーにいると安心できるという。それに対して松井は、自身の読書の原風景は古典コーナーではなくブックオフであったと述べ、やはり「教養」概念はいったん解体されるべきではないかと主張する。またしても壇上で大きく議論が揺れたのである。質疑応答ではさらに議論が白熱し、テーマは現代の『教養としての◯◯』本ブーム、いわば「新教養主義」とでも言える流れの勃興にまでひろがっていった。

 このように、イベントは松井による「教養の無価値」というラディカルな主張によって終始緊張感に包まれることとなった。いずれにせよ、三者それぞれのフィールドについての豊富な知見に裏付けられた議論は、その暗部も含めてこれからの「教養」のあり方について考える上で必見である。また、ところどころで垣間見える松井の驚異的な読書人ぶりや池田のソ連に対する両義的な「愛」、そしてそれに当意即妙の返しを投げていく辻田の、ヒリヒリしつつどこか温かみのある掛け合いも本イベントの大きな魅力である。三者の侃々諤々の議論の結末はぜひアーカイブ動画を視聴することで確かめていただき、イベントを通して「これからの教養」について考えてみてほしい。(田村海斗)

池田嘉郎×辻田真佐憲×松井健人「全体主義と帝国の教養──ドイツ、ソ連、日本で読書はどう管理されたのか」
URL= https://shirasu.io/t/genron/c/genron/p/20231208
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