あいまいなチェコの小説家──ミラン・クンデラのコンテクスト|須藤輝彦

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webゲンロン 2024年1月12日 配信
 チェコ・中欧文学の研究者で、現在プラハに滞在中の須藤輝彦さんによる特別寄稿をお届けします。本文校了後の昨年12月21日、プラハにあるカレル大学が銃撃され、14人の方が亡くなるという痛ましい事件がありました。本記事の末尾には、事件に関してご執筆いただいた追記も掲載しております。どうぞあわせてお読みください。(編集部)

 現代チェコを代表する小説家。

 自分が専門とする作家をひとことで説明するとき、僕はたいていそう言っている。これまでもそうだったし、これからも多分そうだろう。現代という言葉が20世紀後半を含んでいるかぎり。

 その作家とは、昨年の7月11日に94歳で亡くなり話題となったミラン・クンデラだ。代表作は『存在の耐えられない軽さ』。ある意味でキャッチー、ある意味で中二病的、いずれにせよ多くの意味で読み手を選ぶこのタイトルを聞いたことがある方も多いのではないだろうか。

 冷戦期に起きた民主化運動「プラハの春」がソ連の圧力によって頓挫し「正常化」した1960年から70年代のチェコスロヴァキアを背景に、4人の男女をめぐるラブストーリーを描いたこの『存在の耐えられない軽さ』(1984)と、パリに暮らし家族との関係に悩む主人公アニェスの苦しみを、文豪ゲーテとベッティーナ・フォン・アルニムとの逸話など文学史的なエピソードを自由に織りまぜながら語った次作『不滅』(1990)の二作で、クンデラの世界文学における地位は確固たるものとなった。長年ノーベル文学賞の候補として取り沙汰され、受賞にこそ至らなかったものの、2011年にはフランスの権威ある世界文学全集であるプレイヤード叢書に作品が収録された。存命の作家がこの「プレイヤード入り」を果たすことは異例の快挙だ。

図1 ミラン・クンデラ。1980年撮影(Elisa Cabot, [CC BY-SA 3.0])

 しかしこの小説家、チェコ人に言わせれば、かならずしも彼らの国を代表する人間ではない。むしろ留保を付けられることのほうが普通である。

 ──たしかにクンデラはチェコ文学史に残る作品を書いた。詩作や劇作を経て小説家としてデビューした60年代には、彼の作品を読むことは大きなブームとなった。国内での評価を決定づけ、ベストセラーになり映画化もされた長篇小説『冗談』(1967)は、かならず教科書に載っている(いまでもチェコではこの小説がクンデラ作品のなかで一番人気のようだ)。だけど、あいつはけっきょく母国を捨ててフランスに「亡命」したじゃないか。それだけじゃなく、フランス語で執筆をはじめたじゃないか。ビロード革命で共産党体制が瓦解したあとも、なぜかチェコに戻らなかったじゃないか。しかもあろうことか、長いことフランス語で執筆した小説のチェコ語への翻訳を禁じていたじゃないか★1。例の密告疑惑★2だってあるし......

 つまるところ、チェコ人にとってクンデラは、嫌おうと思えばいくらでも嫌う理由のある作家である。

 しかし、だ。なんだかんだ言っても、ミラン・クンデラは世界でだけではなく、事実としてチェコでもしっかり読まれている。いわゆる純文学の分野では圧倒的とも言っていいほどに。社会主義時代を知る中高年より上の世代にはまだ反感を持っている人も少なくないが、若い世代はさきほど書いたような事情もあまり気にかからないらしく、比較的フラットにクンデラの小説を手に取っているようだ。もちろん新刊を扱う書店では、どんなところでもクンデラの作品が並んでいる。

図2 拙宅最寄りの本屋にて。中心街から少し離れた中型書店だが、奥のほうに茶色のカバーで並んでいるのはすべてクンデラの著作である。ちなみに右手前の黒い本はあまり優れているとはいえないクンデラ研究本

 それではいったい、チェコ人たちにとってミラン・クンデラとはどのような作家なのだろうか? 国際的な見方では、疑いようもなく「チェコを代表する作家」である。多くの読者を獲得しているだけでなく、彼の存在を無視してチェコ文学史を語ることはできない。いや、彼の知識人としてのプレゼンスや、チェコおよび中央ヨーロッパのアイデンティティについて書かれたエッセーの影響力を考えると、クンデラ抜きにはチェコ現代史を充分に語ることだってできないかもしれない。だが同時に、「裏切り者」とはもうさすがに呼ばれないとしても、いまだに「国民に愛された作家」とは形容できない存在であることもまた間違いない。

 この寄稿文では、このようなあいまいな、というよりアンビヴァレント(両価的)なクンデラの姿を、プラハに研究滞在中である筆者自身の経験を織りまぜなから描きだしてみたい。僕の目には、彼の像は死後、ますますどっちつかずのものとなっているように映る。クンデラ風に言うならば、あたかも死がその光によって、存在の本質である両義性を照らし出したかのように。

悲しき聖地巡礼

 さて、ときは11月某日。オストラヴァというチェコ第三の都市で開催されたクンデラ・シンポジウムに参加したものの、たいして本稿用のネタを仕入れることができなかった僕は、取材のため、チェコ第二の都市でありクンデラの故郷であるブルノに足を運んだ。冷たい雨の降る、どんよりとした日だった。プラハからバスで3時間弱。昼過ぎに到着し、景気づけにロカールという店で異様に美味いドゥルシュチコヴァー(ハチノスの煮込みスープ)とビール(小)をたいらげたあと、まずは中心街から3キロほど離れたクンデラの生家に向かった。

 とはいえ、僕はほんらい「作家の生家」とか「作家が足繁く通ったカフェ」とか「作家愛用の万年筆」みたいなものにあまり興味がない。さすがに研究者として「作家の人生」には関心を持ってはいるが、伝記的な著作を読むのはいずれにせよ二次的な作業だ。しかし書かれるべき原稿に促され、クンデラの生家を目の前にした僕は、なんとも言えない感慨に打たれた。

 あまりに普通なのだ。大作家が育った家としては、みすぼらしいとすら感じる人も多いだろう。そこには記念碑はもちろんのこと、「現代チェコを代表する作家」が住んでいたことを示す簡単なプレートのようなものすらない。おそらく周りの住人にもさほど知られてないのだろう。クンデラを思わせるものといえば、玄関で雨宿りをしている可愛らしいボーダーコリーくらいだ(『存在の耐えられない軽さ』を読んだ方ならわかるだろうが、この作家は大の犬好きである)。

図3 ブルノのプルキニョヴァ通りに面したクンデラの生家(住所はPurkyňova 1963/6)

 いや、「作家の生家」なんて、得てしてそういうものなのかもしれない。本人はもちろん、クンデラ家の人間ももはやここにいないとなればなおさらだ(先日は、マルクスの実家の1階がいまは1ユーロショップ(≒100均)になっているという情報がSNSで流れてきた)──僕は気を取り直して、ブルノ来訪の最大の目的であるミラン・クンデラ図書館へ足を向ける。

 悪天のなか、歩くこと20分弱。そこで待っていたのはしかし、生家が与えたそれをゆうに超えるショックだった。

 

図4 ミラン・クンデラ図書館内観

 クンデラの妻ヴェラ・クンデロヴァーとチェコ文学研究者トマーシュ・クビーチェクの主導で設立されたミラン・クンデラ図書館だが★3、2023年の4月1日(クンデラの誕生日)にオープンしただけあって、その内装はモダンで小綺麗である。ただスペースとしてはけっして広くないし(せいぜい20帖ほどだろうか)、蔵書はといえば、クンデラの著作およびその各国語の翻訳本と、クンデラについての研究書が少しということで、独創性も面白みもさほどない。

 自分が専門とする小説家を記念した図書館をいちいち貶すのも気が引けるが、おなじく世界的な現代作家の名を冠した村上春樹ライブラリーと比べると、やはりあまりにショボい。村上春樹だってこれまで充分バカにされてきたわけだが(そしてクンデラはバカにはされているとは言えないわけだが)、ご存知のように、いまや立派な「現代日本を代表する小説家」であり、その意味でクンデラとじゅうぶん比較可能な存在である。しかしながらこのふたつの図書館は、しょうじきまったく比べものにならない。そもそもクンデラのほうはモラヴィア図書館内に併設されていて、春樹のそれのように立派な建物(国際文学館という早稲田大学の研究施設でもある)でもなければ、独立した入口すらない。

 しかも、このモラヴィア図書館ですら併設先の「第一候補」ではなかったようで、もともとはプラハの図書館に打診していたのだが、断られてしまったという噂も聞く。もちろん春樹ライブラリーのように予約などまったく必要ないし、司書はアルバイトの学生(自習中)のみで、噂の裏を取ろうと図書館の設立経緯について訊こうとしたら、クンデラについてなら教えられるが、図書館については知らないと言われてしまった。勉強目的以外の来館者は、当然のように僕以外にはいなかった。

図5 ミラン・クンデラ図書館外観。全体として、ちょっと気の利いた大学の自習スペース、くらいの印象である

 ......いや、なんのためにこんなところまで雨に打たれて来たんだおれは!! もちろん事情はさまざまあるだろうが、ずぶ濡れで悲観的になっていた僕の頭には「こんなものなら無いほうがマシでは……」という思いすら浮かんでしまう。研究者としてというより、ひさびさに一人のクンデラ好きとして心を揺さぶられ、悲しくなってしまった。

 

 そんなこんなで研究上の収穫はほとんどゼロのまま、複雑な思いだけを抱えてプラハへ帰った僕だったが、なんとなくこのままでは終われない気がして、翌日には2022年にプラハにオープンした文学博物館も訪れてみることにした(またも冷たい雨が降り、強い風すら吹きつける日だった)。

図6 文学博物館外観

 こちらは19世紀から現代までのチェコ文学をトピックごとに展示した、独立した入り口......というよりいちおうイオニア式の柱によって支えられた立派な門構えの、れっきとした博物館である。来館の主たる目的はむろん、われらがクンデラ先生の扱いを確認することだ。

 だがしかし、どこを探しても先生はいらっしゃらない。ようやく見つけたご尊顔は、20世紀後半のチェコ文学を特集した部屋の片隅に、注意しなければ見過ごしてしまうほど小さくあられた。

図7 クンデラ先生がどこにおられるか、お分かりになるだろうか? 先生が登場(?)するのはここのみで、この写真以外にはひとつの言及も見つけられなかった

 最初の展示を目にしたときから、ここが外国人などはあまり意識していないハードコアな文学施設(それはそれで充実していて良い)だということはわかってはいた。が、それにしても、である。先の展示室には、日本ではほとんど知られていない思想家イヴァン・スヴィタークなどとともに、日本でも比較的知られていて、かつクンデラの同時代人と言える小説家ボフミル・フラバルやチェコスロヴァキア初代大統領となった劇作家ヴァーツラフ・ハヴェルらの動画がしっかり紹介されているのだから、どうしても敢えてそうしているのではないかと勘ぐってしまう。なんにしても、クンデラ目当てで訪れた人間からすると、それこそ「冗談」のような扱いだった。

〈小さなコンテクスト〉と〈大きなコンテクスト〉

 さてさて。これまでいろいろと書いてきたが、ブルノとプラハにあるふたつの文学施設を取材して受けた印象は、やはり衝撃ではあったものの、まったくの予想外というわけではなかった。むしろ、やっぱりな、と妙に納得してしまったところもある。というのも、クンデラがチェコ国内であまり評価されていない──はっきり言えば嫌われている──こと自体は、8年前にはじめてチェコに来るまえからわかっていたからだ★4。そしてクンデラ自身、このことにひじょうに自覚的であり、『裏切られた遺言』(1993)や『カーテン』(2005)といったエッセーでは、みずからの置かれた状況をより普遍的な視座から考察している。

 クンデラによれば、ある芸術作品を位置づけることのできる基本的なコンテクストがふたつ存在する。ひとつは自国民の歴史という〈小さなコンテクスト〉、もうひとつは国民国家の枠に囚われない「超国家的な歴史」という〈大きなコンテクスト〉である。彼の考えでは、「地理的な距離を置いてこそ、観察者はローカルなコンテクストから遠ざかり、そのことではじめて世界文学(Weltliteratur)という大きなコンテクストを見渡し、ある小説の美的価値[……]を現出させることができる」★5

 国民文学と世界文学との関係については文学研究の分野でよく語られているが、現代においてクンデラほど彼の言う〈大きなコンテクスト〉、すなわち世界文学を特権化する作家も珍しいだろう。別のところでクンデラは、「作品の価値と意味はただ、国際的な大コンテクストにおいてしか評価されえない」とまで言っている──「この真実は、比較的孤立しているどんな芸術家にとっても絶対的なものとなる」のだと★6

 「比較的孤立している芸術家」という言葉が作家自身に引きつけられたものなのは明らかだ。重要なのは、ここにもやはり、この世界文学原理主義者の出自に関わる問題が根を降ろしているということである。それは、チェコにとってまさしく国家的なテーマである「小国民(=小国の国民)」の問題だ。

 クンデラが言うには、小国民とはたんに量的な観念ではない。「彼らは歴史のある時期に、いずれも死の控えの間を通った経験を持っている。つねに大国の傲慢な無知に直面し、みずからの生存がたえず脅かされるか、再検討されるのを見る」★7。それゆえチェコ人のような小国民にとって文学は「文学史にかかわる事柄」よりもむしろ「民族にかかわる事柄」となる。だからクンデラはこうも言う。

 彼らは世界文学を大いに尊敬はするものの、それは彼らには何か異国のもの、はるか遠く近づきがたい頭上の空、自分たちの国民文学とはさして関係のない理想の現実のように思える。小国民は自国の作家に、作家は自分たちにしか所属しないという信念を教えこんでしまっているのだ。眼差しを祖国の国境の彼方に定め、芸術という超国民的な領域で同輩たちの仲間に加わることは、思い上がって自国の同輩たちを馬鹿にするものと見なされる。★8

 こういうクンデラの語り口自体がチェコ人たちの反感を買う要因のひとつになっていることは、想像に難くないだろう。しかし、このような傾向を「小国の地方主義」と呼ぶ彼は、返す刀で「大国の地方主義」をも批判してもいる(こういうところがクンデラの良いところだ)。ようはフランス人などの大国民には、みずからの文学がすでに充分「世界的」であると考え、他の国で書かれているものにあまり関心を向けない傾向があると言いたいのである。興味深いことに、自身の作品はチェコよりもはるかにフランスで人気があるにもかかわらず。

 そう、僕はパリにも1年いたのだが、クンデラはフランスでのほうがだんぜん評価されている。作品はもちろん、クンデラについて書かれた書籍(とくにまともな伝記の類)の出版もフランスでのほうが盛んなようだし、おなじことは彼の死に際した報道を見てもよくわかる。フランスだと、見出しには「世界文学の巨匠 grande voix de la littérature mondiale」とか「文学界の傑物 monstre sacré de la littérature」とか書いてある一方、チェコでは「もっとも知られたチェコの作家 nejznámější český spisovatel」といった調子だ。まぁ前者はほとんど決まり文句だし、お国柄なり国民性の違いももちろん(あるいは大いに)あるだろうが、チェコの報道にはやはりクンデラの文学的功績を手放しで讃えたり、その今日的な価値をうんぬんするものはあまりなく、いずれにせよフランスの、あるいは「世界の」クンデラはチェコのクンデラと切り離されて受けとられている★9

 だがなにより皮肉なのは、(1981年に市民権を得ており、彼自身もすくなくとも一時期はそうありたいと願っていたにもかかわらず)フランスではクンデラがフランスの作家として認知されてはいないという事実だ。彼の国の書店では、クンデラ作品はフランス文学の棚ではなく、かならずといっていいほどスラヴとか中欧とか、ようは「その他のヨーロッパ文学」の棚に置かれている。つまりこの「世界的小説家」は、チェコではフランスに「同化」した作家として、フランスではしかし永久にチェコ出身の「移民」作家として受けとられているわけだ。エッセーでの言葉を使えば、いずれの国でもクンデラは、大国小国それぞれの「地方主義」──つまりは「みずからの文化を〈大きなコンテクスト〉のなかで考察することの無能力(あるいは拒否)」★10──に曝されていたと言える。

「中位性」に見る世界文学の可能性

 ところでクンデラは、世界的な〈大きなコンテクスト〉と国民的な〈小さなコンテクスト〉とのあいだに、もうひとつの「段階」が想定できると言っている。それはたとえば、スウェーデンと世界とのあいだにあるスカンジナビアであり、コロンビアにとってのラテンアメリカである。こういった段階は〈中位のコンテクスト〉と呼ばれる★11。私見では、これはクンデラ自身の亡命経験に淵源し、冷戦期に彼が打ち出し強い影響力を持った「中央ヨーロッパ」概念★12とも重なるとても重要なアイデアだ。

 けれどもクンデラは、先に見たように最終的には〈大きなコンテクスト=世界文学〉のみを肯定し、〈小さなコンテクスト=国民文学〉を否定している(だからこそ〈中位のコンテクスト〉はたんなる「段階」としか捉えられていないわけだ)。ちなみに言えば彼は〈小さなコンテクスト〉よりさらに小さな〈ミクロのコンテクスト〉も想定しており、こちらは伝記的なもの、すなわち芸術作品を作家の自伝的要素に還元して解釈するものとして、もちろん否定されている。

 だが国民国家と「世界」との隔たりは、あるいは生きた作家としての「私」と「世界」との隔たりは、そうやすやすと乗り越えられるものなのだろうか?

 僕はむしろ、このような隔たり──中位性──こそがクンデラをとらえ続け、苦境の要因となれば創作の源泉ともなったものであり、また世界文学の可能性なのだと考えている。

 誰もがその内容について合意する「世界」という実体がじっさいには存在しないのと同様、誰もが認める作品の総体としての純粋な「世界文学」なるものも実在しない。それはいつも誰か特定の、あるいは特定の国や言語からみた、文学的カノンのリストに過ぎない。

 だからこそ、ひとつの「普遍」に回収されないさまざまなコンテクストがあり得るし、文化の豊かさにとってはそれこそが必要なのである。個人のレベルで言えば、自分が解釈されるコンテクストは自分で選べないわけだ。望むと望まざるとにかかわらず、生きるということは、さまざまなコンテクストで解釈される「私」に振りまわされながら、しばしば驚愕し、ときに納得することを意味する。

 そして、小説家クンデラがしつこく描いてきたのは、まさに「世界」や「人類」といった全体性にどうしてもなじめず孤立していく主人公たちだった。漠然と自分は「人類」に与していないのだという感覚にとらわれている『不滅』のアニェスはその極端な例だが、第一長篇『冗談』の主人公ルドヴィークも同様に、ある冗談が原因で大学時代に仲間たちによって放校処分を受け、共産党からも除名されて人類を恨んでいることを、むかしの友人コストカに指摘されている(「君に言いたいことがある。[......]世界を変えようとするどんな大運動も嘲笑と愚弄を許容しない」★13)。

 また逆に、このような全体性に軽々と、あるいはナイーヴに溶けこんでしまうミクロな人間たちの性向を批判的にえぐりだしたのも、小説家としてのクンデラだった。絶対的な愛、「世界との一体感と安心感」に憧れながら革命運動へと身を投じていく『生は彼方に』(1973)の主人公、若き抒情詩人ヤロミールはこういった人間の代表といえる★14

 これについては、遺作となった中篇『無意味の祝祭』(2013)にたいへん印象的な場面がある。そこでクンデラはなんとあのスターリンを主要なキャラクターとして登場させ、21世紀のこんにち人々はあなたのことを信じなくなっていると告げるフルシチョフにたいして、それは「わたしの意志がくたびれてきたからだ」と語らせている。そして続けて、あろうことか「わたしはじぶんを人類に捧げたのだ」と言わせているのだ。この時点ですでにふつうはなかなか許容できない発言だが、そのうえで、さらにこの(ショーペンハウアー好きという設定の)スターリンは言う──「だが人類とはなにか? それはなんら客観的なものではなく、わたしの主観的な表象に過ぎない」★15。一面的な解釈を受けつけないなんともクンデラ的な場面である。しかし、それこそ全体主義の代名詞というべき人物にこのふざけてもいれば醒めてもいる台詞を吐かせることで、彼と結びつくあまりにもシリアスな歴史像とともに、人類や世界といった実体のあやふやな全体的概念に強い揺さぶりがかけられていることは、おわかりいただけると思う。

 エッセーでの言葉とは裏腹に、クンデラの作品と人生が語っているのは、「私」と「世界」のはざまで生まれるもの、文学とはそもそもそういうものだということだ。

 

*     *     *

 

 上記の本文の校了後、2023年12月21日にカレル大学哲学部で起きた銃撃事件について追記しておきたい。同大学に所属する24歳の学生が引き起こしたこの事件は、14人の死者と25人の負傷者を出した。プラハ観光の中心地のひとつである旧市街広場からほど近い場所で起きたこの悲惨な銃撃事件は、チェコ史上最悪であるだけでなく、ヨーロッパにおいても最悪の部類に入る★16。現場で自死した犯人の犯行動機についてはまだ捜査中のようだが、精神疾患を患い以前から自殺願望があったとされている。

 事件を受け、チェコ共和国は翌々日の23日を追悼日とし、チェコの国営テレビ局チェコテレビは連日特集番組を放送した。番組には心理学者から哲学者まで多彩な学者や専門家が呼ばれ、少なくともひとり5分以上はじっくり話していた★17。日本のテレビではあまり見られない光景だが、なかでも記憶に残ったのは、多くの識者が第一に犠牲者や遺族に寄り添おうとしていることだった。SNSでの誤情報の拡散や、必要以上に犯人に注目を集めようとする行為、とくにそのような報道をする扇情的なメディアに対する批判が多かった。またこのような事件があっても、大学の外面的なセキュリティ強化(ゲートの設置など)に積極的な意見を表明する人が少なかったのが印象的だった。これについてはある安全学の専門家が(事件が哲学部で起きたことにかけて)「哲学は知への愛であり、知は自由なしには意味をなさない」と言っており、大統領ペトル・パヴェルも新年のスピーチで「恐怖に負けて自由を放棄してはならない」と述べた★18。こちらも日本では想像しにくい反応で、無論いろいろと問題はあるにせよ、ヨーロッパの思想の厚みというものをやはり感じさせられた。

 この追記を書きながら、僕はあらためてクンデラのいう「コンテクスト」について考えた。もちろん国際的な影響はあるにせよ、それこそイスラエルによるガザ侵攻やいまだ終わりの見えないウクライナ戦争と比べると、今回の銃撃事件はチェコという小さな国の国内問題に過ぎないと捉えられてしまうかもしれない。「世界史的」ないし「世界的時事問題」の観点──つまりは〈大きなコンテクスト〉──から見れば、どんな悲劇にも序列がつく。クンデラの作品が注目されたのだって、(むろん作品の力は第一としても)やはりプラハの春とその圧殺といった世界史的事件にたいする関心の集中が大きな要因だったことは否めないし、90年代以降に出版された小説では、そのような関心がもはや母国に向かわないことが歴史の問題として強く意識されている。

 だが当然のことながら、この銃撃事件はチェコ人たちにとってなによりも重い悲劇だった。もちろん、現在カレル大学哲学部に研究員として所属している僕にとっても同じだ。当日、僕は事件現場にいてもおかしくなかった。しかし年が明け、1月1日に起きた能登半島地震についての報道を目にすると、それは当たり前のように僕の関心を引きつけ、そのぶん頭のなかでプラハの銃撃が遠ざかる。このような視差を生みだす遠近法は残酷だが、普遍的なものだと思う。

 物理的にであれ精神的にであれ、近くにあるものは大きく見え、遠くにあるものは小さく見える。ひとはこの法則から逃れられないし、そもそも逃れるべきなのかすらわからない。しかし文学にたずさわる人間としては少なくとも、多様なコンテクストで編まれた社会を、多様な人生のうえに立つ多様な視野を前提とした世界を望みたい。

図8 事件が起きたカレル大学哲学部の正門前。日に日にキャンドルの数は増えていった

写真提供=須藤輝彦(図1を除く)


★1 チェコ人にとって一番理解しがたかったのは、翻訳の問題だろう。クンデラがフランス語の作品のチェコ語訳を禁じていたのは、訳すとしたらクンデラ本人以外には考えられず、しかし本人にはそれに費やす時間もエネルギーもなかったからだ、とされている。現在はアンナ・カレーニノヴァーという翻訳家によるチェコ語訳の出版が進んでいるが、いずれにせよこれまでは、2000年代以降のクンデラ作品がクンデラの母語で読めない、という異様な事態が生じていたわけだ。日本人にとってはピンとこない状況だろうが、たとえば後にも触れる村上春樹が英語で執筆しはじめ、なぜかその日本語訳が禁じられていたら、と考えてみるとよくわかるかもしれない(そうすればかならず、アマチュアが違法アップロードした日本語訳がネットで読まれることになるだろう。おなじことがチェコでも起きていた)。
★2 クンデラは、学生時代にミロスラフ・ドヴォジャーチェクという諜報員をチェコの秘密警察に密告したことが疑われている。本人はこれを強く否定しており、この件でクンデラを糾弾した週刊誌にたいし、2008年にはJ. M. クッツェーを中心として、カルロス・フェンテス、ガブリエル・ガルシア゠マルケス、オルハン・パムク、ナディン・ゴーディマー、サルマン・ラシュディ、フィリップ・ロスら多くの有名作家がクンデラへの支持を表明した。疑惑について詳しくはKaren von KunesのMilan Kundera’s Fiction (Lexington Books, 2019)、とくに第2章を参照。
★3 URL= https://www.novinky.cz/clanek/kultura-knihovna-milana-kundery-vse-zacalo-snem-very-kunderove-40428237?_zn=aWQlM0QxNzU3NjAyMDQwNTIyNjY4NjI0MCU3Q3QlM0QxNzAzMDgxNDgzLjc4NCU3Q3RlJTNEMTcwMzA4MTQ4My43ODQlN0NjJTNEM0ZFRjBENDZEMEFCNjMxRTM5N0I2ODMxNURGMTM0Nzk%3D
★4 このことについては当時の拙留学ブログにも書いているので、関心のある方はご笑覧ください。「チェコの裏切り者の研究者」、「中空プラハ」、2014年12月10日。URL=http://midair-prague.blogspot.com/2014/12/blog-post.html
★5 ミラン・クンデラ『カーテン』、西永良成訳、集英社、2005年、47頁。
★6 ミラン・クンデラ『裏切られた遺言』、西永良成訳、集英社、1994年、286-287頁。
★7 前掲書、219頁。チェコにおける小国民の問題については、博論を加筆修正したうえ、2024年3月に晶文社から出版される予定の拙著『たまたま、この世界に生まれて──ミラン・クンデラにおける運命(仮)』で詳しく論じている。関心のある方はしばらくお待ちください。
★8 クンデラ『カーテン』、49頁。
★9 おもに参照した報道は以下。
URL=https://www.lefigaro.fr/livres/mort-de-milan-kundera-monstre-sacre-de-la-litterature-20230712, https://magazin.aktualne.cz/kultura/zemrel-milan-kundera/r~449f2dba209211eea873ac1f6b220ee8/, https://magazin.aktualne.cz/kultura/literatura/velke-spisovatele-nekritizujeme-francie-kundera-svet-knihy/r~e6921138229111ecad06ac1f6b220ee8/
 クンデラの死に触れて書かれたものではないが、最後の記事──「『わたし達は偉大な作家を批判することはしない。彼の私生活に関心はない』とフランス人たちは言う」という見出しがつけられている──ではとくにフランスでのクンデラ受容が対比的に描かれており興味深い。 
★10 クンデラ『カーテン』、48頁。
★11 前掲書、57頁。
★12 とくに1983年に発表された「誘拐された西欧──あるいは中央ヨーロッパの悲劇」においてクンデラは、冷戦下の西欧対東欧という二項対立に異議申し立てすると同時に、ほんらい少なくとも文化的には西側に帰属しているはずの中欧は第二次大戦後に「ロシアに誘拐された」のだと主張した。つまりこのテキストは、東西の大国に挟まれ、独自の文化的伝統を持つ(比較的)小国の集まりである中欧を、「東」ないし「スラヴ的なもの」から切り離そうとする試みだったのであり、そのためにウクライナ戦争以後、ふたたび注目を集めている。とりわけ中央ヨーロッパとは「ひとつの運命」であり、「その境界は架空のものであり、新しい歴史的状況に応じて、繰り返し線を引き直さなければならない」という言葉は予言的に響く。ミラン・クンデラ「誘拐された西欧—あるいは中央ヨーロッパの悲劇」、里見達郎訳、『ユリイカ』第23巻第2号(1991年2月):62-79、70頁。
★13 ミラン・クンデラ『冗談』、西永良成訳、岩波書店、2014年、398-399頁。
★14 ミラン・クンデラ『生は彼方に』、西永良成訳、早川書房、2001年、382頁。
★15 ミラン・クンデラ『無意味の祝祭』、西永良成訳、2015年、109-110頁。
★16 URL=https://ct24.ceskatelevize.cz/clanek/domaci/strelba-na-prazske-vysoke-skole-je-nejhorsi-v-dejinach-ceska-patri-i-k-nejtragictejsim-v-evrope-344383
★17 URL=https://www.ceskatelevize.cz/porady/15329192723-strelba-na-univerzite-v-praze-21-12-2023/223411033861222/, https://www.ceskatelevize.cz/porady/15329192723-strelba-na-univerzite-v-praze-21-12-2023/223411033891223/
★18 URL= https://www.seznamzpravy.cz/clanek/domaci-dokument-novorocni-projev-prezidenta-petra-pavla-242789

須藤輝彦

1988年生まれ。東京生まれの神戸育ち。日本学術振興会特別研究員(PD)。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程修了。ヴェネツィア国際大学、カレル大学、ソルボンヌ大学に学ぶ。ミラン・クンデラを中心に、チェコと中欧、啓蒙期の文学や思想に関心がある。集英社新書プラスにノートルダム火災についてのルポルタージュ、『文学+』WEB版に文芸批評時評を執筆。共訳書にアンナ・ツィマ『シブヤで目覚めて』など。2024年3月には博士論文をもとにした書籍『たまたま、この世界に生まれて──ミラン・クンデラにおける運命』(仮題)を晶文社より出版予定。

2 コメント

  • TM2024/01/22 13:22

    クンデラの著作は読んだことなく、その存在も訃報で知った。 ただ、自分の狭い世界の中でさえ、ある作家や研究者がその死に触れていたことからその存在の大きさは感じていた。 一方、彼らの語りからはクンデラがどんな存在なのかさっぱりわからず、『存在の耐えられない軽さ』くらい読むしかないと思っていたところだった。 そんな中この記事に出会った。 クンデラの求めた世界文学たることが彼の居場所を故郷からもフランスからも奪っていた…。 とても説得力のあるテキストです。 じゃあ彼の目指した文学ってどうなんだろ?? 改めて彼の著作に興味が湧きました。 ありがとうございます。

  • GGG2024/04/09 19:56

    とても興味深く読ませて頂きました。 『存在の耐えられない軽さ』だけ以前読んだことがあり、内容は断片的にしか覚えていませんが、カフカと同じ様に「 チェコ出身」については複雑なアイデンティティを抱えていた点でも作家に興味を抱いた事を覚えています。 クンデラの生家や博物館を訪ねられて現地ではあまり関心を向けられていない様子をレポートされていて成程と思いました。 また、追記部分からもクンデラを研究する現代的な意義が伝わってきて、改めて他のクンデラの著作も読んでみたくなりました。

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