謝罪が誠意あるものになるとき──古田徹也×磯野真穂「私たちの『複雑さ』と出会い直す」イベントレポート

シェア
webゲンロン 2024年1月19日配信
 日々さまざまな場面で目にする「謝罪」。簡単なようでいて、「適切に謝罪できていない」と批判されてしまうことも多い。そのような謝罪の難しさを踏まえ、古田徹也の新刊『謝罪論──謝るとは何をすることなのか』(柏書房)では、さまざまな謝罪の機能や特徴を考察している。
 同書の刊行を記念して、12月14日に人類学者・磯野真穂とのトークイベントが開催された。イベントでは、哲学と人類学の視点から、謝罪の複雑さをめぐる丁寧な議論が交わされた。その一部をレポートする。
 
古田徹也×磯野真穂「私たちの「複雑さ」と出会い直す──『謝罪論—謝るとは何をすることなのか』刊行記念」
URL= https://shirasu.io/t/genron/c/genron/p/20231214a

 イベントは、「こんな本を出したら、古田さんはこれから自分がなにか謝るたびに注目されてしまうのではないですか」という磯野の問いかけから始まった。古田は苦笑しながら、本のタイトルから謝罪がよくわかっている専門家と思われ、謝罪会見についてコメントを求められるようになったと答えた。

 しかし古田は、謝罪がよくわかっていないからこそこの本を書いた、という。たとえば子どもに「謝る」ということを教えるためには、「ごめんなさい」と言わせるだけでは何かが足りない。子どもが「ごめんなさいごめんなさい」と連発したり、もう謝ったのだからと「逆ギレ」したりすることは「あるある」ではないだろうか。しかし、ほんとうの謝罪に必要な、たんなる言葉以上のものが何かをすぐさま答えることは難しい。

 そこで古田はまず、謝罪を「軽い謝罪」と「重い謝罪」に区分けすることを提案する。私たちはレストランでの呼びかけや、混んでいる電車内で降りようとするときなどさまざまな場面で「すみません」と発話する。これはマナーや儀礼の側面が強い「軽い謝罪」だ。たほうでより重大な事態を詫びる「重い謝罪」では、「申し訳ありません」「お詫びします」などの言葉とともに謝る。このように、謝罪の度合いにはグラデーションがある。重い謝罪の場合はとくに、誠実に謝っていることが相手に伝わるためには、儀礼的な謝罪では不十分であるように思われるという。

古田の発表スライドより

謝罪の形式性と儀礼

 たしかに、重大な事案についてだれかから謝罪を受けるとして、相手がマニュアルどおりの態度に終始していたら、私たちは「謝罪になってない」と怒るだろう。しかし、磯野は古田の議論に対して、もう一歩踏み込んだ問題提起も行った。逆に重大な謝罪においてこそ、儀礼が重要になることもあるというのだ。

 古田はその指摘に応え、重い謝罪において儀礼が本質的な役割を担った事例として、ある動画を紹介した★1。ニュージーランドのアーダーン前首相が、島嶼国系住民に対して1970年代に行われた差別行為を公式に謝罪した模様である。サモア文化の伝統的な「イフォガ」という謝罪の儀式が取り入れられ、被った織物をめくりあげることが「赦された」というしるしになっている。相手の文化を最大限に尊重した儀礼を行うことで、誠実さを示す謝罪の例だ。

 この例を考えるためには、ビクター・ターナーによる「あるヌデンブ医の実践」が参考になると磯野はいう。慢性的な心身の不調に苦しむ男が、集落の住民とともに儀式に参加することで回復する事例である。これは医学的な治療ではないが、共同体の構成員みながその儀式に参加し、関係性の変化が象徴的に作られることで、実際に回復するという効果を持つ。磯野はそこから、儀礼的な謝罪についても、集団に「これが真摯な謝罪である」という意識が共有されていることで実際に人びとを癒すものとして機能するのではないかと指摘する。

 古田も謝罪のための儀礼の重要性を認め、ひるがえって現代日本では神聖な儀礼がもはや共有されていないことに謝罪の難しさの原因があるのではないかと答えた。ある儀礼が謝罪として成り立つには、それが誠実な謝罪となる、という信頼が必要だ。しかしいまの日本で、土下座や謝罪会見がそれだけで誠実さの証となると考えるひとは少ないだろう。儀礼はあるときには大きな力になるが、儀礼が失われた社会ではもはやそれに頼ることができない点にも謝罪の難しさがあると二人は語り合った。

コミュニケーションの起点としての謝罪

 謝罪の形式を他者と共有しているか否かという点は、謝罪をコミュニケーションの始まりとして考えることにもつながる。磯野は、自身の著作『他者と生きる』で示した「共在の枠」という概念をもとに「軽い謝罪」を考える。「共在の枠」は人類学者の木村大治が『見知らぬものと出会う』の中で展開した概念だ。

「共在の枠」とは、「共に支え合って作り上げる相互行為の場」★2のことである。たとえば、互いに型通りの挨拶をすることで、見知らぬひと同士であっても場を共有し、共にいることができるようになる。磯野によれば、謝罪もまた、なんらかの逸脱行為によって共在の枠が崩れたときに、互いに共有している言葉によってふたたび他者とともにいることを可能にするものだ。逆に言えば、「重い謝罪」は、儀礼が失われた日本にあって、もはやどのような言葉をかければ他者とともに生き直すことができるかがわからず、紋切り型の表現以上のものが必要とされる場合を指すのではないか、と磯野は問うた。

 古田もまた、「共在の枠」としての謝罪の意義に同意する。「すみません」と言うだけでは意味がない、という強い態度もまた非生産的な居直りになってしまうだろう。型通りであっても謝罪の言葉を述べることで、他者とのやり取りをふたたび始めることができるのだ。

 くわえて古田が示したのは「すみません」の語源である。もともとは心が澄んで安らかであるという意味の「澄む」という語があり、そこから物事が「済む」、静かに定着するという「住む」などが派生した。私たちはこの語源を知らずとも、その言葉がもつ磁場を共有している。だからこそ、適切に謝ることができていないと感じられると、そのままでは安住することができない、つまり「済まない」と考えるのである。

 

 とはいえやはり、私たちが形式ばった謝罪に不信感を持つのもたしかだ。イベントでは謝罪における誠意や真摯さについてより深く議論され、ほかにも謝罪の身体性、集団的謝罪の難しさ、コロナ禍における謝罪など重要な問題がいくつも扱われた。古田と磯野が論点ごとにスライドを交互に出し合い、じっくり対話を重ねながらも、「謝罪のプロは信用できない」「深夜のコンビニでは元気のない接客が正しい」など、ユーモアあふれるフレーズも飛び出した。

 およそ謝罪を経験しないひとはいない。これを見れば必ずうまく謝罪できるようになる、という類のものではないが、謝罪を考えるヒントにぜひアーカイブをご覧いただきたい。(栁田詩織)


★1 The Dawn Raids Apology, RNZ, 2021年8月2日。 URL=https://www.youtube.com/watch?v=a4pVL3guMu4
★2 磯野真穂『他者と生きる—リスク・老い・死をめぐる人類学』、集英社新書、2022年、240頁。
古田徹也×磯野真穂「私たちの「複雑さ」と出会い直す──『謝罪論—謝るとは何をすることなのか』刊行記念」
URL= https://shirasu.io/t/genron/c/genron/p/20231214a
    コメントを残すにはログインしてください。