「まちがい」を待ちながら──ゲンロン・セミナー第2期第3回「演劇とまちがい」事前レポート|青山俊之

シェア
webゲンロン 2024年4月2日配信

 2023年2月、新時代の教養講座として始動した「ゲンロン・セミナー」。その第2期「1000分で『まちがい』学」の第3回講義のテーマは「演劇とまちがい」です。講師には、サミュエル・ベケットを中心に、現代演劇からテレビドラマまでを専門とする岡室美奈子先生をお招きします。

 講義では、ベケットとその代表作『ゴドーを待ちながら』を題材に、ベケットの作品に込められた「まちがい」の美学について岡室先生に解説していただきます。ベケットの美学から考える「よりよく失敗する」こととは。講義の聞き手・レポートを担当するのはゲンロン編集部の青山俊之です。

 

岡室美奈子(聞き手=青山俊之)「ベケットと『まちがい』の美学──よりよく失敗するために」
URL= https://genron-cafe.jp/event/20240420/ 

 アイルランド出身のサミュエル・ベケット(1906-1989)は、第二次世界大戦後のパリで活躍した劇作家です。代表作の『ゴドーを待ちながら』(1952年)は、現代演劇に大きな影響を与えた不条理演劇の傑作で、現在にいたるまで世界のあちこちで上演されています。奇抜な発想で新しい表現方法を生み出したベケットは、その功績によって1969年にはノーベル文学賞も受賞しています。

 『ゴドーを待ちながら』は、二人の浮浪者(ウラジミールとエストラゴン)がゴドーという人物を待ちながらボケとツッコミを交えた会話をし続ける演劇です。岡室先生いわく、ベテランの役者でも二人のセリフは覚えづらく、ベケットは彼らの「まちがい」を誘うかのようにこの作品を作っているところがあるのだとか。なぜベケットはそんなことをしたのか。岡室先生からいただいたメッセージをお読みください。

 ベケットは『いざ最悪のほうへ』のなかで「いつも試した。いつも失敗した。だからなんだ。また試せ。また失敗しろ。もっとよく失敗しろ」と書いています。ベケットは戯曲、小説、詩、ラジオドラマ、テレビドラマ、映画のシナリオなどさまざまなジャンルの作品を書きましたが、物事がうまくいく人やうまくやれる人は一人も出てきません。たぶんベケット自身にとっても、ノーベル文学賞を受賞してもなお「書くこと」は失敗することだったのでしょう。しかしその失敗の痕跡であるベケットの作品に、私たちは心を揺さぶられます。

 コロナ禍のなかで『ゴドーを待ちながら』の二人のホームレス、ウラジミールとエストラゴンがただ待っていることの意味を考えました。はたしてそれはネガティヴなことなのか、と。待ち人はいっこうにやって来ないし、何をやってもうまくいかない二人ですが、そこには奇妙なおかしみと明るさがあります。「成功」や「成長」、「達成」を善とする価値観とは無縁な世界で失敗し続けること、そこにベケットの美学があったのだと思います。

 このセミナーでは、「もっとよく失敗する」(fail better)とはどういうことか、みなさんと一緒に考えてみたいと思います。

 『ゴドーを待ちながら』では、いくら待っても結局ゴドーはやって来ません。浮浪者の二人は最後には自殺を試みるのですが、それにさえ「失敗」してしまいます。この不思議な作品に対する解釈のひとつに、一向にやって来ない「ゴドー」を「神 God」と見立てるものがあります。ですが、この戯曲のもともとのタイトルは単に『待つ』というものだったとの証言もあるのだそう★1。だとすれば、そこで描かれている主題は「誰を待っているか」ではなく、「どう待っているのか」なのだと捉えることもできるのかもしれません。

 劇中には、主人公の二人組とそれとは異質な二人組(ポゾーとラッキー)の4人がみな地面に横になる場面があります。ベケットはこのシーンについて語るなかで、「人工的に、バレエのようにしなくてはならない[……]それは生き抜くための遊びなんだ」という言葉を残しているそうです★2。『ゴドーを待ちながら』の「待つ」のなかには「あそび」があり、そこで生じる奇妙なおかしみには、人間にとって「生きる」ことの知恵が忍ばされている──。岡室先生は、コロナ禍のなかでこの作品についてどう考えたのでしょうか。伺うのがいまから楽しみです。

「まちがい」と「あそび」 

 ベケットの作品には、まちがいを誘うあそび心が仕込まれたものがほかにもあります。たとえば、戯曲『プレイ』もそのひとつ。この作品には、一人の男性と二人の女性が登場します。片方の女性は男性の妻で、もう片方は愛人です。奇妙なことに、三人の身体はそれぞれ別の大きな壺にすっぽり収められ、そこから各人の頭だけが飛び出した状態で劇は進行します。真っ暗な劇場のなかでそれぞれの人物に一人ずつスポットライトが当たり、その人物が自らの過去と心情を語るというのがベケットによるト書きの指示です。ライトはさながら、各人に発言の許可を与えその過去を裁く審問官のような役割を果たします。

 滑稽な内容の作品ですが、特に面白いのは真ん中に位置する男性がセリフをしばしば「まちがえてしまう」ということだそう。当然ながら、脚本のなかではライトの当たる順番とそこで語られるセリフはあらかじめ決まっています。しかし、男性はライトが両脇の二人の女性に入れ替わり立ち替わり当たるなかで徐々に混乱し、どこかのタイミングでまちがえて自分の番がきたと思い込んでしまうのだとか。

 

 岡室先生いわく、ベケットは「俳優が無意識を見せる瞬間を待っている節」があり、彼の演劇はそうした「虚と実の間が揺れ動く瞬間が面白い」のだそうです。演劇は生身の俳優によって舞台上で繰り広げられる芸術ですが、そこで演じられるのは「いまここ」にはない物語上の役柄です。つまり演劇は、「いまここ」にあるとも言えるし、ないとも言える、いわば「幽霊的身体」を駆使した芸術です★3。ベケットはそんな演劇の核を最大限に引き出そうとしたからこそ面白いのかもしれません。

 

 ベケットが誘発する「まちがい」の美学には、観客や読者を思わぬ瞬間と出会わせる「あそび」がある。ただ、奇妙な物語の内容と形式を駆使するベケットの「あそび」に付き合うのは、少しばかり骨が折れそうです。ベケットが描く「幽霊」を見るためにも、ベケットとあそびながらその瞬間を「待ってみる」ためのヒントを岡室先生に伺いたいと思います。講義の会場や配信でみなさまをお待ちしています。

岡室美奈子(聞き手=青山俊之)「ベケットと『まちがい』の美学──よりよく失敗するために」
URL= https://genron-cafe.jp/event/20240420/

 

ゲンロン・セミナー第2期「1000分で『まちがい』学」特設ページ
URL= https://webgenron.com/articles/genron-seminar-2nd

 

★1 サミュエル・ベケット『新訳 ベケット戯曲全集1 ゴドーを待ちながら/エンドゲーム』、岡室美奈子訳、白水社、2018年、275頁。
★2 『新訳 ベケット戯曲全集1 ゴドーを待ちながら/エンドゲーム』、279頁。
★3 東浩紀「批評とは幽霊を見ることである」、『ゲンロン5』、ゲンロン、2017年、6頁。

青山俊之

1992年生まれ。筑波大学大学院人文社会科学研究科国際日本研究学位プログラム博士課程。専門は言語人類学や記号論、研究テーマは自己責任論。ゲンロン編集部所属。
    コメントを残すにはログインしてください。