革命はリアルから生まれる──コロナ時代に政治的自由は可能なのか(2)|外山恒一+東浩紀

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初出:ゲンロンβ50 2020年6月26日発行

 コロナ禍をうけた緊急事態宣言が全国で解除されておよそひと月。人々の緊張感が解けていくなか、7月5日には東京都知事選も行われます。ゲンロンカフェで5月10日に行われた革命家の外山恒一氏と思想家の東浩紀の対談では、コロナ禍における政治家と「人民」の関係が大きな話題のひとつとなりました。監視社会化をのぞむ「人民」から独立し、自由を守るためには、「実効支配地域」を持つことが重要だと外山氏は語ります。現実との接触が軽視されるなかで、現実を見失わないためになにが必要なのか。大きな反響を呼んだ対談の第2部をお届けします。
 第1部はこちらのリンクからお読みいただけます。(編集部)

※ 本イベントのアーカイブ動画は、Vimeoにてご視聴いただけます。ぜひご覧ください。
第1部= https://vimeo.com/ondemand/genron20200510no1
第2部= https://vimeo.com/ondemand/genron20200510no2

コロナ禍のなかの活動家


東浩紀 第1部では、コロナ禍によって、保守とリベラルの対立が無意味になり、ラジカルな思考をしているかどうかが知識人に問われているという話になりました。すこし話を具体的にしたいのですが、今回、活動家はどのような行動を起こしているのでしょう。たとえばレイシストしばき隊の野間易通さんはどうですか。

外山恒一 野間さんは「自粛するなら補償しろ」デモの第1回目には来ていたようです。しかし今回のコロナ禍では、活動家でも自粛に従っているひとが多い印象です。たとえば首都圏反原発連合のミサオ・レッドウルフは、いまはデモや集会をするべきじゃないと言ってる。驚いたのは、素人の乱が完全に自粛していることです。このコロナ禍でおもしろい運動をやるとしたら素人の乱の松本哉さんだろうと思っていただけに、ちょっとがっかりしました。彼は天才的な活動家だとぼくは思ってますから。

 おもしろい運動をやっていると外山さんが感じるのは、むしろ右派なのかしら。

外山 というよりも、外山派ばかりですね。「派」というとすこし囲い込みすぎですが、ぼくの影響を受けたひとか、この10年ぐらいぼくと仲良くしてきたひとたちのどちらかです。

 たとえば、大阪府が自粛要請を出すのと同時に、それに従わないという宣言をして、自粛期間中も営業しているバーがあります。営業しているバーは無数にありますが、わざわざ「宣言」を出したのはそこだけでしょう。それで共同通信にも取り上げられていました。そこのオーナーは学生時代にぼくを学園祭に呼んだひとです。

 あるいはこれも大阪で、「騒音の夕べ」というイベントやってるひとたちとも付き合いがある。彼らは普段から、大型トラックからひたすらノイズ系の騒音を繁華街でまき散らす活動をやっていて、あいちトリエンナーレのときにも会場の外で騒ぎを起こした集団です。彼らは今回も騒ぎをつづけていて、警察から「こんな時期に街頭でライブやってるのはお前らだけだ」と言われたりしたそうです。もっとも彼らのスタンスは単純に「反自粛」というのともちがって、ツイッターでは「路上にはコロナと我々しかいない。一般人は家にこもってろ!」などと豪語してました。

 あとは「名古屋アナキズム研究会」もおもしろい。これまたぼくが主催する合宿の参加者や、この10年ほど近しく交流してきた人たちで結成された団体です。彼らはアベノマスクを褒め殺して「マスク2枚ということは、2回までは不要不急の外出をしてもよいという安倍首相からのありがたいメッセージである。まことに不要不急ではございますが、花見をしたいと思います」と、本当に花見をやった(笑)。

 2回までOKというのがいいですね(笑)。
外山 実は東京でやってる「補償要求デモ」も、呼びかけ人はぼくの合宿の出身者だったりします。対照的に、3.11以降注目された活動家は一斉に黙っちゃってますね。

外山恒一氏


科学と人民


 いまニコ生で、「そういう運動に参加することで感染の加害者になる可能性もある。そこはどう考えれば良いのか」というコメントがありました。もちろんそのリスクはあると思います。けれど、そもそもコロナ以外にも、たとえば自動車の運転ひとつとっても、ひとは加害者になりうるわけですよね。加害者になる可能性は感染症だけの話ではない。そのすべてを考えていたらなにもできない。

 そもそもコロナに限らず、専門家のアドバイスとは、あくまでも特定の話題に絞ってのアドバイスです。だから、それを真面目に実践しようとすると生活が破綻してしまうこともある。たとえば小さい子どもにとってインフルエンザはたいへんな脅威です。だからインフルエンザのシーズンには、じつは大人は帰宅したら、子どもに駆け寄るまえに、玄関で服を着替えるべきなんです。でもそれを完璧に守ろうとしたら、むしろ家庭がおかしくなってしまう。これは専門家のアドバイスがまちがっているということではなく、社会にはいろいろな判断基準があるので、あるていど距離をとらないといけないということです。

 今回も感染症の専門家はすごくいろいろなことを言っている。たとえば路上で捨てられたマスクを拾うのも危険だとか、ジョギング中でも感染の飛沫が何メートルも飛ぶのだとか言っている。それは不安を煽っているわけでもなく、彼らからしたら「科学的に正しいこと」を言っている。ただこれまでは、そういう言葉はそこそこに聞いて、生活と折り合いをつけるのが常識でした。今回はその認識が壊れてしまった。コロナの恐怖のなかで、多くのひとが専門家の意見を過剰に真面目に聞くようになってしまった。

 今回各国の政策において、指導的な役割を担った医者がいますね。日本であれば北海道大学の西浦博教授です。彼が研究している数理疫学は、専門家の数が非常に少ないようです。その議論が過剰に大きな影響力を持ってしまったという側面があるかもしれません。

外山 ぼくの感覚では、コロナウイルス自体は大したことがないと思っています。怖いとはいっても、「ちょいワルウイルス」がせいぜいでしょう。
 にもかかわらず、数字が一人歩きしているのが問題ですね。専門家が「ひとの接触を8割減らす必要がある」というと、マスコミはその数字ばかりを報道する。ドコモから提供されたビックデータらしきものを使って、「渋谷駅や新宿駅でひとの移動が何パーセント減った」という話ばかりするわけです。数字を出すと科学的な感じがするわけですが、ほんとうはそういう数字と感染拡大抑制がどう関係するかはわかっていない。

 残念なのは、ぼくたちはすでに3.11を経験しているのにこうだということです。ぼくたちは、3.11のときに科学者の言葉がいかに誤解され、いかに人々の不安を増大させ、そしてそのあとで科学者たち自身がいかに批判されたのかを経験しているはずなんですね。その経験があるのに、今回もまたヒステリックに盛り上がってしまった。いまは推測でしかないけれど、ぼくはこのあと、感染症の専門家が、「危険を煽った」と言われて逆にバッシングされるときが来ると思う。それは震災のときの繰り返しです。結局、人々はなにも学んでいない。

外山 やっぱり、急に社会問題に目覚めた人民が、問題の核心も分からずに素人考えでものを言いすぎなんですよ。

コロナ禍で見えた政治の責務


 人民がものを言いすぎ、というのには同意します。ただ、これまでの話と矛盾して聞こえるかもしれませんが、ぼくは人民主権や議会制には肯定的なんですよ。問題は、ぼくたちの時代では、「人民の意志」なるものが、議会制民主主義の外側でリアルタイムに可視化され、それだけが正義のように見ていることです。本当は、それに対して距離を取り、人民の暴走を止める装置と制度が必要なんですね。

 しかも、いまはSNSだけが人民の意志だと思われている。これはまず問題で、本当ならばもっといろんなひとたちの意志が見えるべきです。しかしかりにそこで全部の人間の意志、つまり「一般意志」が見えたとしても、それに政治がそのまま従うべきかといえば、それもちがいます。それがむかし『一般意志2.0』で書いたことです。一般意志は可視化されるべきだし、議会はそれを意識するべきだけれど、最終的には一般意志に従うか従わないかはべつの原理で決めるべきです。政治と一般意志のあいだに緊張感を取り戻す必要があります。

外山 人民がものを言ったとして、それに従うかは議会が判断する、と。ぼくはそれを実現するにはファシズムしかないと思っています。ぼくもかつては左翼でしたが、左翼はどんなに人民がまちがってると思っても、「人民はバカだ」とは言えないわけですよ。やはり民主主義を原理的に否定できないから。それがきつかったんだけど、ファシズムに転向するとそれが言えるようになる。

 ただ、そこで人民を黙らせると圧政になってしまう。だから今後の課題として、人民には引き続きご発言いただいて、それをいかにして政治に反映させずに済ますかの仕組みを作らなきゃいけない。
 政治家の意志が大事になると思います。人々がなにを意志していようが、自分にとって正しいのはこれだからこの政策をやるんだ、というひとでなければ政治はできない。ただ一方で、人民がその政治家をチェックできないといけない。繰り返しますが、政治と一般意志の緊張関係が大事なんですね。

外山 その点でいえば、ぼくは今回のコロナ禍では安倍首相でよかったとさえ思っています。人民はいま、自粛の強化に向かうヒステリーを起こしています。もし橋下徹や小池百合子が最高権力者だったら、これに乗じて罰則付きの外出禁止をやっていた可能性が高い。あるいは安倍批判をしている野党も、現政権よりコロナの管理をしっかりやると言っています。でも、それをやると監視社会になるんですよ。だったらむしろ、安倍政権のようになにもやらずにグダグダになるほうがまし、というのがぼくのスタンスです。まあ、それは単純に政権が無能だということかもしれないですが。

 そこは同意見ですね。結果的に安倍政権が弱腰でよかった(笑)。

 安倍政権のあの弱腰の態度というのは、リベラルの過大評価が原因かもしれないと思うんです。あいちトリエンナーレで文化庁が交付金をカットしましたが、本当はあれも必要がない。あいトリなんて国民の大多数は忘れていたんだから、粛々とお金を出しておけばよかったんです。裏返せば、それくらい安倍政権はあいトリの影響力を高く評価しているわけです。同じように今回のコロナ禍でも、安倍政権は、最初は緊急事態宣言なんて発令するとたいへんな非難が来ると考えたのではないか。

 けれども今回は結果的に、むしろリベラルこそが監視社会を望んでいることが明らかになった。だとすれば、今後は、安倍あるいはポスト安倍の自民党政権は監視社会化を粛々と進めることになるかもしれませんね。たとえばいま、携帯電話同士が自動的に通信し、ユーザー同士の接触履歴を保存するアプリの開発が国際的に進められていて、日本でも導入が決まっています★1。これはつい半年前の常識なら考えられないアプリだけど、いまは国内的にも国際的にほとんど議論が起こらない。情報技術を監視のために使うことについて、リベラルが反対をしないという実績ができてしまった。

外山 今回のコロナ騒動が中途半端なところで終わったとしても、つぎに「緊急事態」が起きたとき、監視社会化がもう一段階すすむのは確実ですね。そのときのために、同調圧力に乗らないひとたちをかき集めて、対抗勢力を作っていくことが必要です。

革命とは「実効支配」である


 外山さんの考えでは、「人民と戦う」とは具体的になにを指すのですか。

外山 革命や運動とは結局、「実効支配地域を作る」ということです。ぼくは今年50歳ですが、誕生日になにが欲しいかと聞かれたら実効支配地域が欲しい(笑)。
 それはわかりますね。外山さんほどではないかもしれませんが、ぼくもゲンロンカフェを守るためにそれなりに「人民の悪意」と戦っている(笑)。リアルの空間を守ることを考えると、権力だけでなくときに人民の一部も敵になる。具体的にはネットでの嫌がらせや中傷ですね。

 ひとむかしまえのメディア論では、ハキム・ベイの『T.A.Z.』(一時的自律領域)のような、これからはバーチャルな世界でこそ実行支配地域が作れるのだといったタイプの議論がもてはやされました。ぼくもむかしは影響を受けましたが、あれは弱い。

東浩紀
 

外山 そうですね。そのテの議論は展望がないがゆえの逃げです。リアルな実効支配地域を作らないといけない。それが活動家的な発想の基本です。自分の陣地があれば、持続的な活動が可能になる。たとえばぼくは年に2回、拠点である福岡に学生を集めて、10日間ひたすら新左翼学生運動史を詰め込み教育する「教養強化合宿」をやっています。この6年間ですでに120人ぐらいを全国に送り出している。それは今後も続けますし、彼らが社会の要所要所に進出していけば、それもぼくにとって、ある種の実効支配地域の形成を意味します。

 たとえばSEALDsにしても、リアルな陣地をもてば、いまも持続して影響力をもてたんじゃないかと思うんですよね。具体的には不動産ですね。彼らはたいへん先進的でファッショナブルで、アドホックだとかクラウドだとかいい感じのことばかり言っていた。それはおしゃれでいいんだけど、結局はいい感じに消えていき、ゲンロンより続かなかった。リアルはダサいかもしれないけど、そういうのに付き合わないと持続性はもてないんじゃないかな。

外山 ゲンロンより持続しない革命組織とはなんなのだろうと思いますね。SEALDsの盛り上がりはマスコミが作ったものだとぼくは思っているので、はじめから眼中にありません。

 いまのデモって、プラカードひとつとっても、ネットで印刷コード配ってコンビニで出力して集まろうという感じじゃないですか。あれは資本への従属そのものだと思うんですよね。具体的にコンビニのプリントサービスに従属している。権力や資本主義に対して抵抗するんだったら、まずはプラカードをひとつひとつ手書きするところから始めないと、抵抗もなにもないと思うんですよね。陣地を作るというのは、権力がなにもかも奪ったとしても、最後は身ひとつで抵抗できるということですよ。本当は情報技術も、そういう「身ひとつ」を拡張するためにあったはずです。

現実に触れること


外山 ぼくは公的な資本に従属した芸術は、全部なくなってもいいとさえ思っています。そこから本当の意味で批評的な作品が出てくる可能性は低いでしょうし、仮に出てきたとしても、分かりにくければ目立たず、分かりやすければ人民につぶされてしまう。まさにあいちトリエンナーレは、ものを言う資格のない人民がSNSを駆使するシステムのなかで抑圧され、ヒステリーによってつぶされましたよね。公がお金を出すのは日本万歳みたいな官製芸術だけにして、芸術は自主的に、なんの補助も受けずにやるべきです。
 前半でも話題になりましたが、日本では文化は国家が把握できない「グレーゾーン」から出てくることが多い。日活ロマンポルノは映画監督を輩出していますが、日活ロマンポルノを肯定しAVを全否定することは難しい。同じように、たとえば宮崎駿だけを肯定しロリコンマンガを全否定することは難しい。重要なのはそういうグレーゾーンをどう扱うか。国家の支援を求めることは、そのグレーゾーンを消すことにつながりかねない。

外山 赤瀬川原平や唐十郎も、国から補助金を貰って活動していたわけではないですし、むしろ国からは危ない人間だと思われていました。でも彼らはいろいろな作品を残してきている。

 平田オリザさんが、演劇は製造業やマンガと事情が異なるので援助が必要だ、という主旨の発言をして批判されました。平田さんも本来はグレーゾーンの重要さをわかっている方だと思います。けれども彼はこの春、兵庫県の豊岡市に新しい公共劇場を作り、来年には新設される大学の学長に就任する予定にもなっている。そのなかで、あの発言は彼の無意識が出てしまったものだと思います。自分たちの演劇はグレーゾーンにはない、法律をきちんと守ってしっかり社会に果実を還元する、だから支援してくださいということですよね。

外山 そんな社会の共通認識など存在しないので、平田さんはあの発言自体を嘘、フィクションとして、つまり一種の演劇としてやっていると言えなくもない。でもそれで助成金を得るのは、詐欺のようなものです。今回ぼくは、演劇にしても芸術にしても、自分を特別扱いする必要があるかのような言い方にムカついている。そうではなく、ふつうにベーシックインカムを提唱すればいいんですよ。

 そうなんですよね。平田さんの発言の結果、芸術が一般市民――市民という言葉がすでに手垢がついているのだとすれば、「庶民感覚」と対立してしまった。これはあいトリ騒動にも通じる話ですが、その対立構造を作ってしまったことが問題です。もしぼくが同じような発言をしたくなっても、ゲンロン友の会には会員が3000人いるので「会員に製造業の関係者がいるかも、彼らは不愉快に思うかも」と顔を思い浮かべることになる。なんでそうならなかったのかな、と思う。

外山 ぼくは正直なところ、政治運動の現場にいる人間以外のことは舐めていたんですけど、今日東さんの言っていることは、現実に対する活動家的な感覚を分かっている。その感覚はどこで身に付けられたんですか。
 どうなんでしょう。ぼくは一時期IT関連のひとたちと会う機会が多くて、そのときいかに大学や批評の世界の言語が彼らに通じないのかがわかったので、その経験が大きかったのかもしれないですね。彼らは言論の世界とはまったく違うルールで動いていて、でもぼくよりも何千倍もお金をもっている。それはふつうに無力さを痛感する経験でした。なんというか、力のリアリズムのようなものを感じたんです。

外山 批評家の方々はそういう付き合いはしないんですか。

 しないと思います。そもそも批評家は大体が大学の先生で、付き合う先は自分の学生と大学の同僚たち、あとは編集者でしょう。その世界では頭がよくて知識があると尊敬されるから、それでいいと思ってしまうんだと思います。IT長者なんて別世界のひとだから、そのひとたちに話が通じなくても、ぜんぜんなにも感じない。しかしそれではだめなんですよね。どんなに能力が高くても、自分の言葉がそもそも通じない人間や、自分がまったく尊敬されない世界にさらされる経験はとても重要です。最近の知識人は、つねに自分のことを肯定してくれてる人間ばかりを相手にしていて、人間的に鍛えられてないと思う。要は、尊敬されると人間は駄目になるんですよ。

外山 批評家のひとも、地方の大学に行ったりすると現実に直面するのかもしれません。名前は伏せますが、メディアによく出ているある批評家が地方の大学に赴任し、自分はそこそこ有名だと思っていたのに、学生がだれも自分を知らないので唖然としたという話を聞いたことがあります。バカだなと思う反面、そういう体験はするべきですね。

 それでいうと、ぼくは自分がバランス感覚を保てていると思っています。活動の中心が福岡にあり、そこで「外山恒一」を知っているひとなんかほとんどいないから。GWには高円寺で「独り酒」闘争というのをやりました。ツイッターで、夜7時から駅前で独りで缶ビールを飲むと宣言した上で、「来るなよ」と呼びかけるというものです。「来い」と言うと無届集会を主催したことになってしまいますからね。しかし、じつは4月の半ばにも福岡で、自粛を呼び掛けるだけの政府に懲罰を与えるという名目で、「懲罰宴会」と称する宴会をやったんです。それもやっぱりツイッターで参加者を募ったんですが、そちらには10人くらいしか来なかった。東京での「独り酒」闘争には毎晩100人くらいが集まりました。東京で活動を呼びかけるのと福岡で呼びかけるのでは、集まる人数が全然ちがう。もしぼくが東京でしか活動していない人間であれば、自分がまるで人気者で有名人であるかのように勘違いするかもしれない。東京がいかにバランス感覚を狂わせるのかは、昔から強く肌で感じています。

 外山さんの場合は、ネットではなく現実にひとを集めているから、べつのバランス感覚も持っていますね。ネットだけでひと集めをするひとたちは、本当にバランスが狂ってしまっている。ネットの方が大量にひとが集まるのは当たり前で、たとえば外山さんが今回の独り酒を「#反自粛」のハッシュタグをつけてやったら、1日で10000ツイートが集まったかもしれません。

外山 ネット上ではね(笑)。でも、そんなものはどうでもいい。
 ところがいまのリベラルはそれで満足している。ぼく自身、ゲンロンカフェを7年運営するなかで、やはり考えがいろいろ変わることになりました。それは現実に迎合というわけではなく、限界が溶けていくという感覚なんですね。信念は変えていないつもりですが、その実現の仕方がいろいろ変わってくる。それはSNSでは経験できない。

外山 ぼくと東さんでは対立する話もあるかと思っていたのですが、コロナについては人々は「なに自粛してんだ」ということが共通見解でしたね。

 そうですね。そして人民「から」いかに自由を守るか。

外山 次回があれば、人民から自由を守るというテーマを掘り下げながら、東さんの著作の問題意識も絡めて、もうすこし話題を広げてお話したいです。

 ぜひやりましょう。外山さん、今日は長い間どうもありがとうございました。


2020年5月10日 東京、ゲンロンカフェ
構成・撮影・注=編集部
本対談は、2020年5月10日にゲンロンカフェで行われたイベント放送「コロナ時代に政治的自由は可能なのか?」を編集・改稿したものです。

★1 同アプリは2020年6月19日に配信開始された。「接触通知アプリCOCOA、政府が提供開始」、『朝日新聞デジタル』、2020年6月19日。

外山恒一

1970年生まれ。革命家。「九州ファシスト党・我々団」総統。高校時代に“反管理教育”の活動家となり、89年、『ぼくの高校退学宣言』で単行本デビュー。90年代を“異端的極左活動家”と“売れない文筆家”の二足のワラジで過ごした末、02年、“反ポリティカル・コレクトネス”的な活動に関連して逮捕され、2年間の獄中生活中にファシズム転向。07年に都知事選に出馬、「政府転覆」を呼びかける過激な政見放送がネット上で大ブームを巻き起こす。著書に『青いムーブメント』、『良いテロリストのための教科書』など。近著に、この50年間の若者たちのラジカルな諸運動の歴史をまとめた『全共闘以後』を上梓。ようやくキワモノ扱いを脱しつつある(ことを夢想している)。

東浩紀

1971年東京生まれ。批評家・作家。東京大学大学院博士課程修了。博士(学術)。株式会社ゲンロン創業者。著書に『存在論的、郵便的』(第21回サントリー学芸賞)、『動物化するポストモダン』、『クォンタム・ファミリーズ』(第23回三島由紀夫賞)、『一般意志2.0』、『弱いつながり』(紀伊國屋じんぶん大賞2015)、『観光客の哲学』(第71回毎日出版文化賞)、『ゲンロン戦記』、『訂正可能性の哲学』、『訂正する力』など。
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