同一者の識別と噴出|全卓樹

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初出:2022年2月25日刊行『ゲンロンβ70』


私の手のひらに乗っていたあの小石は、それぞれかけがえのない、世界にひとつしかないものだった。そしてその世界にひとつしかないものが、世界中の路上に無数に転がっているのだ。
──岸政彦『断片的なものの社会学』

(1)

 2つのものが「同一」でありうるだろうか。全く「識別不可能」な2つのものが存在しうるだろうか。この問いを精密に問うたのが18世紀ドイツの哲学者ゴットフリート・ライプニッツであった。仮に2つのものがあって、あらゆる属性が同一だとしたら、その2つのものは識別不可能だろう。しかし一方、識別不可能とはいえ、2つが別なものであるためには、それらの区別を指定できる何か別な属性がなければならない。  ライプニッツがこの問題に突き当たったのは、世界を構成する根本要素としての「モナド」について考察していたからである。世界は無数のモナドからできている。モナドはお互い独立しているが、全て同一の性質を持つ故、どれも識別不可能である。他方それぞれのモナドは他とは異なる「状態」という属性を持っていて、それがモナドが単一でなく複数存在することを保証している。ライプニッツはそう考えた。  いま全く同一に作られて、どうにも区別できない2つの球体があるとしてみよう。これらは「同一」と言っていいのだろうか。一方を他方から識別することは不可能だろうか。
 世界にこの2つの球体しか存在しないとすれば、それらを区別することに意味はないだろう。そもそも「区別」を論ずるためには、この2つの球体以外の第3者、区別を行う認識主体がなければならない。認識主体は一方の球に目を向ける、他方の球はその一方から1m離れて置かれてあった。この認識主体にとって2つの球を位置(もしくは座標)という属性で区別することは容易い。2つの球が動いて位置が入れ替わったとしても、目を逸さずにそれらの動きを逐次追っているかぎり、一方と他方を間違えることはないだろう。つまり位置はこれら2つの同一にできた球体を識別する「状態」に相当するのである。2つの球体を同一の位置に重ねて1つにできない以上、この2つは常に異なった状態にあって識別可能である。

 内的属性が同一な2つのものでも状態が異なる故に区別できる様子を、オックスフォードの哲学者のサイモン・ソーンダースは「弱い識別可能性」と呼んだ。2つのモナドは、そして離れて置かれた2つの同一な球体は、ともに「弱く識別可能」なのである。

 現実の人生を考える場合、識別可能性の強弱が程度問題である場合も多い。球体の一方に小さな傷がついていたらどうだろう。感覚の鋭い人にとって2つの球は別物で、普通に「強く」識別が可能となるが、傷が目に入らない大抵の人にとっては、2つの球の内在的性質は同一で、位置による「弱い識別」のみが可能だろう。人間自身にとって個人個人は置き換えが効かない別々の存在と思えても、SFに出てくる人を狩って食う異星人にすれば、私と貴女に何の違いもなく、単に狩られた順序によって弱く識別可能なだけだろう。私には全く区別のつかない祥太と晃太の双子兄弟が、晃太に恋を告白されたばかりの貴女にとって、簡単に識別可能だとしても何の不思議もない。

 このように考えることで、別な論点も浮かび上がってくる。祥太と晃太が身体の作りから性格まで、仮に細部に至るまで同一だとしても、貴女に恋している1点で、晃太は特別な存在であるはずだ。この個別性は、双子兄弟の立つ位置や姿勢、表情の違いの識別とは無関係の、根源的な「かけがえのなさ」がもたらすものである。あらゆる客体的属性や状態を超越したこのような識別は、形而上学的「このもの性」と呼ばれる。自動機械やゾンビではない魂のある人間にとって、このもの性による識別は原初的な重要性を持つのだ。

(2)


 いま仮に姿の見えない怪力の小さな悪魔がいて、2つの球体を目にも止まらぬ速さで1秒間に5000回ずつ置き換え続けているという仮想的場面を考えてみよう。高速ヴィデオ装置でも使わないかぎり、球体は両方とも元の位置に止まって見える、という状況である。

 この場合明らかに2つの球体を識別するのは不可能である。仮にどちらかの球体が、晃太から貴女にプレゼントされた真紅のルビーだとしたらどうだろう。他方の球も物理的特徴は全く同じ紅に輝くルビーである。通常ならばプレゼントのルビーは貴女にとっては世界で唯一のかけがえのないものであるが、右に行ってルビーを手に載せてみても、それは常に超高速で入れ替わっていて、向こうに置かれたままのルビーと区別することはできない。

 手の上のルビーは貴女にはどう思えるだろうか。それは向こうに置かれたルビーと位置によって区別されているはずである。しかし貴女にとってのかけがえのなさは半分に減っているだろう。2つのルビーは位置という状態によって「弱く識別可能」だとしても、一方の持つ「このもの性」が失われることで、その識別はさらに弱いものになっていると言わざるをえない。

 そしてこのような絶えざる交換による識別性の弱まりは、この世界に現実に存在している。

 それは電子や原子核といった「量子力学的な粒子」においてである。

 世にある電子は全て同一である。2つの電子が右と左に置かれたとき、それぞれに1番2番と番号をつけて区別することはできない。その2つは任意の瞬間において、1番である状態と2番である状態が均等に含まれる「重ね合わせの状態」になっているからである。しかし番号付けに関して識別不可能な状態にあっても、2つの電子は置かれた位置という属性で区別することができる。その点に関しては普通の球の場合となんら違いはない。右に行って電子を(しかるべき装置を用いて)手に取れば、手の上の電子と左に置かれたままの電子は「弱く識別できる」別な状態だと実感できるだろう。しかしやはり量子的な2粒子は、番号付けできないという点で「このもの性」による識別がない分、通常の弱い識別性とはまた別の量子力学独特の識別性を持つ。

 この違いは2つの電子を近づけることで明らかになる。2電子をナノメータといった微視的距離にまで接近させたとき、「交換反対称性」は2電子間に反発力としての作用を及ぼす。例えばそれに抗して無理に近づければ、2電子はより高いエネルギーを帯びるだろう。それは2電子を再び離して元に戻したのちも残って、2つは近づける前に比べて「熱く」なっているだろう。通常の2つの球では、このような現象は観測されない。
 目に見えぬほどの原子スケールまで近づいた状態にあっては、不確定性原理から粒子の位置も定かでなくなり、「どちらかを取り出す」という操作自体が意味を持たず、2粒子は真の意味で識別不可能になっている。原子スケールに収まった電子たちには相互の区別が全くない。1つのヘリウム原子中の二電子はあらゆる意味で同一で、弱い識別可能性すらもない。ちょうど祥太と晃太の双子兄弟が堅く腕を組んでぴったり並んで遠方を歩くとき、たとえ貴女であっても2人の区別がつかないように。

 2つの量子的粒子が原子スケールに収まって完全に同一となるとき、2つを識別する属性は皆無となり、我々に観測できるほどの大きな距離に離されたとき、初めて2つの粒子は通常の「弱い識別可能性」を帯びてくるのである。その意味で量子的粒子の識別可能性は、普通の粒子よりもさらに弱いものとなる。「量子的なさらに弱い識別性」とでも称すべきだろう。

 2つの粒子が識別不可能であることを量子力学的に表現すると、それは「波動関数の絶対値の2乗が、2つの粒子の仮想的な交換に対して不変性を持つ」ということになる。波動関数の絶対値の2乗が粒子たちが観測される確率を与えるからである。この不変性を保証するには、2つの粒子の仮想的交換で波動関数が「不変にとどまる」か「形は不変だがマイナス符号がつく」のいずれかの性質を持てば良い。(なぜならばマイナス1を2乗すれば1になるからである。)前者が光子や中間子が属する「ボゾン粒子」の場合に成り立つ「交換についての対称性」、後者が電子や陽子が属する「フェルミオン粒子」の場合の「交換についての反対称性」である。
 
【図1】ボゾン2粒子の波動関数の概念図。粒子を交換すると波動関数ψは元のものとおなじである。二粒子の距離xが0のとき、波動関数はどのような値も取り得る。


【図2】フェルミオン2粒子の波動関数の概念図。粒子を交換すると波動関数ψは元のものにマイナスをつけたものになる。二粒子の距離xが0のとき、波動関数の値は0である。

 
 交換反対称なフェルミオンの波動関数は、2つの粒子が同じ位置にあるときゼロの値を取らなければならず、これはすなわち2粒子が同一の位置をとる確率がゼロである事を意味する。2つのフェルミオン粒子は同一位置を占められず、互いに排除する傾向を持つこの事実を「パウリ排他率」と呼び、前述の2電子間の反発力はこれに起因している。

 ボゾンに関してはパウリ排他率が働かず、複数のボゾンを同一の位置、また同一の状態に置くことが可能である。多数のボゾンを集めた系でエネルギーが最も小さいのは、エネルギー最低の量子状態に全てのボゾンを置くときである。粒子を10の23乗個といった巨視的な数だけ用意すれば、我々人間の見えるスケールで、全ての粒子が完全に同一の量子状態に収まった「ボーズ=アインシュタイン凝縮」という特別な物質状態を作ることができる。この例外的な状態では、全ての粒子が我々のスケールにあってまで同一の属性を持ち、単一の状態を占めて全く識別不可能なのである。

 1937年、モスクワの物理学者ピョートル・カピッツァが、ボゾン原子からなる「ヘリウム4」を超低温で液化することに成功した。カピッツァはそこで「超流動現象」を観測した。液体ヘリウムがまるで生きているかのようにビーカーの壁を登り、細管から湧き出し噴出したのである。翌1938年、パリにいたドイツ出身の物理学者フリッツ・ロンドンが、超流動現象はボーズ=アインシュタイン凝縮の明確な証拠であることを理論的に証明した。全体で1つの量子波動関数として振る舞うボーズ=アインシュタイン凝縮体は、通常の流体方程式には従わず、古典力学的には不可能な、重力に逆らって壁を伝わる成分まで含むのである。巨視的スケールに顕現した量子状態であるボーズ=アインシュタイン凝縮は、超流動の他にも様々なエキゾティックな性質を持ち、今でも多くの極低温物質を用いて盛んに研究され、今後の技術的応用にも期待がかかっている。
 
【図3】瓶から噴水のように噴出するボーズ=アインシュタイン凝縮体

 
 同一にして識別不可能な微視的世界の粒子たちは、我々のスケールに立ち現れるに際して漸次的に識別可能性を帯びてくる。そしてまた量子世界の識別不可能性は、例外的状況で我々のスケールにそのまま噴出することもある。現実世界の只中に溢れ出た、ライプニッツ的なモナドの噴水としての超流動現象。とても心晴れやかになる情景ではないだろうか。

 



図版出典
【図1】著者作成
【図2】著者作成
【図3】"This Month in Physics History", APS NEWS, January, 2006.
URL= https://www.aps.org/publications/apsnews/200601/history.cfm

全卓樹

1958年京都府生まれ。高知工科大学理論物理学教授。東京大学理学部物理学科卒業、東京大学理系大学院物理学専攻博士課程修了。専攻は量子力学、数理物理学。ジョージア大学、メリランド大学、法政大学などを経て現職。著書に『エキゾティックな量子──不可思議だけど意外に近しい量子のお話』『銀河の片隅で科学夜話──物理学者が語る、すばらしく不思議で美しいこの世界の小さな驚異』など。
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