熟議はどこまで可能か(後篇)|鈴木寛+東浩紀

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初出:2013年01月31日刊行『ゲンロンエトセトラ #6』
後篇
 10月30日(月)、ゲンロンカフェにて、ZEN大学(仮称)(設置構想中)と株式会社ゲンロンが共同で運営する公開講座の第3弾を開催します。元参議院議員でZEN大学ではチェアマンに就任する鈴木寛さん、作家の乙武洋匡さんをお迎えし、学びたい人なら誰もが学べる「ユニバーサル教育」とZEN大学の取り組みについて語り合っていただきます。聞き手を務めるのは東浩紀です。 
 イベントの開催を記念して、約10年前の2012年8月に行われた鈴木寛さんと東浩紀の対談の記録を掲載します。このときのテーマは、同年7月に公開された「新日本国憲法ゲンロン草案」。熟議をとおして日本はどのように変わることができるのか。当時の空気感とともにお楽しみください。 
 10月30日に開催されるイベントは、以下のリンクより会場観覧チケット・当日の動画配信(アーカイブは来年4月末まで視聴可能)ともに購入いただけます。ぜひお申し込みください。(編集部) 
  
鈴木寛×乙武洋匡×東浩紀 「君たちはどう学ぶか──少子化・AI時代のユニバーサル教育(と政治参加)」 
URL=https://genron-cafe.jp/event/20231030/ 
  

ゲンロン草案のテーマとは


鈴木寛 ただ近代の相対化ということに関して言えば、ゲンロン草案にはもう一歩踏み込んでもらいたいという思いもあるんです。 

東浩紀 と言いますと? 

鈴木 たとえば、代表制の限界についてはフーコーなどもよく議論していますよね。企業における代表取締役にしても、国家における代議士にしても、近代を支える重要な原理として代表という仕組みがあった。物質文明においては、誰かに任せて社員の給料や国のGDPが増えればそれで幸せになれた。しかし価値観が多様化すると、それぞれの人の中に、誰かに託そうとしても託しきれない思いがどうしても生まれてしまう。同時にコミュニケーションの技術は急速に発達しているから、代表制によっては汲み尽くせない各自の思いがいろんなところでハウリングを起こし、それがゆくゆくはガバナンスの機能不全へとつながってしまうわけです。 

 もちろんゲンロン草案にも、「国民と住民の共生」といった多文化主義の時代にふさわしいアイデアはたくさんあるけれども、投票による代表制というシステム自体は引き継がれていますよね。でも、投票では自分の思いを全然伝えきれないというもどかしさは、現在の政治不信の根幹にある問題です。だからこそ、それに応える工夫をもっと盛り込んでほしい。たとえば鈴木健さんは有権者が自分の持つ1票を分割して投票できる仕組みを提案しているし、東さんが『一般意志2.0』で描いたような、直接民主制と代表民主制という、本来は矛盾するふたつの制度を共生させるダイナミズムもいいでしょう。ゲンロン草案にはこういったものを組み込む余地も、まだまだあるのではないかと思います。 

 おっしゃることはよくわかります。ただ実は、既存の代表民主制には収まらない仕組みを入れようと試みた部分は、ゲンロン草案にもいくつかあるんです。 

 たとえば先ほども言ったように、ゲンロン草案下の議会は住民院と国民院からなっていますが、住民院がいままでの信託の論理で作られた古いタイプの議会であるのに対し、国民院は二重の意味で代表民主制から逸脱しています。第一に、日本に住んでいない外国人も議員になれてしまうという点。なぜそれが可能かと言えば、有権者が「この人の意見を聞いてみたい」「この人にコメントしてもらえれば日本はよくなりそうだ」という思いに基づいて議員を選ぶからです。国民院議員は投票によって選ばれていますが、その選挙行為ではたらくのは「この人なら我々の利害を反映してくれるはずだ」という、旧来の信託の論理とは異なった回路であるはずです。 

 そして第二に、国民院のほうには、『一般意志2.0』で僕が提示したニコニコ生放送的な議会運営のモデルを導入しています。つまり、国民院の議論に対してはあらゆる国民がリアルタイムでツッコミを入れることができる。さらに国民院議員は、住民院の議論に対してリアルタイムでツッコミを入れられる。このように二段階になっているのは、『一般意志2.0』のモデルに基づき住民院の国会運営に国民が直接アクセスできるようにしてしまうと混乱が生じるかもしれないので、クッションを組み込んだかたちになっています。とはいえ、鈴木さんのおっしゃった代表民主制と直接民主制の共生という課題に対しては、住民院と国民院とで仕様を異にするシステムによって応えているつもりです。

鈴木 ええ、もちろんその点はよく伝わっているんですが、それをもっと過激に導入してもいいのではないかと思うわけですよ(笑)。そしてもうひとつ、僕がこだわりたいのは自治体のことです。ガバナンスにはそれぞれ適正サイズがあって、1億3000万人で議論したほうがいい話もあれば、3000万人で議論したほうがいい話、300万人、30万人、3万人、3000人、300人で議論したほうがいい話もある。そのそれぞれに対応できるようなデザインを、もっと憲法に書き込んだほうがいいのではないか。 

 ゲンロン草案では、国と基礎自治体という2つのレベルをすっぱり分けていて、基礎自治体にはさまざまな実験を許容しつつも、安全保障や外交など地域では担いきれない領域を国がカバーするという補完性の原理を貫いています。つまり、基礎自治体のほうはかなり自由に統治構造を設定できるようになっていて、たとえば必ずしも議会も置かなくていい。 

 最近武雄市が公立図書館の運営をTSUTAYAの母体であるカルチュア・コンビニエンス・クラブに委託しようとしていることが議論を呼んでいますが★1、ああいう実験も、基礎自治体のレベルではどんどん取り組んでいくべきだと僕は思っているんです。ただあの試みを国全体にまで広げようとすると当然話は変わってきて、TSUTAYAで貯まったTポイントを円に換えられるのかなど、いくつも問題が出てきてしまう。だから、先ほど指摘されたような1票を分割して投票するというアイデアや、住民の購買履歴をデータとして収集・分析することによって資源再配分や行政サービスの提供を最適化するといった先進的な試みは、基礎自治体のレベルでは推奨しつつも、国政レベルのものとして憲法に書き込むのは時期尚早だろうと考えました。 

鈴木 先ほどの僕の指摘をもう少し補足しますと、僕は自治体には「リージョナルコミュニティ」と「テーマコミュニティ」の2つがあると思っているんです。前者が物理的近接性に基づく伝統的なコミュニティで、後者は問題意識や関心を共有する者たちが作るコミュニティ。もちろん憲法は結社の自由を保障しているので、どんなテーマコミュニティを作ってもいいわけですが、憲法はもう少し具体的なメニューを示してもいいのではないか。つまり、リージョナルコミュニティについては東さんのおっしゃるように自治体のフレキシビリティに委ねていいと思うけれども、テーマコミュニティについては、単にリベラルに許容するだけではなく、実際にそれを作ることができるというケイパビリティ(能力、活用可能性)も憲法に組み込んでおくべきではないか。そうすることで、国民はリージョナルコミュニティとテーマコミュニティという両方の装置が用意されていて、それをどちらも使えるということを、具体的にイメージできるようになるからです。国民の多様性は確保しなければならない一方で、多様性が一定のレベルを超えてしまうと、国民のあいだでコンセンサスを作るときのコストが増えすぎてしまい、アウト・オブ・コントロールに陥ってしまう危険がある。憲法は、単に国民に「なにをやってもいいよ」と言うだけではなく、国民がいろいろなことを考える際の材料のメニューというか、「これを使ってこういうことをやっていいんだ」というある種のビジョンを示すという役割も担うべきだと考えているんです。 

 しかし、テーマコミュニティに国家が口を出すとなると、困難も多いのではないですか。自分がどのリージョナルコミュニティに属しているかは、自分の身体がどこにあるかによって一義的に確定しますけど、テーマコミュニティはその成員が関心を抱く主題によって決まるわけですから、そのありかたには無数の可能性がある。たとえば、オタク的関心を持つ人たちを集めたオタクコミュニティに対してオタク選挙権を与えるという話が持ち上がった場合、そのオタクコミュニティの輪郭はどのように決まるのか。オタクという主題には政治に参加する資格があるが他の主題にはないという判断はどのように下されるのか。いくつもの難しい問題が発生してしまうでしょう。だからゲンロン草案は、それぞれの国民の精神的なアイデンティティに対してあまり口を出さない国家を想定して書かれているんです。天皇を元首として規定しているため、一見そうは見えないかもしれませんが。 

鈴木 実は、僕がゲンロン草案に感じている弱さも、まさしくそこにあるんですよ。つまり、この憲法が実現されるとこういう問題が改善されるという予感や、この憲法はこういう人たちを応援していますというメッセージを読者にもっと届けたほうが、議論が盛り上がるはずだと言いたいんです。 

 伝統的に政府の役割とは再配分であると見なされてきましたが、いま介護や教育や保育が抱えている問題は、お金が足りないということよりもむしろ、孤独、つまり自分を支えてくれるコミュニティがない人が多いという現実ですよね。最近よく議論されている独居老人の問題からも、頼るべき絆がないことやコミュニケーションを取る相手がいないことの不安がますます大きくなっていることがわかります。ではそのコミュニケーション不全の問題をいったい誰が解決するのか。もちろんそれは常に国家でなくてもいいんですが、社会に解決してほしいという思いはやはり多くの人にあるわけです。だから、そういう時代に提案される憲法には、「こういう社会のありようを理想としています」とか「こういうことに困っている人を見放しません」とか、そういうメッセージが込められるべきではないか。もちろんこれは憲法というものの定義に関わることなのでこの考えに同意しない人もいると思いますけど、現にこういう不安を抱えている人がゲンロン草案をめぐる議論に参加してくれるようになれば、この憲法はもっといいものになるはずだと僕自身は考えています。 

 なるほど……。それは重要なご指摘です。確かに僕たちのゲンロン草案は、ガバナンスの機能不全についてやたらと詳しいやつらが作ったオタクっぽい憲法という側面があって(笑)、よく考え抜かれてはいるものの、「この憲法はこういう人たちを応援しています」というメッセージを打ち出すことに対してはとても禁欲的なんですね。それはメンバーの性格が反映されているのかもしれません。草案の性格をもっと打ち出したほうがいいというご指摘は、痛いところを突いていますね。 

鈴木 僕がゲンロン草案にしたい唯一の批判は、完成度が高すぎるということなんです(笑)。いままでの僕の提案を一言で言えば、「ゲンロン草案を読んだ人がちょっと元気になるような憲法にしよう」ということに尽きています。

最善を尽くして勝負する権利


 しかし、具体的にはどのようなメッセージを打ち出すべきでしょう。いま風だと「緑にやさしい」とか「弱者にやさしい」といった方向に落ち着いてしまいがちですが。 

鈴木 ところが「弱者にやさしい」というメッセージにしても、いまは弱者の概念そのものが変わってきていますよね。近代における弱者は生産能力がなくてお金がない人のことを指していましたが、いまでは生活していけるお金はあっても、日々寂しい思いをしている人はたくさんいる。教育現場で起きているいじめやひきこもりの問題にしても、考えるべきはお金のあるなしではなくて、自分の居場所や自分の存在意義といった感覚を適切に与えられていないことでしょう。現在の日本は間違いなくそういう問題を抱えている。その解決には、このコミュニケーションの時代に適合するように、弱者の概念を再定義する必要がある。少なくともいまの憲法のままでは、この現実には決してキャッチアップできないと思うわけです。 

 となると、ゲンロン草案の第2部に、人びとが十分に友達を持てる権利のようなものを盛り込んでいくということでしょうか。極端な例ですが、「ツイッターのフォロワーは最低100人を保証します」みたいな(笑)。 

鈴木 100人を保証するというより、100人と仲良くなれるケイパビリティを持てるような協力はしてあげるということですね。100人と仲良くなる能力を行使しない自由はもちろんあるべきです。 

 「100人と仲良くなれるケイパビリティ」をどうやって確保しますか。 

鈴木 たとえば、子どもたちのコミュニケーション能力を伸ばすような教育を実施することです。実は僕は小・中学校に演劇教育を普及するための活動をやっているのですが、その狙いも、体の動きといった非言語的なものも含めて、人とコミュニケートするための能力を子どもたちに幅広く身につけてもらいたいということにあります。 

 とにかく問題なのは、いままで憲法で想定されていた教育があくまでも生産活動に従事させるためのもので、コミュニケーション能力の獲得に関してはノーケアだったことですよ。つまり近代憲法においては、朝から晩まで黙ってモノを作りつづけられるのがいい国民だということになり、その意味では暗記力や反復力を身につけるという教育の方針は近代憲法の要請でもあったわけです。ならば、近代の次のステージに突入しつつある現在の憲法においては、新しい価値の順番をはっきり示すべきではないか。たとえば「友達を増やすことはGDPを増やすことよりも大事だ」というメッセージは、憲法にもきちんと書くべきではないか。フランス革命においては「自由、平等、博愛」というスローガンが掲げられましたけど、その3つをすべて同等に実現することは不可能なのであって、憲法を議論するというのは結局のところ、それらの重みづけをどのように設定するかを考えることにほかならないと思っています。 

 その言いかたで言えば、僕がゲンロン草案においてやりたかったのは、博愛への大幅な重点移動ですね。それははっきりしています。 

鈴木 その点は僕も大いに賛同するところです。

 たとえばゲンロン草案の前文には「日本は繁栄する国でなければならない」と書かれていますが、この「繁栄」という言葉に込めたのは、お金持ちになるというよりも、むしろ子孫を増やすということです。将来を悲観し、やる気をなくした若者は、しばしば「オレの人生さえ生きられればそれでいいや」と考えて子どもをつくることから遠ざかりがちです。確かに子どもをつくるかどうかは各人の勝手ですが、社会全体としては子孫の存在は博愛の基礎になるはずのものであり、子どもが減るのはやはりよろしくない。そもそも「博愛」はフランス語で「フラテルニテ(fraternité)」★2ですから、そのおおもとには兄弟愛があるわけです(この言葉のジェンダー的バイアスは別の問題として)。つまり兄弟としての連帯という「博愛」の語の根幹に沿うかたちで、子どもをつくってもよい国であろうとする意志が、繁栄主義の理念には込められています。あとはそのイメージを、条文のなかでさらにどう具体的に肉づけしていくかがこれからの課題になりそうです。 

鈴木 そうですね。それからもうひとつ、いま東さんがおっしゃったやる気のない若者の話にまさしくあらわれていますが、「義務以上のことはやらない」という態度を広めてしまったこともまた、近代憲法のもたらした問題だと僕は思うんです。近代憲法というのは権利と義務を設定するという構造を取っていて、義務を負った人はそれをまっとうしないと怒られるので、そのことに対する怖れが国民に社会的に望ましい行動をさせることになる。その仕組みが「義務以上のことをやらない」という態度を普遍化するのはある意味で当然ですが、それでも近代憲法がいままで機能できたのは、将来は予測しうるという前提に近代国家が立てたからです。将来が予測しうるのであれば、想定される状況のそれぞれについて権利と義務をあらかじめ決めておけば事態は制御できると考えた。だから日本では、義務として定められた以上のことをやろうとするとむしろ「いらんことするな」と怒られたりするわけですね。 

 しかし当然ながら、ますます複雑になりつつあるこの世界においては、想定外のこともたくさん起こります。権利も義務も設定されていない想定外の事態に直面したとき必要になるのは、「結果を100%保証することはできないけれど、最善の努力を試みる」という姿勢にほかならないはずですが、そういう姿勢の発露を近代憲法は妨げてしまっている。 

 同意です。しかし、それは憲法の規定を変えることで改善するようなものなのかしら。 

鈴木 それは僕にもわからない。むしろその可能性を、新憲法をめぐる議論のなかでみなさんと一緒に考えたいんです。ただ、権利と義務でがんじがらめにされた世界が窮屈で、よかれと思ったことをもっと素直に実行できる世界になるべきだという思いは多くの人が共有しているはずなので、その思いにフィットする憲法を考える余地はまだまだあると思います。 

 たとえばいまの民法には「善管注意義務」というものが設定されています。わかりやすく言うと、たとえば僕が散歩しているときに道端で困っている人を見かけたとする。そのとき僕が「助けてあげなきゃ」と思って手を差しのべると、実はその瞬間から僕には注意義務が発生してしまうんです。だから手を差しのべたあとで、もし問題が起こると、その人から注意義務違反で訴えられてしまう可能性もあるわけで、そんな法律のもとでは誰も手を差しのべなくなってしまいますよね。この状況をなんとか改善したい、困っている人を手助けすることを奨励してあげられるような憲法を作りたいと僕は思うわけです。そのためにはもしかしたら、最善を尽くして勝負しようとする人を守る規定というか、よかれと思ったことを勝負する権利のようなものを、新しい憲法に盛り込む必要があるのかもしれません。

ゲンロン草案をアップデートするために


 いまのお話は、総記録社会における法のありかたという問題にも関連しそうですね。 

 「ライフログ」という言葉があるように、人びとの行動の履歴はこれからますます多くネット上に蓄積されていくはずです。しかし、そうなると、たとえば20年前の自分の発言が検索によって引っかかったりする可能性が生まれてくる。20年前の自分の何気ない発言を持ち出されて「お前はこう言っていたんだから責任を取れ」と言われるなんて勘弁してほしいですが、これはかなり現実味を帯びた話です。そういう窮屈さを解消するために、たとえば個人の発言の検索は15年以上遡れないようにするとかいった議論は、今後出てくることでしょう。 

 たとえば先日の著作権法改正による違法ダウンロード刑事罰化★3にしても、当局はきっと道路交通法のような運用を想定していると思うんです。時速80kmという制限速度があっても、違反しているドライバーを必ずしも全員つかまえているわけではない。同じように、法律ではある程度非現実的な罰則を定めておきつつ、あとは運用で調整するというやりかた。ところがここで問題になるのは、総記録社会においては詳細な相互監視が誰にでも可能になってしまう。そうすると、誰かを貶おとしめようとする悪意を持った人たちが、寄ってたかってその人の行動履歴を検索し、違法行為を晒しあげるという事態が容易に想定されます。これは立法の時点では想定されていない事態です。つまり、行動のすべてが記録され、法の執行者ではない一般人も他者をモニタリングできる社会では、法のありかたも抜本的に変わらざるをえない。ただそれがどうあるべきかについては難しい問題で、僕にも答えがあるわけではありません。 

鈴木 だからこそ、最善を尽くして試行錯誤していくしかないんです。その意味ではゲンロン草案についてみんなで議論するべきところはまだまだあるはずだし、たとえ完璧な回答を出せなかったとしても、「最善の努力をする人に対して寛容な社会を理想としている」というメッセージが憲法のなかに込められていれば、未来において改善される可能性にも期待することができる。僕が言いたいのはそういうことなんです。 

 おっしゃるとおりです。ゲンロン草案は「第1部 政体」「第2部 権利」「第3部 補足」の全3部からなっていますが、確かに現状では議論は第1部に集中していて、第2部については現行憲法を踏襲している部分が多いんですね。楠正憲さんの議論によってプライバシー権に関わる規定が多少アップデートされたりはしましたが、環境権のような新しい権利はまだほとんど加えられていない。だからそこを今後どう拡張・整理していくかは重要な課題です。今日は、あらためてそのことを意識させられました。 

鈴木 ええ、ぜひそれをやりましょう! その取り組みは僕も手伝いたいと思うし、さらには、僕だけではなくもっとたくさんの人、それこそ100万人や200万人という規模で議論が交わされるようなムーブメントに育てていきたいし、東さんにはぜひその先陣を切っていただきたいと思っています。 

 ありがとうございます。今日は、現実に憲法改正に携わっている方より過分なお褒めの言葉と鋭い批判をいただき、身の引き締まる思いでした。この憲法をアップデートしたのち、ふたたびより具体的な議論の席を設けられればと思っています。今後ともよろしくお願いいたします。 

 


2012年8月2日 
ゲンロン五反田オフィス 
構成=編集部


★1 2012年5月、佐賀県武雄市は、2013年4月より市図書館の運営をカルチュア・コンビニエンス・クラブに委託することを発表した。「Tカード」を貸し出しカードとし、本を借りた際にポイントを付与されるようにするなど、民間ならではのサービス導入が予定されている。 
★2 フランス革命におけるスローガン「自由、平等、博愛」のうち、「博愛」は原語で「fraternité」と表記されるが、この言葉は本来、「兄弟愛」を意味している。 
★3 2012年10月の著作権法改正により、音声および映像について、違法コンテンツであることを認識していながらダウンロードした場合、2年以下の懲役もしくは200万円以下の罰金が科せられることになった。
鈴木寛×乙武洋匡×東浩紀 「君たちはどう学ぶか──少子化・AI時代のユニバーサル教育(と政治参加)」 
URL=https://genron-cafe.jp/event/20231030/
後篇

鈴木寛

東京大学教授・慶應義塾大学特任教授 1986年東京大学法学部卒業。通商産業省、慶應義塾大学助教授を経て参議院議員(12年間)。文部科学副大臣(二期)、文部科学大臣補佐官(四期)などを歴任。教育、医療、スポーツ、文化、科学技術イノベーションに関する政策づくりや各種プロデュースを中心に活動。コミュニティ・スクール法制定、高校無償化、高等教育修学支援金創設などを実現。ウエルビーイング学会副会長、情報社会学会理事。

東浩紀

1971年東京生まれ。批評家・作家。東京大学大学院博士課程修了。博士(学術)。株式会社ゲンロン創業者。著書に『存在論的、郵便的』(第21回サントリー学芸賞)、『動物化するポストモダン』、『クォンタム・ファミリーズ』(第23回三島由紀夫賞)、『一般意志2.0』、『弱いつながり』(紀伊國屋じんぶん大賞2015)、『観光客の哲学』(第71回毎日出版文化賞)、『ゲンロン戦記』、『訂正可能性の哲学』、『訂正する力』など。
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