無料についての断章|楠木建

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初出:2021年9月15日刊行『ゲンロン12』
 2021年9月刊行の『ゲンロン12』より、楠木建さんの論考「無料についての断章」を公開します。同書の経済特集「無料とはなにか」の冒頭を飾る本論考。経営学の知見やGAFAのビジネスモデルをスタート地点に、人間にとって「文化」や「仕事」とはなにかを考えます。 
 10月17日(火)には、ゲンロンカフェにて楠木さんとフランス文学者の鹿島茂さんによる対談イベントも開催されます。会場観覧チケット・当日の動画配信(アーカイブは来年4月まで視聴可能)ともに以下のリンクより購入できますので、ぜひチェックしてみてください!(編集部) 
  
楠木建×鹿島茂「楠木建さんと考える、ビジネスにおける『正しく考えるための方法』──【鹿島茂のN'improte Quoi!特別編】」 
URL=https://genron-cafe.jp/event/20231017/


 経営学の古典的な理論の1つに、臨床心理学者、フレデリック・ハーズバーグの「二要因理論」がある。論理展開が面白い。職務満足と不満足は相互に独立の次元であって、1つの物差しの両極ではない。満足の反対は不満足ではなく「没満足」(満足がないという状態)、不満足の反対は「没不満足」(不満足がないという状態)というのがハーズバーグの主張だ。 

 不満足の要因は、給与や勤務地といった仕事を取り巻く環境や条件にある。低い給料は不満足を引き起こす。しかし、給料を上げても没不満足になるだけで、満足には至らない。一方で、人間が仕事に満足を感じるとき、その人の関心は仕事の中身(達成感や承認)に向いている。ということは、仕事に満足していながら、同時に不満足ということがあり得る。たとえば、達成感のある仕事だが、安月給というケースだ。この話に限らず、マイナスをゼロまでもっていくことと、ゼロからプラスを生み出すことは似て非なるものであることが多い。


 GAFA(グーグル、アップル、フェイスブック、アマゾン)と一口に言うけれども、その商売の中身は相当に異なる。GAFAを「プラットフォーマー」として同列に論じるのは、全日空とヤマト運輸とトヨタとジェイソン・ステイサムを一括りにして「トランスポーター」と言うに等しい。 

「バーチャル対リアル」という軸で見れば、GF組とAA組に分かれる。前者はデジタル情報財の商売に徹している。アップルは実体のあるハードウェアを製造し在庫し販売する。アマゾンはさまざまな商品を大量に在庫して流通・販売する。一方のGF組はリアルなオペレーションを持たない。 

 GF組の年次報告書には頻出するけれども、AA組のそれにはほとんど出てこない言葉がある──「マネタイズ」だ。AA組は製品やサービスの提供で対価を取る。昔ながらの「普通の商売」だ。ところが、複製と移転のコストが低いデジタル情報財はそれ自体に課金するのが難しい。もしYouTubeやフェイスブックが有料だったら、ユーザーの数は現在の100分の1どころか1000分の1になるかもしれない。そこでマネタイズが必要になる。GF組の商売の基本構造は、収益源の「マネーサイド」と情報サービスを無料で提供する「サブシディサイド」の2面プラットフォームという形をとる。 

 私はいまのところアップル製品を1つも使っていない。iPhoneをタダでくれるのであれば使うのにやぶさかではないが、そういう話が来たことはない。おカネを払わなければiPhoneは手に入らない。 

 わりと頻繁にアマゾンで本を買う。便利だからだ。もちろん注文と同時に代金を支払う。グーグルのサーチやマップのサービスは日常的に使っている。実に便利、これこそ文明の利器だと思う。フェイスブックは登録しただけで放置してあるが、人によっては便利であろうことは理解できる。しかし、フェイスブックはもちろん、グーグルにもこれまでビタ一文払ったことはない。 

 商売に無料はない。GF組の売上の大半は広告事業だ。利益に占める割合はさらに大きくなる。商売の実体は広告業に他ならない。「自社の商品やサービスを多くの人に知ってもらい、願わくは買ってもらいたい」という法人顧客のニーズを満たす。サブシディサイドはインターネットの登場後に勃興したデジタル情報財だが、マネーサイドは20世紀どころか19世紀から連綿と続く古典的な商売だといってよい。 

 無料サービスの裏側にあるマネーサイドは、広告である必要はない。論理的には他のマネタイズの方法もあり得る。しかし、インターネットが普及して4半世紀、グーグル創業からでもすでに22年が経過している。GF組をはじめとする2面プラットフォーマーはありとあらゆるマネタイズの方法を模索してきたにもかかわらず、依然として収益の大半を広告に依存している。フェイスブック社の売上に占める広告事業の割合は、一旦90%代前半まで下がったが再び増大し、直近では97%を超えている。広告業に代わる強力なマネーサイドは今後とも見つからない可能性が高い。


 今日では日々数限りない広告がデジタルメディアを通じて消費者に届けられている。しかし、広告市場全体はそれほど成長していない。 

 広告市場はコロナの影響で一時的に大幅に縮小したが、コロナ前の2019年の日本の総広告市場規模は6兆9381億円だった(電通の調査による)。この数字は2008年の6兆6926億円とあまり変わらない。確かにデジタル広告市場は右肩上がりで成長してきた。2019年、デジタル広告費は前年比19.7%拡大し、2020年の落ち込みの中でも前年比5.9%成長を記録している。しかし、デジタル広告は必ずしも新たな市場を創造したわけではない。従来のマスコミ4媒体(テレビ、新聞、雑誌、ラジオ)の広告市場を食って伸びてきたというのが実情だ。 

 広告という商売の性質を考えれば不思議ではない。広告業はBtoBの商売、対価を払うのは企業である。企業の広告予算が増えなければ(つまり、企業がもっと広告を出す気にならなければ)、広告市場は成長しない。 

 広告は需要を刺激する。しかし、需要を創造する本体はあくまでも製品やサービスだ。長年縮小傾向が続いていた日本の出版市場は、この数年、デジタル出版はもちろん、紙の本も落ち込みに歯止めがかかった。その理由は、『鬼滅の刃』をはじめとするメガヒット作が続いたからだ。デジタル広告が伸長したからではない。 

 


 インターネットが登場する前のテレビやラジオも2面プラットフォームの広告業であったことに変わりはない。しかし、デジタル広告は1広告当たりのコストと価格を大幅に下げた。その結果、消費者が目にする広告の数は飛躍的に増えた。標準的な生活をしている人が1日に接触する広告の数を単純にカウントしたら、前インターネット時代の10倍以上になっているだろう。 

 情報の豊かさは注意の貧困を生み出す──ノーベル経済学賞を受賞したハーバート・サイモンの言葉だ。人間の脳の処理能力には一定の限界がある。そもそも1日は24時間しかない。この制約条件は1000年先でも変わらない。目にする情報量が増えるほど、1つの情報に振り向けられる注意の量は減る。 

 広告の最終目的は受け手に商品を買わせることにある。そのためには少なくとも注意を惹かなければならない。しかし、デジタル広告の生命線は低コストとそれが可能にする量の増大にある。デジタル広告空間に物理的制約はない。いくらでも広告の数を増やせる。デジタル広告のプラットフォーマーは配信する広告量を増やすことによって市場を拡大してきた。必然的に注意は犠牲になる。ここに宿命的なトレードオフがある。 

 広告が増えるほど、1広告当たりの消費者の注意と行動(クリックする、あわよくば実際に購入する)は減少する。1本の広告の価格は安くなる。しかし、それを補って余りある量があれば、全体としての広告料収入は増える。デジタル広告業は究極の「チリツモ商売」になる。 

 インターネット上の広告にはターゲティング(消費者の嗜好や属性に応じて広告を当てていく手法)という強みがあるとされていた。アップルによると、現在のスマホアプリには利用者の個人情報を第3者と共有する「トラッカー」が平均して6つ組み込まれているという。しかし、プライバシー保護の観点から、消費者の行動追跡を抑止する「アンチトラッキング」の動きが出てきている。アップルはその急先鋒だ。デジタル広告は転期を迎えている。


 YouTubeを観ていると、広告が出てくる。5秒我慢すると「広告をスキップ」というボタンが現れる。即座に押して観たい動画に移る。我慢の報酬として映像を無料で観る。言い換えれば、ユーザーは視聴の対価として「不便」を支払っている。不便がイヤだと言う人には、ちゃんと月額課金メニューが用意されている。不便はカネで回避できる。YouTube(すなわちグーグル社)におカネを払えば、広告が出ないようにしてくれる。これを「ネガティブ課金」と呼ぶ。 

 常識で考えてみれば、ヘンな話だ。当然のことながら、広告主である企業はYouTube上の広告を消費者に見てもらいたい。ところが、ほとんどの視聴者は広告は見ないで済ませたいと思っている。広告なしの有料メニューを視聴者に販売しているということは、この不都合な事実を当のグーグルが認めているということだ。いかにも矛盾している。 

 価値を提供して対価を得る。これが普通の商売だ。ところが、ネガティブ課金ではまずマイナスの価値を作り込む。そのうえでマイナスを解消するサービスを提供して対価を得る。「マッチポンプ」に近い。広告料を払っている企業にとってはいい気持ちはしないだろう。しかも、広告なしを選ぶ人々は可処分所得が高い層のはずだ。良い客に広告が届かなくなる。 

 それでも、量が矛盾を癒してくれる。何せYouTubeは世界で2番目にアクセスが多いウェブサイトだ(1位はグーグル検索)。ユーザー数は20億人以上。広告がユーザーの注意を惹く確率がごく低くても、ここまでリーチが広ければペイする。テレビ広告を打つのと違って単価も安い。そもそもネガティブ課金を受け入れてまで広告を回避する視聴者はごく限られる。 

 


 アラン・クルーガーは、著書の“ROCKONOMICS”(ロックな経済学)で音楽業界の経済メカニズムを考察している。音楽ストリーミングサービスが広告ありの無料サービスと広告なしの有料サービスを並行して提供している場合、広告──クルーガーの言う「邪魔というコスト」──が増えるほど、無料から有料に切り替えるユーザーが増えるという実験結果がある。 

 実際に、デジタル広告市場が右肩上がりの成長を続ける裏側で、米国の音楽有料配信市場は成長している。2013年から17年の5年間で有料契約者は630万人から3530万人へと約6倍になった。結果として、音楽の供給側にいるアーティストとレーベルが受け取った収入は6億ドルから40億ドルへと増大した。 

 映像コンテンツの分野でのネットフリックスの急成長は周知の通りだ。有料のサブスクリプション契約者は2億人を突破した。ウェブメディアの台頭で苦戦していた新聞や雑誌の活字メディアも、ここにきてようやく有料購読者を増やしつつある。 

 もともと一部の企業向けデジタル情報財(特定の業界や専門分野での調査分析など)は有料で取引されてきた。一方、インターネットとデジタルの時代になって、多くの消費者向け情報財は無料になった。その分広告への依存性が高まった。しかし、それでもある種の情報財はユーザーから直接対価を取れることが明らかになってきた。 

 その情報財が「文化」の範疇にあるか否か。ここに有料と無料の分かれ目がありそうだ。文化的情報財は有料視聴や有料購読を回復しつつある。


「文化的」とはどういうことか。精神を高揚し、心を動かす。その人の生活に何らかの影響を与える。刹那的な刺激への反射に終わらず、記憶として定着する──あっさり言えば「心に残る」。ここに文化的情報財とそうでないものの境界線がある。 

 書籍や新聞、雑誌の言論は知識と知見を提供する。その一部は読者の価値基準に影響を与え、教養を形成する。私にとって高峰秀子『わたしの渡世日記』との出会いは衝撃的だった。以来、日常の仕事や生活の中で「高峰秀子ならどう考えるだろう・どうするだろう」と自然に自問するようになった。文字通りのディープ・インパクトだ。高峰秀子の著作群は自分の価値基準の奥底にあり続けている。 

 小説やマンガ、映画や演劇、スポーツや音楽といったコンテンツは心を豊かにし、ときには人々に生きる原動力を与える。私の生活には音楽が欠かせない。小学生のときに両親の運転するクルマの中で流れていたエルヴィス・プレスリーの音楽は滅法楽しかった。エルヴィスのラスベガスのショーの記録映画『エルヴィス・オン・ステージ』を観たときの痺れははっきりと残っている。それから50年近く経った今でも繰り返しDVDで観る。 

 電車に乗れば、多くの人がスマホの画面を見つめている。大半はゲームをしたり、動画を観たり、SNSをチェックしたり、チャットをしたりしているのだと思う。ようするに、暇つぶしだ。スマホは人類史上最強の暇つぶしの道具と言ってよい。 

 暇つぶしをするとき、人々は自然と刺激的な情報に流れる。ネットメディアにあふれるスキャンダルやスクープの記事は恰好の暇つぶしの友だ。ときには驚き、ときには興奮する。しかし、それは反射に過ぎない。この手の情報財はあくまでも一過性の刺激を与えるだけで、心に残ることはない。電車を降りたらきれいさっぱり忘れてしまう。 

 大半の人はYouTubeを暇つぶしに利用している。広告なしの有料サービスに課金するユーザーがほとんどいない理由もここにある。音楽や映画やスポーツ実況中継と違って、視聴環境の快適さにそれほどのこだわりはない。 

「しょせん娯楽屋、されど娯楽屋」という任天堂はユーザーが長く楽しめるような「面白さ」を追求してきた。無料で遊べる携帯ゲームが出てきたときも、「ゲームは暇つぶしではない」と一線を画した。ゲームという情報財にも文化的なものとそうでないものがある。 

 スマホの無料アプリでゲームをする人々が急増した2012年、岩田聡社長(当時)はインタビューでこう発言している。「任天堂は3DS用に『とびだせどうぶつの森』というゲームソフトを発売しました。3DSのソフトの中で一番早くミリオンセラーになるほどで、特に大人の女性に受けています。『スマホでゲームをするからゲーム機は買わない』。最もこうした消費行動が強いと見られていた大人の女性が、現実に3DSを選んでいるのです」(『日経ビジネス』2012年12月10日号)。 

 文化には暇つぶし以上の意味がある。文化的価値を享受しようとするとき、人々はより能動的に情報財に向き合う。読書習慣を持つ人は、紙であろうと電子版であろうと、読みたい本は買って読む。映画が好きな人は、有料サービスに加入して居間の大画面テレビで映画を鑑賞する。ときには入場料を払って映画館で映画を観る。スポーツ好きの人は、スポーツ専用チャンネルに課金して試合の実況中継に見入る。音楽を楽しむ人は、広告に邪魔されない環境で有料の音楽ストリーミングを利用する。素敵なジャケットに包まれたアナログのレコード盤を購入することもある。 

 スポーツや音楽の分野では、しばしば贔屓のチームの試合をスタジアムで観戦したり、好きなアーティストのコンサートやロック・フェスに出かける人もいる。他のオーディエンスとの一体感も含めて、スポーツや音楽を五感で楽しむ。こうなると情報財というより、経験財と言った方がよい。


 文化的情報財は安い。クルーガーは、音楽が多くの人にとって重要な意味を持つ財であるにもかかわらず、その市場規模は驚くほど小さいという指摘をしている。2017年の米国の音楽に対する支出総額は183億ドルに過ぎなかった。GDPの0.1%以下、タバコ市場の5分の1でしかない。私は喫煙者なので、タバコは文化的嗜好品だと思っているが、それにしても、音楽市場の規模はタバコの広告市場よりも小さい。音楽は人々の生活への影響が大きい割には支出が少ない。クルーガーに言わせれば「断トツのお買い得」ということになる。 

 本はもっとお買い得かもしれない。イアン・カーショー『ヒトラー』とサイモン・セバーグ・モンテフィオーリ『スターリン』、この二冊のノンフィクションの傑作を続けて読んだことがある。合わせて3000ページ以上、価格も合計で3万円。高いと思うかもしれないが、とんでもない。ちょっといい店にお鮨を食べに行けば、2人で3万円はかかる。そのときは美味しいだろうが、しょせん2時間の愉悦だ。 

 一方書籍は休日に集中して読んだとしても、2作で1ヶ月はとっくりと楽しめる。しかも、自分が生きる社会と自分自身の生き方について、いやというほど考えさせられる。そこから明日を生きるための価値観を引き出せる。読んでいる間だけではなく、思考と行動の基盤として、その価値が一生続く。これだけの叡知をたっぷりと味わえるのだから、腰が抜けるほど安いと言っても過言ではない。この世のありとあらゆる財の中でこれほどディスカウントされているものは他にない。しかし、タダではない。 

 


 2019年までTwitterでのツイートをゆるゆると10年間続けていた。以前からエクセルのファイルを使って読書記録や音楽・映画の視聴記録をつけていた。これをTwitterに移してやってみようというのがそもそもの動機だった。 

 当時、TwitterのようなSNSは「コミュニケーション」とか「コミュニティ」という文脈で語られることが多かった。読書記録をTwitterで発信すれば、見てくれる人からも反応があり、こちらも得るものがあるのではないかという期待があった。そのうちに日常の断片的な思考のメモとしても使うようになった。【本】とか【音楽】とか【メモ】というタグをつけてツイートしていた。 

 ところが、フォロワーが数千人を超えるころから、自分の考えやちょっとした主張に対して不特定多数の人から批判というか攻撃を受けるようになった。こちらもウブだったので、まじめに反論する。すると、火に油を注ぐような騒ぎとなる。ますます攻撃者が増える。そうした成り行きを(意図的に?)曲解した記事が「まとめサイト」などで拡散する。いよいよ炎上は広がり、匿名の人にいきなり「このハゲー!」とか言われたりする。こちらとしては返す言葉がない。Twitterでの「コミュニケーション」を自然と遠ざけるようになった。 

 そうこうしているうちに、ある会社から声がかかった。「オンラインサロン」という形式で有料(月額課金)のプラットフォームを運営しているので、そこで特定少数の読者に向けて発信すればいいのではないか──。ちょっと考えて、やってみることにした。価格はこちらで決められると言う。ごくカジュアルな書き物なので、月額税込み500円とした。2019年9月に「楠木建の頭の中」がスタートした。 

 こちらが好き勝手に書く文章におカネを払おうという人は少ない。それでも、毎日何本かは読んだ方々からの反応がコメントとして寄せられる。読者に教えられることも多い。クローズドな場なので、Twitterのように荒れることもない。相変わらず髪はないが、「ハゲ!」と言ってくる人はいない。始めて1年が経過したころから、書き物を媒介としたコミュニティとはこういうことか、という実感が持てるようになった。

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「楠木建の頭の中」を始めるにあたり、告知をツイートした。「これまでのTwitterでの読書記録や日常の思考のメモは『楠木建の頭の中』に移行しました(月額500円)」。早速コメントがついた。「何様?」「見損なった」「カネ儲けに走ったな」──。 

 もちろんおカネが入るのは悪くない。しかし、たいした額にはならない。500円からプラットフォームの利用料と税金が差し引かれるので、読者1人当たりの入金額は330円ほどに過ぎない。「カネ儲けに走」るのであれば、もっとうまいやり方がある。 

 書き手にとっての有料の価値は、収入だけではない。読者に課金をすることがスクリーニングになる。これがありがたい。課金という行為は、読者に一定のコミットメントがあることを意味している。有料であれば、コミットしてくれる読者に向けて書くことができる。コミットしてくれる読者であれば、こちらの書くものをそれなりにきちんと読んでくれる。こうして価値交換とコミュニケーションが成立する。 

 家族や友人、同じ職場の人々といった日常的に顔を合わせる関係にあれば、おカネ以外にもコミットメントを示す方法は無数にある。しかし、お互いに顔が見えない不特定の人々が価値交換をする場では、おカネを支払うことがもっとも効率的で効果的なコミットメントの表明手段となる。ここに市場経済の妙味がある。 

 有料での情報財の提供は、読み手以上に書き手のコミットメントを問う。「楠木建の頭の中」の開始以来、月曜日から金曜日まで毎日休まず読書感想文やら折々の考えごとを会員読者に向けて発信している。1記事がだいたい1000字から3000字なので、少なく見積もっても50万字は書いただろう。有料でなければ、ここまで続けられなかったと思う。量や頻度だけではない。雑文ではあるけれども、多少なりとも読者の記憶の片隅に残るものにしたいと、毎回それなりに気合を入れて書いている。 

 

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 仕事は趣味ではない。趣味でないものを仕事、仕事でないものを趣味と言う。趣味は自分(だけ)を向いた活動だ。自分が楽しければそれでよい。これに対して、仕事は他者を向いている。自分以外の誰かの利益になってはじめて仕事となる。 

 趣味のロックバンド「ブルードッグス」を30年以上続けている。渋谷の「Take Off 7」で定期的にライブをやっている(ライブハウスでのオールスタンディングのライブは究極の3密なので、1年以上バンド活動は中断している)。趣味であるからして、目的は「っている自分たちが一方的に気持ちよくなる」ことにある。厄介なのは、観てくれる人が多いほどこっちも気持ちよくなるということだ。バンド内では、ライブに来てくださるお客さまを「犠牲者の方々」と呼んでいる。 

 ライブをやるたびに犠牲者の方々を熱心に募る。しかし、わざわざライブに来てくださる人は少ない。もちろんスポンサーもいない。その理由ははっきりしている。価値がないからである。なぜ価値がないのか。これまた理由は明々白々で、趣味だからである。そもそも他者に価値を提供することが目的になっていない。ブルードッグスの活動は常に「無人ライブ」のリスクに直面している。

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 私は競争戦略という分野で仕事をしている。競争がある中で、なぜある企業は儲かり、ある企業は儲からないのか。その背後にある論理を考える。考えたことを言語化し、それを書いたり話したりしてお客さまに提供し、なにがしかの役に立ててもらう──これが私の商売だ。 

 もちろん、ボランティアで書いたり、講演したりすることもある。しかし、それはこちらに文字通りボランタリー(自発的)な意志があるときに限られる。商売である以上、普通はお代を頂戴する。企業相手の仕事であれば、こちらに特別な意志がない限り、仕事の内容に応じてどなたさまにも決まった額の報酬を請求している。原則的にディスカウントには応じない。 

 この10年ほどは、副業として随筆や書評も書いている。趣味の延長上にある仕事とはいえ、こうした原稿は私にとってもはや趣味ではない。商売であるからして、依頼を受けたときは、必ず原稿料を明示してもらっている。もちろん私ごときの随筆や書評ではたいしたおカネにはならない。それはそれでいい。大切なのは、金額を決め、双方が合意したうえで仕事をするということだ。 

 商売においては、買い手にも売り手にも一定のコミットメントが求められる。「価格」が市場取引においてコミットメントを示す一義的な指標となることはすでに述べた。高倉健は言う──仕事を受けるときの基準は2つ。ギャラが高いことと拘束時間が短いこと(野地秩嘉『高倉健インタヴューズ』)。 

 商品を無料で提供するのは、商売の道徳に反している。市場で価格がつかない「仕事」は仕事ではない。買い手は自分にとっての価値を判断する。それに応じておカネを支払う。売り手はおカネをいただく以上、それに見合うだけの価値があるものを提供しなければならない。それができなければ、次の注文は来ない。こうした緊張関係が生み出すコミットメントが仕事の質を向上させる。商売は私のような怠惰な人間にも規律を与えてくれる。 

 自分以外の誰かに向けてやるのが仕事である以上、まずは相手を儲けさせ、その結果として自分も儲ける──商売の1丁目1番地だ。約束したことは実行する。時間には遅れない。原稿であれば、締め切りは必ず守る。相手の立場に立って、相手のためを考える。商売は人間を成熟させる。 

 

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 自分の書いたものが売れるのであれば、紙の本でも電子版でもこだわりはない。新聞でも雑誌でもいい。自分の考えごとが読者に届くのは何より嬉しいことだ。しかも商売として対価をいただける。考えごとを言語化し、読者に提供する──こんなにフワフワした営みを仕事として続けられている。奇跡に近い。 

 ただし、である。私個人としては、YouTubeのような二面プラットフォームのサブシディサイドで仕事をしたいと思わない。YouTubeで動画を配信するとしたら、趣味の世界にとどめたい。講義やセミナーのような動画をYouTubeで配信すれば、報酬を得ることはできるかもしれない。そんなことは私の場合ありようもないが、仮に1つの動画が毎回10万人の視聴者を獲得すれば、YouTubeからの収入で生活できるかもしれない。しかし、その原資はグーグルの得た広告収入である。視聴者が直接支払う対価ではない。 

 広告が悪いと言うのではない。特定の広告主が私の配信するコンテンツのスポンサーになってくれると言うのであれば、その企業に対して何らかの価値を提供しているということになる。仕事として成立している。コマーシャル出演は高倉健にとっても重要な収入源の1つだった。 

 しかし、である。ほとんどの場合、YouTubeの動画配信の報酬は、グーグルが機械的に割り当てた広告によって発生する。広告主は私(の動画)に発注しているのではない。グーグルに広告費を支払っているに過ぎない。彼らは支払った広告費が私の動画に使われるかどうかは知らないし、そんなことには関心を持たない。広告が視聴者に届けばそれでいい。そこには視聴者のコミットメントはもちろん、広告主のコミットメントもない。 

 こうしたゲームのルールの下で動画の再生回数を伸ばすためには、不特定多数の興味関心を幅広く獲得しなければならない。もっとも有効な方法は、人々の暇つぶしの本能をそそる内容に仕立てることだろう。かくして、芸能人や政治家のすべった転んだのスキャンダル、有名人の収入や人気のランキング、手っ取り早いカネ儲けや投資話、健康や美容の裏技、喧嘩や「どっきり」の大騒ぎ──こうしたコンテンツがYouTubeの主流となる。しかも、暇つぶしの視聴者は1つの動画をじっくりと観てはくれない。長くても10分程度の短い尺に収める必要がある。 

 それはそれでいい。暇つぶしや浮世の憂さ晴らしは今も昔も重要な情報財の役割だ。需要があれば供給がある。しかし、そこには文化はない。繰り返すが、文化的な情報財は人々の心に残り、何らかのポジティブな影響が長く続くものでなければならない。インスタントに興味を惹いて、すぐに価値が減衰し、あとには何も残らないような情報は文化とは関わりがない。文化的情報財は微分値の極大化を志向しない。文化の価値は時間軸上での積分値の大きさに表れる。文化はあとから効いてくる。 

 

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 文明と文化は似て非なるものだ。文明は不満足を解消し、没不満足を実現する。これに対して、文化は没満足をなくし、満足を創造する。 

 今日では地球上のあらゆる国や地域の人々がスマートフォンのアプリで日常的にコミュニケーションをとっている。手紙や葉書と比較すれば、メールやチャットははるかに速くて安くて便利な通信手段である。文化の違いにかかわらず、文明はあらゆる人間にとって便利なものだ。ただし、面倒や手間というマイナスを小さくしているに過ぎない。葉書がチャットになったからといって、相手の心に残る言葉が自動的に出てくるわけではない。 

 インターネットは文明である。デジタル情報財の無料化は文明の象徴といってよい。文明は不幸を少なくする。しかし、人々を幸せにするものでは必ずしもない。それは文化の領分だ。

楠木建×鹿島茂「楠木建さんと考える、ビジネスにおける『正しく考えるための方法』──【鹿島茂のN'improte Quoi!特別編】」 
URL=https://genron-cafe.jp/event/20231017/

正義は、開かれていることにではなく、つねに訂正可能なことのなかにある。

『ゲンロン12』
飯田泰之/石戸諭/イ・アレックス・テックァン/井上智洋/海猫沢めろん/宇野重規/大森望/小川さやか/鹿島茂/楠木建/桜井英治/鈴木忠志/高山羽根子/竹内万里子/辻田真佐憲/榛見あきる/ウティット・ヘーマムーン/ユク・ホ/松山洋平/山森みか/柳美里/東浩紀/上田洋子/福冨渉
東浩紀 編

¥2,860(税込)|A5判・並製|本体492頁|2021/9/17刊行

楠木建

経営学者。一橋ビジネススクールPDS寄付講座競争戦略特任教授。一橋大学大学院商学研究科修士課程修了。一橋大学商学部専任講師、同助教授、ボッコーニ大学経営大学院(イタリア・ミラノ)客員教授、一橋大学大学院国際企業戦略研究科助教授、同ビジネススクール教授を経て2023年から現職。著書に『絶対悲観主義』(2022年,講談社+α新書)、『逆・タイムマシン経営論』(2020年,日経BP,共著)、『室内生活:スローで過剰な読書論』(2019年,晶文社)、『ストーリーとしての競争戦略:優れた戦略の条件』(2010年,東洋経済新報社)ほか多数。
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