脱構築のトリセツ 脱構築入門(の彼方へ)の一歩(抜粋)──『ゲンロン15』より|宮﨑裕助

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初出:2023年10月27日刊行『ゲンロン15』
 10月27日発売の『ゲンロン15』より、哲学・現代思想研究者の宮﨑裕助さんのエッセイの一部を公開いたします。哲学者ジャック・デリダによる有名な概念「脱構築」の入門記事です。 
  
特設ページはこちら:https://webgenron.com/articles/genron15/

1 思考の道具としての脱構築


 イギリスに初めて留学したときのこと。ユーロスターでしばしばロンドンとパリを往復する機会があった。その途上、列車の車窓から「Deconstruction」と記された看板をみかけた。日本でジャック・デリダとポール・ド・マンについての修士論文を書き終え、頭のなかが「脱構築」思想でいっぱいだった当時の私は「うわー、さすが本場は違う! こんなところにまで脱構築が!」と興奮したのだった。 

 なんのことはない、その看板は「解体屋」を意味しており、建設現場や工事現場などで宣伝として用いられていたにすぎなかった。まだ日常生活での英語に通じておらず、語学の知識が頭でっかちな専門用語に偏っていた私は、ひとり勝手に誤解して盛り上がっていたというわけだった。『オックスフォード英語辞典』(第三版)の定義を確認してみよう。 

 

A ある事物の構築を解体する(undoing)行為。 
  
B [哲学および文学理論の用語]フランスの哲学者ジャック・デリダ(一九三〇年生)と結びついた批評的分析の一戦略。哲学言語および文学言語のうちに問われないままになっている形而上学的前提や内的矛盾を暴露することを目指している。



 「deconstruction」(フランス語では、déconstruction)は、英語でもフランス語でもけっして日常語と言えるほどよく使われる言葉ではないが、一般的には「解体」を意味している。もちろんこの言葉、知っている人にとってはデリダの鍵語である。しかしそうと知られているかどうかにかかわらず、実際には日本語の「脱構築」よりもずっと緩やかに使われている。たんに「解体」の意味だけでなく、批判的・批評的な意図をもって物事を組み換えたり刷新したり再編したりするさいの気の利いた類語としても「deconstruct」が使われているのをしばしば耳にする。 

 ディコンストラクティヴィズム(脱構築主義派建築)はよく知られているが、「ディコンストラクトされたシチュー、ディコンストラクトされた衣服、ディコンストラクトされたオフィス・スペース」★1等々、さまざまに使われることがある。この語は、デリダの用語とは無関係ではないが、そもそもデリダとの関連にあまりとらわれずに広く流通しているのである。

 他方、日本語ではどうか。「脱構築」と訳してしまえば、知らない人にはただの奇妙な造語にみえるか、そうでなければ、ただちにフランスの哲学者ジャック・デリダに結びつく思想用語になってしまう。いかにもとっつきにくい武骨な漢字三文字の熟語である。そのため、英仏語とは異なり、日本語の「脱構築」は、この語を聞いたことがあるという人にとっても、いわゆるアクティヴ・ワードとして自分で用いる言葉になっている人は少ないと思われる。 

 「脱構築」という造語的な翻訳語を用いざるをえないという事態は、ある程度日本語特有の事情だろう。これは、脱構築にとって何を意味するだろうか。ひとつの外来語として専門用語にとどまらざるをえないという運命を示すものだろうか。あるいはそのとっつきにくさは、そのぶん英米語圏でのように濫用されないで済む以上、むしろこの言葉にとって好都合と言うべきだろうか。 

 デリダ自身、脱構築がたんなる概念でも理論でもなく、なんらかの方法や道具でもないということをくり返し強調し、この言葉がなんらかの「~主義(イズム)」へと硬直化することを強く警戒していた★2。しかしそれでも、デリダを研究してきた者として断言するが、私は、まずはこの言葉を一種の思考の道具としてもっと使い回せばよい、少なくともそこから始めればよいと考えている。 

 脱構築をたんなる流行語として片づけることはできない。そこには、私たちにとって依然として有用な普遍的思考法という側面があることは確かだ。脱構築は厳密には思考法ではないのだが、その側面を経由することなしにはそもそも脱構築を理解することも使用することもできなくなってしまうだろう。濫用や誤用を過剰に警戒する前に、まずは言葉として広く共有し使いやすいものにすること、それが先決である。 

 デリダが脱構築の流行と濫用に強く警告を発していたのにたいして、デリダをアメリカ合衆国に招いた批評家ポール・ド・マンは、脱構築が当初の意図を超えて広まってしまうことは不可避だと考えていた。それだけでなく、デリダの警告にもかかわらず、その語を技術的ないし方法的な仕方で積極的に使用することさえ厭わなかった。かくしてド・マンは、脱構築批評という旗印のもとにイェール学派を率いたのであった。 

 もちろんこれは一方で、合衆国における脱構築の知的流行を後押しし、脱構築の形骸化をもたらした部分があることは否めない。しかし他方で、そうした局面を経てこそ、デリダが「アメリカ、それは脱構築なるものだ」★3とさえ言う仕方で、脱構築は新大陸の地で新たな可能性を開いたのであり、結果、ド・マンの死後、デリダ自身も脱構築をみずからの思想を担う用語として積極的に使用するようになっていったのである。 

 脱構築はデリダの当初の意図を超えて広まったということ、むしろその点に脱構築の命運が賭けられている。したがって、必ずしもデリダが言う通りにこの語が用いられるべきだということにはならない。 

 問題なのはおそらく、デリダ以後、さらにはデリダなき脱構築なのだ。脱構築をデリダの言ったことに基づけるべきか否かという二分法は、それ自体脱構築されるべき事柄なのである。この意味では、少なくとも日本語での「脱構築」は、依然として展開の余地がある。逆説的な言い方になるが、いまだ充分に濫用されていないと私は考えている。

2 誰が何を脱構築するのか


 もちろん好き勝手に「脱構築」を用いればよいというものではない。以下では、大きく間違えないための最低限のラインを引くことを試み、そのことを通じてこの言葉の汎用性を高めることを目指してみたい。 

 まず、近似的な日本語表現として「換骨奪胎」を挙げておきたい。文字通りには「骨を取り換え、胎盤を奪う」という意味であり、中国の故事成語に由来し、詩作の方法論として言われる言葉である。先人の作品の形式を踏襲しつつも、中味は別の独自な作品へと創り上げる仕方を指して用いられる。要するに、見かけは変わらずとも、作品の骨格や本質をつかんで別のものへと変容させる手法を意味している。 

 脱構築は、関わっていく対象にたいして外部から何か別の要素をぶつけて壊してしまうのではなく、そのもののなかへと深く入り込み、その内部を組み換えることを通じて、内側から当のもののポテンシャルを引き出すことを特徴としている。この点で脱構築には「換骨奪胎」に似た働きがある。これをひとつの類義語として念頭に置くなら、脱構築という言葉にまったく不案内な人も、この言葉の最初のイメージをつかむことができるのではないか。しかし脱構築の射程は作品の創作法にとどまらず、より広大である。 

 そもそも誰が何を脱構築するのか。デリダに言わせれば、脱構築は「誰が/何を~するのか」という文法形式そのものを問題視するため、そうした問い自体が無効ということになってしまう。しかしくり返しになるが、まずはこの言葉をひとつの思考法とみなし「誰か」が使用することを考えるところから始めよう。 

 脱構築の対象は「問題となる何か」である。それは基本的には、制度であったり体系であったり概念であったりするような人為的な構築物であり、かつ何かしら問題をはらんだものである。ここでは詳述しないが、初期のデリダが取り組んだのは「西洋形而上学の脱構築」であり、「ロゴス中心主義の脱構築」であり、「音声中心主義の脱構築」であった。 

 しかしもっと一般的な対象に目を向けることもできるだろう。ナショナリズムの脱構築、教育制度の脱構築、民主主義の脱構築、現代美術の脱構築、ジェンダーの脱構築、等々。脱構築が効果を発揮するのは、人為的な構築物のうち、あまり具体的すぎない総称、かつ問題含みなテーマにたいしてである、と考えよう。逆にいえば、自然物や個物にたいして脱構築を語ることはあまり意味がない。たとえば「雲の脱構築」「ミミズの脱構築」「ミケ(飼い猫の固有名)の脱構築」といったものは直接的には考えにくい(ただし「雲という概念の脱構築」等々の省略表現と解釈するなら理解できる)。 

 「あまり具体的すぎない総称」というのは、そのほうが当のテーマのうちにさまざまな対立項が含まれたり関わり合ったりしていると想定できるからである。デリダの例でいえば、「西洋形而上学」に含まれる二項対立として、現前/不在、自己/他者、同一性/差異、内部/外部、話し言葉パロール書き言葉エクリチュールいったものが想定されていた。デリダとは関係なく「ナショナリズム(国家・国民主義)」というテーマを選んだとするならば、この概念のもとに、自民族/他民族、自国人/外国人、国家/個人、国内/国際、ローカル/グローバル、等々の関連するさまざまな二項対立を見いだすことができるだろう。

 二項対立の諸要素へと展開する必要があるのは、私たちの思考のあらゆる枠組みが二項対立を介して構成されているからである。私たちの思考は有限であり、それを言葉で順序立てて説明できるのは一連の二項対立を介してでしかない。脱構築が働きかけるのはまさにもろもろの二項対立にたいしてである。脱構築が脱構築たりうるのは、二項対立という私たちの思考の条件にたいしてであり、それが「二項対立の脱構築」として生ずるのである。 

 脱構築に取りかかる前に、まず準備段階として、問題となるテーマにたいしてどんな二項対立があるのかを洗い出す必要がある。先ほど「ナショナリズム」というテーマにかんして、自民族/他民族、自国人/外国人、国家/個人、国内/国際、ローカル/グローバル、といった二項対立を挙げた。しかしこのとき、たんに二項対立を探し出すだけでは足りない。脱構築する前に、それらの両極がいかなる上下関係にあるのか、現状どちらが優勢でどのような問題があるのか、充分な状況把握をして問題意識を高めておかねばならない。 

 ここではごく大雑把な説明にとどめる。たとえば、自民族中心主義が強すぎることによって外国人の差別や排斥が横行しているという現状があるとする。その場合、自民族/他民族という二項対立においては、前者が支配的でマジョリティということになる。だからこそこの優先順位を問いただし、他民族との交流や他文化を尊重することを通じて、差別や排斥が引き起こしている人権問題や社会的な閉塞を克服しなければならない。そのためにこそ「ナショナリズムの脱構築」に着手しなければならない、という発想になる。 

 脱構築しなければならないのは、既存の二項対立のもとで問題が引き起こされているからである。しかし、二項対立であればなんでも悪だということではない。先ほど述べたように、二項対立は私たちの思考の条件をなしている。脱構築が扱う二項対立は、たとえば、プラスとマイナス、N極とS極、といったたぐいの水平的な二項対立ではない。脱構築は、二項対立をもてあそぶ記号の知的ゲームではない。 

 脱構築の眼が向けられるのは、問題となる二項のあいだに、なんらかの力関係、つまり垂直的な階層秩序があるときである。言ってしまえば、既存の硬直化した支配関係や上下関係を転覆するためにこそ、脱構築はなされなければならない。その点で、脱構築はつねになんらかの政治的な効果を伴った介入として生ずるのだということを銘記しなければならない。脱構築には、現状に批判的な視点で切り込んでゆく問題意識が不可欠なのである。 

 

3 誇張法としての脱構築


 以上を踏まえてようやく脱構築のスタートラインに立つことができる。まず乗り越えなければならない第一のラインは、ヘーゲルによって引かれている(なにしろデリダが一生涯格闘したのはヘーゲルとハイデガーなのだ。ハイデガーについては後述する)。つまり弁証法である。ここでいう弁証法とは何か。ヘーゲルの用語法に拘泥することなくこれを明示すれば、次のような公式によって言い表すことができる。 


 

X=非X




 これは、一見して矛盾をはらんだ公式である。つまり、同一律「A=A(ソクラテスはソクラテスである)」や排中律「A=BかA≠Bかのどちらかである(ソクラテスは哲学者であるか哲学者でないかのどちらかである)」といった、アリストテレスが定式化した古典論理学の大原則に反しているように見える。しかし、脱構築に必要不可欠なのはまさにこの「X=非X」という公式によって表される事態である。どういう事態を想定すればよいのだろうか。(『ゲンロン15』へ続く)

 


★1 ロドルフ・ガシェ『脱構築の力』、宮﨑裕助編訳、入江哲朗ほか訳、月曜社、2020年、165頁。 
★2 ジャック・デリダ「日本の友への手紙」、『プシュケー 他なるものの発明Ⅱ』、藤本一勇訳、岩波書店、2019年参照。 
★3 ジャック・デリダ『メモワール──ポール・ド・マンのために』、宮﨑裕助ほか訳、水声社、2022年、46頁。

 

宮﨑裕助

1974年生まれ。東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了。博士(学術)。現在、専修大学文学部教授。専門分野は、哲学・ヨーロッパ現代思想。著書に『判断と崇高——カント美学のポリティクス』(知泉書館、2009年)、共著に『労働と思想』(堀之内出版、2015年)他、共訳書に、ポール・ド・マン『盲目と洞察——現代批評の修辞学における試論』(月曜社、2012年)、ジャック・デリダ『有限責任会社』(法政大学出版局、2002年)。最新刊に『ジャック・デリダ―― 死後の生を与える』(岩波書店、2020年)がある。
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