国民クイズ2.0(後篇)|徳久倫康

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初出:2012年7月8日刊行『日本2.0 思想地図β Vol.3』
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5 クイズ王の時代(承前)


 とはいえ、『ウルトラクイズ』の影響は絶大だった。『ウルトラクイズ』の人気を受けて、1980年代後半から1990年代前半には、芸能人とは異なる一般参加者の「クイズ王」を全面的に取り上げた番組が登場する。そのためこの時期をとくに、「クイズ王ブーム」と呼ぶこともある。一部のクイズ王はアイドル的な人気を獲得し、長戸勇人(第13回『ウルトラクイズ』優勝者)や能勢一幸(第15回『ウルトラクイズ』優勝者)のもとには、視聴者から数千通にも及ぶファンレターが寄せられたという。

 クイズ王ブームを支えたのは、まとめて「三冠」と呼ばれる三つの番組だった。具体的には、日本テレビの『ウルトラクイズ』、TBSの『史上最強のクイズ王決定戦』(本放送は1989年-1993年、以下『史上最強』)、フジテレビの『FNS1億2000万人のクイズ王決定戦!』(1990年-1994年)の三本である。

 ここで注目すべきなのは、クイズ王は回答者として出演するだけではなく、ときにも番組制作の側に参加していたことである。『史上最強』立ち上げ当初から重要な役割を果たしていたのは、自身が大学在学中から「学生クイズ王」と呼ばれていた有名クイズプレイヤー、道蔦岳史であった。彼は過去『ウルトラクイズ』で2回予選を突破したほか、他の番組でも計10回以上の優勝を経験しており、既存のクイズ番組の傾向については、十分に熟知していたと言っていいだろう。これは重要な変化である。なぜならば、それは出題者と回答者による、一種の共犯関係が生まれたことを意味するからだ。ただし「共犯関係」と言っても、やらせ行為などの不正のことではない。

 たとえば、『史上最強』ではクイズ王が披露する早押しのスピードが全面的に強調され、問題が読み始められると同時に、画面隅でストップウォッチが回りはじめ、いったい何秒でボタンを押したのかがわかるような演出もなされていた。もっとも有名なのは、この番組を代表するクイズ王である西村顕治が、問題の冒頭の「アマゾン川で」しか読まれていない段階でボタンを押し、「ポロロッカ」という正答を導きだしたシーンである。読み上げ開始からわずか0.9秒。その神業とも言うべき回答速度と、西村の巨躯から繰り出されるダイナミックな所作は視聴者に強烈な印象を残し、のち冨樫義博のマンガ『幽☆遊☆白書』でもパロディ化された★1
 しかしこのような超人的な回答が可能となったのは、問題文の外側に、回答を規定する別の指標が存在していたからにほかならない。競技クイズプレイヤーのあいだでは、頻出の問題を「ベタ問」と呼ぶ。冒頭に挙げた「なぜ山」「マロリー」はその一例だが、これは一般的な意味での「常識」とはまったく異なる。なにをもって「ベタ問」とされるかについて明確な基準はないが、テレビのクイズ番組で出題された事項は、その後も繰り返し出題されやすい。インターネット普及前夜のこの時代、クイズプレイヤーの共有基盤となっていたのは、ほかでもないテレビのクイズ番組だった。

 この関係性について、少し詳しく見てみよう。重要なのは、そもそもクイズは一般に、答えられるために作られるということである。『史上最強』では一般視聴者にとってはかなり難しい問題群が出題されていた。しかしいかに難問と言っても、出演者がまったく手も足も出ないような問題ばかり出していては、番組として成立しない。それに対して、一般の視聴者にとってはまったく未知の難問だが、クイズプレイヤーのあいだではあるていど共通知識とされているような事項を問えば、クイズ王たちはより超人的な存在として演出される。こうして、問題は次第に固定化していくことになる。

 さらに、「確定ポイント」が問題文の早い箇所に来るように操作すれば、回答者がボタンを押す箇所はより早くなる。確定ポイントというのは百人一首で言うところの「決まり字」のようなものだ★2。決まり字の存在自体、クイズの問題文が一定の形式で固定化されていたことの証左でもある。クイズ王ブームを盛り上げた諸番組は、一般視聴者には見えないコミュニティ内のデータベースによって、裏側から支えられていたのだ。既存のクイズ番組や問題集などによって規定された知識の総体とでも言うべきものなしに、クイズ王の超人的な活躍は困難だった。

 しかし、これは諸刃の剣でもあった。回答者をある種の超人として演出するような番組構成は、彼らを魅力的に映す一方で、かつてクイズ番組の本質的な役割であったはずの、コミュニケーションを促進する装置としての機能を排除するからだ。ブームの収束は必然的だった。

6 「大きな物語」の凋落


 ブームの末期には、右に記した「見えないデータベース」とでも言うべきものが、ますます存在感を増していった。

『史上最強』は、1989年の第1回から1年に2回のペースで放送されたが、計9回の本放送では、「ポロロッカ」の西村と水津康夫のふたりが、チャンピオンの座を独占し続けた。しかしレギュラー大会終了後の『史上最強のクイズ王決定戦・全国選抜サバイバルマッチ』(1994年)、翌年の『史上最強のクイズ王決定戦 ライブ』(1995年)では、水津より20歳以上若い新チャンピオンが優勝を果たした。それまで西村とともに絶対的な王者として君臨していた水津は、自らの著書で、「クイズは大人の遊び」だと記している★3。それに対して二回り若い小林聖司は、クイズに特化した勉強を積み、データベースに習熟することで、見事に優勝を飾ったのだ★4

 この世代交代は、いささか皮肉な事態だった。というのも、かつての王者である水津は、「見えないデータベース」よりもむしろ、その外側の知識にこそクイズの醍醐味がある、と主張していたからだ。たとえば、彼の著書には自作の問題が大量に収録されているが、その多くは当時のクイズ番組の出題傾向とかけ離れており、ほとんどの読者には見当もつかないような難問・奇問揃いだった。言ってみればそれは、データベースを無視したような問題群で、水津自身が「仲間うちで遊ぶときでも特殊すぎてあまり評判が芳しくなかった」と述べている。しかし1992年の刊行後、本書はクイズプレイヤーのあいだで「水津本」と呼ばれて長く読み継がれるとともに、クイズ愛好家のコミュニティ内ではこれを典拠とする問題がいくつも作られ、出題されるようになっていく。クイズの出題範囲を「森羅万象」と称していた水津の著作もまた、データベースの一要素に還元されてしまったのだ。

「三冠」で最後に残った『史上最強』の事実上の最終回が放送され、クイズ王ブームが終焉を迎えたのは、1995年のことである。社会情勢に目を向ければ、この年の1月には阪神・淡路大震災で6000名以上が亡くなり、3月にはオウム真理教による地下鉄サリン事件が起こっている。また、Windows95が発売され、一般家庭に急速にPCが普及し始めたのもこの時期である。
 批評家の宇野常寛は『ゼロ年代の想像力』で、1995年前後に起こった社会的・文化的変化について、その理由を「「政治」の問題(平成不況の長期化)と、「文学」の問題(地下鉄サリン事件に象徴される社会の流動化)」という二点に求めている★5。「社会の流動化」とは、「何に価値があるのかを規定してくれる「大きな物語」が機能しなくな」った状態を指す。みなが共有する「大きな物語」(大澤真幸の「第三者の審級」)が凋落し、全体性を失った個人が、それぞれの「小さな物語」を生きるしかなくなったということだ。こうした図式は、宇野や東といった批評家から、大澤や宮台真司といった社会学者まで、2000年代に活躍した論者が共通して指摘しているところだ。

 そのような社会認識を前提とすれば、「小さな物語」の時代においては、クイズ番組は必然的に機能不全を起こすことがわかるはずだ。「大きな物語」が機能していた時代は、まだ一定の「教養」の枠組みが維持されていた。視聴者それぞれが知っていることはばらばらであっても、「平均的な視聴者が知っている(べき)こと」を、みながイメージすることはできた。クイズの問題も、その平均的な視聴者像にあわせて制作することが可能だった。

 しかし、資本主義の爛熟や冷戦構造の崩壊に伴う「近代」の終わり、つまり「ポストモダン化」は、「平均的な視聴者」を想像させることを困難にした。いまやクイズ番組は、不特定多数の視聴者に向けて共通の問題を発信することができなくなってしまったのだ。かつてであれば知っているべきとされていたはずの事柄でも、ポストモダン社会では、それを知っていることが善であるという前提が通用しない。こういった変化は連続的なもので、1995年以前からそのきざしは現れていた。1990年代前半のクイズ王ブームで起きた難問化は、この社会状況を映し出している。

 さらにわかりやすい例としては、同時期に人気を博した『カルトQ』(1991年-1993年)がある。この番組は、「小さな物語」の時代の到来を明確に表象している。『カルトQ』は深夜帯に放送された、一般視聴者参加型のクイズ番組である。その内容はタイトル通り、極度に専門化した「カルト」なものだ。放送ごとにテーマが決められ(たとえば第1回は「ブラックミュージック」)、そのテーマについてマニアックな知識を持つ参加者たちが、視聴者にはほとんど回答しえない難問群をすらすらと解く。

『カルトQ』は、「理解できないマニアックさ」をエンタテインメントとしてパッケージングすることに成功した。同番組は、当初深夜帯に放送され、それこそカルト的な人気を博したが、放送枠が午後10時30分に移ると、半年で打ち切りの憂き目に遭う。

 そもそも深夜帯の番組は自室で一人で見ることが主であり、ターゲットとなる年齢層も狭い。そのため、戦後のクイズ番組が対象としてきたような「お茶の間」でのコミュニケーションを考慮する必要がない。視聴者の理解が追いつかなかったとしても、超人的な回答の様子が十分に楽しめるよう演出されてさえいれば、娯楽として成立しうる。

 しかし、放送時間が早まるほど、この戦略は通用しなくなっていく。超人的なマニアたちがクイズを解く様子は、家族向けの娯楽とはいえない。『カルトQ』は「小さな物語」の時代に適切に対応して成功を収めると同時に、その困難をも同時に体現してしまったのだ。

7 クイズと「おバカタレント」


 だからといって1995年以降、ゴールデンタイムのクイズ番組がどれも失敗したというわけではない。なかには時代背景を逆手にとって成功した、特記すべきアプローチもある。まずはじめに挙げられるのは『さんまのスーパーからくりテレビ』(1996年-)の内のコーナー「ご長寿早押しクイズ」であり、続いて登場したのがその系譜を受け継いだ『クイズ!ヘキサゴンII』(2005年―2011年、以下『ヘキサゴン』)である。

両者に共通するのは、きわめて難易度の低い問題を、回答者(「ご長寿早押しクイズ」であれば一般参加の高齢者、『ヘキサゴン』であればゲストの著名人)が間違え続ける、という構図である。このシステムが画期的なのは、小中学生ていどの知識さえあれば解けるような、それこそクイズ王ブーム時代にはありえなかったような簡単な問題を、堂々と出題できることにある。小さな物語が乱立し、みなが知っているべき「教養」が失われた時代において、クイズ番組が本来の魅力、つまり「お茶の間」のコミュニケーションを創出する機能を取り戻すためには、出題される設問を極端に簡単にし、「大きな物語」なしでも共有されうるぎりぎりの常識レベルにまで、難易度を調整する必要が生まれる。
 しかし、問題をただ簡単にするだけでは、回答者たちはすぐに答えを導きだしてしまい、番組としての面白みが失われてしまう。そこで要請されたのが、いわゆる「おバカタレント」である。彼らの登場によって、「ご長寿早押しクイズ」同様の見当はずれの回答がエンタテインメントとして提供されると同時に、むかしのクイズ番組よりもはるかに平易な、しかし現代においては家族間で共有できる最低限の「常識」を出題することが可能になったのだ。「お茶の間」では、おバカタレントの珍回答が笑いを誘うと同時に、ときにその問題に対して子どもが回答を導き、あるいは親が子どもに正解を教える、といった光景が見られたはずだ。つまりおバカタレントを媒介にすることで、極端に平易な問題を出題できるようになり、それによって戦後から続いてきた「お茶の間」の団欒に貢献するというクイズ番組本来の機能が回復したのである。こういった観点からすると、『ヘキサゴン』が人気を得たのは当然のように見える。

 また、「大きな物語」なき時代のクイズ番組がとった、もうひとつの有効なアプローチに、「学校」というモチーフの採用がある。人々が多様なライフスタイルに基づき、それぞれまったく違う「小さな物語」を生きるようになったとしても、ほとんどの日本人はあるていど等質の学教教育を経験している。文部科学省の「学校基本調査」によれば、「高等学校等進学率」は年々上昇しており、平成23年度調査では98.2パーセントに達した。それに加えて当然ながら、クイズという形式は、定期試験を中心とする中学・高校の教育制度と親和性が高い。

 そこで、いくつかのクイズ番組は、ポストモダン社会でも最低限共有できる学校生活の経験を利用することで、視聴者を繫ぎとめる戦略を見つけ出した。『平成教育委員会』シリーズ(1991年-)が小中学校の受験問題を題材としていたことや、『クイズプレゼンバラエティー Qさま!!』(2004年-)内のコーナー「プレッシャーSTUDY」で回答者たちがみな学生服に身を包んでいることは、決して偶然ではない。それはこの、教養という概念が失墜した時代にクイズ番組を成立させるために取りうる、数少ない選択のうちのひとつだったのだ。

8 テレビの外で――難問化と長文化


 さて、ひと通りいまにいたるテレビ番組の動向を追ったところで、一般参加型のクイズ王番組がなくなったあと、大きな目標を失ったクイズプレイヤーたちの歴史について見てみよう。ここで重要なのは、ふたたび1995年というタイミングである。この年以降、日本ではパソコンや携帯電話の普及が進み、インターネット環境も整備されていく。それにより、テレビで活躍の舞台を失ったプレイヤーたちは、ネットを通し、相互に情報交換することが可能になった。じつはネットが普及する以前から、クイズ愛好家たちは、公民館などの施設で有志主催の大会を開いていた。そこに「テレビからの分離」と「情報環境の整備」という二つの要因が加わったことで、1990年代後半以降のクイズは、「お茶の間」から遠く離れた、テレビよりもずっと小さな舞台――具体的には公民館や大学の講堂など――を舞台とし、急速に変化を遂げることになる。それは言うなれば、さらなるガラパゴス化への道のりであった。

 これまでに見てきたように、それまでの問題傾向や形式をもっとも強く規定していたのは、テレビで放送されるクイズ番組であった。テレビでは一定のテンポを維持し、放送時間内に番組を収める必要があるため、問題文は短めに揃えられることが多かった。しかし観客もおらず、クイズプレイヤーだけで競うのであれば、なにもテレビに合わせる必要はない。結果として出題内容の幅は広がり★6、問題文の長さも多様化した。問題文は長くなればなるほど、その途中にさまざまな情報を盛り込むことができる。また早押しであれば、各参加者の知識の深さに応じて、ボタンを押せる箇所を差別化することが可能になる。参加者のレベルが向上したこともあり(テレビと異なり、本当の意味での「素人」が参加者に紛れ込むことがない)、彼らのあいだでも差がつくような仕組みが必要とされたのだ。
 さらに難易度も多様化し、正解率が数パーセント以下という超難問が出題されることも増えた。これはクイズ番組の歴史を通して起きてきた「問題の固定化」に対する反動であると同時に、クイズに慣れ親しんだ者同士の成績を差別化するための方途のひとつといえる。極端な場合はどの回答者も解けないことを企図して作成されることすらある。テレビ番組ではまずありえないことだが、「難問長文」と呼ばれる、設問自体が難しく、かつ問題文が長大なクイズに特化した大会や会合では、ほとんどの問題がボタンを押されずに終わることすらある。決勝ではたった一問正解できれば優勝、というような事態も稀ではない。

 しかし、こうした難問長文は、いったんはあるていど親しまれたものの、とくに2000年代以降に支持を失っていく。その理由はさまざまに考えられるが、まずはその敷居の高さが挙げられるだろう。テレビで見るクイズ番組とはあまりにかけ離れ、ほとんど正答を出すことのできない問題ばかりでは、新規参加者の増加は望みにくい。難しいからこそ挑戦意欲を刺激される好事家もいたにせよ、必然的に、競技人口は減っていくことになった。

9 クイズのゼロ年代


 難問長文と入れ替わるように、とくに学生を中心に人気を集めるようになったのが、その対極の形式にあたる「短文」の「基本問題」である。基本問題とは、先述の「ベタ問」の概念にかなり近いもので、一般に想定されるような常識問題とは違う。つまり『ヘキサゴン』で出題されるような、小学生でもわかるような問題というわけではない。しかし難問長文に比べればずっと平易で、問題文の構造もシンプルなことを特徴とする。競技クイズの歴史において、繰り返し出題され、「見えないデータベース」に登録された問題群が、基本問題と呼ばれているのだ。この、難問長文から短文基本問題への流行の変化をもっとも敏感に反映したのは、クイズ研究会に所属する学生たちの活動である。1980年代まで時計の針を戻し、彼らの動向について見てみよう。

 これまでに見てきたように、クイズ研究会の勃興は、1980年代の出来事である。その当時から、学生たちは一年に一度、もっとも強い学生プレイヤーを決める大会を自主的に開催していた。大会名は「MAN OF THE YEAR」(以下「マンオブ」)という。最盛期の参加者は500名を上回る、大規模かつ注目度も高い大会であった。しかし、1990年代中盤のクイズ王ブームの終焉、出題される問題の難問化、長文化といった変化により、参加者は年を追うごとに減少した。そして、参加者67名の2005年を最後に、23年に及ぶ歴史に終止符を打つことになる。とはいえこの減少は、単純に、学生のクイズプレイヤーの総数が少なくなったことを意味しているわけではない。「マンオブ」の参加者が減る一方で、より取り組みやすい基本問題が出題される、新しい学生チャンピオン決定戦「abc」の参加者は年々増加した。

「abc」は2003年から年に一回のペースで開催されているクイズ大会で、「新世代による基本問題ガチンコ実力No.1決定戦」を標榜している。参加人数は増え続けており、2012年には492名に達した。これは第1回の約4倍にあたり、この10年間で学生たちの嗜好が難問から基本問題へ移り変わったことを、如実に示している。

 そもそも「基本問題」という表現は、繰り返し強調している「見えないデータベース」の存在が前提となっている。一定の尺度がなければ、「基本」「応用」という区分けはできないからだ。しかし逆に言って、基本問題とは、データベースを共有してさえいれば、かなりの範囲で対応可能な設問だということもできる。難易度の上昇が競技人口の減少を招くならば、あるていどの学習で対応可能な基本問題を導入するほうが、よほど参加者のモチベーションを高めるだろう。ただそれは同時に、出題範囲のさらなる固定化を招く。基本問題の主要な出題対象には直近の時事的話題も含まれるが、出題されやすいニュースはほぼ定式化されている。つまり、1980年代以降発展したデータベースに基づくゲーム化したクイズが、ここではより強化された上で、反復されているのだ。また、テレビとは異なり、プレイヤー以外の聴衆がいないため、問題からルールにいたるまで、データベースの存在はもはや競技の前提とされている。

 だとすれば参加者たちはみな、同じようなタイミングで早押しボタンを押すことになってしまう。難問化や長文化は、それを避けるための方途だったはずだ。では、どこで差がつくのだろうか。
 それはテクニックである。出題範囲が狭まり、問題文がシンプルになった以上、参加者間で差がつくのは、問題を解く能力ではなく早押しの技術になる。早押し技術の高度化は『ウルトラクイズ』の時代にはすでに起こっていたことではあるが、それがさらに洗練され、極端なまでに推し進められていくことになる。ルールもまた、高度化した早押しに対応して変化を遂げた。

 一例を挙げれば、テレビでクイズ王たちが超人として映し出されていたのに対し、ここで行われるクイズは、一定数の誤答を前提としている。もちろん回数に制限はあるが、ルールによっては正解数と同数以上の誤答が認められることもある。そこでプレイヤーに要求されるのは、ルールと戦況、相手の知識や経験を計算しつつ、場合によっては答えが確定しない段階でボタンを押す判断力と反射神経である。そしてひとたび回答権を得れば、その時点までに読み上げられた問題文とその抑揚★7、読み手の口の形、止める直前に漏れたわずかな音素から、次に発せられようとした言葉を推測し、問題傾向も考慮した上で回答を導かなくてはならない。これは決して大げさな表現ではなく、競技クイズの会合や大会では、ごく日常的に見られる光景だ。日本の早押しクイズはいま、ここまで進化してしまっている。

 ――さて、本稿を通して私たちは、つい10年前まで数百万、数千万といった視聴者に親しまれていたはずの早押しクイズが、数千人単位のコミュニティ内でのみ楽しまれる、高度だが特殊な「マイナースポーツ」★8になるまでの経緯を概観してきた。もちろんいまでも、芸能人が出演するクイズ番組は作られ続けている。しかしかつて一体だった両者は、いまや完全に隔絶してしまっている。

 とはいえ、マイナースポーツ化した競技クイズとテレビのクイズ番組を統合しようとする試みは、近年たびたびなされてきた。TBSの『ワールド・クイズ・クラシック』(2011年)はその好例で、競技クイズを再度エンタテインメント化することを企図していた。その大仰なタイトルや出演者、演出などからして、制作側がクイズ王番組の復活を企図していたことは明らかである。しかし同番組の視聴率は、同じ時間帯で最低の平均視聴率7.9パーセントにとどまった。繰り返すように視聴率を番組の評価基準とすることにはさまざまな問題がある。しかしそれを考慮するにせよ、最高峰のクイズプレイヤーを集めたプログラムが支持を得られなかったことは、歴史的経緯から見ても、必然のように思われる。『ワールド・クイズ・クラシック』の失敗は、競技クイズがすでに、細分化されたコミュニティ――宮台真司の表現を借りれば「島宇宙」――から離脱不能なほど、極端な変化を遂げてしまったことを意味している。

 この論考の冒頭において、ワトソンが日本では勝てないと記した最大の根拠は、いま挙げたような早押し技術の高度化にある。問題の難易度は、コンピュータにはほとんど障害にならない。少なくとも文字情報であれば、ワトソンは人間では対抗しえない大量のデータを処理することができる。しかし現代の早押しクイズは、複合的な要素に基づく、きわめて人間的で、驚くほど高度な判断能力を要求する。ただだからこそ、それ以外の分野への応用可能性がない。IBMが、まったく応用できない挑戦に貴重な予算を割くことは、おそらく今後もないだろう。

10 国民クイズ2.0


 さて、私たちは『話の泉』から『ワールド・クイズ・クラシック』まで、クイズの歴史を通して、65年の戦後史を駆け抜けてきた。

 ところで、そもそもこの試みは、「国民クイズ2.0」の必要性を理解するためのものであった。もう一度、筆者の主張を繰り返そう。

 日本は一刻も早く、憲法改正の是非について、クイズ形式の国民投票を行うべきである。あるいは、原発の存続についての国民投票でも構わない。いずれにせよ、なんらかの重要な案件について国民投票を行うべきであり、もっとも望ましいのは日本国憲法の改正の是非を問うそれである。

 もうおわかりだろう。筆者が提唱する「クイズ形式の国民投票」は、クイズが本来的に備えているはずの機能を、統治の技術として応用するものである。ここでの「クイズ」とは、単一の問いに対して単一の回答が要請されるシステムのことを指している。そして「クイズ形式の国民投票」とは、シンプルかつ題意が明確な国民投票のことだ。
 クイズは、あるていどの文化的共通性さえあれば、性別や年齢差を超えて、だれとでも広く楽しめるはずの遊びである。日本にクイズ番組が導入されたのも、占領軍がその機能に着目したからであった。しかし、これまで見てきたような変遷を経て、1990年代半ばをすぎると、一般視聴者が参加するクイズ番組は成立しづらくなる。その理由は、参加者たちがあまりに熱心に対策し、クイズがゲームとして高度化した結果、大衆向けの娯楽の範囲を超えてしまったことにある。そしてテレビで放送されるクイズ番組には、もっぱら芸能人しか出演できなくなり、活躍の場を失った愛好家たちは、彼らのコミュニティを形成し、その内部に活路を見出すことになる。その分離は10年以上にわたって続き、すでに両者は、統合困難なまでにかけ離れたものになってしまった。

 このような分裂と奇妙な成熟は、いわゆるガラパゴス化と名指される現象のわかりやすいサンプルである。その経緯は、すぐれて日本的であると同時に、「大きな物語」が失われたポストモダンの社会状況を、鋭敏に反映している。そして何度も繰り返すように、これはクイズに限った現象ではない。

 国民クイズ2.0は、この現状への対抗策として構想されている。その目的は一言で言って、生活環境も関心領域もばらばらで、多様なメディア環境に置かれている日本国民を、たったひとつの同じ問題に直面させることにある。

 私たちが置かれた条件を無視して、完全なグローバル化を目指すことには意味がない。どれほどグローバル化が進んでも、文化はローカルな偏差を帯び続けるだろう。英語が国際語として世界を覆ったとしても、人々は違った環境で生まれ育ち、すべての言語がひとつに集約されることはないだろう。

 日本人は自分たちが均質な集団であるかのような錯覚にとらわれがちだが、各個人が持つ文化的背景は、世代や環境に応じてまったく異なる。そしてその分断は、21世紀に入って加速している。そのような条件は前提としてまず、理解しておく必要がある。

 かといってグローバルな変化に抵抗し、ナショナリズムを高揚させることも得策ではないだろう。私たちに必要なのは、日本人という不定形で不確かな――しかしそれは「国民」という概念一般の不可避な条件でもある――集合体を、しかしそれでも連帯に導くための、具体的なテクニックである。

 私たちはそれぞれ異質で分断されている。それが明らかになったいま、みなで答えを共有することはできないだろう。だが、問いを通じて連帯することはできないだろうか。それはつまり、戦後日本に埋め込まれた民主主義の理念を、あらためて起動し直すことにほかならない。そのとき、マスメディアを通して、クイズの力が利用されたことを思い出そう。戦前の硬直した家族関係を、クイズ番組がゆるやかに解凍していったように、私たちはいまもう一度、クイズの力を借りる必要がある。
 私たちはすでに、『ヘキサゴン』が採った戦略を知っている。そこでは「おバカタレント」が媒介とされ、きわめて平易な問題を出題することで、クイズのコミュニケーション喚起力が再利用されたのだった。憲法改正はそんな簡単なクイズとは違う、と思われるかもしれない。しかしそれだけが、細分化された国民をひとつの問いにさしむけうる、たったひとつの方法なのだ。そしてなにより重要なのは、みなが同じ設問に取り組むことなのだ。

 日本で国民投票が行われたことは、過去一度もない。しかし、国民クイズに類する試みがなされたことはある。それは2005年の、郵政民営化を争点とする衆議院議員選挙だ。一般に、選挙ではさまざまな争点が同時に問われるため、有権者は各人が異なる問いに向き合うことになる。しかし当時の総理・小泉純一郎は、属人的な選挙があたかも単独の問いについての国民投票であるかのように、問題文を書き換えてしまった。

 だが、それは恣意的かつ表面的な書き換えにすぎない。単純化された問題文の影には、隠されたテキストが残されていたのだ。国民クイズ2.0の問題文は、あらかじめシンプルで、かつ、属人性をできるかぎり排除しなくてはならない。

 念のため記しておけば、繰り返し挙げている国民クイズ2.0の「例題」が憲法改正なのも、決してゆえなきことではない。繰り返し確認したように、戦後日本は文化的にも政治的にもアメリカの影響下にあり、その最たるものが憲法と言ってよい。『アメリカ横断ウルトラクイズ』がレギュラー放送を終えて20年、すでに象徴としてのアメリカは機能を弱めているにもかかわらず、私たちの社会のきわめて深くに、その痕跡は刻み込まれている。このまま戦後史の継続を望むのか、それとも廃棄を希望するのか。そろそろ結論を出すべき時期に来ているはずなのだ。憲法改正の国民投票=国民クイズ2.0は、それを思い起こさせると同時に、捉え返しを要請する。

 かつてテレビが作り出した「お茶の間」は、もうすでに無効化しているかもしれない。だが、家族がそれぞれの部屋に閉じこもり、テレビなり、パソコンなり、スマートフォンなりに没頭しても、国民クイズ2.0は、メディア環境を超えて伝播する。

 この、海によって閉ざされた小さな国土で、もう一度連帯を取り戻すために、アメリカからもたらされた民主主義の起動装置を再利用する。それが達成されたとき、たった一問の○×クイズが、分割された島宇宙を横断する。

『ウルトラクイズ』の予選で、参加者たちが東京ドームのグラウンドを駆け回っていたことを思い出してほしい。広いグラウンドのうえに記された大きな○と×のあいだで、参加者たちが考え、悩み、決断するあの光景だ。
答えが分かれてもかまわない。

 国民投票の発議から、投票期日のその日まで、袋小路ドームの出口を求め、私たちはたったひとつのグラウンドを駆けまわる。

 そのときはじめて、新しい連帯の可能性が生まれるのだ。

★1 冨樫義博『幽☆遊☆白書』完全版12巻、集英社、2005年、148-149頁。
★2 ここで百人一首を例に挙げたが、早押しクイズと百人一首の類似性を指摘する者は少なくない。たとえばあるクイズ王は、中学時代にかるたクラブに所属しており、「クイズを本格的に始めたころ、「ポイント」の感覚をすんなり受け入れることができたのは、百人一首の経験があったからだと思う」(永田喜彰『永田喜彰のクイズ全書』、情報センター出版局、1992年、143‐144頁)と述懐している。  ただし、このような比喩に対しては慎重でなければならない。むろん、両者がともに日本語の文法構造によって成立している遊戯であることは間違いない。しかしここまで事細かに見てきた通り、日本のクイズ番組はアメリカのそれを直接的な起源とする。早押しクイズと百人一首の類比は、その起源を隠蔽する効果を持つ。  付け加えておけば、このような隠蔽もまた、オタク文化と同質である。先ほども引いた『動物化するポストモダン』で東は、大塚英志や岡田斗司夫といった新人類世代の論客が、オタク文化を日本の伝統文化にひきつけて論じていること、そしてオタク文化にたびたび、(擬似)日本的な意匠が現れることに注意を促し、その理由を以下のように分析している。そこには「敗戦という心的外傷、すなわち、私たちが伝統的なアイデンティティを決定的に失ってしまったという残酷な事実が隠れている」(25頁)。
★3 水津康夫『水津康夫のクイズ全書』、情報センター出版局、1992年。
★4 「あらゆる問題集もやったし、新聞や雑学の本を読んだりと、時間があれば何かしらクイズに関わることをしてました」(「クイズ王・小林聖司が教えるクイズ王への道」、フレームワークジェイピー『TVクイズ番組攻略マニュアル3』、新紀元社、2003年、29頁)。  ちなみに、クイズに特化した学生プレイヤーの台頭は、受験勉強のゲーム化と時を同じくする。精神科医で受験アドバイザーとしても知られる和田秀樹が、『受験は要領』(ゴマブックス、1987年)で、受験の成否と知性は無関係であり、効率のよい学習法を採れば誰でも難関大学に合格できると説いたのもこのころのことだ。和田の推奨する学習法もまた、学習対象を受験で出題される範囲に限定すべきだとし、「過去問」の徹底した復習を促していた。
★5 宇野常寛『ゼロ年代の想像力』、早川書房、2008年、14頁。
★6 たとえば芸能人のスキャンダルや殺人・傷害などのネガティブな事象、あるいはスポンサーの意向によって取り上げられにくかった各種企業に関する問題なども、自前の大会では好きに出題することができる。
★7 近年の早押しクイズでは、「問い読み」の規則性が重要な意味を持つ。主流なのは問題文の構造に応じて読みの速度やアクセントを変える手法で、具体例を挙げれば、「世界で一番長い川はナイル川ですが、日本で一番長い川はなんでしょう?」という問題では、「~ですが」より前はいくぶん速く読み上げられるとともに、「世界」が強調して読まれる。この規則を回答者が理解していれば、問い読みの速度で「~ですが」による問題文の転換を、「世界」の強調で「日本」への分岐を推察することができるため、より早いポイントでボタンを押し、正解(「信濃川」)を導くことができる。とはいえ部外者がこのような規則に基づく早押しを見ても、なにが起こったのかは理解できないだろう。
★8 もちろん、早押しクイズ自体は広く知られた競技であり、知名度という点では「マイナー」というのは無理がある。しかしテレビのクイズと、その外で発展したクイズは、もはや別物と言っていい。そのためここではあえて「マイナー」スポーツという表現を用いた。

徳久倫康

1988年生まれ。早稲田大学文化構想学部卒。2021年度まで株式会社ゲンロンに在籍。『日本2.0 思想地図βvol.3』で、戦後日本の歴史をクイズ文化の変化から考察する論考「国民クイズ2.0」を発表し、反響を呼んだ。2018年、第3回『KnockOut ~競技クイズ日本一決定戦~』で優勝。
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