ひとが「神」になったとき──アイドルOと慰霊をめぐって(前篇)|中森明夫+弓指寛治+東浩紀(司会)

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初出:2018年05月25日刊行『ゲンロンβ25』
東浩紀 本日はアイドル評論家の中森明夫さんに、弓指寛治さんの「四月の人魚」展に来場いただいています★1。今回の弓指さんの展示は、一九八六年に自殺をしたアイドルOこと岡田有希子さんをテーマにしたもので、朝日新聞、東京新聞、東京スポーツの各紙に取り上げられるなど多くの反響を呼んでいます。
 まずは、彼女を知らない世代である弓指さんが、なぜいま岡田有希子さんを描いたのかを教えてください。

弓指寛治さん(左)と中森明夫さん(右)。背景にあるのは弓指さんの作品《スイスの山々》。撮影=編集部


霊とコミュニティ


弓指寛治 ぼくの母は三年ほどまえに交通事故に遭い、そのあとうつ病になって自殺しました。当時、ぼくはうつ病について詳しく知らないまま、母の看病をしていました。それが結局母を亡くしてしまった。そのショックはとても大きなものでした。「自殺」という現象がなぜ起きるのか、なぜひとが自分を殺してしまうのかということを知りたいと思ったのはそのためです。
 そこから自殺について調べるようになり、ある本で岡田有希子さんのことを知りました。彼女は一九八六年四月八日にビルから飛び降りた。そしてそれをきっかけに当時の少年少女がつぎつぎに投身自殺を図っていった。それが悪い意味で社会現象になり、自殺というものが広まってしまった、という内容でした。それで気になって、岡田さんのことを調べはじめた。ネットで検索してみたら、亡くなられた際の写真や、ファンが書いたと思しき不気味な記事がすぐに出てきました。
 さらに本を読んだりしてみたのですが、どうもまだ彼女についてわかっていない気がした。そこで、もう少し近づくために、愛知県愛西市にある岡田さんのお墓に行こうと考えました。ぼくは三重県伊勢市出身で、大学入学から一〇年間名古屋に住んでいたので、彼女のお墓がある場所には馴染みがあったんです。ちょっと行ってみようという感じで気軽に行けるところでした。
 実際にお墓に行ってみて、はじめて墓碑を目にしました。今回の展示の冒頭に置いた、柳本悠花さんのフェルト作品がその墓碑を模したものです[図1]。墓碑には、「幼い頃/どうしても画家になりたかった私」、「スイスの山々を/まっ白なキャンバスに描きたい……」という碑文が彼女の直筆の転写で書かれていた。岡田さんが美術と関係があるなどまったく知らなかったのでとても驚きました。そして、彼女がそういうひとなら、自分もなにかアプローチできるかもしれないと思うようになりました。

[図1]柳本悠花さんの作品《ずぅっと...アイドル》。岡田さんの墓碑を模している。撮影=水津拓海(rhythmsift)
 

だからその一ヶ月くらいあと、岡田さんの命日の四月八日に、東京・四谷の自殺現場に行ってみたんです。一昨年(二〇一六年)のことでした。すると、そこには当時を知るファンの方だけでなく、ぼくらのような、あとから彼女を知った世代もいた。そのひとたちが亡くなった岡田さんの話をしている。年に一回そこでだけ会うひともいるらしい。そこはコミュニティの場として機能していました。
 母の死以来、ぼくはずっと母のことを考え、ひとの死というものを考えてきました。けれども、四月八日のその場所で行われていたことは、そのひとの死にはとどまらない、その先にころがっていくようなものだった。それを見て、自分はこれでなにかしたいなと思いました。

 中森さんは、弓指さんの展示からどういう印象を受けましたか?

中森明夫 今回展示を見たのは、まさに命日である四月八日でした。ぼくは岡田有希子さんと一度だけお会いしたご縁もあり、いろいろな思いがあるので、毎年、必ず自殺の現場へ行って手を合わせています。そこで会うひとのなかに、もう一〇年以上会い続けている女性がいるんです。彼女には岡田さんの記憶があるので、そうお若くないはずです。まったく年齢不詳で、不思議といつまでも年をとらない。最近「青い秋」という長編小説を連載しはじめたのですが、その冒頭でも彼女のことを書きました★2

 あの女性は実在するんですか? ぼくはてっきり、彼女は中森さんの「妄想」で、小説内でもじつは存在しないという展開になっていくのかと……。

中森 実在するよ!(笑)

弓指 あまりにも美しい話すぎますものね(笑)。でもぼくも現実にお会いしました。中森さんと一緒に展示に来てくださったんです。

中森 とにかく実在していて、そんな彼女がこの展示のことを知っていて、もし時間があるなら一緒に行きましょうという話になったんです。それでふたりで見にきました。ぼくはアイドル評論家だけど、展示に来てみると、ぼくよりも彼女のほうが岡田有希子に詳しいくらいだった。

弓指 ぼくの今回の展示では、岡田有希子さんの遺族と関係者の方が出版した『岡田有希子 愛をください』(朝日出版社、一九八八年)という本を参照していて、そこに収録されている岡田さん自身が子ども時代に描いた絵を下敷きにしている作品が多いんです。中森さんと一緒に来られた女性の方は、そのぼくが参照している岡田さんの絵を一発で言いあてるんですね。たとえばこの絵については、岡田さんの絵をベースにしているという話をするまえから「これは有希子ちゃんの絵だよね」とおっしゃっていました[図2]。

[図2]弓指さんの作品《スイスの山々》(左前方)と《花束》(右中央)。どちらの作品も岡田さん自身が描いた作品をモチーフにしたもの。中央の机には『岡田有希子 愛をください』が置いてある。撮影=水津拓海(rhythmsift)
 

 かなり描き変えてあるのに、それでもわかる。じつは彼女は、その岡田さんの絵の写真を携帯に入れて持ち歩いていたんです。だから、今回ぼくがそれを作品に使っていることをすごく喜んでくれました。

表現者・岡田有希子を描く


中森 弓指さんは八六年生まれですよね。事件の年に生まれた。そんな若いひとが描いたアート作品が、ぼく以上に岡田有希子に思い入れているひとに届いたというのは、感慨深かったですね。
 ぼく個人としては、これがアートになっているということがおもしろいというか、刺激的だと感じました。アイドルというのは不思議なジャンルで、アイドルの写真集やそのひと自身、たとえば岡田有希子自身が描いた絵の展示会はあっても、アイドルという存在そのものをテーマにした絵や小説、映画はあまりないし、あっても成功しているケースは稀なんじゃないかと。ぼくが書いている批評を含めて、アイドルから派生する表現はなかなかうまくいかない。だからこの展示はものすごく新鮮でした。

 その難しさにはなにかアイドルの本質が関係しているのでしょうか。

中森 弓指さんの展示には、アイドルの本質に触れている部分があると思いました。ですが、この展示をアイドル論として語るのは難しいですね。この展示の成功には、やはり岡田有希子の個別性が大きい。ぼくは去年『アイドルになりたい!』(ちくまプリマー新書、二〇一七年)というアイドル入門本を出しましたが、そこでも彼女のことは、アイドル史におけるひとつの特異点として、絶対に分量を割いて書かないといけないと考えていました。
 岡田さんの死は、学生運動にとっての連合赤軍事件や、新興宗教にとっての地下鉄サリン事件に近いインパクトを持っていました。実際、当時、もうアイドルについて書けないというライター仲間の声を聞いたものです。アドルノに「アウシュヴィッツ以降、詩を書くことは野蛮である」という有名なテーゼがありますが、岡田さんの事件以降、アイドルを論じることは野蛮だという空気が色濃く漂うようになりました。
 もちろん、彼女が死んだということを肯定的に捉えることはできません。しかし、あの亡くなり方の問題が、いまでもずっと多くのひとに突き刺さっている。『ヴィーナス誕生』(ポニカ出版、一九八六年)という岡田有希子の生前最後のアイドル本がありますが、その構成をしていたのは、じつは作家としてデビューするまえの重松清さんです。あの本によって、彼は岡田有希子の問題を抱え込んだ。同じようにショックを受けて、ぼくは『オシャレ泥棒』(マガジンハウス、一九八八年)を書き、いとうせいこうは『ノーライフキング』(新潮社、一九八八年)を書いた。いまだに彼女のことをブログで書いているひとたちもいます。自殺現場の写真もまだネットなどで見られるため、心無い反応をするひともいる。岡田有希子は、アイドルという不思議なジャンルの、いまだに解決のつかない謎なんです。
 だからこの展示は、アイドルのなかでも岡田さんを取り上げたからこそできたと思います。弓指さんも参照された『愛をください』を読むと、岡田さんは、自分で絵を描いたり文章を書いていたりしているのがわかる。彼女自身が表現者なんです。その、表現者としての岡田有希子に届くものをつくろうとして、弓指さんはこの絵を描いた。内実のないアイドルでは同じことはできなかった。

弓指 今回の展示のモチーフは、ほとんどがその本から取りました。

中森 亡くなって一〇年の一九九六年に、有志がご遺族と協力して展覧会をやりました。岡田さんが描いた絵が飾られていたり、ほぼオール五に近い通知表もあったり。じつは、優秀な成績を取ることは、アイドルになるために岡田さんの母親が出した三つの条件の内実でした★3。岡田さんがそれらの条件を全部クリアしたのは、有名な話です。亡くなり方も含めて、彼女には、アイドルというものにたいする宗教的な情熱があった。彼女は本当の表現者で、求道者ですね。
 弓指さんは岡田さんのそうした部分をかたちにしている。だからこの展示は、当時生きたひとにも届くようになっている。ぼくは美術の専門家でもなんでもないけれど、少なくともぼくには届きましたね。率直に言って、とても感動しました。

弓指 在廊中、いろんなひとの話を聞いてきました。岡田さんをリアルタイムで知っているひとの言葉と、ぼくらのようなぜんぜん知らないひとの言葉は、あたりまえですけどまったくちがいました。感想自体がちがうし、語るときの空気もちがう。ここまでの中森さんの言葉のなかには、岡田有希子というひとが生きていた、同じ時代の空気が含まれているように感じました。でも、それはなかなか作品で引き出せるものではありません。中森さんのお話をうかがって、逆に、ぼくが狙ったのではないところにまで届いていると思うようになりました。
 岡田有希子というひとをぼくが選んだのは、言い方はよくないですが、たまたまと言えばたまたまです。アイドルはひとを惹きつけるものです。生きていなくても、亡くなっていてもなお、なにかがあってひとを惹きつける。岡田さんを調べていて、そういう気がすごくしました。彼女はすでに亡くなっていて、ぼくはネットで映像しか見たことがない。どんなひとかもわからない。自分が調べた岡田有希子像しかない。けれども中森さんの話を聞くなかで、いままでぼくが勝手に抱いていたイメージにいろんなプラスアルファが加わって、いままた新しい像が形成されているように感じます。だから逆に、いまはぼくにとっては岡田有希子こそがリアルタイムなんです。ぼくはいま、頭のなかがずっと八〇年代なんですよ(笑)。

撮影=編集部

かつてメディアは神だった


弓指 ところで、いま岡田さんが表現者だという話がありました。彼女はアイドルになりたくて自分でどんどん道を切り拓いていったひとです。実際、お母さんへの手紙に、わたしはアイドルになりたいけれど、それは自尊心とか承認欲求ではなく、アイドルになって表現者として活動していきたいと書いていたりもする。
 でも、当時アイドルとしてデビューするということは、作詞家や作曲家、事務所やレーベルの意向にはまっていくことでもありますよね。彼女的には表現者としてアイドルをやりたかったはずが、仕事は自分を表現する場ではなかったことに気づく。それで、こんなはずではなかったという思いが出てきたのかなと思ったのですが、どうですか。

中森 ぼくの小説にも名前を変えて書いてありますが、岡田有希子さんの問題を当時最もまじめに考えた思想家が吉本隆明です。彼女が亡くなった一ヶ月後のトークが、いまもネットに上がっています★4
 吉本さんの見立てで興味深かったのは、アイドルというのは、いわば「見られる客体」として生きなくてはいけない。けれども、頭がよく、自分の主体がある岡田有希子はそれに対して引き裂かれていく。そしてそのことに意識的でありすぎたと言うんです。後追い自殺の現象にしても、全員が岡田有希子のファンだったわけではないだろう、と吉本は言っています。演じなくてはならない役割と、本来的な自分との落差で悩んでいる子どもたちが数多くいるのだ、と。いまからだと「自分探し」の話でいささか凡庸に見えますが、バブル真っ盛りでポストモダン的だった八〇年代には、そういうことはあまり言われていませんでした。「自分探し」や「メンヘラ」という言葉がまったくない時代です。

 小説では、中森さんを重ねた主人公は、吉本隆明ならぬ「吉森遼明」の発言に冷ややかな印象を抱く。でも中森さん自身はそうではなかったんですね。

中森 当時は若かったから、冷ややかな部分もありました。いま読み返してみると、探り当てるようなことを言っていたと思いましたね。

 この対談の準備で『オシャレ泥棒』を読ませていただいたのですが、いまお話に出た演技と現実の落差が、当時中森さんにとって深刻だったことがよくわかる作品でした。当時はいわゆる「新人類ブーム」で★5、中森さんはそんななか『朝日ジャーナル』の「新人類の旗手たち」に取り上げられ、あっというまに有名になってしまう。そうしたらとたんに膨大な量の仕事が来るようになり、またあっというまに押しつぶされてうつになってしまう。あの時代にそうした落差を体験した中森さんこそ、岡田さんに思い入れているのだなと思いました。

中森 そうですね。ぼくはアイドル評論家として岡田さんに思い入れているというより、彼女と同じ時代に、同じようにアイドル的な消費のされ方をしてうつ状態になったので、だからこそ彼女の自殺にこだわっているんだろうと思います。

弓指さんの作品《ファーストデイト》。撮影=水津拓海(rhythmsift)
 

 司会から少し逸脱する話になりますが、テレビや週刊誌などマスコミの介在によってひとが急に有名になるというその落差は、じつはいまの時代にはもうないものだなとも感じました。アイドルだとAKB48がまさにそうですが、いまやユーチューブやSNSで口コミでじわじわと有名になるモデルか、逆に一瞬だけ炎上して一瞬で忘れ去られる超短期的な有名モデルかしかないんですよね。有名/無名の変化の時間感覚が、岡田さんと『オシャレ泥棒』の時代といまの時代とではちがう。
 同じことは空間的にも言えて、いまは画面の「むこう側」も「こちら側」もすべてが地続きでしょう。それに対して、中森さんが『オシャレ泥棒』で描いたのは、アイドルになることで、ひとが「こちら側」から「むこう側」に連れられていってしまう物語ですよね。中森さん自身も、三鷹の六畳一間のアパートで寝ていたはずが、突然まったくちがう業界のロジックで動かされるようになった。そうして現世から彼岸に吊り上げられたところから、もう一度現実に回帰しないといけない。『オシャレ泥棒』は、そういう感覚を持った小説だと思いました。
 だからこの小説は、文体だけを見ると田中康夫や高橋源一郎のようなタイプに見えるのだけど、読後の印象はむしろ村上春樹に似ているんですよね。岡田さんの死は『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』の翌年です。中森さんも村上春樹も、彼岸と此岸の往復について考えていたんだなと。

中森 たしかに虚構と現実の距離感は似ているかもしれない。

 その感覚とアイドルへの関心はつながっていませんか。アイドルになることで、死に触れるというか、嘘の世界に引きずり込まれるという恐怖感がある。

中森 ぼく自身、今回のために久しぶりに自分の小説を読み返し、「ああ、こういうことが書いてあったのか」と思いました。逆にそこから振り返ったときに気になるのは、いまのアイドルだって、むかしとは状況がちがうにしても、たとえばネットでエゴサーチしたらだれもがボロクソ言われているわけでしょう。残念ながら最近、農業アイドルの方の自殺が報道されましたが、基本的には自殺をするひとは減っていると思います。

弓指 まさに、東さんが言っていたように、時代によって追い込まれ方がちがうということでしょうね。

 八〇年代は、メディアがいわば「神」だった時代で、そしてその神=メディアに岡田有希子も中森明夫も触れて、彼岸を経験した。その体験が中森さんの岡田さんの死に対する理解のベースにある。けれどもいまはメディアは神ではないので、その落差の体験自体がない。

中森 そうですね。いまはテレビに出るのではなく、「会いに行けるアイドル」として握手会をやるライブアイドルが多くなった。また、ソロのアイドルがほぼいなくて、みんなグループアイドルになった。いまのアイドルのいちばんの特徴というのは、「数が多い」ということですよね。

 そういえば『アイドルになりたい!』には、いまアイドルは全国で一万人いるんじゃないかと書いてありましたね。これはたいへんな数だと思いました。

中森 (笑)。

テレビからスマホへ、彼岸から世俗へ


弓指 八〇年代はもっとアイドルの数が少なかったのですか?

中森 そうです。それに、東京に来てテレビに出ないとアイドルと認知されなかった。いまは東京に出てくる必要すらないでしょう。それはネットメディアの影響ですよ。もうひとつ言えば、地下アイドルの現場がアンダーグラウンドな場所になっている。メンヘラ的な要素があるひとが、承認欲求を満たすためにアイドルになり、ファンもまたそこで満たされるという共依存の場が生まれている。だから毎日のように小さなスキャンダルが起きる。
 でも、岡田さんの事件が起こるまではそんなことはほとんどなかったです。彼女が亡くなって大きな問題を投げかけたことで、アイドルの形態が変わったとも言える。

 中森さんは、岡田有希子の死が、いまのアイドルの形態をつくりあげたと考えるわけですか?

中森 アイドルというものが不可避的に持っている問題を、岡田さんの死が図らずもあぶりだしたということですね。年端もいかない生身の女の子が一気に注目されるというその事実が、良くも悪くもここまでの深度を持っていると。

撮影=編集部
 

 少し質問を変えますが、中森さんは、岡田有希子の時代といまのアイドルの時代は連続していると考えていますか。それとも分断していると。

中森 ずるい答えになっちゃうけど、連続してはいるけれど、まったく別のものにもなっているという感覚です。
 同じ「アイドル」という言葉で呼ばれていても、いわゆる「アイドル冬の時代」★6のあいだに、アイドルの世界も社会も大きく変わりました。まず昭和の終わりに、「ザ・ベストテン」や「夜のヒットスタジオ」といった、アイドルが出られる歌番組がなくなっていきます。一九八〇年代のアイドルは、たとえばおニャン子クラブであっても、メジャーな存在でした。人々がファンだと公言しても恥ずかしくない存在だった。けれどもその後、AKBが登場するまでの一〇数年はそうではなくなっていた。散発的にモーニング娘。が売れたり、広末涼子がアイドル的に受容されたりしたくらいです。そういうなかでかつてのアイドル自身も変わっていって、実際、岡田有希子と同じく八〇年代にデビューしたキョンキョン(小泉今日子)や中森明菜、松本伊代や早見優たちは、五〇代になっても「ママドル」と言われて活動をつづけている。そういうひとたちといまのAKBやももいろクローバーZを比べると、キラキラした衣装を着て舞台で歌っていることだけとれば同じでも、受容のされ方はまったくちがってしまっていると思います。
 そもそも、一九八〇年代までのアイドルはなかなか会えなかった。インターネットもないし、ライブといったって数少ない、それも遠いところに行ってようやく見れたわけです。場合によってはサイン会はありましたけど、いまのように何十人もアイドルがいて大きな会場で握手会メインで、なんてことはなかった。
 だから岡田さんが亡くなったあとに、彼女の幽霊をテレビで見たと全国の子どもたちに広がった、いわゆるウワサ現象が巻き起こる。それはグロテスクで悪趣味的なことではあるのだけど、一面ものすごく象徴的なことでもあった。そこではじめて、アイドルが、幽霊的な存在といいますか、この世でもあの世でもないところにいるなにかに触れたわけです。当時の芸能界、つまりアイドルとして歌う場所というのは、単純に言えばテレビ局です。昔、アイドルになりたい子のお決まりのフレーズに「幼いころ、テレビのなかに入りたくてテレビ装置の裏側にまわってみた」というのがあるのですが……。

 ああ、それは象徴的な言葉ですね!

中森 でしょう。現実と非現実の中間的なところにアイドル界があって、岡田さんはそこに入りたかったんですよ。

弓指 そして入ってしまった。

 けれどもいまは「テレビの裏側」がない。スマホのスクリーンは単なる板であって箱ではないから、文字どおり裏側の空間がない。
 中森さんの見立てと逆になってしまうのかもしれませんが、ぼくが弓指さんの展示を見て思ったのは、逆に、いまのAKB以降のアイドルがすごく世俗的な存在なのに対して、八〇年代のアイドルのほうが世俗と超越のすきまにあるということです。だから、岡田有希子さんがそれを作り出したというより、むしろ岡田さんの死のせいでアイドルがそういうものに触れることができなくなったということかな、と。
 いずれにせよ、岡田さんは、テレビに出ることが神聖で超越的だった時代のアイドルであって、その「神に触れたときの畏怖」のようなものが、弓指くんの作品のなかにはなぜか宿っている。展示のチラシにも印刷されている、このメインの大きな絵が端的にそれを表しています[図3]。

[図3]弓指さんの作品《スイスの山々》。撮影=水津拓海(rhythmsift)
 

 この絵では、岡田さんと思しき少女がスイスの山々にむかって駆けだしているのだけど、それは本当のスイスの風景ではなく、岡田さんが子どものころに夢見て描いた風景であり、またアイドルになってはじめて、プロモーションビデオの撮影で訪れた土地でもあり、さらに言えばそのスイスというのは、岡田さんがアイドル活動に暇ができたら訪れたいと願い、その願いが墓碑にも刻まれている場所でもあるわけです。この絵には、アイドルというものが、彼岸に行き、また彼岸からこちら側に声を届ける幽霊的な存在でもあるという「危うさ」が、鋭く表現されている。それは、現在の、世俗化した、人々の日常を応援する元気な女の子というアイドル像とは大きくちがう。
 だから、逆に、いまの若いアイドルファンがこの絵を見てどう思うのかも気にかかりました。この絵は、多様なアイドル像を照らし出す鏡にもなるなと思いました。
後篇はこちら

 

2018年4月26日 東京、五反田アトリエ 構成=編集部

★1 二〇一八年四月六日から三〇日まで、ゲンロン カオスラウンジ 五反田アトリエにて展示が行われた。同展示で展開されたインスタレーションは、同年二月に第二一回岡本太郎現代芸術賞で岡本敏子賞を受賞した《Oの慰霊》から連続したテーマを扱っている。URL=http://chaosxlounge.com/wp/archives/2250
★2 中森明夫「青い秋」、『小説すばる』二〇一八年四月号、集英社、一八二-一九九頁。
★3 岡田の芸能界入りに反対していた母親は、「とても出来ないだろうと思われる三つの条件」として「学内テストで学年一番になること」「中部統一テストで学内五番以内になること」「志望高校に受かること」を娘に求めたと述べている(岡田有希子『岡田有希子 愛をください』、朝日出版社、一九八八年、八一-八二頁)。 
★4 一九八六年五月四日に新宿・紀伊国屋ホールにて開催された、マガジンハウス主催のセミナー「鳩よ!」における吉本隆明「『かっこいい』ということ――岡田有希子の死をめぐって」。現在、ウェブ上の無料アーカイブ「吉本隆明の183講演 Free Archive」でこの講演を聞くことができる。URL = https://soundcloud.com/yoshimototakaaki/sets/a091
★5 八〇年代後半に当時の若者を指すのに使われた言葉。大学入試における共通一次試験が実施された世代であることや、テレビやマンガ、アニメ、テクノポップなどといったサブカルチャーの体験を持つことが特徴とされた。八五年に『朝日ジャーナル』で「新人類の旗手たち」の連載が開始したことで、一般に認知が広まった。同連載には中森のほかに、野々村文宏、秋元康、平田オリザなどが登場している。
★6 明確な時期については諸説あるが、一般におニャン子クラブが解散した八〇年代後半から、二〇〇〇年代中ごろにかけて、国民的なアイドルグループが存在しなかった時期を指す。

中森明夫

1960年生まれ。作家/アイドル評論家。1980年代から多彩なジャンルで活動。〈おたく〉の名づけ親でもある。著者に『東京トンガリキッズ』(JICC出版局)、『オシャレ泥棒』(マガジンハウス)、『アナーキー・イン・ザ・JP』(新潮社)、『午前32時の能年玲奈』(河出書房新社)、『アイドルになりたい!』(ちくまプリマー新書)、『青い秋』(光文社)など。

東浩紀

1971年東京生まれ。批評家・作家。東京大学大学院博士課程修了。博士(学術)。株式会社ゲンロン創業者。著書に『存在論的、郵便的』(第21回サントリー学芸賞)、『動物化するポストモダン』、『クォンタム・ファミリーズ』(第23回三島由紀夫賞)、『一般意志2.0』、『弱いつながり』(紀伊國屋じんぶん大賞2015)、『観光客の哲学』(第71回毎日出版文化賞)、『ゲンロン戦記』、『訂正可能性の哲学』、『訂正する力』など。

弓指寛治

1986年生まれ。芸術家。三重県伊勢市出身。2016年に母の自死をモチーフに描いた《挽歌》でゲンロン カオス*ラウンジ 新芸術校第1期金賞。2018年、第21回岡本太郎現代芸術賞岡本敏子賞。おもな個展に「Sur-Vive!」(onSundays、2016年)、「四月の人魚」(五反田アトリエ、2018年)、「ダイナマイト・トラベラー」(シープスタジオ、2019年)など。あいちトリエンナーレ2019に「輝けるこども」で参加。 撮影:小澤和哉
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