『新写真論』より 「写真を変えた猫」|大山顕

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初出:2018年11月22日刊行『ゲンロンβ31』

 2020年5月27日から、ゲンロンαでは購読者のみなさまから寄せられました、ねこ写真を掲載する新企画「写真を変えるねこたち」がスタートいたします。




「写真を変えるねこたち」の発端は大山顕さんの『新写真論』に掲載された章「写真を変えた猫」です。「写真を変えるねこたち」スタート記念として、こちらの「写真を変えた猫」を特別に無料公開いたします。
 なぜひとは、ねこ写真を撮りたがるのか。大山さんが鋭く分析しています。(編集部)

ネットに最適化した生き物

 猫を飼う人の気が知れない。こう言うと、多くの愛猫家は真顔でこう返す。違う、猫が私を飼っているのだ、と。家畜にしろ園芸作物にしろ、人間に「飼われている」生物はなんらかの形で人間に恩恵をもたらしている。ところが猫だけは例外だ。いくつかの研究によれば、猫が提供する唯一の実用的サービスと思われてきたネズミ退治すら、じつはたいして実行されていなかったという★1。基本的に人間が猫から得るものは何もない。少なくとも実利的なものは一切。やっかいごとはたくさんもたらすが。おそらく愛猫家の多くはこれを否定しないだろう。それどころか、だからこそ猫を愛することは尊いのだ、と自信に満ちた表情で断言するに違いない。つくづく気が知れない。  この不思議な習性(不思議なのは猫ではなくて人間のほうだ)は、猫が媒介する寄生生物によって「マインドコントロール」された結果ではないかという奇説がある★2。脳に住み着くこの原虫に感染したネズミは猫に対する恐怖心を失い、引きつけられるそぶりすら見せ、結果として餌食になる確率が高まるというのだ。この寄生生物は、現在世界の三人にひとりの人間の脳にいるという。実用を超越している猫をわざわざ好き好んで飼う人間が世界中にたくさんいる不合理を考えると、この説を信じたくなるというものだ。  なぜ猫の話をしているのか。それは、現在のネット上の画像・映像は猫に支配されているからだ。  現代の写真論は、もはや猫を避けて通ることができない。特に猫が好きというわけではないぼくのタイムラインにも、猫写真は定期的に流れてくる。インスタグラムには飼い猫と野良猫の写真があふれている。#cat のハッシュタグが付いた写真は、2019年12月の時点で、なんと1億9千万以上もある。Lil BUB という、インスタグラムで240万以上、ツイッターでは84万以上のフォロワー(いずれも2019年12月)を持っている猫や★3、ユーチューブで動画の累計再生回数が3億回を突破した「まる」など、ネット上にはスター猫がたくさんいる。2012年に Google のXラボにおいて、 AIが人間に教えられることなく独力で認識するのにいたったのは、猫の画像だった。これは、ユーチューブから切り出した大量の静止画像を巨大なニューラルネットワークに機械学習させた結果で、つまりユーチューブは猫だらけということだ。インターネットの父と呼ばれるティム・バーナーズリーは「現在、人々がインターネットを使う理由になっているもので、まったく予想していなかったものは何か」と聞かれて「子猫」と答えている。ぼくは一時期、写真ワークショップを頻繁に行なっていた。被写体のテーマを決め、それを探して街を歩くのだが、脱線して野良猫を撮る参加者があまりにも多いので、あるときから「猫禁止」のルールを設定するようになった。  なぜ人はこんなにも猫を撮るのだろう。単純に「かわいいから」だろうか★4。確かにかわいいものは撮りたくなる。ぼくはこのことが最近までよくわからなかったが、子供が生まれて理解できるようになった。そして「かわいがる」という曖昧な行為を写真撮影はわかりやすくしたのだ、と思いいたった。今や「かわいがる」は「写真を撮る」ことに代表される。写真の登場以前と以後で「かわいい」の性質は大きく変わったはずだ。写真によって「かわいさ」はもっぱら視覚的なものになったのではないか。  いずれにせよ、「かわいいから」だけでは現在の猫画像の隆盛は説明できない。フィルムの時代から子供の写真は撮られてきたが、猫は今ほどではなかった。飼い猫の数自体が増えているので、単純に比較はできないが。以前ゲンロンカフェで東浩紀との対談中、猫はネットに最適化した生き物だ、という話題で盛り上がったことがある。ポイントは、SNS以前には、今ほど猫画像がネットにあふれていなかったということだ。おそらく、猫はSNS向きなのだ。だとすると、猫を通じてスマートフォンの写真を論ずることができるかもしれない。

カメラの機能進化が猫写真を可能にした


 まず、カメラがスマートフォンになって格段に扱いやすくなったことは猫写真にとって重要だ。操作のしやすさという点で、スマートフォンカメラはとても優秀だ。犬と違って猫は人間の撮影のためにじっとしていない。ピントを確認し、露出を合わせ、などとやっているうちに猫のシャッターチャンスは失われてしまう。また、カメラの性能向上の影響も大きいだろう。一九世紀の肖像写真に笑顔がほとんど見られないのは、文化的な背景もさることながら、露出時間が長かったからではないかとぼくは考えている。笑顔という筋肉の動きはほんらい一瞬のもので、それは写真の中ではフィルム感度の向上によって発見されたものだ。

 同様の理由で、初期の写真に猫はほとんど登場しない。絵画ですら猫を描くのは難しい。イギリスの動物学者デズモンド・モリスは、レオナルド・ダ・ヴィンチが、猫が登場する素描を多数残しているにもかかわらず、絵として完成させた作品がひとつもない理由を「細部まで描くために猫を何時間もじっとさせて置くことはできないと悟り、この構図はそもそも無理だと諦めたのでしょう」と推測している★5。猫とは一瞬の出来事なのだ。カメラの性能向上が笑顔と猫写真を可能にした。被写体の動きに合わせて露出を調整したり、シャッターを押す以前から記録をしていて、あとで最適な瞬間のショットを選ぶことができるなど、いずれも撮るのが難しい猫に最適な機能が現在のスマートフォンには備わっている。

 猫のシャッターチャンスを捉えるためにもうひとつ重要なのは「カメラがいつでも手元にある」という点だ。カメラの性能といえば、画素数やレンズの明るさといったスペックが一般的だが、ぼくはこの「いつでも手元にある」という項目もカメラの性能のひとつになったと思っている。それはスマートフォンによって実現されたカメラの新しい「機能」だ。これがなければ猫の写真は撮れない。多くの人の手元にあることも重要だ。誰もがスマートフォンを持っていて、猫が現れるやいなや、あっちでもこっちでも撮影が始まる、ということが猫シャッターチャンスの冗長性を増している。スマートフォンによって、カメラの性能は「どれだけ多くの人に所有されているか」というカメラ本体の外部にも存在するようになった。猫写真の隆盛はそのことを気づかせてくれる。

 撮影にほとんどコストがかからなくなったというのも大きい。すっかり過去のことになったが、かつては写真を撮ることはすなわちお金を使うことだった。デジタル化されたあとも、フィルム代とプリント代こそ必要なくなったものの、カードからパソコンにデータを移し、リサイズしてアップロードして、といった手間がバカにならなかった。愛猫家であっても、そこまでして猫を撮ってウェブサイトにアップする人はそう多くはなかった。どうやら猫は「コストがかからないならいくらでも撮るが、そうでなければ撮らない」という、撮影欲とコストの境界線上にあるコンテンツらしい。これは動画でさらに顕著だ。猫の動きのおもしろさはその突発性にあるが、これは起こってからでは間に合わない。ハプニング動画とは「撮っていたら起こった」というものだ。ことが起こる前から漫然と撮っていなければおもしろい猫動画は撮れない。カメラをまわすのにコストがかからなくなったからこそユーチューブにはおもしろ猫動画があふれている。

猫とオリジナリティ


 さらに「猫画像は犬画像に比べてシェアしやすい」と主張したい。かなり飛躍した思いつきだが、これは「猫が私を飼っている」に示されるように、猫は所有物ではないからだと思う。猫は独立した個であって、この性質がシェアに向いているのではないか。

 犬の画像をシェアすることは犬自身とともに飼い主の紹介も意味するが、猫の場合はかならずしもそうではない。これは、もうひとつのかわいい生き物代表である赤ん坊の画像と比べるとわかりやすいだろう。見知らぬかわいい猫の画像を保存することはあっても、他人の赤ん坊の画像を保存することはほとんどないだろう。それは、他人の幼児はいくらかわいくてもその親を抜きにして愛でることができないからだ。前述のスター猫たちが、いずれも一人称で披露されているのは象徴的だ。Lil BUB のアカウント名は「IAMLILBUB」で、「まる」の写真集・カレンダーのタイトルもまた 「I am Maru.」 だ。また、現在、日本各地に駅長に任命された猫たちがいるが、これも猫が独立した存在だからこそではないかと思う。『枕草子』には、一条天皇が中国の外交使節団が贈り物として連れてきた猫を御所に住まわせ、後宮の女官長の役職を与えたとある。猫に役職を与えるという行為が11世紀にすでにあったというのは興味深い。

 ツイッターでは、フォロワーの数にかかわりなく、オリジナルより「パクツイ」(パクリ・ツイート。他人が投稿した文章や写真をコピーし、さも自分のもののようにツイートすること)のほうがシェアされるという現象がしばしば起こっている。さらに考えを飛躍させると、これは猫画像のシェアされやすさで説明がつくかもしれない。つまり、SNSでは所有者がはっきりしないもののほうがシェアされやすい、ということではないか。

 このように、猫写真を見ていくといろいろなことがわかる。最後に指摘したいのは、SNSには同じような写真がたくさんあり、それが人気を博しているという点だ。これが猫写真によって見えてくるこんにちの写真のあり方の中で最も興味深い。

 インスタグラムの有名猫アカウントをいくつか見て気がつくのは、毎日同じような写真ばかりが上がっているということだ。猫は無表情だ。愛猫家はこの指摘に反対するだろうが、社会性を持たない孤独なハンターである猫は、表情を持つ必要がなかったという★6。ハローキティはそのことを見事に表現している。また、猫はどれも似ている。これも愛猫家は否定するだろうが、実際、品種間の遺伝子の違いはきわめて小さい★7。人間との付き合いがはるかに長く、意図的な交配を受け入れてきた犬が、体の大きさから顔つき、毛の長さや色、性格などがいずれも多種多様なのに比べると、猫の姿形の振れ幅の小ささは際立つ。表情が変化せず、個体差も小さい。おのずと猫アカウントに上がっている写真は同じようなものばかりになる。

 猫好きの知り合い何人かに、怒りを買うのではないかとおそるおそるこの話をしてみたところ、じつにおもしろい答えが返ってきた。彼らは、インスタグラムでフォローしている猫アカウントの日々の写真が、いずれも似たようなものであることを(人によってはしぶしぶ)認めつつ、口をそろえてこう言った。「でも前日に見た写真がどんなだったかは覚えていないので問題ない」と。「かわいかった、ということだけ覚えている」と言う。これはSNSでは、基本的にさまざまなアカウントの写真が混ざって表示されることと、「タイムライン」の名の通り過去の写真はあっという間に流れていってしまうことがもたらした新しい写真受容の仕方だ。十数年前まではこのような写真閲覧の方法はほとんど見られなかった。展覧会や写真集といったそれまでの展示形式においては、基本的に構図や演出が一枚一枚違っていることが必要だった。タイムラインが写真の性質を変えたのだ。いや、もしかしたらそもそも人間は、気に入った同じような写真を何回も見たかったのではないか。違っていることを要求する展覧会や写真集といったシステムのほうが異常だったのだ。SNSがようやくほんらいの人間の欲望に応える写真の見せ方を実現したということかもしれない。
「いいね」もまた同じような写真を強化するシステムだ。人は見たこともない新奇なものに「いいね」とは言わない。「いいね」とはすなわち理解の範疇にあるということだ。批評ではなく好みによって評価される写真が、同じようなものになっていくのは当然の帰結である。ぼくはこれを健全なことだと思っている。素朴なオリジナリティ信奉ほど怪しいものはない。フィルム時代までの芸術写真がオリジナルなものであったとしても、それは単にカメラを所有し発表できる場所を持った人間が少なかったからなだけかもしれないのだ。誰もがスマートフォンのカメラとSNSのアカウントを持っていて、目にする写真の量が以前とは比べものにならないほど大量になった現在、オリジナリティで写真を批評することにほとんど意味はない。たとえば、同じような構図の写真を見つけ出して並べることでその陳腐さを揶揄する insta_repeat というインスタグラムアカウントがあるが、ぼくがそこで発見したのは、定型化した構図が大量にあってバリエーションも豊富にあるということだ。日々次々と「陳腐」な構図が生み出されているからこそ、このアカウントが成り立っているということに注目すれば、むしろ「同じような写真」こそがクリエイティブであると言えないだろうか。

 飼い猫と人間の関係は古代エジプトまでさかのぼるというが、前述したように、猫は犬と違ってほとんど遺伝的な操作をされずにきている。去勢以外に猫の性生活をコントロールすることは大概不可能だからだ。つまり猫は野生のまま変化していない。変わったのは人間のほうだ。だとすると、猫がスマートフォンとSNSの写真に最適化したのではなく、その逆なのではないか。すなわち、人間が猫に合うように写真を変えたのだ。「猫が私を飼っているのだ」という冒頭の言葉を思い出す。スマートフォンやSNSの開発者の脳は、くだんの寄生生物に感染しているのかもしれない。




★1 アビゲイル・タッカー『猫はこうして地球を征服した──人の脳からインターネット、生態系まで』、西田美緒子訳、インターシフト、2017年。

★2 同書、第5章。

★3 この猫は2019年12月1日(米国時間)に死んでしまった。

★4 『猫はこうして地球を征服した』によれば、猫の見た目のかわいらしさは、大きな目が前方に並んで配置されていること、つまり人間の幼児に似ているところからきているが、これは猫が肉食動物だからだという。広い視野よりも精密に立体視する必要がそうさせたのだ。興味深いのは、その獲物には人間も含まれていた点だ。イエネコの祖先は人間の祖先を捕食していた跡があるという。また、「にゃー」という鳴き声をかわいらしく感じる理由も、人間の幼児のそれに似ているからとのことだが、これもなんと、かつて人間を捕らえるために獲得した鳴き方だという説があるとのこと。

★5 デズモンド・モリス『デズモンド・モリスの猫の美術史』、柏倉美穂訳、エクスナレッジ、2018年、60頁。ただし、モリスはそもそもレオナルド・ダ・ヴィンチが完成作を一五作ほどしか残していない寡作な画家であることも同時に指摘している。

★6 タッカー『猫はこうして地球を征服した』、第6章。

★7 同書、第7章。
「顔」と「指」から読み解くスマホ時代の写真論

ゲンロン叢書|005
『新写真論──スマホと顔』
大山顕 著

¥2,640(税込)|四六判・並製|本体320頁(カラーグラビア8頁)|2020/3/24刊行

大山顕

1972年生まれ。写真家/ライター。工業地域を遊び場として育つ・千葉大学工学部卒後、松下電器株式会社(現 Panasonic)に入社。シンクタンク部門に10年間勤めた後、写真家として独立。執筆、イベント主催など多様な活動を行っている。主な著書に『工場萌え』(石井哲との共著、東京書籍)『団地の見究』(東京書籍)、『ショッピングモールから考える』(東浩紀との共著、幻冬舎新書)、『立体交差』(本の雑誌社)など。2020年に『新写真論 スマホと顔』(ゲンロン叢書)を刊行。
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