日付のあるノート、もしくは日記のようなもの(3) 高熱とケアのロジック──8月28日から10月2日|田中功起

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初出:2020年10月23日刊行『ゲンロンβ54』

 アーティストが子育てについて語ることに意味はあるのだろうか。

 わからない。それはもしかすると作品制作をめぐるプロフェッショナリズムに反することかもしれない。子育てのスケジューリングとプロジェクトのハンドリングの折り合いはどのくらい今後のぼくの制作方法を変えていくのだろうか。そもそも根本的に変えてしまうような気もする。もちろんいま手元にある使える技術は使うだろうけど、かなりの部分を組み替えないと難しいと感じている。自分のプロフェッショナリズムの力点をどこに置くか。いままでの制作方法を変えずに貫き通すようなこだわりをプロフェッショナリズムと呼ぶのだろうか。でもそんなことはできない。なんとか子育てとの折り合いを付けながら方法を変えていく。むしろ別の方法論を編み出していく。この連載は、だから、子育ての過程で気付いたこととアートの実践をつなごうとしている。

 ぼくは、ソーシャル・ディスタンスなどの抽象的な言葉に覆われたコロナ禍下では、ひとりひとりの具体的な生(活)にフォーカスすることがより重要になる、と、この連載の第1回で書いた。抽象的な言葉は、現実の具体性をそぎ落とし、平板化する。社会に蔓延する平板化の暴力に抗うには、ひとつの生という交換できない具体性を対置するしかない、と思う。具体的な生のディティールはでこぼこで生々しく平板化を拒むだろう。同時にぼくはアートの実践とは抽象的なものだとも思っている。抽象性によって、ひとつの作品/表現/実践は個別具体性を離れて、遠い誰かに、あるいは未来の誰かにだって理解され、その心に響くかもしれない。そして、あたり前だけれども、抽象的なアートの実践は個人の生活というリアリティから出発する。抽象と具体はその意味で、ぐるぐるとひとりのアーティストのなかでひとつながりにめぐっている。それはひとりの人間のなかにある矛盾そのものだ。

 子育てと芸術実践は、その意味で、ぼくのなかでぐるぐる回る具体と抽象だと思う。そしてこのような考えは、子育てに追われているいまだからこそのものだ。それを記録しておきたい。

 



 少し前に高熱が出た。

 気温は35度ぐらいのときだった。それなのにエアコンの風が肌寒く感じられ、少しだけおかしいなと思っていた。翌日になると頻尿になり、何度も何度もトイレに行く。その時点ではまだ何が自分の身体に起きているのかに気付いていない。だから普段通りに育児をしていた。少しぼーっとすることが増え、妻に不注意を怒られはじめる。体温を測ると37.7度。少し熱がある。妻に頼まれていた豚汁を作るため、野菜を切り、スープのなかに和風だしや醤油を入れ、一煮立ちさせ、あとは味噌とごま油を入れてできあがりという段階になって、全身がとてもだるくなる。おかしい、身体が動かない。

 少し寝るけどごめん、と妻に伝え、コロナだとは思わないけど、念のため自主隔離。ここ数ヶ月使っていなかった、ベッドのある元の寝室で身体を休めることにする。ぼくも妻も、子どもが生まれてからは新しく設えた育児部屋に布団を敷いて生活をしていた。体温を測ると38.6度。そのまま明け方まで寝たり起きたりを繰り返す。妻は心配してスポーツ・ドリンクや氷枕などを用意してくれる。あれ、スポーツ・ドリンクなんか家にあったかな。子どもを寝かしつけたあとに買い物に行ってくれてたの? そして体温は39度に達する。

 妻はそのあいだ、ワンオペで子どもの面倒を見ながら、ぼくのコロナ感染を心配し、市の担当部署である帰国者・接触者センターにも電話をしてくれた。まずはかかりつけ医に行くことをすすめられ、翌朝、近くのO医院に電話をかける。

 コロナの濃厚接触者ではないが高熱が出たと伝えると、患者の少ない時間帯に病院の裏口から建物に入るように言われる。他の患者とは入り口を分けて診察するようだ。小さい病院だけど必要な対応をしている。普段は気さくな医師Oさんも、神妙な面持ち。フェイス・シールドを付けている。距離を置いて座る。コロナではなく、別の感染症の可能性もあるけど、念のためPCR検査を受ける方がいいかもしれない、と言われた。まずは2日様子を見て決めることになった。コロナ感染の疑いもあるから帰ったあとは家族と部屋を分けてください、と言われる。ぼくは家のなかでの不必要な移動をさけ、隔離部屋に留まることにした。それでもトイレに行く場合は触った場所を除菌し、もっと移動する場合はビニール手袋を付けることにした。熱はしばらく下がったり上がったりをくり返した。それでも薬が効いたのか緩やかに下がっていく。

 2日後にO医院に再び電話をし、熱は徐々に下がってきているけど、生後間もない子どもがいるからPCR検査を受けて感染しているかどうかを確認したい、と伝える。医師会が行っているドライブスルー検査ならば受けやすい、らしい。市の帰国者・接触者センターからは、例えば大学病院が紹介される。そしてその病院でもう一度診察があり、それ次第では検査必要なしという判断もある、ということだ。なかなか検査までたどり着かない。自家用車がないため、市から紹介された大学病院に行くことにする。再び生後間もない子どもがいるからできるかぎりPCR検査を受けて感染しているのかどうかを確認したい、と市の担当者に伝える。

 大学病院に電話をすると、来る前にもう一度連絡をください、と言われる。同じ検査のために病院に来ている他の患者と接触しないための配慮のようだ。再び電話をすると、検査予約時間が1時間延びた。病院には早すぎず遅すぎず、予約時間ぴったりに来てください、と言われる。移動は公共交通機関を使わないように念押しされ、タクシーで移動した。

 病院には早く着いてしまったので屋外で少しだけ時間を潰そうとするが真夏日で暑すぎる。担当部署に電話をかける。てっきり防護服に身を包んだ人が迎えにきて裏口へ回されるのかと思ったが違った。正面玄関からなかに入ってそのまま進み、タリーズ・コーヒーを抜け、その先にあるロッカー前まで歩く。フェイスシールドを付けた病院の職員がぼくを職員通用口に案内してくれた。
 通用口の先の半屋外にPCR検査をするための場所が設けられていた。簡素でいかにも即席で作った空間だった。診察も簡易的なもので、すぐに検査になった。診断次第では検査なし、という話はなんだったのだろう。感染者数がいまは少ないからだろうか。フェイスシールドと防護服を着た医者がパッケージに入った綿棒の折れ曲がったような検査具を取り出し右の鼻に軽くそれを入れる。そのあと透明なプラスチックのシートと段ボールで作られたロボットのようなかたちのオブジェの前に座らされ(これによって患者からのくしゃみによる飛沫を防いでいた)、今度は長めの綿棒の折れ曲がったものを左の鼻の奥まで差し込まれた。これでむせてしまったから、ロボット似のガードは確かに必要だったのかもしれない。そのあと、隣にあるプレハブのなかで必要書類に記入し、あとは帰るだけとなった。

 結果が出るには2日ぐらいかかると言われていたけれども、翌日夕方には電話があった。陰性だった。これでやっと隔離部屋から解放される。PCR検査を受けたくても受けられないというニュースを何度も聞いていたし、O病院の医師にも検査できるかどうかわからないよ、と言われていたので、この一連の流れはなんだか呆気なかった。

 



 しかしそれよりも深刻だったのは妻の身体だ。この数日間、彼女はワンオペで育児をしつつぼくの看病もしていたから、相当に消耗していた。3ヶ月の子どもはまだまだ手がかかる。ワンオペでは自分がご飯を食べるのもままならないし、ひとりでお風呂に子どもを入れるのはかなりしんどい。自分の身体を洗ったり、身体を拭いたりするひまもほとんどないからだ。もともと出産による身体への負担はかなり厳しく、むくみも、骨盤の歪みも、それに伴う疲れも、相当にひどい状態だった。それが少しずつ回復の兆しを見せていたんだけれども、ワンオペ育児と看病で回復どころかより悪くなっていたと思う。

 ときにぼくは、自分でも驚くぐらい誰かに対して無神経になってしまうことがある。人の話を聞き流すのはよくあること。今回まずかったのは消耗しきった彼女に対してのぼくからの何気ない一言。それが気持ちを折ってしまったと思う。

 2人の生活を10年以上続けてきたから、それを子どもとの3人の生活へと組み直すには時間がかかる。ぼく自身の適応能力も落ちている。状況の変化になかなかついていけてない。ケアを必要とする新生児が生活の中心になることは頭ではわかっている。産後の身体をフォローする必要性もわかっている。でもわかるってなんだろうか。おそらくこのぼくには実感がなかったのかもしれない。

 



 少し一般化して書くけど、例えば「母乳でもミルクでもどっちでもいいと思うよ」というようないいかげんな反応は、2つの主義のあいだで悩む多くの母親の怒りを買うだろう。
「完全母乳」と「完全ミルク」の対立軸をみなさんは知っているだろうか。「完母」と「完ミ」というように略される2つの立場は、いわば母乳原理主義とミルク自由主義と言ってもいいぐらい遠く離れている。いまでも産科医院や助産院によっては母乳信仰が強く、完全に母乳で育てることを強く推奨するところがある。一方で、母乳育児の困難さ(何もしないで勝手に母乳が出るわけではない)を離れ、粉ミルクのみで育てることもできるわけだ。さらに母乳とミルクを併用する「混合」、いわば中道派もある。そしてこの方法論の違いは母親にとってはとても悩ましい事態なのだ。育てる上では母乳もミルクも栄養価の違いはない。みな頭ではわかっていると思う。でも自らの身体が作り出す母乳には独特の感覚があるようだ。母乳育児は、母と子の近さという情動にも関係するから、簡単にはあきらめきれない。しかし、母乳をしっかりと出すためには日々の継続的な努力、栄養価の高い食事と規則正しい授乳が必要だ。深夜から明け方までのスケジュールも毎日こなさないといけない。この果てしない行為は、産後の身体に相当な負担を強いる。

 満身創痍の妻に対しての「どっちでもいい」という心ない言い方は、2人の関係を徹底的に壊してしまう可能性がある。そんな2人の危機的状況は「産後クライシス」と呼ばれている。子育てに対するリアリティが2人のあいだでずれていく。そのずれはしっかりと調整しなければならない。産後うつにまで発展することもありえるのだから。

 それでもなんとか危機は乗り越えられた、と思う。いや危機は常にそこにあるのかもしれないけど。このような感覚によって、見える街の風景は変わってしまった。親子連れを見かけるとき、子どものいる友人を思い出すとき、いまのぼくは、ああ、みんなあの「危機」を乗り越えたのか、と。勝手に共感のようなものを覚えてしまう。世界が異なって見える。もちろんコロナ禍によって社会生活は一変した。でもぼくら3人の「新しい日常」はまったく別の変化の最中だ。

 



 短い隔離生活のなかで読んでいたのが人類学者アネマリー・モルによる『ケアのロジック 選択は患者のためになるか』だった。

 モルが調査対象にしたのはオランダの糖尿病外来である。医療現場では、担当医はまず治療方法を患者に説明し、患者が納得した上で、その自律的な選択に委ねるのが一般的だと思う。例えばぼくの経験上でも、手術を受けるとき、担当医はその手術の内容を事細かに図に描いて教えてくれた。その上で患者は書類にサインをし、自分の意志で手術を受ける。医者による一方的な治療の押しつけではなく、患者の自律的な判断が推奨されている。これをモルは「選択のロジック」と名づける。自律的な選択は、それを自己責任として処理することでもある。リスクも含む内容を理解した上で手術を受けるわけだから。

 話は逸れるが、選択肢がそもそも少ない場合はどうだろうか。ALS患者への医師による嘱託殺人がニュースになった。患者が自らの意志で死を選択したというとき、まず疑うべきは患者の「自主的な判断」のほうである。どうして自主的に死を「選択」せざるをえなかったのかを問うべきだと思う。それが患者の望んだことであったとしても、なぜそう望まざるをえなかったのか、自己責任化された「選択」に追い込まれたことへのケアがまずは必要だったはずだ。

 モルが対象にしたのは糖尿病だから完治は難しく、その病との付き合い方が問題になる。そしてそこに「ケアのロジック」を見出す。「ケアのロジック」では患者の選択だけにものごとが委ねられるわけではない。そこでは医者やケアワーカーなど、患者を含むひとつのチームとして状況に対処するのだ。そして対処の仕方を固定せず、状態の変化に応じて「手直し」を加えていく。糖尿病患者の状況はどんどん変わっていくから、根本的な解決は難しいけど、微調整によってなんとかやっていく。つまり一律化した対処方法ではなく、患者ひとりひとりに対応した個別具体的なケアを行っていく。

 自律した主体による自由な「選択」ではなく、相互依存のケア・グループによる状況の改善と微調整。それでもモルは「選択」と「ケア」を対立軸として捉えるのではなく、両方が混じり合っているという現実主義に立つけれど。ぼくはそれでもこの比較と分割から発展的に考えられることは多いと思う。実際、この本の最後には「ケアのロジック」を別のジャンルに適応させるための、「翻訳」の必要性が書かれる。
 例えばぼくがいま経験している3人の生活。子どもは日々成長するし、妻は日々さまざまな体調不良に悩まされているから、その日ごとに3人の状況は変わっていく。その都度ごとの対応しかできないし、一度決めたこともすぐにやり直しになる。前日に決めたことは翌日にはなかったことになり、別の方途を探ることになる。変化は知らぬ間に起きる。それにまずは気付くこと。ぼくはだいたい見逃してしまう。

「ケアのロジック」は患者を中心に据える。患者は、ときに自ら判断することが難しい状態にある。実際、病気で熱があったら判断は鈍る。判断がしにくい患者に選択の責任をすべて任せるのではなく、共に道筋を見つけていく。子どもを中心に再構築される日々の生活。その子はまだ言葉を発せられない。要求をぼくらに伝えるための表現の幅もない。ただ泣くだけだ。何かを自律的に判断することもできない。

 なんとかやっていくためにはたくさんの「手直し」が必要になる。

 



 この本は、これからのぼくの芸術実践の指針となる。おそらくこの連載のなかでも繰り返し参照することになるかもしれない。ぼくがここ数年、制作過程で気にしてきたことに対して言葉を与えられたように感じたからだ。例えばひとつのプロジェクトはそのアイデアから実現までのなかでさまざまな人が関わる。全体を調整するのはアーティストであるぼくだとしても、それはチームによる制作だ。ぼくはそこに展開する表面的には見えない労働環境にも興味がある。報酬と仕事量は見合っているか、運営上の問題は生じていないか、現場での食事の質はチームのやる気に貢献しているか、プロジェクトの内容はすべての技術者に共有されているのか、細かい点は無限にある。そしてひとつひとつのプロジェクトは、ひとつ前のプロジェクトでできなかったことの改善の過程でもある。労働環境の改善によって、プロジェクトの内容面にどのくらいの影響があるのかはわからない。

 それでもぼくはこう思う。プロジェクトごとの「手直し」の連続のなかにこそ作り手であるぼくの思想が含まれると。ぼくにとってはプロジェクトそのもののテーマや内容も重要なんだけど、その背後にある、表面化しえないところにも案外本質的な問いが隠れていると思っている。だから毎回アップデートされる複数のタブからなるスプレッドシード(進行表から関係者名簿まで)にこそ、ぼく自身の芸術実践としての「ケアのロジック」が隠れているのかもしれない。

 



 そして今後は(その芸術実践として)、ぼくの撮影現場には関係者の誰かが子どもを連れてきても仕事ができるようにポップアップ保育所が作られるかもしれない。もう一度最初の問いに戻る。アーティストが子育てについて語ることに意味はあるのだろうか。わからない。そもそも子どもを持ちたくても持てない人たちもいるなかで、ぼくの弱音や喜びや決意はどのように受け取られるのだろうか。この連載の書き方も「手直し」が必要かもしれない。

 というかこの回、連載3回目に書く内容じゃなくて1回目にあるべきだったかも。
 

田中功起

1975年生まれ。アーティスト。主に参加した展覧会にあいちトリエンナーレ(2019)、ミュンスター彫刻プロジェクト(2017)、ヴェネチア・ビエンナーレ(2017)など。2015年にドイツ銀行によるアーティスト・オブ・ザ・イヤー、2013年に参加したヴェネチア・ビエンナーレでは日本館が特別表彰を受ける。主な著作、作品集に『Vulnerable Histories (An Archive)』(JRP | Ringier、2018年)、『Precarious Practice』(Hatje Cantz、2015年)、『必然的にばらばらなものが生まれてくる』(武蔵野美術大学出版局、2014年)など。 写真=題府基之
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