韓国で現代思想は生きていた(4) アン・チョルス現象で揺れ動く今の韓国|安天

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初出:2012年4月20日刊行『ゲンロンエトセトラ #2』
 政治家でもなく、どこの政党に所属しているわけでもなく、ましてや自分は名乗りもあげていないのに、今年末に行われる韓国の大統領選挙に関する世論調査で第1位の支持率を維持し続けている人物がいる。その名はアン・チョルス(安哲秀)。チョルスは、韓国ではありふれた名前の一つだ。95年、医師兼医科大学教授という安定した職業を捨てて、7年前から自力で制作し無料配布してきたアンチウイルス・ソフトウェア分野に専念することを決断。当時はほとんどお金にならなかったアンチウイルス・ソフトウェア会社を立ち上げ、紆余曲折を経て韓国におけるネット・ベンチャー起業家の草分け的存在となった。彼の政治空間への登場には劇的なものがある。そして、その過程は韓国社会の現状を見事に反映したものでもあるので、今回はその経緯を詳しく見てみよう。

 



 話は昨年の8月にさかのぼる。革新系のソウル市教育監(選出職)が示した小中学校の普遍的給食無償化案に対して保守与党(旧ハンナラ党)所属のソウル市長が打って出た政治的な賭けがきっかけだった。「普遍的」とは「保護者の所得と関係なく全ての生徒に」という意味である。これに反対するソウル市長のオ・セフン(呉世勲)は、対案として選別的給食無償化を提案、市長権限でこれを住民投票で決めることにし、住民投票が成立しないと辞職すると宣言した。そして8月26日、普遍的給食無償化支持派の住民投票ボイコット運動などによる住民投票不成立という結果を受け、オ市長は辞職する。学校給食に関する政策決定の権限は元々教育監のものであったため、住民投票の不成立は自動的に革新系が出した案の成立を意味していた。これでソウル市では小中学校の普遍的給食無償化が段階的に実施されることが確定した。

 一方、突然市長職が空席になったため、ソウル市では10月26日に補欠選挙が行われることになった。ソウル市長の政治的な意味合いは非常に大きい。今のイ・ミョンバク(李明博)大統領も前職はソウル市長だった。この時、政治家ではないが若者たちを中心に幅広い支持を受けている、韓国のビル・ゲイツとも言われるアン・チョルスが出馬するのではないかという情報が飛び交った。きっかけは、彼が出馬するのではないか、という「自称」アンと親しい長老政治家の発言だった。本人は何も言っていないにもかかわらず、新聞紙面では有力候補として取り上げられ、世論調査では他の既成政党所属の候補者を圧倒する結果が相次ぎ、アン・チョルス現象が始まった。これを受け、アンは出馬するか否かを悩んでいることを明らかにする。世論調査では与野党からどんな候補が出ても無所属のアンが最も多くの支持を集め、出馬すれば当選するのが確実と見られていた。にもかかわらずアンは、長らく市民運動に身を投じてきた無所属のパク・ウォンスン(朴元淳)と候補一本化をめぐる会談をし、たった17分間の話し合いの末パクに候補の座を譲り渡す。支持率50%の候補が、支持率5%の候補に道を譲るという驚きの会談結果であった。

 その後、野党は反与党勢力の候補一本化を要求する汎左派系の世論を受け止め、各党の候補とパク候補のうち一人だけを市長選候補として出し、どちらが候補になっても選挙に全面協力することを決める。ネット選出団を含む汎左派系候補の指名選挙の結果、無所属のパクが候補として選出され、10月26日のソウル市長選で与党候補を10%以上引き離して勝利する。アンの決断が、その後に続く候補一本化の流れを作ったといっても良いだろう。5%の支持率からスタートしたパクは、2ヶ月後の本番では50%以上の支持を得てソウル市長になったのだ。

安天

1974年生まれ。韓国語翻訳者。東浩紀『一般意志2・0』『弱いつながり』、『ゲンロン0 観光客の哲学』、佐々木中『夜戦と永遠』『この熾烈なる無力を』などの韓国語版翻訳を手掛ける。東浩紀『哲学の誤配』(ゲンロン)では聞き手を務めた。
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