死なない身体の殺しかた|徳久倫康

初出:2011年05月30日刊行『しそちず! #5』

 会報リニューアルの目玉は新人論文の掲載。その第1弾として徳久倫康氏の桜庭一樹論をお届けする。じつは本論文は、早稲田大学文化構想学部でのぼくの授業での発表から発展したもの。『砂糖菓子』を自然主義的リアリズム(純文学)とまんが・アニメ的リアリズム(ライトノベル)の相克の場として捉えるというアイデアには、一聴して膝を打った。掲載版では問題意識がさらに包括的になっている。徳久氏はまだ23歳。今後の活躍が楽しみだ。なお、氏は別名でクイズマジックアカデミーのカリスマプレイヤーとしても知られているとのこと。(東浩紀)

 

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 桜庭一樹の最新作『ばらばら死体の夜』(集英社、2011年5月。以下、かっこ内のデータは初版時のもの)は失敗作である。構造的に破綻しており、推理小説の用語でいい換えれば「アンフェア」である。どういうことか。

 

 作品は「Prologue」「Epilogue」と6つの章で構成されており、パートごとに別の登場人物の主観を通して物語が進行する。なかでも重要な登場人物は、冒頭から登場するひと組の男女、吉野さとると白井沙漠である。「Prologue」はさらにふたつに分かれており、「I 二〇〇九年一〇月」では沙漠(「わたし」)の一人称で、「男」の退廃的なセックスの様子が描かれる。

 続く「II 二〇〇九年一二月」では場面が転換する。この節は「人差し指を切り落としたとき――。」という一文ではじまり、古びた小屋のなかで、「はだかの死体」をまさかりで切断する様子が、殺人者の目線で描写される。殺人者はこう回想する。「ふいに、二月ほど前の夕刻の、あの会話を思いだした。あのあと、この人に会ったのは三回だけだ。お互いに、相手のことが、そんなには重要じゃなかったはずだ。なのにまさか、ほんとうに殺してしまうとは」。そしてこう続ける。

いったいどうしてこんなめんどうくさいことになったんだろう……。
こんな重たいものは運べまい。
そうだ、もっとばらばらにしないと隠せない。
人を殺したことが世の中にばれてしまう。
——沙漠っ、と呼ぶ声が、よみがえる。
こわくってたまらない。
鉞を握って、星空に向かって誰かの力で引っぱられたように、思いっきり、また振りあげた。

もっとばらばらにしなくちゃ!★1

 作品を牽引するのは、なぜふたりがこのような悲劇的な結末を迎えるのか、という謎だ。ここに桜庭は、ひとつの仕掛けを用意している。ふたつのプロローグは一読すると、「最終的に沙漠が解をばらばら死体に切り刻むことになる」という予告のように見て取れる。しかし殺人のシーンを注意深く読むと、一人称代名詞はほぼ伏せられており、殺人者が沙漠なのか解なのか特定できないように描かれていることがわかる。ミステリの読者ならばこの時点で、作者の目論見に気づくかもしれない。つまり、文体上の変化を最小限に留めることで、べつの語り手によって語られているプロローグ「I」と「II」を、あたかもひとりの人物の語りであるかのように錯覚させようとしているのだ★2

 もちろん、作者が語りの順序や描写の密度を調整して読者をミスリードすることは、少なくとも現代のミステリにおいては常識的な技法の範疇であり、それ自体はとりたてて問題視するようなことではない。

 しかし、その描写が不整合を起こしているとすれば、少なくともミステリとしては、「アンフェア」のそしりを免れないだろう。問題なのは、プロローグでの殺人の描写と、第六章で描かれるその続きを描いたシーンの文体を比較すると、両者があまりに異なり、同じ語り手がひとつの出来事を描写したものとは思えないことにある★3。作者自身がこの点にどれほど自覚的なのかはわからないが、それにしても桜庭はなぜ、このような破綻を呼び込むことになったのだろうか。

 じつは桜庭がばらばら殺人というモチーフを扱うのは、これが最初ではない。桜庭の出世作『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない A Lollipop or A Bullet』(富士見書房、2004年11月、以下『砂糖菓子』)は、14歳の少女がバラバラ死体に解体される物語だった。『ばらばら死体の夜』と『砂糖菓子』は、発表媒体や登場人物の年齢設定、想定される読者層などがずいぶんと異なっており、表面的には大きくかけ離れた作品に見える。しかし桜庭のキャリアを丹念に追うと、『ばらばら死体の夜』は『砂糖菓子』を、技法の面でも、主題の面でも反復していることがわかるはずだ。

 ここで注意しておきたいのは、『ばらばら死体の夜』の原型である『砂糖菓子』においては、物語の構成は破綻していないことだ。のちに確認するように、ばらばら殺人という殺害法も物語上の必然性を伴っており、じつに有効に機能している。だとすればなぜ、桜庭はわざわざ同じ主題を語りなおし、そしてなぜ、それは失敗に終わったのか。

 この問いは、桜庭というひとりの作家を超え、ゼロ年代から現在にかけてのキャラクター的想像力の広がりや、リアリズムの変容といった現象と、密接に結びついている。次章で見るように、桜庭一樹はゼロ年代以降の文学シーンを象徴する作家である。ライトノベルから出発した作家としては、もっとも成功した作家のひとりといえるだろう。

 結論をあらかじめ述べておこう。桜庭がばらばら殺人という題材を以て取り組んでいるのは、記号の組み合わせである「キャラクター」という「死なない身体」をいかに「殺す」かという問題である。桜庭はときにそれに成功し、ときに失敗した。そしてその試みの裏側には、私たちの物語環境におけるリアリズムの変化と、それを規定する条件が隠されているのだ。

★1 桜庭一樹『ばらばら死体の夜』、18ページ。
★2 このトリックについては、桜庭自身がインタビューで言及している。「サスペンスの手法の一つとして、時間の組み替えをやってみたかったし、誰が殺されたのか考えながら読んでもらうことで、人間ドラマの側面が強調されると思いました」(「集英社『ばらばら死体の夜』桜庭一樹」インタビュー第4回、http://www.shueisha.co.jp/sakuraba/interview4.html)。
★3 たとえばこの矛盾を、解の人格がそれこそ名前どおり「解離」している症状の表れとして解釈することは可能かもしれない。作中では何度も、解が母親に対して強いコンプレックスを抱いていることが強調されており、彼がまともな精神状態ではなかったことは間違いない(ばらばら殺人の犯人が「まとも」ではないのは当たり前ではあるが)。しかしこの解釈を採用したとしても、作品全体のちぐはぐな印象をぬぐい去ることはできない。


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