【 #ゲンロン友の声 】子どもを生み出すことへの躊躇いをいかにして退けましたか?

こんにちは。ゲンロンの出版物・メルマガ等いつも楽しく拝見しています。娘さんのいらっしゃる東さんへ大変恐縮な質問なのですが、東さんは自身の子どもが生まれるに際して、反出生主義的な言説(子どもが幸福になれるか分からないのに子どもをこの世界に生み出すことへの躊躇い)をいかにして退けましたか?上記の質問は、先日の東さんの生放送「東浩紀がいま考えていること」のなかで”親にとって子が生まれることは偶然であるが子どもにとっては絶対的”であることの非対称性について言及されていた際に思ったことです。この非対称な親と子の関係の下で、上記の躊躇いはいかに乗り越えられるのか、また親は子どもの幸福という倫理的責任をどこまで引き受け、どこまで開き直るべきなのか、東さんのご意見を伺えたら幸いです。(東京都・20代・男性・友の会会員)

 ぼくの娘が生まれたのは2005年です。当時は反出生主義という言葉はありませんでした。しかしそういう戸惑いはだれでもあり、むろんぼくにもありました。それでも娘ができたのは、べつにその問題を哲学的に乗り越えたからというのではなく「なんとなく」としか答えようがない。そしてそれが本質だと思います。以下はぼく自身の経験としてではなく一般的な話として書きますが、そもそも子どもって欲しいからできるというものでもない。欲しいと思ってもできないことはあるし、逆に欲しくないと思ってもできることはある。また、子どもを幸せにしたいと努力したからといって、必ずしも子どもが幸せになるわけでもない。いくら努力しても子どもが不幸になることはあるし、逆に放置していても子どもが幸せになることもある。つまりは、「子どもを欲しいと思うこと」「子どもができること」「子どもを幸せにしたいと思うこと」「子どもが幸せになること」は、むろんつながってはいますが、しかしかなり独立した事象です。だから、子どもを幸せにできないのではないか、だとしたらつくってはいけないのではないか、欲しいと思ってもいけないのではないか、と遡行して考える必要はありません。それは偽の問題です。親は「なんとなく」子どもをつくるしかない。だって、その結果なにが起きるかは、変数が多すぎてほとんどなにも予測できないのだから。子どもが生まれたあとなにが起きるかも、そもそもどんな子が生まれるかも、否、それ以前に生まれるかどうかもわからない。それでもつくるしかない。生まれた子のほうはそれを責任が伴う大きな決断だと考えるだろうし、たしかに彼/彼女はその行為がなければ存在しないのだからそう考えられてもしかたないのだけれど、じっさいには親からすればそもそも彼/彼女が存在するかどうかもわからずつくっているのだから、それは幻想にすぎません。親は子を幸せにしたいと願うかもしれない。しかし子はそれとは「無関係に」幸せになったり不幸になったりし、しかもそれを親が原因だと思う。そしてまあ、おまえが原因だといわれれば、たしかに親なんだから責めは一身に負うしかない。その関係こそが、ぼくが親と子の、あるいはより一般に加害者と被害者の「非対称性」と呼んでいるものです。親になるということは、その非対称性を受け入れることです。子どもをつくるとはそういうことです。つまり、考えてもわからないことについて、記憶と責任を引き受けるということです。あちこちでいっているように、ぼくは最近は親=加害者側から哲学を組み立てることに関心があります。「親」という言葉に反応して誤解も広がっていますが、それはべつに、みな子どもをつくるべきとかいった単純な主張ではない(というか、そんな主張をぼくがするわけがないと思うのだけど)。そうではなく、加害を恐れるなという主張です。人間は、子どもを作ろうと作らなかろうと、一定時間生きていればかならず親=加害者側に立たされることがある。それを恐れていてはなにもできない。そもそも生きることができない。哲学はその原点に立ち戻るべきだと、「政治的正しさ」に満ちたリベラルの言論界を見てつねづね考えています。そんなぼくからすれば、反出生主義は典型的な子=被害者側の哲学なわけですね。——と、まあ、哲学的な回答はそんな感じですが、プロフィールをみると質問者の方は20代で男性。ぼくもむかし「20代の男性」だったのでなんとなくわかるのですが、その時期の男性、というといまやジェンダー的に問題かもしれないので「妊娠できない生殖器をもつ性自認が男性のひと」といったほうが正確かもしれませんが、とにかくそういうひとは、なんといっても妊娠するのは他者の身体なのでやたらと観念的に家族とか子どもとか考えがちで、きっとこの質問もそういう悩みのはてに投稿されているのだと思います(誤解かもしれませんが)。しかし、じっさいに子どもができればわかりますが、現実はいささかも哲学的ではなく、まったく解釈の余地のない膨大な量の雑事がじゃんじゃかじゃんじゃか襲ってくるだけのたいへん唯物論的な経験です。子どもをつくり育てる可能性を検討するのであれば、じっさいに考えるべきは、反出生主義の乗り越えとかではなく、職場の近さとか家の広さとか保育園の当選確率とか親のサポートとか車の運転免許とか、あと金とか金とか金とかでしょう。(東浩紀)

 

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1971年東京生まれ。批評家・作家。東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了(学術博士)。株式会社ゲンロン創業者。専門は哲学、表象文化論、情報社会論。著書に『存在論的、郵便的』(1998年、第21回サントリー学芸賞 思想・歴史部門)、『動物化するポストモダン』(2001年)、『クォンタム・ファミリーズ』(2009年、第二三回三島由紀夫賞)、『一般意志2・0』(2011年)、『ゲンロン0 観光客の哲学』(2017年、第71回毎日出版文化賞 人文・社会部門)、『ゆるく考える』(2019年)、『テーマパーク化する地球』(2019年)ほか多数。

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