家族的なものとその敵(抜粋)──『訂正可能性の哲学』より|東浩紀

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webゲンロン 2023年8月31日配信
 2023年9月1日、東浩紀の新著『訂正可能性の哲学』が刊行されます。本書は『観光客の哲学 増補版』の姉妹編でありながら、デビュー作『存在論的、郵便的』(新潮社)で東自身が積み残した問いへの25年越しの応答でもあります。発売を記念して、本書の第1章「家族的なものとその敵」の一部を無料公開いたします。『訂正可能性の哲学』のご購入はこちらから!(編集部)

第1部 家族と訂正可能性



第1章|家族的なものとその敵 

 この第1部では、保守とリベラルの対立を超え、より柔軟に共同体の構成原理について語るためには、「家族」と「訂正可能性」の概念を新しく設立することが重要であることを示す。独立して読める議論になっているが、問題設定は2017年に出版した『観光客の哲学』という著作を引き継いでいる★1。 

 同書は好評で迎えられ、賞もいただいた。けれども欠陥もあった。第1部は「観光客の哲学」と題され、第2部は「家族の哲学」と題されていたが、両者がきちんと接続されていなかったのである。 

 ぼくはいまの政治は、世界的にも国内的にも、また古典的な政治においてもネットの争いにおいても、「友」と「敵」の観念的な対立に支配されていると考えている。したがって、その対立を抜け出すことが決定的に重要である。『観光客の哲学』では、その認識のうえで、「観光客的な連帯」こそが脱出の鍵となり、新たな連帯のモデルは「家族」に求められるという主張を展開した。 

 観光客と家族は、日常的にはかなり隔たりがある言葉である。観光客という言葉には、好奇心に導かれるままあちこちに顔を出す無責任な消費者という印象がある。だからこそ『観光客の哲学』では、観光客を、友にも敵にも分類できない第3の存在の比喩として用いた。他方で家族という言葉のイメージは対照的だ。家族はむしろ人生や運命の重さを感じさせる。家族をころころと変えることはできないし、成人になって新しい家族を迎えれば責任も生じる。それなのに、ふたつがつながり、連帯のモデルになるとはどういうことなのか。前著ではそのつながりを明確に理論化することができなかった。 

 そこでぼくは以下、伝統的な哲学を参照しつつ、そのつながりをはっきりと言葉にしてみたいと思う。観光客にしろ家族にしろ、あまり哲学や政治思想で話題になる概念ではない。けれども本論を読んだ読者は、両者の関係への注目が、いま公共性や正義を考えるうえでたいへん示唆に富むものであることを理解するはずである。

 観光客と家族について考えることは、本書が出版される2023年には新たなアクチュアリティを帯びてもいる。 

 6年前に『観光客の哲学』が出版された時点では、それらは哲学的に取り上げるような主題ではなかった。観光客の増加は経済的には注目されていたが、社会のありかたを変える現象だとは考えられていなかった。逆に家族の役割に注目すべきだという主張は、たんに保守的で時代錯誤なものだと思われていた。当時は、観光客のテーマは社会の持続性とはあまり関係がない軽いもので、逆に家族のテーマはあまりにも深い関わりがある重いものだと思われていたのである。 

 ところが2020年に始まった新型コロナウイルスのパンデミックが、両者をとりまく環境を劇的に変えてしまった。コロナ禍以前は観光客は気軽に歓迎される存在だった。日本だけでなく世界中が観光産業の成長に期待をかけてもいた。それが突然のように、不要不急の移動で感染を広げ市民の安全を脅かす迷惑な存在として、世界中で警戒される対象に変わってしまった。コロナ禍の初期には、留学生や外国人労働者の半ば強制的な帰国も相次いだ。 

 家族への視線も大きく変わった。コロナ禍以前は、家族や「家」といった言葉は、リベラルの知識人にとってあまり肯定的に語られるものではなかった。彼らは、教育にしろ介護にしろ、家庭から公共へできるだけ責任を移行すべきだと主張していた。 

 ところがコロナ禍が始まると、突然「家」が肯定的に語られるようになった。みなできるだけ自宅に閉じこもり、教育も介護も自力で行い、仕事はテレワークで済ませ、接触は同居家族とのあいだに限るべきだという主張がおおっぴらに行われるようになった。それまでのリベラルの論調からすれば、それでは世帯間の経済格差が教育や介護の質に反映してしまうし、家族がいないひとは孤独を強いられるので問題だと批判が巻き起こったはずである。けれどもそのような議論はほとんど提起されなかった。2020年から2021年にかけて、日本では「ステイホーム」や「おうちごはん」といった新語がしきりに語られたが、「ホーム」にしろ「おうち」にしろ、本来は排除的で差別的な含意をもちうる言葉である。それがこれほど手放しで肯定される状況を、コロナ禍のまえだれが想像することができただろう。 

 2023年現在、パンデミックによる政治や経済の混乱はようやく収束しつつある。今後はさまざまな対策のうちなにが有効でなにが混乱を招くだけだったのか、各国で検証が進むことだろう。 

 この3年間、日本に限らず世界各国は、観光客に象徴される軽さ=開放性を否定し、家族に象徴される重さ=閉鎖性に回帰することで「感染症に強い」社会を構築しようと試みてきた。それはいっけん避けられない選択だったようにみえる。けれども、開放性を捨て閉鎖性に戻るという論理は、あまりにも単純すぎなかっただろうか。観光客的なものと家族的なものは、それほどはっきりと対立するものだったのだろうか。否、そもそもそれ以前に、開かれているものは危険で、閉じられているものこそ安心といった二分法は、どこまで哲学的に妥当なものだったのだろうか。この第1部の議論は、以上のような点で、コロナ禍のイデオロギーを原理的に再検証するものにもなっている。

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 それでは議論を始めるとしよう。ぼくはさきほど、家族の役割はコロナ禍のまえには肯定的に捉えられていなかったと記した。そこで思い浮かべていたのは、現代日本のリベラルを代表する社会学者、上野千鶴子の「おひとりさま」肯定論である。 

 上野は2000年代の半ば、日本の既婚女性は夫や子どもにあまりにも束縛されているので、老後は離婚し、独居老人=「おひとりさま」として公的なサービスに頼るべきだし、行政もその生きかたを支援すべきだと問題提起を行い、大きなセンセーションを巻き起こした★2。この主張はフェミニズムの文脈で受け取られることが多いが、本質的には男性にも適用されるものだろう。上野は、家族は個人の自由を奪い、社会の改善も阻む厄介な存在だと考えている。家族という小さな単位への執着は、大きな公共の実現にとっては障害になるというわけだ。 

 このような主張は一般の読者をぎょっとさせる。実際に上野は「家族の破壊」を企てる過激な論者として批判されることが多い。けれども家族と公共を対立させる発想そのものは、彼女固有のものでも、また日本のリベラルに固有のものでもない。それはむしろ、リベラル、というよりもさらに広く、ある種の社会思想で通奏低音であり続けてきたものである。 

 建築史家の本田晃子は、ソ連時代の住宅建築史を扱った『革命と住宅』で興味深い指摘をしている★3。本田によれば、革命後のソ連では、労働者を家庭から解き放ち、家事や育児などを国家によるサービスに置き換えるため、住居の設計が根本的に見なおされていた。彼女は1925年にモスクワで行われたある集合住宅の設計コンペを例に挙げている。そのコンペでは、共同食堂や共同浴室、保育園やリクリエーション・ルームなどの整備が要件に入っていた一方、ひとりあたりの居住面積を6平方メートルにまで切り詰めることが求められていた。それらの指定からは、発注者が「住民は睡眠以外の時間は基本的に共有スペースで過ごすものと想定」していたことが読み取れるという★4。革命後のソ連においては、いまふうにいえば、「ステイホーム」とはまったく逆の、なるべくホームにはいない生活様式が推奨されていた。それは上野の「おひとりさま」論にまっすぐ通じている。

 本田の論考は「革命は「家」を否定する」という一文で始まっている。共産主義は私的所有を否定する。家族は私的所有の場そのものである。家族とは、「わたしの父」「わたしの母」「わたしの子」と、それぞれが私的な関係で呼びあう場所のことだからだ。共産主義が家族を壊し、個人と公共を媒介なく直結しようと試みたことは、論理的な必然でもあった。 

 本田はそのような集合住宅の理想の起源を、19世紀の社会主義者、ニコライ・チェルヌイシェフスキーが記した『何をなすべきか』という長編小説に求めている。同書は1863年に書かれ、革命前のロシアで広く読まれた。若い女性が一念発起して裁縫工場の経営に乗り出す小説で、労働者が男女入り混じって生活をともにし、共同で工場を運営するさまがたいへん理想的に描かれている。改革の過程で女性の主人公が伝統的な結婚観や家庭観に疑いを抱く物語になっており、フェミニズムの歴史において注目されることも多い。 

 このような家族の否定の歴史は、社会主義や共産主義を超えてさらに古く遡ることができる。 

 哲学史的にはそれはプラトンにまで遡る。プラトンは『国家』というたいへん有名な著作を書いている。同書には「正義について」という副題があり、理想の国家像や人間像が論じられている。書かれたのは2400年ほどまえのことだが、その議論はいまの思想にまで絶大な影響を与えている。そこではすでに、家族の存在が、私的所有や集団生活の問題と連動して否定的に議論されている。 

 プラトンの議論はこうだ。人間は多様であり、能力が異なっている。それゆえ集団で生活し、生産物を交換して、相互の欠落を補うのが好ましい。そのようにして国家が生まれるが、それが大きくなると、こんどは国家を運営することに特化した人々、プラトンがいうところの「守護者」が求められるようになる。彼らをいかに選び育てるかが、国家の命運を決めることになる。 

 プラトンはこの前提のうえで、そんな守護者に公徳心を与えるにはどうしたらよいのか、その方法について議論した。プラトン自身の言葉を引用すれば、「国家の利益と考えることは全力をあげてこれを行なう熱意を示し、そうでないことは金輪際しようとしない気持が見てとれるような者たち」を育てるにはどうしたらよいか、という問題だ★5。その議論は『国家』の第3巻から第5巻にかけて行われている。そしてそこで提案されるのが、守護者たちはすべてを公共に捧げるべきなので、自分のものと国家のものを区別しない環境で生活しなければならない、具体的には、財産をもってはならないし、固有の住居ももってはならないし、食事もひとりでとってはならないといった数々の禁止事項なのである。 

 禁止事項には家族をもつことも含まれている。プラトンは、守護者は世襲であってはならず、すべての市民のなかから、階級やジェンダーの分け隔てなく、資質のみに基づいて選ばれるべきだと考えた。これは現代の視点でみても先進的な提案だが、だとすれば守護者には男性も女性もいることになる。では彼らは性交し子どもをつくってもよいのであろうか。むろんよい。けれども家族をつくってはならない。守護者は特定の子の父母としてふるまってはならず、生まれた子どもは国家全体の子どもとして育てられねばならない。ふたたびプラトンの言葉を引用すれば、彼は、「これらの女たちのすべては、これらの男たちすべての共有であり、誰か一人の女が一人の男と私的に同棲することは、いかなる者もこれをしてはならないこと。さらに子供たちもまた共有されるべきであり、親が自分の子を知ることも、子が親を知ることも許されないこと」と明確に婚姻や家族を否定している★6。守護者は、財産をもつべきでないように、家族ももつべきでないのである。 

 念のために付け加えておけば、ここで議論されているのは、あくまでも支配層のあるべきすがただ。プラトンはあらゆる家族を解体すべきだと主張したわけではない。そんなことをしたら人間は滅んでしまう。 

 けれども、プラトンの哲学においては、彼ら守護者こそが、欲望や快楽に打ち克ち正義を体現する人々だとみなされている。『国家』は、それ以外の市民の生活についてはほとんどなにも語っていない。したがって、ここに記された家族の否定や私的所有の否定が、プラトンにおいて、特定の職業にとどまらない人間一般の理想として考えられていたこともまたまちがいない。 

 ひとは公共的であるためには、家族を否定しなければならない。ひとことでいえばプラトンはそう考えていたわけだ。

 


★1 東浩紀『観光客の哲学』増補版、ゲンロン、2023年。初版は『ゲンロン0 観光客の哲学』というタイトルのもと2017年に出版された。初版と増補版では章番号がずれているが、増補版のもので参照する。 
★2 上野千鶴子『おひとりさまの老後』、法研、2007年。 
★3 同論考は電子雑誌『ゲンロンβ』に連載されていたもので、2023年秋にゲンロンより単行本として刊行予定。以下では連載時の出版情報で参照する。 
★4 本田晃子「革命と住宅」第1回、『ゲンロンβ57』、2021年。 
★5 412E。藤沢令夫訳。『プラトン全集』第11巻、岩波書店、1976年、246頁。全集では同じ巻のなかでも収録作品によって訳者が異なることがある。以下、全集からの引用は、参照している作品の訳者名のみを初出時に書名の前に記載している。 
★6 457D。同書、354頁。

東浩紀

1971年東京生まれ。批評家・作家。東京大学大学院博士課程修了。博士(学術)。株式会社ゲンロン創業者。著書に『存在論的、郵便的』(第21回サントリー学芸賞)、『動物化するポストモダン』、『クォンタム・ファミリーズ』(第23回三島由紀夫賞)、『一般意志2.0』、『弱いつながり』(紀伊國屋じんぶん大賞2015)、『観光客の哲学』(第71回毎日出版文化賞)、『ゲンロン戦記』、『訂正可能性の哲学』、『訂正する力』など。
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