「堆肥」が示す人間の未来──インドネシアのゴミ処理装置とダナ・ハラウェイ ひろがりアジア(11)|吉田航太

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webゲンロン 2023年9月13日配信

はじめに──インドネシアの「堆肥」から世界の複数性を問い直す


 科学技術論とフェミニズムを架橋する独特の思想を展開してきたアメリカ西海岸の思想家ダナ・ハラウェイが、新たな人間(を越える人間)像として「コンポスト」(字義通りの意味は「堆肥」)というコンセプトを提示したのは、2016年に出版した『トラブルと共にいること』(未邦訳)においてである★1。同書は、「環境人文学」の動きにおける代表的な著作とされている。これは「人新世」というフレーズでまとまりつつある気候危機に、人文学も何かしらの応答をしなければならないと考える領野であり、人間を越えた人類学を目指す近年の文化人類学の潮流(マルチスピーシーズ民族誌とも呼ばれる)にとって重要な理論的支柱となっている★2。 

「コンポスト」は自然と文化の二項対立という人間中心主義的な前提を乗り越えるための概念である。「堆肥」という言葉を用いることで、環境問題の解決を図ろうとする際に、人間が自分以外の複数種との関係性の中で存在しているという事実に目を向けさせようというのである。同時に、この言葉は「ポストヒューマン」を念頭においている。つまり、新たな人類のあり方を構想するという意味では共通しつつも、人間が現状の制約を超えることだけを考えている「ポストヒューマン」に対して、様々な生物種と共に(com)、近代以降(post)を生きる存在としての「コンポスト」を対置するという、一種の言葉遊びでもあるのだ。ハラウェイはほかにも、「人間」(human)ではなく「腐植」(humus)、「人新世」ではなく「クトゥルー新世」というように、人間と土の概念をいくつもセットで提案している。ユーモアを込めつつ、人間についてのこれまでの概念を「土に根差した」(earthly)存在としてのそれへと改変することを目指しているのである★3

「コンポスト」の名称を発案したのはハラウェイの長年のパートナーである著述家のラステン・ホグネスらしいが、ハラウェイ自身も自宅にて堆肥を作っていることをインタビューで語っている★4。にもかかわらず、ハラウェイの「コンポスト」という概念は相当に抽象的なものにとどまり、実際の堆肥についての知識や実際にコンポストを作ることに関連した議論は不思議なほど語られることがない。ハラウェイの著作では、ハトやピモサラグモ(カリフォルニア州に生息するクモの一種)やミクソトリカ(オーストラリアに生息するシロアリの腸内に共生する原生生物)など、生物の無数の具体例に紙面が埋め尽くされる一方で、具体的なものとしての堆肥は自明の存在として議論の後景に退いている。 

 私自身はこれまでインドネシアのゴミ問題における技術や知識と社会の関係を研究してきた。インドネシアの廃棄物処理の興味深い点は、行政による基礎的な収集・処理の不備を補完する形で、近年、一般の住民による廃棄物処理の取り組みが盛んになされていることだ。なかでもゴミの堆肥化という手段が大きな位置を占めている。インドネシアではコンポストがそのままインドネシア語風に読み直された「コンポス」(kompos)という言葉で流通しているが、この「コンポス」を作るための装置がいくつも独特の名前を付けられて発明されているのである。 

 本稿では、筆者がフィールドワークの中で出会ってきたインドネシアのコンポスを、ハラウェイのコンポストの概念に衝突させるという一種の実験を試みたい。それによって、「堆肥」というどこでも同じように思えるものの背後にどのような差異が隠されているのか、どのような複数の世界の切断線が引かれうるのかを可視化してみよう。 

インドネシアのゴミと「奇妙な」堆肥化装置


 筆者の調査地は、インドネシア第二の都市のスラバヤである。スラバヤは無数の島々で構成されたインドネシアのうち、経済や政治の中心地であるジャワ島に位置している。日本で言えば大阪と同じような立ち位置にあるこの市は、ゴミ対策においてインドネシア国内で先進的な都市とされている。その背景には、2001年に発生した、埋立処分場への近隣住民の抗議活動と実力封鎖によって、街にゴミが溢れて機能不全に陥るという大事件があった。そのため、スラバヤ市政府は、あらゆる手段を講じて廃棄物の排出量を減らすことを余儀なくされた。結果として、日本の自治体との環境協力や様々な開発援助のプログラムも含め、この20年あまりの間にゴミ処理関連のプロジェクトが多数実施されてきた★5。 

 こうした無数のプロジェクトを通じて生まれてきたのが、住民が自分たちで有機ゴミを処理するようになることを目的とした、様々なコンポスター(堆肥化装置)である。これらは現在ではスラバヤだけでなく各地の都市部で、カンプンと呼ばれる庶民層の集住地域の路地に多数設置されている。これらの装置には種類ごとに独特の名称を付けられている。 

 スラバヤの調査で出会った3種類の堆肥化装置を紹介しよう。ひとつは、「樽コンポスター」(tong komposter)あるいは「アエロブ(好気)コンポスター」(komposter aerob)と呼ばれる、200リットルほどの樹脂製の貯水タンクを用いたコンポスト装置である。発酵のための通気性の確保という名目で、穴が無数に空けられたパイプが内部に通されており、煙突のように外に伸びた独特の形状をしている。 

 もうひとつは、「タカクラバスケット」(keranjang Takakura)と呼ばれる、家庭用の堆肥製造バスケットである。数十センチのプラスチック製のバスケットの内側に吸水のための布が貼られ、種コンポスト(生ゴミを分解するためにあらかじめ用意されたコンポスト)が入った家庭用のバスケットとして販売されている。日本人技術者の高倉弘二氏によってスラバヤでのゴミ対策のプロジェクトで考案されたため、彼の名前がそのまま装置の名前となっている。 

 最後が、「ビオポリ」(biopori)と呼ばれる、インドネシアの農学者が考案した、地面に埋め込んで用いるパイプ状の装置である。ビオポリの特徴は、コンポストを作るだけでなく、洪水対策にもなるとされていることだ。投入された有機ゴミを土壌生物が分解することで、地面に細かな穴が空いて吸水能力が高まるのだという。ビオポリという名称も「生物」(ビオ)と「穴」(ポリ)という外来語に由来している。

写真1 樽コンポスター
 

写真2 独自の装飾が施された樽コンポスターもある
 

写真3 タカクラバスケット
 

写真4 ビオポリ
 

写真5 植樹祭のようにビオポリを掘る環境イベントの様子

 これらの堆肥化の装置を見ると、読者は若干の違和感を覚えるかもしれない。生ゴミを集めて堆肥を作るというだけの道具にしては、どこか大仰すぎやしないだろうか? もしそのような印象を持ったのであれば、それは正しい。なぜなら、これらの装置はまさに「奇妙」であることがひとつの重要な効果だからである。 

 それらは、単に堆肥化を行うだけではなく、人目を引くような具体的な形状と固有の名称を持つテクノロジーとして、人々の関心を惹きつけることを目的としている。何も工夫をしなければ、廃棄物処理に住民がわざわざ自発的に関わることはない。だから、装置の目新しさや楽しさによって人々の参加を引き出そうという意図が込められているのだ。そのため、これらのテクノロジーは新奇さを持った美的存在としても設計されている。インドネシアの堆肥はそうした「新しさ」の苗床となることが可能なのである。 

 たとえばこれらの装置がプラスチック製であることの背景には、コストの問題だけでなく、インドネシアの大衆的な美学がある。タカクラバスケットを開発した高倉氏によれば、バスケットの製作コストを下げようと竹のカゴで試作したところ、竹のカゴは「田舎くさい」と住民から否定的な評価を下されてしまったという。農村地帯では竹は村の周囲に植えられており、最もお金のかからない素材である。ゆえに、竹で編んだ壁の家などは、貧乏人を示すものとして価値づけられている。日本では堆肥が農村的あるいは「里山」的な懐古性を帯びているのとは正反対に、インドネシアではこれらの堆肥化装置は都市的あるいは近代的なものとして受け取られているのである。 

 インドネシアにおいて「コンポス」はまったく新しい近代的な存在として受容されている。そのため、新しい存在が帯びる美学である「アネー」(aneh)という形容詞によって縁どられている。「奇妙」を意味するこの言葉は、既存の秩序を揺るがすものに対して使われる。たとえば1980年代のスハルト体制下におけるジャワ島中部の文化変容を論じた人類学者のシーゲルは、当時の大衆喜劇で人気を博したドラキュラのキャラクターを取り上げ、言葉がうまく喋れないドラキュラが人を襲うことによって、既存の言語秩序がかき乱される状況を「アネー」なものとして分析している★6。ゴミ対策という開発政策の下で、堆肥化装置は、ドラキュラのような気味の悪い存在ではないとはいえ、日常にささやかな異化をもたらす「アネー」な存在として受け入れられているのである。微温的な奇妙さ、と言ってもよいかもしれない。

 インドネシアの堆肥は「土に根差した」ものではまったくない。インドネシアでは、堆肥の発酵のためには微生物の「スターター」を人工的に投入した方がよいとされており、興味深いことに、この「スターター」に用いられる微生物資材とは日本発祥のEM(有用微生物群)である。堆肥に必要な微生物の分解のためには、ハラウェイや日本の里山がイメージさせるような「土壌」が必ずしも必要なわけではないことをインドネシアの堆肥は示している。 

 EMとは農学者の比嘉照夫が命名し、万能の効用を謳われている微生物資材だが、日本ではしばしば疑似科学として批判されている。しかしインドネシアでは、比嘉の研究室に留学していた企業家が独自に製造販売したものが広く流通しており★7、日本におけるような超自然的なパワーが標榜されることもなく、むしろ科学に基づいた微生物資材として受容されている。たとえば、筆者はインドネシアで高校生を対象とした政府の環境コンテストに出席したことがあるのだが、その際には、堆肥化に取り組む学生に対して、審査員の環境工学者が専門家からの指導としてEMを勧めているのを目撃した。「コンポス」とは微生物を人工的に加えて作られる堆肥である。それは一種の科学技術であり、インドネシアでは堆肥と「土」とのつながりが示されることはないのである。 

写真6 インドネシアで売られている「EM4」

熱帯における堆肥の不在と温帯主義


 こうした土と堆肥の切断はなぜ起こるのだろうか? インドネシア人は「コンポス」について、ハラウェイがコンポストを見るように、あるいは私たちが堆肥を見るようには見ていないし、そのようなものとして作ってもいない。私の考えるところでは、この差異にはシンプルな理由がある。それは、インドネシアが熱帯に位置していることである。 

 そもそも、熱帯地域においては堆肥というものは存在していなかった。赤道の周囲に形成される熱帯地域は、1年を通じて高い気温が保たれ、海水の蒸発量の多さに起因する高い降水量を特徴としている。そのため、熱帯地域の土壌は養分の分解や溶脱が急速に進み、腐植が十分に蓄えられることはない。鬱蒼とした熱帯雨林においては、土壌ではなく、草や木といった植物あるいは虫や鳥や哺乳類などの動物そのものに養分が蓄えられているのだ。 

 そのため、熱帯に属する東南アジア地域の生業は、森林を焼き払ってその養分を利用する焼畑耕作か、あるいは絶えず流れる水から養分を供給する水田耕作であった。熱帯地域では、腐植を「土」であると考え、人為的に有機物を腐敗させて肥料として土を豊かにするという実践は生まれてこなかった。日本や中国といった東アジアで見られたような、あらゆる有機物をかき集めては田畑へと投入する涙ぐましい努力は存在しなかったのである。特にジャワ島は、東南アジアの中でも火山地帯で、噴火によるミネラル供給によって比較的肥沃な土壌だったという例外事例であるが、それでも(それゆえに)肥料を用いるという習慣は、20世紀後半に起きた「緑の革命」と呼ばれる農業の近代化によって、化学肥料の使用が一般化するまでは、一般の農民の間では見られなかった★8。 

 だからこそインドネシアでは、「コンポスト」という概念を既存の世界になめらかに接続するような翻訳語が発明されなかった。東アジアではもともと様々な「糞・肥こえ」の技術が存在していたため、たとえば日本では「堆肥つみごえ」という翻訳語が発明されたのだが、インドネシアでは「コンポス」というそのままの音として導入された。「コンポス」には「コンポスト」や「堆肥」にあるような、大地や土壌あるいは自然や伝統といった意味が抜け落ちており、その代わりに新しく「奇妙な」ものという未来的なニュアンスが込めることが可能になっているのである。 

 土から切り離されたコンポスの概念と対照させてみると、堆肥を土壌と結びつけて、そこに「本来的な生き方」というニュアンスを込めることができるのは、特定の地理的制約によってのみであることが浮き彫りになる。それを私は、便宜的に「温帯主義」と呼ぶこととしたい。ハラウェイの「コンポスト」の議論は、こうした温帯主義の一種と考えることができる。堆肥が土と同一視され、近代的な大規模農業やあるいは資本主義と対比させられ、さらには複数種の共生体として人間以外の生物も包摂するコンセプトとして機能するのも、土にこそ養分が含まれ、土へとあらゆる有機物を投入しなければならない定住農民によって営まれる温帯地域のあり方を前提としている。 

 そうした温帯主義が働かない熱帯では、堆肥は土から切断された純粋近代の概念として、別様の可能性を提示する。ハラウェイの「温帯主義」に対して、インドネシアの堆肥のありようを「熱帯主義」と名付けて切断線を引くことができるのである。インドネシアでは、堆肥がハラウェイの議論が前提としているような形で世界全体をつなげるメタファーになることはない。同じ「堆肥」を意味するはずの「コンポスト」と「コンポス」が持つズレから、私たちは温帯と熱帯という世界のズレと、温帯主義的概念の限界を知ることができるのである。 

 だがしかし、それだけなのだろうか?

奇妙な未来主義・異形の未来主義・見慣れた非−未来主義


 冒頭のハラウェイの「コンポスト」についての説明には、実は不十分なところがある。彼女の提唱するコンポストは土に根差した複数種の共生体を意味すると述べたが、その語が内包するイメージには、実は私たちが「堆肥」という言葉で想像するそれとは大きな隔たりが存在する。 

 そのことが露わになるのは、『トラブルと共にいること』の最終章「カミーユの物語──コンポストの子供たち」においてである。この章でハラウェイは、コンポストという概念でどのような未来を構想できるのかをかなり具体的に描き出している。ハラウェイとも交流の深い科学哲学者イザベル・ステンヘルスが2013年にフランスのスリジー゠ラ゠サルで主催したワークショップ「思弁的な物語叙述」での共同作業をもとに、この章では一種のSF(思弁的寓話)★9として、西暦2025年から西暦2425年までの400年に渡る「コンポストの共同体」の構想が、カミーユという名の「共生体」の5世代の物語として述べられている。 

 この章で具体的に構想されている「コンポスト」は、現実の「堆肥」とはかけ離れた異様さでもって私たちの前に姿を現す。その物語を要約するとこのようになる。──2020年に数百人規模の共同体である「コンポストの共同体」が、アパラチア山脈のウェストバージニア州南部ゴーリー・マウンテン近くのカナワ川沿いに設立される。「コンポストの共同体」(Communities of Compost)とは生物の大量絶滅の危機に瀕して世界各地で生まれた、様々な生物種と共に生きる人々の新たな共同体を意味しており、そこで複数種の共生を選び取った新たな人間が「共生体」(symbiont)である。そして2025年に生まれる最初の5人の共生体の1人がカミーユである。共生体はそれぞれ特定の生物種と共生していて、カミーユの場合はオオカバマダラというチョウと人間の共生体である。オオカバマダラの遺伝子が組み込まれることで、肌には黄色と黒の模様が生じ、口内や腸内にはアルカロイドを分解できる微生物叢を持っている。こうした共生体(「シム」と呼ばれる)たちがゆっくりと増え、世界中に「コンポストの共同体」が拡散し、子供という血縁関係ではなく生物との類縁関係を選ぶ人間が増えていくことで、人口は着実に減少していく。そして、2425年には人口は30億(10億の「シム」と20億の「ノンシム」)にまで減り、持続可能なレベルにまで世界が回復していくとされている。 

 ハラウェイがここで提示しているのは、「堆肥」や「土に根差した」という日本語の語感からは到底思いつかないようなイメージである。ハラウェイにとって複数種と共に「ポスト」を生きるコンポストとは、たとえばオオカバマダラの遺伝子や微生物のバイオームを取り入れた改造人間たちが集まる科学技術のコミューンなのである。その文脈において「土に根差す」ことは、日本語の語感とは逆に、伝統や始原といった観念を振り切って、生物学的知識や遺伝子操作などの科学技術、そして小説や詩などの物語を駆使することで達成される★10。自然と文化の二項対立を乗り越えてたどり着くのは、見たこともない異形が無数に闊歩して生を謳歌する世界であり、「複数種の関係」といった言葉から日本語圏が想像してしまう牧歌的な「自然との共生」ではまったくない。 

 そうであれば、ハラウェイあるいはアメリカの「コンポスト」とインドネシアの「コンポス」が、今とは違う新しい世界を思い描く「未来主義」という点において実は接続していることが明らかとなってくる。インドネシアの堆肥がまったく土壌との連関を持たない純粋な近代的技術として「奇妙な未来主義」を見せてくれるとすれば、ハラウェイあるいはアメリカの堆肥は土壌との連関を持ちつつ、あらゆる生物との共生によって身体までも変容する「異形の未来主義」を見せてくれる。熱帯主義と温帯主義の断絶とは別の形で、未来主義というつながりが存在するのである。だから、インドネシアの路地の片隅でハラウェイの堆肥のコンセプトがきちんと引き受けられていると考えることも、ある意味で正しい。

 そうすると、今度は、いまここでインドネシアとアメリカの差異を説明している「堆肥」という日本語の概念が、暗黙の背景から浮かび上がってくる。日本語の堆肥は、土のない奇妙な未来主義でもなければ、土のある異形の未来主義でもなく、それらをどちらも差異として捉えることのできる、土のある「見慣れた非−未来主義」として存在している。堆肥は土壌と結びつき、そして「土に根差して」生きることに結びついている。私たちの世界の堆肥には、奇妙であったり異形であったりする未来を生みだすというよりも、永遠の理想の過去、つまり始原の本来的状態への回帰、あるいは、「土に還る」という別様のロマン主義が込められていると言うことができるだろう。それは「里山の非−未来主義」とも呼ぶことができる。 

 ハラウェイとも親しい人類学者のアナ・チンが『マツタケ』で論じているように、現在の日本において複数種の関係を考える上で、最もポピュラーな形象は「里山」である★11。里山という言葉は今では当たり前のように使われているが、その歴史は案外浅く、一般化したのは1990年代であった。環境史家のカティ・リンドストロムによれば、複数に競合していた日本の農村の自己イメージ(雑木林・水田・農村の日常生活や信仰)を初めて統合したことで、「里山」は急速に人口に膾炙していった★12。実際には歴史的に絶えず変容してきた多様な日本の景観が、「里山」というあいまいな言葉によって包摂されたわけだ。さらにつけ加えれば、この変化によって、生態系を調整するあらゆる行為が、「里山保全」という、過去から連続した現在を維持する行為として受け止められるようになったと考えることができるだろう。 

 私の見るところでは、日本の堆肥は、この里山という概念装置が持つ強烈な時空の固定化効果に巻き込まれてしまっている。そのために、本稿で論じたようなインドネシアやアメリカの堆肥に組み込まれた未来主義の思考が、異質なありようとして私たちの眼前に提示されるのである。こうした私たちの前提は、堆肥を私たちの世界にもともとある親しい存在とすることを可能にしている一方で、見たこともない世界を生み出す可能性を閉ざす制約でもある。 

 このような私たちの堆肥の世界からひるがえって見てみれば、インドネシアの「コンポス」もハラウェイの「コンポスト」も、「里山が存在しない世界でどう生きるか」という問いに取り組んでいると言うことができる。その結果、インドネシアには純粋近代の微温的で奇妙な未来主義が、アメリカには近代を超越して人口減少を目指す異形の存在に満ちた未来主義が広がっており、私たちの堆肥は未来の消失と永遠の里山へと向かいつつあるのである。

 


★1 Haraway, Donna J., Staying with the Trouble: Making Kin in the Chthulucene, Duke University Press, 2016. ダナ・ハラウェイ「人新世、資本新世、植民新世、クトゥルー新世──類縁関係をつくる」、高橋さきの訳、『現代思想』45(2)、 2017年, 99-109頁。 
★2 Kirksey, S. Eben and Stefan Helmreich, “The Emergence of Multispecies Ethnography” Cultural Anthropology 25(4), 2010, pp. 545-576. 
★3 「フムス」は「ヒューマン」からの言葉遊びで、堆肥と同じく無数の微生物や虫がうごめく複数種の存在として人間を捉え直そうと提唱されている。「クトゥルー新世」(Chthulucene)はギリシャ語の「大地」(クトーン)から来ており、「人新世」(Anthropocene)が既存の人間観を前提にしているとして、「土に根差した」存在への転換の時代にするべきだという意図のもと提案されている代替案である。 猪口智広「『土である』という死の肯定──クトゥルー新世における思弁的寓話小説について」、「REPRE」 (33)。URL=https://www.repre.org/repre/vol33/note/inokuchi/(2023年8月7日アクセス) 坂巻しとね「『とんでもなくもつれあっているのに全然違うし』──フェミニストにして動的協働体、ブリュノ・ハラウェイ」、『現代思想』51(3)、 2023年、137-150頁 
★4 「子どもではなく類縁関係をつくろう──サイボーグ、伴侶種、堆肥体、クトゥルー新世 ダナ・ハラウェイが次なる千年紀に向けて語る」。URL= https://hagamag.com/uncategory/4293(2023年8月7日アクセス) 
★5 これらの経緯については以下の拙論で詳しく述べている。 吉田航太「インフラストラクチャー/バウンダリーオブジェクトにおける象徴的価値の問題──インドネシアにおける廃棄物堆肥化技術をめぐって」、『文化人類学』83(3)、2018年 、385-403頁。 吉田航太「ダークインフラの合理性──インドネシアの廃棄物最終処分場における不可視への動員とその効果」、『文化人類学研究』22、2021年、 80-105頁。 
★6 Siegel, James T., Solo in the New Order: Language and Hierarchy in an Indonesian City, Princeton University Press, 1986. 
★7 インドネシアでは「EM4」という商品名で販売されている。日本のEMでは1・2・3・5という番号が付けられた商品が存在するが4は存在しない。インタビューなどは行っていないため今のところ詳細は不明である。 
★8 大木昌『稲作の社会史──19世紀ジャワ農民の稲作と生活史』、勉誠出版、2006年。加納啓良『インドネシア農村経済論』、勁草書房、1988年。 
★9 ハラウェイが用いる「SF」には複数の意味が込められており、通常の「サイエンス・フィクション」以外に、ここで述べた「思弁的寓話(speculative fabulation)」や、「あやとり(string figures)」「思弁的フェミニズム(speculative feminism)」「科学的事実(science fact)」などを含意しているのだと語っている[Haraway 2016:2]。 
★10 初代共生体のカミーユ1世が愛するのは『風の谷のナウシカ(アニメ版)』と「虫めづる姫君」なのだという![Haraway 2016:151-152] 
★11 アナ・チン『マツタケ――不確定な時代を生きる術』、赤嶺淳訳、みすず書房、2019年。 
★12 カティ・リンドストロム「日本の景観を飲み込む〈里山〉」、結城正美・黒田智編『里山という物語――環境人文学の対話』、勉誠出版、2017年、96-118頁。

吉田航太

1990年生まれ。博士(学術)。静岡県立大学国際関係学研究科 助教。専門は、文化人類学、科学技術社会論、インドネシア地域研究。科学技術テクノロジーの人類学的研究という観点から、インドネシアにおけるゴミ問題および廃棄物処理技術の研究を行っている。著作に、『ワードマップ科学技術社会学(STS)』(共著、新曜社)、「インフラストラクチャー/バウンダリーオブジェクトにおける象徴的価値の問題」(『文化人類学』)、「ダークインフラの合理性」(『文化人類学研究』)ほか。翻訳に、ブリュノ・ラトゥール、スティーヴ・ウールガー『ラボラトリー・ライフ』(共訳、ナカニシヤ出版)。
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