ライプツィヒから〈世界〉を見る(5) ドイツのコスプレと批評の読者|河野至恩

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初出:2013年5月31日刊行『ゲンロンエトセトラ #8』
 ライプツィヒでの滞在も終わりに近づいた3月中旬、ライプツィヒで毎年この時期に開催される、ヨーロッパ有数の書籍・メディアの見本市「ブックメッセ」を見てきた。大手出版社のブースでの新刊書のプロモーション、テレビ局主催の作家インタビュー、ミニコンサート、またグーテンベルクの時代の印刷機の実演……。そうしたブックフェアによくある光景のなかでひときわ目立っていたのが、コスプレイヤーの若者たちだった。

 私がブックメッセを訪れたのが日曜日ということもあり、会場に向かう満員のトラム(路面電車)の中には、既にカラフルな衣装やメイクを身にまとったり、衣装が入っている(と思われる)袋やスーツケースを脇に置いて友達と談笑したりする若者が多くいた。会場に着いてみると、何人かのグループで記念撮影をしたり、他の展示を見たり、空いたスペースに座って休憩したりしているコスプレイヤーを広いメッセ会場のあちこちで見かけた。フル装備のコスプレイヤーだけでも会場全体で数百人はいたのではないかと思う。

 ブックメッセの会場のかなり大きな部分が、マンガ・アニメ・ファンタジー小説に割かれていたが、TOKYO POPやCarlsenといったマンガ出版社の展示だけではなく、同人誌マーケット(“DOJINSHI-Markt”)、ポスター・フィギュア・クッションなどのキャラクターグッズの販売店が並び、大勢のファンで賑わっていた。アニメのセクションでは『クレヨンしんちゃん』『河童のクゥと夏休み』の原恵一監督のインタビューが行われ、漫画家のサイン会ではファンが長い行列を作っていた。

 ここ10年ほど、日本国外にもアニメの熱狂的なファンが多く存在し、アメリカやヨーロッパのアニメコンファレンスなどにファンが集結するというのはよく知られている。今回ライプツィヒのブックメッセで、そうした光景がすっかりドイツでも定着していることを実感した。特に、コスプレの気合いの入れようにはとても驚かされた。ドイツでは、カーニバルで仮装をする風習がある。カーニバルの季節にケルンを訪れたとき、さまざまな工夫を凝らした奇抜な衣装で仮装した老若男女のカップルやグループの人の波に取り囲まれ、こうした祭りに惜しみなく注がれる情熱に驚かされた。コスプレもそのような変身願望のひとつの表れとして、ヨーロッパ的な文脈のなかで自然に受容されているのではないかと、ブックメッセの会場でアニメグッズと一緒に大量に並んだカラフルなウィッグを見ながら考えた。

 



 日本国内では、こうしたブックメッセの光景は「クール・ジャパン」、つまり、「日本のコンテンツが世界では大人気!」ということの一例として理解されることが多い。しかし、それは果たしてどこまで「ジャパン」と関係があるのだろうか。
 確かに、ブースのグッズの並び方は、日本のコミケや秋葉原のアニメショップのそれをドイツで再現しているように見える。また、ドイツだけでなく欧米やアジアの様々な国々で大人気のアニメやマンガ作品の多くは、日本で制作されたものか日本で発達したスタイルを継承したものだ。日本で発達した(特殊な)アニメやマンガが世界に広がった、という見方はある意味自然だ。しかしその一方で、(日本を含む)世界の様々な国で社会構造が似たものになり、アニメやマンガの消費が似たようなパターンを示し、たまたま日本で生まれたものが世界に広まったという見方もできるだろう。

 この2つの見方には、似ているようでじつは重要な差異がある。前者は、欧米やアジアとの対比のなかで日本の文化が特殊であるという前提があり、そのような語り方は実は「日本文化論」的な語りと親和性が高い。ではドイツのコスプレイヤーは「日本的」だろうか? アニメやマンガを入り口として日本の様々な文化に関心を持つことがあることは否定しないが、ブックメッセに集うファンに、彼らの行動パターンは「日本的」だと言ったら戸惑うのではないだろうか。

 一方、後者では、こうしたアニメ・マンガの消費は、オタクならば世界のどこでも起こりうる現象として説明される。東浩紀氏の『動物化するポストモダン』の議論を借りるならば「オタクのポストモダン」といえるだろう。「オタクのポストモダン」ならば、欧米の(オタクの)若者であっても、自分のこととして考えることのできる可能性を持っているのではないだろうか。

 



 さて、この「オタクのポストモダン」という考え方は、ゼロ年代以降の日本の批評をドイツなどの海外の大学の視点から読むうえでひとつの鍵になるのではないかと思っている。

 今年の1月から2月にかけて、ライプツィヒ大学とフランクフルトのゲーテ大学で「ポスト・バブルの日本の批評」について批評とワークショップをおこなった。

 ドイツ語圏の日本研究では、現代日本の批評に関する関心は高いが、これらの2つの大学ではこの分野での研究が特に活発だ。

 ライプツィヒ大学日本学科のシュテフィ・リヒター教授は、これまで「日本の知識人」というテーマに一貫して関心を持っており、最近は原発事故への日本の知識人の反応についての論文を発表している。また、哲学が専門の小林敏明教授は、柄谷行人氏の『日本近代文学の起源』のドイツ語版翻訳者(共訳)でもある。最近は同氏の『世界共和国へ』を中心とした論集が、この大学院出身の研究者によってドイツ語に訳され、ライプツィヒ大学出版会から刊行されている。
 また、ゲーテ大学の「クール・ジャパン」研究プロジェクトでは、現代日本のポップカルチャーなど様々なトピックを扱うなかで、私が共訳した『動物化するポストモダン』英訳をテクストとして使い、活発に議論したという。今回、私の講演とワークショップには、ゲンロン友の会会員で会報を読んでいるという大学院生を含め、多くの方が参加してくれた。

 今回の2つのワークショップでは、濱野智史氏のニコニコ動画論(ゲンロン英語サイトで公開★1)や、『思想地図β』第3号の秋葉原についての鼎談などを学生に英語で読んでもらった。外国の学生が現代日本の批評を読むことにはさまざまな困難が伴う。批評の翻訳はまだまだ少ないし、批評テクストを読み解くには、社会現象や論壇特有の言い回しなどの特殊な文脈を理解する必要がある。ただ、こうした困難は、読者が読みたいと思えば乗り越えることはできる。もっと重要なのは、批評テクストを通して何を読み取ることができるか、その可能性を読者がどれだけ感じることができるかだろう。その意味でこれらのテクストは、ドイツの若者が関心を持つトピックを扱いつつ、英語で読むときにその議論の前提の日本的な側面が浮き彫りになり、興味深かった。一方、発言者のなかには、『思想地図β』の憲法草案などの日本国内の政治の議論は、なかなか自分の問題としては考えにくいという声も聞かれた。

 こうした議論を聞きながら、「オタクのポストモダン」という解釈のフレームは、ドイツの学生にとっても現代日本の批評を「自分のこととして読める」可能性を拓いているのではないか、とふと気がついた。ドイツなど海外の読者にとっては、日本の批評は、自分の知っているライフスタイルとはかなり違う、遠くの国で書かれた文章にすぎない。しかし、その批評が、自分の生活と深いところでつながっているということを発見できたとすれば、多少の困難を伴っても読んでみようと思うのではないだろうか。

「オタクのポストモダン」という可能性は、日本学という場所で始まりながら日本学の枠組みを乗り越えていく、ひとつのユートピア的な可能性を示しているのかもしれない。

 



 情報のグローバル化が進み、国内・国外という区別がますます意味をなさなくなる現在、日本の批評の書き手や読者も、海外の読み手を意識せざるをえない時代が来る。ライプツィヒ・ブックメッセのコスプレイヤーとドイツの大学で日本の批評を読む学生たちを見ると、その時代が近づいていることを感じるのだ。
 

★1 URL=http://global.genron.co.jp/2012/05/14/thegenerativity-of-nico-nico-douga/(編集部注:現在はページが存在しない)

河野至恩

1972年生まれ。上智大学国際教養学部国際教養学科教授。専門は比較文学・日本近代文学。著書に『世界の読者に伝えるということ』(講談社現代新書、2014年)、共編著に『日本文学の翻訳と流通』(勉誠出版、2018年)。
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