タイ現代文学ノート(3) 東北タイ[イサーン]の声|福冨渉

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初出:2017年6月8日刊行『ゲンロン5』
 2010年の第63回カンヌ国際映画祭。タイの映画監督アピチャッポン・ウィーラセタクン★1の長編映画『ブンミおじさんの森 ลุงบุญมีระลึกชาติ』が最高賞のパルム・ドールを受賞した。タイの東北部で養蜂場を営む初老の男が死期を悟り、自らの人生とその前世をふりかえりながら、家族(とその亡霊や、猿に姿を変えた実の息子)とともに時を過ごすという映画だ。

 同年8月、バンコクでの『ブンミおじさん』の上映はすでに終了していた。そこで筆者はバンコクから乗り合いバンで1時間強の近郊チョンブリー県に赴き、まだ上映の続いていたショッピングモールの映画館で作品を鑑賞することにした。250あまりの席数の劇場に、観客は10人程度。そもそも平日夕方であったし、このジャンルの映画(いわゆる「アート映画」と見なされる作品)の集客が芳しくないことは理解していたので、そこに驚きはなかった。東北タイが舞台の映画で、登場人物がタイ語に近似しているラーオ語(ラオスの公用語)系の方言を用いて会話をしていることにも驚きはなかった。驚きを覚えたのはむしろ、全編に「標準タイ語字幕」がつけられていることだった。外国人タイ語学習者の浅慮で、ネイティブ・スピーカーであれば方言もかなりの割合で理解できるものだと思っていたからだ(むろん筆者は、高速で切り替わる標準タイ語字幕についていくだけで精一杯だった)★2。タイの東北部で発せられる「声」と中央の人々のあいだにある、想像以上の「距離」を認識した経験だった。
 

『ブンミおじさんの森』上映前に立ち寄った、チョンブリー県バーンセーンのビーチ
 

 タイの東北地方は、タイ語でそのまま「東北」を意味する「イサーン อีสาน」と呼ばれる★3。日本の1.35倍、約51万平方キロメートルの面積をもつタイは、地理・気象・その他統計上の分類などに応じて4〜6の地方に分けられる。どの分類に従うにしても、バンコクを含む全77県のうち20の県がそこに含まれるイサーンは、国土面積の3分の1を占める最大の地域として地図上に存在する。さらに、総人口6500万人のタイにおいてイサーンの人口はおよそ2200万人を数え★4、人口的にもタイ最大の地域となっている。だがその地理的・人口学的なプレゼンスとは裏腹に、イサーンはタイの中央から疎外され続けてきた。

 現在のタイ国の人口の大部分は「タイ族」または「小タイ族」と呼ばれる民族(Thai)によって構成されている。一方そのタイ国の一地域であるイサーンに住む人々の多くは「ラーオ族」と呼ばれる人々だ。だが元をたどると、この「タイ族」も「ラーオ族」も同じ「タイ系民族」(Tai)に分類される。さらに「タイ族」の話す「タイ語」と、「ラーオ族」の話す「ラーオ語」も、同じ語族に分類される、近似した言語だ。どちらも単音節声調言語で、文字は同じインド系のルーツをもち、語彙にも共通するものが多い。ラーオ語を公用語として使用するラオスにおいては、タイ語を使用してもコミュニケーションがとれることがままあるほどだ★5。だが、そのラーオの人々は、タイ国内においては侮蔑の対象になっている。
 種々の王国が乱立し、タイ(ラーオを含む)、モン、クメール、ビルマなど多数の民族が混淆してきたインドシナ半島において、タイ国における「東北=イサーン」が成立したのは、19世紀末のことだ。19世紀初頭に起きたヴィエンチャン王によるシャム(タイの旧国名)への反乱が失敗に終わると、多くのラーオの人々が、現在のタイに強制移住させられた。さらに、同世紀後半の西欧列強のインドシナ半島進出の中で、メコン川を境としてタイ領とフランス領を分ける国境線が引かれた。これにより、同地域に古くから居住してきたラーオの人々は、「タイ」と「ラオス」に完全に分断されることになる。

 その結果ラーオの人々は、突如として「タイ」の一部、すなわち「イサーン」として統合された。彼らの話す言葉は「ラーオ語」から、タイにおける「イサーン方言」へと変化させられていく。タイ国内におけるイサーンは、「中央」バンコクに対する「周縁」として、さらには民族主義と公定ナショナリズムの高まりの中で「タイ」に対する「非タイ」として、冷遇を受けることになる。開発と資本、中央の文化から取り残されたイサーンは、その厳しい自然条件と合わせて、次第にタイにおける「田舎」、貧困の象徴として認識され、ベトナム戦争の時代には北爆の拠点として米軍に土地を供出させられながら、共産主義者が潜む地域として赤狩りの対象にもなった。21世紀に入ると、タクシン元首相の支持基盤=赤服と見なされた東北タイの人々は、タイを支配する中央の論理の下で「馬鹿、貧乏、苦痛」の存在、「タイ」を破壊する存在としての烙印を押され、あげくの果てにはタクシン支持派の赤服デモ隊が治安部隊によって強制排除され、多数の血が流れるに至った。

「タイ文学」「タイの作家」と呼ばれる集合が概念的に示すのは、タイ国内で出版され、タイ文字・タイ語を使って書かれたすべての作品であり、それらの作品群を生み出す作家たちだ。だが実際のところ、読者が動向を注目する「タイ文学」であっても、それらを執筆する「タイの作家」であっても、そこに浮かぶイメージは、バンコクとその周辺地域だけに結びついている。「遠く離れた」東北の文学が、イサーンの作家たちがそこに想定されていないことは、言うまでもない★6。だが、冒頭に挙げた『ブンミおじさん』しかり、イサーンの「声」は現代タイのそこかしこに響いている。私たちがそれを聴こうとせず、あるいは聴く方法を知らないだけだ。

 作家プー・クラダート★7が2014年に発表した長編小説『追放 เนรเทศ』は、中央と東北の「距離」そのものを題材にしながら、その距離が生まれる要因となった分断の歴史を描いた作品だ。バンコクの近郊チョンブリー県で出稼ぎ労働に従事する主人公が、そこからおよそ600キロ離れた、東北タイのシーサケート県に里帰りする。出稼ぎ労働の身で金銭的な余裕もなく、小さな娘と実母、さらに死んだ妻の亡霊を伴った帰郷には、長距離バスに乗る以外の方法がない。物語のほとんどは、長距離バスの到着を待つ時間に費やされる。240頁の小説だが、最初のバスに乗るまでに150頁、次のバスまでにもう80頁、3本目のバスまでにもう10頁。丸1日経っても結局故郷には帰り着けない。

 炎天下のバス停や、人でごった返すバンコクのバスターミナルでのバスの待ち時間に、タイの近現代史が語られる。主人公たちの故郷であるイサーンがいかにして「タイ」に統合され、「タイ」の中で分断されて、「距離」をもつに至ったのか、そしてなぜ彼らは移動に移動を重ね、「追放」され続けなければいけないのか、主人公の家族史と交差する形で、淡々と、叙事的に記述される。イサーン方言と標準タイ語を自在に切り替える語り、歴史的叙述において仏暦を使用せずにすべて西暦で記述することで、タイの公的な歴史観への従属を拒絶する態度などと相まって、きわめて批評性の高い作品になっている。これもまた1つの「声」の形象だ。
 

プー・クラダート『追放』、マティチョン、2014年
 
 イサーンの声が集う場所にこちらから赴き、耳を傾けるという方法もある。2015年8月10日、筆者は東北タイのウボンラーチャターニー県にいた★8。タイ国最東端に位置し、隣国ラオス・カンボジアのそれぞれと国境を接している県だ。タイの作家・編集者・研究者たちから話を聞く中で、多くの人からこの場所を訪れるようアドバイスを受けた。ウボンラーチャターニーに、東北タイの作家が集まる書店があるから、と。

 独立系書店「フィラデルフィア ฟิลาเดลเฟีย」は、同県の中心部からおよそ10キロ、タイの国道24号線を少し外れたところに建っている。ゆったりとした4車線の国道から店に向かう小道は舗装されておらず、周囲の建物はまばらで、草の茂る空き地と稲田が広がるばかりだ。そこに、鉛筆の形をした黄色い2階建ての書店が、店主の植えたたくさんの花をまとって建っている。
 

フィラデルフィア外観
 

「フィラデルフィア」の店名は店主の作家ウィッタヤーコーン・ソーワット★9がかつて執筆した短編に由来する。その作品では、3人の登場人物が「フィラデルフィア」という名前のコーヒー店に集い、自らの夢を語る。小さな書店をもちたいという妻シニーナートの夢を叶えるべく、ウィッタヤーコーンが書店をオープンしたのは2009年のことで、その後2013年に現在の場所に移転した。住居を兼ねたこの書店は、1階が書店とカフェスペース、2階の3室はゲストハウスになっている★10

 筆者がフィラデルフィアに到着した日はちょうど、東北タイの作家ティー・アンマイ★11の短編集、その名も『東北 ตะวันออกเฉียงเหนือ』★12と、東北タイの作家を中心とした文芸誌『短編のひさし ชายคาเรื่องสั้น』第6号の出版記念イベントが開催される日だった。
 店のキッチンで作った煮物が床に座りこんだ聴衆にふるまわれる中、まず政治学者チャイヤン・ラッチャクーン★13によるレクチャーが実施された。「タイ」に属しながら「タイ」に属せないイサーンの矛盾が、歴史的側面から語られる。続いて前述の作家ティー、『短編のひさし』主宰の作家マーノート・プロムシン★14、そして店主のウィッタヤーコーンによる討議。議論が進むにつれ、会場にいた地元の音楽家たちが討論の輪に加わり、彼らの演奏に合わせて詩が朗読され、歌が響くようになった。歴史的・政治的文脈の中で抑圧、搾取されてきたイサーンの人々が慰撫され、その不屈の精神が讃えられる。
 

議論がいつしか、音楽の演奏に変わっていった。右側でギターをもつのが作家ティー・アンマイ
 

 筆者は書店に響く彼らの「声」がもつ力強さに感銘を受ける一方で、その雰囲気にほだされて、その声を直接耳にしているという状況に対しても、東北タイ=イサーンに対しても「エキゾチック」な魅力を覚えている自分に気がついた。「イサーン」の名の下に彼らが集うことは、時には危うさをも孕むのではないだろうか? 「イサーン」とそれ以外を分断し、差異化する地政学的構造をかえって強調してしまうのではないか?

 だがその疑念は、東北タイの作家たち自身が上げる声によって払拭された。まさにその日、フィラデルフィアの店頭に置かれた『短編のひさし』第6号「暗黒時代の花群」、そしてそれまでの『短編のひさし』すべての号の冒頭に掲載された「宣言」には、こう記されていた。
[……]私たちの行動の原動力になっているもの、それは単に私たちがしがない庶民であるということだけではなく、私たちが、流行/資本/高徳と威光を具えた支援者を欠いた遠隔の地の民でもあるということだ。[……]だが私たちが[東北タイ以外の親しい作家たちと]認識を共有しているのは、地方や国の領域は、文学を分類し、善[と悪]/美[と醜]/真実[と虚偽]を区分する制約でも、境界でもないということだ。それこそが私たち作家の共有する、自由で正当な思考と実践なのだ。ひどく幸福な罰の如き夢とともに、いまあなたの手に抱かれた書物という形をした、静かに横たわる歌を、私たちはうたおう。★15


 タイ語に「時代遅れ、ダサい」の意で使われる「マジでラーオ โคตรลาว」という表現がある。これは一見隣国であるラオスを馬鹿にする言葉だが、そこに込められているのは、同じ国内に住み、同じ民族的ルーツを共有しているはずのラーオ/イサーンの人々への差別意識だ。このような差別的表現がまかり通るほどに、タイにおける「東北」は独特な位置を占めている。だがその場所の作家たちは、「東北」を背負いすぎることなく、しかし「東北」の作家として、自分たちの文学を模索している。彼ら自身のありのままの姿で「声」を発し、その「声」が聴かれる時を待っている。先の「宣言」には、次の文章が続く。最後に引用する。

 どうかこれを読み、うたいたまえ。あなたのあまりに美しい心とともに、傾聴したまえ。

 

文芸誌『短編のひさし』第6号(左)と、ティー・アンマイ『東北』(右)
 

写真提供=福冨渉


★1 อภิชาติพงศ์ วีระเศรษฐกุล 1970年-。映画監督、美術家。東北タイの大都市コーンケンで育ち、シカゴで映画製作を学ぶ。日本語でも情報が得られるため詳述は避けるが、本文中の『ブンミおじさんの森』をはじめ、東北タイを舞台とした作品を多く製作している。
★2 同様に東北タイを舞台とした同監督の長編映画『光りの墓』が2016年に日本の劇場で上映された際に、バンコク出身で日本語の堪能なタイ人の観客に話を聞いた。彼らは劇中で話されるイサーン方言がまったく理解できず、日本語字幕を追いながら作品を鑑賞したと述べていた。
★3 タイ語の原音に忠実に表記すれば「イーサーン」が近い。だが日本では「イサーン」と表記されることが多いため、本稿でもそれにならう。
★4 タイ国内務省地方行政局中央戸籍事務所が2016年2月25日に発表した統計によると、2015年12月31日時点のタイ国総人口は、非タイ国籍者を含めて6572万9098人(タイ国籍者のみは6493万85人)。東北タイ20県の人口の合計は、非タイ国籍者を含めて2191万6034人(タイ国籍者のみは2187万7600人)。 ประกาศสำนักทะเบียนกลาง เรื่อง จำนวนราษฎรทั่วราชอาณาจักร ตามหลักฐานการทะเบียนราษฎร ณ วันที่ ๓๑ ธันวาคม ๒๕๕๘. URL= http://www.ratchakitcha.soc.go.th/DATA/PDF/2559/E/048/27.PDF
★5 以下の文献を参照。矢野順子『国民語が「つくられる」とき─ラオスの言語ナショナリズムとタイ語』、風響社、2008年。
★6 タイ文学において「東北」を象徴する記念碑的作品は2つある。1つはカムプーン・ブンタウィー(คำพูน บุญทวี)の『東北タイの子 ลูกอีสาน』(邦訳あり、カムプーン・ブンタヴィー『東北タイの子』星野龍夫訳、井村文化事業社、1980年)、もう1つがラーオ・カムホーム(ลาว คำหอม)の『空は遮らず ฟ้าบ่กั้น』(邦訳あり。ラーオ・カムホーム『タイ人たち』星野龍夫訳、めこん、1988年)だ。どちらの作品も、それまで文学において光が当てられてこなかった東北タイの人々を描いている。1960〜70年代の左翼運動の高まりの中、バンコク都市部の学生活動家たちのあいだで広く読まれた。
★7 ภู กระดาษ 1977年‐。作家。東北タイのシーサケート県出身。作家としてのキャリアは長くなく、2013年の詩集『不在 ไม่ปรากฏ』が初の単著。その後2冊の短編小説集と、1冊の長編小説を発表している。長編小説『追放』が2015年の東南アジア文学賞最終候補に選ばれた。マジックリアリズム風にも見える、人・幽霊・神々が共存する物語は、その深部で近現代のタイ社会の矛盾を衝いている。標準タイ語とイサーン方言を混在させた語法、不自然に主部の長い特殊な統語も特徴的。
★8 滞在期間の都合もあって、筆者はバンコクからウボンラーチャターニーまで飛行機を利用した。タイ国際航空系のLCC、ノックエアに搭乗し、諸税込みの往復運賃が2867バーツ(およそ1万円)、所要時間は片道およそ1時間だった(ただし、往復で都合4時間程度の出発遅れがあった)。同ルートにおいて「高級」と「安心安全」で近年評判の高速バスサービス、ナコーンチャイエアを利用した場合、最も高級な車種の片道運賃が694バーツ(およそ2500円)、所要時間は片道600キロでおよそ9時間である。その他多くの高速バス会社の運賃は、これよりも低価格(500バーツ前後、すなわち1700円程度)だが、無謀な運転などによる事故が頻発している。
★9 วิทยากร โสวัตร 1979年‐。作家、書店主。東北タイのカーラシン県出身。少年時代に8年間、沙弥として出家していた。東北タイのウボンラーチャターニー大学で農学を学び、卒業後は2年間の軍隊生活を送ったのち、雑誌編集者として働き、2009年に書店をオープンする。邦訳短編に、「死ぬ人」宇戸優美子訳、『東南アジア文学』14号、2016年、73‐85頁。
★10 筆者の滞在時は残念ながら満室で、そこから徒歩3分の安ホテルに宿泊した。
★11 ธีร์ อันมัย 本名ティーラポン・アンマイ(ธีระพล อันมัย)。ウボンラーチャターニー大学教養学部講師。専門はマスコミ研究。雑誌等で多くの短編小説を発表している。
★12 「อีสาน」のタイ文字がそのまま「イサーン」という音を表しているのに対し、このタイ文字「ตะวันออกเฉียงเหนือ」は方角としての「東北」を示している。
★13 ไชยันต์ รัชชกูล タイ北部のパヤオ大学政治社会学部准教授。元ウボンラーチャターニー大学政治学部長。代表的な著作に、Rajchagool, Chaiyan. The Rise and Fall of the Thai Absolute Monarchy: Foundations of the Modern Thai State from Feudalism to Peripheral Capitalism. White Lotus, 1994. がある。現代タイにおける政治対立においては、軍事政権、ロイヤリスト、黄服デモ隊に対する批判を繰り返しており、赤服の人々に対する同情的な発言が多く見られる。また、文学にも造詣が深い。
★14 มาโนช พรหมสิงห์ 1956年‐。作家。東北タイのナコーンラーチャシーマー県生まれ。花農家をしながら作家活動を続け、2008年にタイ作家協会の文学賞であるラピーポーン賞を受賞する。2010年に赤服デモ隊が強制排除された事件に対して無反応を貫く東北タイの作家たちに憤りを覚え、同年より『短編のひさし』の編集長として活動を開始する。
★15 “คำประกาศ.” ชายคาเรื่องสั้น ลำดับที่ 6: มวลดอกไม้ในยุคมืด. อุบลราชธานี: สำนักพิมพ์เขียน, 2015. 次の引用も同様。
 

福冨渉

1986年東京都生まれ。タイ語翻訳・通訳者、タイ文学研究。青山学院大学地球社会共生学部、神田外語大学外国語学部で非常勤講師。著書に『タイ現代文学覚書』(風響社)、訳書にプラープダー・ユン『新しい目の旅立ち』(ゲンロン)、ウティット・ヘーマムーン『プラータナー』(河出書房新社)、Prapt『The Miracle of Teddy Bear』(U-NEXT)など。 撮影=相馬ミナ
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