チェルノブイリの勝者──放射能偵察小隊長の手記(14)|セルゲイ・ミールヌイ 訳=保坂三四郎

シェア
初出:2014年9月17日刊行『ゲンロン観光地化メルマガ vol.21』
第1回はこちら
第13回はこちら
本作品の解説・訳者からのメッセージはこちら
 

第43話 チェルノブイリを歩いてみる

チェルノブイリ──チェルノブイリ原発から南東へ14キロの町。 「キエフ州」1/200000地形図。ウクライナ国防省、1992年。
 チェルノブイリ☆1を散歩することなんてめったにない。本部、偵察、キャンプの往復が日常だった……
 
 でもいつだったか、ゆっくり歩いたことがあった。チェルノブイリに当直を命ぜられ、装甲車を車両置き場に戻し、データを本部に届けると、朝まで何事も起こらなければこれといった仕事もない…… 夕焼けの光に包まれながら町を歩くが、道の両側には事務所や商店もない。あるのは平屋の人家…… かつての。
 
 りんご、梨、桃が絨毯のように歩道をびっしり埋め尽くしている!足の踏み場もないほどの収穫…… 誰も採らないからだろう…… 地面に落ちた果実は発酵が進み、ワインのような芳香が漂っている。
 
 日当たりの悪い庭──家々は板と釘で閉め切られている…… ところどころで、派遣されて来たよそ者〈占領者〉たちが家の前の庭に置かれたテーブルの上でドミノ牌をガチャガチャと騒がしく打ち鳴らしている。そうでなければ、シャッターが下りて静かそのもの。

 



 ──人が住んでいた。どんな暮らし向きだったかは分からないがこつこつと蓄財したのだろう。家具、絨毯、調度品、ガラス食器、冷蔵庫など人並みに揃っている…… そしてある日いきなり〈ドッカーン〉。どこかの誰かのちょっとした手違いのせいで…… 家財道具は全て置き去り、人間は裸同然(服を着替え、靴を交換させられ、持っている物は全て〈低レベル廃棄物〉の特殊タンク行き。〈低レベル〉はましな方だが)。裸に裸足、持ち物はビニール袋に入れた身分証明書だけで、ゼロから人生が始まる。だが移住先の新天地にも自分の居場所などあるわけない。
 
 ほんとうに大切なものは、いつも、運命のどんな局面でも常に自分と一緒にあるもの、自分の中に。
 
 自らと常に一緒にある知識。仕事の腕前、そして人々のなかで人間らしく生きていく力……
 
 ……「それと健康だ」チェルノブイリから帰って、この話を父にしたとき、父が付け加えた。
 
 私は「そう、もちろん健康も」と即座にうなずいた。自分の若さゆえ、健康は当たり前のものと思っていたのだ……
 
 チェルノブイリの町を歩いているとき、健康のことなど頭にはなかった。

第44話 チェルノブイリを歩いてみる(続)~OMNIA MEA MECUM PORTO


ほんとうに大切なものは、いつも、運命のどんな局面でも常に自分と一緒にあるもの。自分の中に。自らと常に一緒にある知識、仕事の腕前、そして人々のなかで人間らしく生きていく力……☆2


 ほんとうに大切なものは常に自分と一緒にある、と紙に書いたときにはじめて気づいたこと。

 これはまさにOMNIA MEA MECUM PORTO──〈自分のすべてのものを身に離さずに持っている〉! という何千年前からの格言……
 ラテン語の原文には文法上の曖昧さ(文字通りには〈自分が身につけている〉があり、不正確に(いい加減に?)訳されて、そのままの形で我々の文化や言葉に残った…… いや待て、そんなはずはないと思い、辞書★1を引いてみる。


OMNIA MEA MECUM PORTO「自分のすべてのものを身に離さずに持っている」
 
キケロによれば古代ギリシャの賢人ビアス(紀元前6世紀)の言葉という。ペルシャがビアスの出身地プリエナの町に侵入した。自分のものをなるべく多く持って逃げようとした町の住民は、手ぶらのビアスに対しどこに彼の財産があるのか聞いたところ、「自分のすべてのものを身に離さずに持っている」と答えたという。ビアスは真の財産とは家財道具ではなく自分の知恵と考えた。しかし、長い年月を経て、この言葉は人間の真の財産の頭脳や知恵ではなく、個人の財産が乏しいこと、という意味で引用されるようになってしまった。


 私の勘は当たっていた!

 昔からこの格言を聞くと、なにかかこう、腑に落ちないところがあった…… 賢人(しかも古代の偉い賢人)と強欲という概念は相容れない。「自分のすべてのものを身に離さずに持っている」などと言うことができるのは、どこかのケチンボかもしれないが、賢人ではないはずだ。

 こんな簡単なことに気づくために、わざわざチェルノブイリの町まで出かけて来なければならなかったのか……

 町を隅々まで歩いた。

 そして分かったこと。

 実際には──

           自分のすべては
                 常に自分と一緒にある

第45話 それぞれの小さなふるさと

タチヤーナ・アファナシエヴナ・ロイクに捧ぐ
 我々の装甲車は本部を出て、チェルノブイリの町の薄暗い通りを通り、車両置き場の入り口、今夜の当直に向かっていた…… 長い1日を終えた私は、走る装甲車のてっぺんに腰を下ろし、脚はハッチに突っ込んだままタバコをふかしていた……

 チェルノブイリの町は、夜になるとまったく様相が変わる…… 〈非居住〉の居住区――民家にも建物にも灯りはともっていない……

 身を切るような夜風のなかで、かすかに燃えるタバコは、赤い円錐状に火の粉を放ち、それが背後の闇夜へと吸い込まれるように消えていく……

 静けさ……耳に入ってくるのは、風を切る音とエンジンの低いうなり声だけ……

 この町は私の故郷を彷彿とさせた。命を授かり、よちよち歩きから始まり、大人になって働き出すまでのありとあらゆることを経験したあの町……初めてのタバコの苦み、癖になる程しなやかな女の唇を覚えたのも……人生を謳歌したのも死の恐怖を覚えたのも……ガキの頃、おれたちは秋になると落ち葉で大きな焚き火を作り、そこに大量の栗を投げ込んだ。焼かれた栗は次々と爆発、ときおり地獄のような炎が噴き出す煙のカーテンの中をジャンプで駆け抜けて遊んだ……ちょうどあんな形のビルもあった。いつだったか私の引いた弓矢がその屋根の上にあがってしまった。おれたちは裏手の非常用梯子をよじ登って屋根に上がった。知ってはいたが、4階建ての古いビルの屋根は傾斜が急だし、柵もない……矢はすぐに見つかったが、不意にしょんべんをしたくなった。ティーンエイジャーのおれたちに躊躇いはない。屋根の端に立って、夜の人通りのない中庭に向かってやってやった。その流れは渦を巻きながら垂直に垂れ下がる細縄のようで、おれたちはケラケラ笑った……授業を抜け出して通った映画館。授業が終わるのを待って一目散で向かったことも……初めて自分が建てたビル……今では近くまで来るとわざわざそのビルの角を通ることにしている。かつて、この場所には空っぽのプールのような基礎掘削の穴があり、コンクリートに被せた黒いごわごわしたタール紙の上に最初の煉瓦を積んだのは親方と当時見習いだった私。その角は普通の直角ではなく、100度まで広がっていたのでとても手間がかかったことを覚えている……今もそのビルの角を通るとき、昔からの友達に会うような感じがする。この壁も、私が初めてコテを手にとってひとつ煉瓦を積み上げたものだが、その後(数10年? 何世紀?)にわたって建物であり続ける……クラスメート、先生、ガキの頃の友達が住む町。親、親の職場仲間、知人、友人、私の親類が住む町……たった今、真っ黒のチェルノブイリの真っ黒な通りに一瞬だけ見えた家、私の祖母もあんな家に住んでいる……戦争が始まると、祖母はアゾフ海に面したマリウポリという町から1500キロの距離を歩いて故郷の町に帰ってきた。敵に占領された土地を通って、5歳の長女(私の母)と乳飲み子の妹を乗せた手押し車を押して……彼女は避難者を乗せた最後の船に間に合わなかったのだが、その船はドイツの飛行機の爆撃を受け、港で送り出した人々の目の前で海の藻屑として消えた……祖母たちが歩いたのは10月に入ってからで、行く先々の民家に泊めてもらうこともあれば、干草の山や羊小屋で互いに体を寄せ合って暖を取って夜を越すこともあった……朝に目を覚ますと凍った吐息で髪が小屋の板にくっついていたことも。当時、祖母は徴兵された夫──祖母が愛した人であり、娘達の父でもあった──が歩兵小隊長として、敵に包囲された第2次大戦の地獄の戦場で行方不明となったこと(〈スモレンスク近郊で消息絶つ〉)をまだ知らなかった……夫の同僚の製鋼労働者たちが祖母に手押し車を作ってくれ、行き先を示した地図をくれた。それとビラの束も渡された。祖母は道中行く先々にそのビラを残してきた……(「おばあちゃん、そのビラには何が書いていたの?」「うん、ファシストの占領者たちを懲らしめよう、ということよ」)
 生まれた町にたどり着き、戦争を生き抜き、娘たちを育て上げた。それから小さかった私や従姉妹まで……祖母の家はいつも温かく私たちを迎えてくれたし、テーブルにはいつも(!)すぐに(!)何かおいしいものが並んだ。手が込んでいるわけではないが誰にも真似できない味……

 ところで、もし、この家──死んだような真っ黒な窓枠の──が私の祖母の家だったら?もし、ここが私の慣れ親しんだ通りだったら?もし、この町──夜に灯りひとつない──が私の町だったら?ふるさとの町に家族や友だちがひとりもいなくなった状態を一瞬だけ想像してみたところで、やはり、たまには静かな町外れの小道をぶらぶらしたいこともあるし、激しく流れる人生の渦から飛び出して、立ち止まって考えてみることも必要だ……あるいは逆に、何も考えずに、懐かしい建物、通り、街路樹の間をぶらぶらしながら、人生という名のヘドロの沼から這い上がる度胸を養うこともあるだろう……どこから来て、どこへ行くのか……? たわい無いことに思えるかもしれないが、それでも奪われた人間は死ぬまで喪失者として生きることになる。手足のように温かい血の流れた、大事なものを切断された者……手足ほどはっきり見えるものではない……だが、建物や通りがあり、窓から灯りが漏れているうちは、そこには目には見えない屋台骨、支柱、軸があるということでもある……

 ──吹きつける夜風によって鈍く光るタバコの先から振り落とされた火の粉は、背後の暗闇の奥底に呑みこまれては消えていった……

 装甲車は、チェルノブイリという漆黒の宇宙のなかを飛来する隕石のように、儚く消える火片の軌跡を残しながら町を走り抜けた……

 車両置き場に着くと、私たちは長靴だけ抜いで、そのまま車内で眠りについた。

第46話 チェルノブイリのお土産~最後のチェルノブイリ散歩

お知らせ
チェルノブイリ縫製工場はベーラヤ・ツェールコフィ市から60キロのテチエフ町へと移転しました。
工場職員はテチエフ町に集合してください。縫製工場
 
 この大きな手書きの掲示が、私がその存在に気付くまで2ヶ月間、チェルノブイリ市の中央通り、無人の敷地の板塀にかかっていた。

 大量の画鋲で留められていたが、画鋲は掲示の四隅だけでなく紙全体、文字と文字の間にまで刺してあった。

 最後の任務でチェルノブイリの町に寄った際、本部で用事を済ませた後にこの小さな町を歩いてみた。もう二度と来ることはないと分かっていた。この掲示はそのとき記念にはがしてきたものだった。長い間、見慣れたものだったから。

 画鋲は雨で赤茶色に錆ついて、紙全体にその色が滴り流れていた。

 それはまるで機関銃の掃射を受けた生き物のようだった。

第47話 すずめ


 記憶ほど気まぐれなものはない。

 私の場合、例えば、チェルノブイリの町にすずめが

 いたかどうかを覚えていない。

 いなかった、という感じはする。それともただ

 目にしなかっただけかもしれない。あまりに

 当たり前で自然な存在だから気づかなかったということか。

 埃にまみれながら、ちゅんちゅん鳴いていたのに……

 そうだろうね…… 実際は分からないが。

 もしどなたか、あそこにすずめがいたのか、正確な

 情報を提供してくれるならば恩に着る。気になって仕方がない。

 すずめさんよ……

 




☆1 (訳注)このエピソードでいう「チェルノブイリ」とはチェルノブイリ市(原発から約12キロ。事故当時の人口約1.2万人)という具体的な町のこと。原発職員が多く住んでいたプリピャチ市(原発から5キロ。事故当時の人口約4.5万人)などに比べ汚染の程度は低かったので、事故対策本部等が置かれた。

☆2 (訳注)第43話を参照。

★1 ソモフ・V著「ラテン語表現辞典」モスクワ、GITIS、1992年、94頁。

セルゲイ・ミールヌイ

1959年生まれ。ハリコフ大学で物理化学を学ぶ。1986年夏、放射能斥候隊長として事故処理作業に参加した。その後、ブダペストの中央ヨーロッパ大学で環境学を学び、チェルノブイリの後遺症に関して学術的な研究を開始。さらに、自分の経験を広く伝えるため、創作を始めた。代表作にドキュメンタリー小説『事故処理作業員の日記 Живая сила: Дневник ликвидатора』、小説『チェルノブイリの喜劇 Чернобыльская комедия』、中篇『放射能はまだましだ Хуже радиации』など。Sergii Mirnyi名義で英語で出版しているものもある。チェルノブイリに関する啓蒙活動の一環として、旅行会社「チェルノブイリ・ツアー(Chernobyl-TOUR)」のツアープランニングを担当している。

保坂三四郎

1979年秋田県生まれ。ゲンロンのメルマガ『福島第一原発観光地化計画通信』『ゲンロン観光地化メルマガ』『ゲンロン観光通信』にてセルゲイ(セルヒイ)・ミールヌイ『チェルノブイリの勝者』の翻訳を連載。最近の関心は、プロパガンダの進化、歴史的記憶と政治態度、ハイブリッド・情報戦争、場末(辺境)のスナック等。
    コメントを残すにはログインしてください。

    チェルノブイリの勝者──放射能偵察小隊長の手記

    ピックアップ

    NEWS