ポスト・シネマ・クリティーク(2)ディジタルな綱渡りは映画に可能か──ロバート・ゼメキス監督『ザ・ウォーク』|渡邉大輔

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初出:2016年2月12日刊行『ゲンロン観光通信 #9』

ツインタワーのディジタルイメージ≒不在


 映画の冒頭、観客に向かって快活に語りかけるひとりの若い男が、スクリーンに現れる。

 ジョゼフ・ゴードン=レヴィットが演じる、色白で、どこか腺病体質そうな顔つきのこの男の背後には虚空が広がっている。クロースアップからキャメラがそのまま引いてゆくと、男が立っている場所が、上空100メートルほど、ニューヨークの「自由の女神像」のもつトーチの台座のうえであることがたちどころに判明する。強風に吹かれながらも、手ぶりを用いて自らの半生の稀有な体験を誇らしげに語る男のフルショットを捉えたまま、ふたたびキャメラはゆっくりと右へパンする。すると、はるか向こうの眼下にニューヨーク湾を臨むマンハッタンの遠景が見えてくる。そのオモチャのような街並みのなかに、なんともプレーンなたたずまいでふたつの巨大な高層ビル──ワールドトレードセンターがそそり立っている。

 その瞬間、おそらく観客たちの多くは、この映画の物語のあらましをすでに知っているにもかかわらず、そのよく知られた2本のビルがいまはもう、この現実に存在していない──したがって、それは必然的にディジタル映像によって仮構されたものである──事実にあらためてはっとさせられる。そして、その直後から、映画を観るわたしたちは、物語の進行とは別に、「ポスト9.11」と呼んでもよいだろう、01年から現在まで続く固有の歴史的磁場がもつ意味を、映画史のそれとのかかわりにおいて、脳内のどこかでいやおうなく反芻することを迫られるのだ。

 話題作の公開が続く最近のハリウッド映画のなかでも、今回、ロバート・ゼメキスの『ザ・ウォーク』(The Walk, 15年)に注目する理由は、まずはここにある。

綱渡り場面のディジタル/バーチャル性


『ザ・ウォーク』は、実在するフランス人の大道芸人フィリップ・プティの半生と、1974年8月7日、かれの名を一躍世界的に有名にした、ニューヨーク・ワールドトレードセンターのツインタワー間の命綱なしの綱渡りが成功するまでを描いた伝記ものである。

 史実を交えた物語やモティーフを、最新のディジタル3D映像を駆使してウェルメイドに捌いてみせる演出といい、先輩格でもあるスピルバーグ譲り(?)の「擬似父子的」なキャラクターの登場といい、本作もまた、『バック・トゥ・ザ・フューチャー』3部作(Back to the Future, 85~90年)から『フォレスト・ガンプ/一期一会』(Forrest Gump, 94年)、そして前作『フライト』(Flight, 12年)にいたる、いかにもゼメキス的な世界観を忠実に反復しているといえる。

 この監督ならではの大味な演出ぶりがかねてから好みであるとはいえ、個別の作品として観た場合、『ザ・ウォーク』が手放しで絶賛すべき傑作かといわれれば、そこには微妙な含みがある(その点では、むしろたとえばスティーヴン・スピルバーグの新作『ブリッジ・オブ・スパイ』〈Bridge of Spies, 15年〉について書いたほうがはるかにふさわしいだろう)。それよりも、この連載がさしあたり問題とする「ポスト・シネマ的」な条件に対してどこか批評的な身振りで対峙しているように思える点が、『ザ・ウォーク』の見逃せないポイントなのだ。

 そのことは、やはり本作の主題であり、なおかつクライマックスを構成してもいる、主人公プティのツインタワーでの綱渡りのシークエンスに深くかかわってくる。

 パリ市街で綱渡りの大道芸人として身を立てていたプティは、建造中の当時世界一高いビルとなるツインタワーの屋上間の綱渡りという前代未聞の野望を抱いて、入念な準備を重ねたあとに仲間たちとともに渡米する。そして映画の後半では、高さ411メートル、地上110階、命綱なしでのプティの綱渡りのドラマがほぼ史実に忠実に描かれることになる。このシークエンスについて、主演のゴードン=レヴィットはプティ本人から綱渡りの猛特訓を受け、撮影のさいには、スタジオの地上12フィート(約3.6メートル)の位置に実際にプティが用いた方法で張られたワイヤーを使いながら、スタントマンとともに自ら演じたらしい。

 いずれにせよ、このシークエンスについてはいくつかの国内レビューやSNS、まとめサイトなどでも、綱渡りのスペクタクルを再現したリアリティの迫真性を評価する感想が軒並み目立っているようだ。ちなみに、わたしは現在のところ、2D版のみを劇場で観ており、IMAX3Dや4DXは観ることができていない。したがって、鑑賞体験の比較から厳密には評価できないのだが──しかしそれらの受容の条件にかかわらず、少なくともわたしにとっては、このシークエンスは、率直にいってほとんどスリリングな没入=サスペンスを感じるものではなかった。

 その理由はごく単純である。いうまでもなく第一に、この極限的なシチュエーションを描くシークエンスが──すでに崩壊した歴史的事実をだれもが知るツインタワーという舞台装置も含めて──、高精細のディジタル映像によって、いささかも現実ではない、バーチャルに作られたものだということを、ゼメキスの演出と映画外の文脈双方が、あからさまに証明してしまっているからだ。

キャメラと身体の無重力性


 たとえば、この綱渡りの場面において、ダリウス・ウォルスキーの操るキャメラは、あたかも上空を飛ぶ鳥の視点のように、タワーの周囲や、はるかに隔たったふたつのタワーのあいだに張られたワイヤーを渡りきるプティの姿を、空中のあらゆる角度、サイズから縦横に捉えてみせる。

 周知のように、このようないわば「スケールフリー」かつ「多視点的(pluriversal)」なキャメラワークは、『ゼロ・グラビティ』(Gravity, 13年)や『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』(Birdman or (The Unexpected Virtue of Ignorance), 14年)でオスカーを受賞したエマニュエル・ルベツキを筆頭に、2010年代以降のディジタルシネマの映像表現において、もはやデファクトになりつつある★1。いうなれば現在では、現実という唯一の「足場」(それは同時に、「フィルム」や「ショット」といったかつての映画の物質的かつ制度的な支持基盤をも意味するだろう)がディジタルによって決定的に雲散霧消してしまい、あとには何をどのように撮ってもよいという「イメージの例外状態/無重力状態」だけがスクリーンに過剰に露呈する。

 そのなかで、あらゆる映画は、そのサスペンスやアクション演出を成立させる根拠づけを失効、ないしは再構築せざるをえない。思えば、『ゼロ・グラビティ』の革新性はそうしたディジタル的なシニシズムを逆手に取って(脱構築して?)生みだされたサスペンス表現にこそあったのであり、また、昨年の『マッドマックス 怒りのデス・ロード』(Mad Max: Fury Road, 15年)に対する異様なまでの熱狂の一端は、その過激なカーアクションの大半が実写で撮影されたという「反時代性(アナクロニズム)」にあったはずだ。

 その意味では、知られるように、早くも80年代からニューメディア的な映像製作に一貫して関心を向け、とりわけ2000年代以降には実写よりもディジタルアニメーション作品を多く手掛けてきたゼメキスのキャリアが、こうした近年の状況にも連動していることはまぎれもない。しかし、こと『ザ・ウォーク』のクライマックスシーンにかんしていえば、その流麗で、いっさいの「重力」を欠いたようなキャメラワークや演出それ自体が、皮肉にも、映画的サスペンスの底を抜いてしまっているように思われる。翻って、そうした虚構的なディジタル映像の海に囲まれ、「落下」=重力のサスペンスを希釈されたゴードン=レヴィットの身体性は、必然的にどこか緊張感を欠落させた輪郭におさまるほかない。

「落下」のサスペンスの歴史性


 ところで、この点について思い起こされるのは、まさに現実のプティがツインタワーを綱渡りで渡ってニューヨーク市民を驚かせたわずか数年後の70年代末に記された、日本の批評家による、つぎのような一文である。

映画は、縦の世界を垂直に貫く運動に徹底して無力である。上昇とか落下とか、とにかく上下に位置を移動する対象をその垂直なる運動として表象しえたイメージと音の蓄積というものは驚くほど貧しい。その貧しさは、いうまでもなく映画の物質的=技術的な条件に左右されている。[中略]映画における落下の主題は、まさにこうしたシニカルな方法[引用者註:映像編集]を総動員することでかろうじて映像化されうる特権的な主題である。それは、映画の脆弱さが露呈する一瞬というべきかもしれぬ。★2


 蓮實重彦が指摘していたとおり、かつて映画における「落下」(落ちること)の表象/主題は、「この現実」との物理的つながり(指標性)をメディウム的な根拠とする映画フィルムの物質的=存在論的条件を視覚的に象徴する要素だったのであり、「まさしく映画の限界そのものを映画自身につげる起源なき映画的想像力」と呼ぶべきものであった。だが、『ザ・ウォーク』のプレーンなツインタワーのディジタルイメージと、ゴードン=レヴィットのどこか重力を欠いた身体イメージは、今日の多くのハリウッド映画と同様、こうした所与の前提をすがすがしく裏切っているといってよい★3。したがって、さしあたり落下のサスペンス/スペクタクルを主眼とした『ザ・ウォーク』を、『ロイドの要心無用』(Safety Last! 23年)から『逃走迷路』(Saboteur, 42年)にいたる、落下に通じる高所サスペンス映画の歴史的系譜において安易に評価する批評は慎むべきだといえる。むしろここにこそ、『ザ・ウォーク』の「ポスト・シネマ性」が宿っているからだ。

綱渡りとしてのシネフィリー


 とはいえ、最後にいい添えておこう。

 以上のような『ザ・ウォーク』におけるゴードン=レヴィットの身体は、述べてきたように、もはやかつての映画のような物質的基盤=重力をまとっていない。それでも、その身体イメージはある意味で、まぎれもなく感動的に見えるのだ。

 それは、一方でかれを取り巻く世界が、ツインタワーからワイヤーまで、確固とした足場を欠いたバーチャルなイメージに満たされているにもかかわらず、他方、そのなかでかれが物語を通じてゆっくりと、しかし確実に、綱渡りという新たな「習慣」を身体的に習得=接ぎ木してゆくプロセスそのものにあるといえる。というのも、そのゴードン=レヴィットの姿はまさに、ディジタルな映像が氾濫し、古今東西の映画や映像が文脈を欠いたままランダムにアクセス可能になった今日における、わたしたち「シネフィリー(映画愛好者)」の置かれた状況を図らずも隠喩的にかたどっているように見えるからだ。

 そもそもかつてビデオもDVDも、ましてやNetflixも存在せず、劇場のスクリーンしかなかった時代、映画を観ることとは、時代の変遷とともに推移するジャンル史的な記憶や慣習に作品をとおして寄り添い、それらを身体的に習得/馴致していくいとなみであったといえる。そして、そうした記憶や慣習に基づくジャンルの「リズム」を堅牢かつ豊穣にインストールした特異な身体性を、「シネフィル」と呼んだのだろう。たとえば西部劇ならば、『駅馬車』(Stagecoach, 39年)でまずその定型を習得したあと、『リバティ・バランスを射った男』(The Man Who Shot Liberty Valance, 62年)で「脱臼」に驚き、『許されざる者』(Unforgiven, 92年)でその終焉を察知する……というように。すなわち、そこには確固とした「足場」=歴史性があった。映画はきわめて身体的なメディアだが、同様の傾向は、おそらくはSFや本格ミステリ、あるいはアニメといった20世紀の他ジャンルにも見られるものだろう。
 しかし、いうまでもなく、そうした前提は21世紀にはすっかり雲散霧消している。今日のわたしたちは、たとえばYouTubeにアップロードされた古今東西の映画作品を、文脈や歴史的順序に頓着せず、ときには全編か断片かにすらこだわりなく、「食べログ的」に消費するほかなくなっている。ここに、かつての「足場」──一貫した歴史的記憶や慣習を欠いた新たなシネフィリーが生まれるのだ。三浦哲哉は書いている。

映画史を、ある習慣としての「自動性」がたえず更新されて、幾層にも重なった地層に喩えることができる。[中略]映画史的記憶を持たぬ世代が過去の映画を見ることは、自分の趣味判断を一旦保留したうえで、かつて別の何らかの習慣が在ったことを漠然とであれ仮定し、試行錯誤しながらそこへと自らの感覚を馴染ませてゆく、そのような営みである。[中略]習慣の場から場へと自ら移行することの冒険があり、そこで獲得される自由があるということだ。[中略]映画は見慣れることを要求する表現形式である。だがそれは同時に、いまここの習慣に囚われた身体からの「脱-習慣化」を意味するだろう。★4


 三浦のいうとおり、歴史的記憶という名の安定的な足場を喪失し、ディジタルのよるべなき広大な海にたゆたう現代のシネフィリーの存立条件とは、眼の前にばらばらにちらばった複数の映画的慣習(「時代」「ジャンル」「作家性」……)のあいだを危うげに経巡りながら、絶え間なく「習慣化」と「脱-習慣化」を繰り返してゆく──まさしく自らの習慣化された身体に「綱渡りの身体」を習得=接ぎ木してゆく(そして、そこからまた離脱してゆく……)行為にある。その意味で、今日のシネフィリーとは、ゴードン=レヴィットと同様、「ディジタルな綱渡り」を要請される者なのだ。

 思えば映画の前半、プティに綱渡りの極意を指南するパパ・ルディ(ベン・キングズレー)が、未熟なかれに向かって「ステージに対して嘘はつけない」と芸人としての心構えを諭すシーンがある。このパパ・ルディの言葉は、翻って視覚的表象における「嘘」、すなわちディジタル映像(とそれを観るわたしたち観客自身)における倫理性を考えるときにきわめて暗示的に響かないだろうか。「嘘」がつけなくなった、いいかえれば、すべてが「嘘」になった時代に、それでも綱渡りを続けようと試みること。それが、問われているのだ。

 そして、何よりもそうした「ディジタルイメージの例外状態」の最たる事例である監視社会/アーキテクチャ社会化をもたらした特権的出来事こそ、ほかならぬ現実のツインタワーを倒壊させた「9.11」であったという事実が、本作の映像に独特の陰りとシニカルさを添えているといってよいだろう。

 このことが、2016年のいま、『ザ・ウォーク』を観ることの、わたしたちの社会と映画双方の、二重の歴史的な「悲劇性」なのだといえる。

 


★1 ちなみに、わたしはこのような事態を、「クリストファー・ノーラン化現象」と呼んでいる。
★2 蓮實重彦「映画と落ちること」『映画の神話学』ちくま学芸文庫、1996年、222‐241頁。また、蓮實はこのエッセイで、「映画はその物理的な限界として、たとえば一日の人間の行動を切れ目なしに一つのショットとしてフィルムにおさめ続けることは不可能であり、今日の技術的水準からすれば、それを幾つかの異なるフィルム断片として連続的に上映するというのがせいぜいなのである」(241頁)と記しているが、この前提が今日においてほとんど失効していることは、いうまでもない。
★3 この点については、昨今のマーベル映画を例に、以前論じたことがある。拙稿「ディジタル・ヒーローの倫理的身体──マーベル映画とディジタル表現のゆくえ」『ユリイカ』5月号、青土社、2014年、92‐99頁。
★4 三浦哲哉「二つのリアリズムと三つの自動性──新しいシネフィリーのために」『現代思想』2016年1月号、青土社、2015年、216頁。
 
『新記号論』『新写真論』に続く、メディア・スタディーズ第3弾

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『新映画論──ポストシネマ』
渡邉大輔 著

¥3,300(税込)|四六判・並製|本体480頁|2022/2/7刊行

渡邉大輔

1982年生まれ。映画史研究者・批評家。跡見学園女子大学文学部准教授。専門は日本映画史・映像文化論・メディア論。映画評論、映像メディア論を中心に、文芸評論、ミステリ評論などの分野で活動を展開。著書に『イメージの進行形』(2012年)、『明るい映画、暗い映画』(2021年)。共著に『リメイク映画の創造力』(2017年)、『スクリーン・スタディーズ』(2019年)など多数。
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