アンビバレント・ヒップホップ(4)サウンドトラック・フォー・トリッパー|吉田雅史

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初出:2016年07月08日刊行『ゲンロンβ4』
 本連載では、これまで様々なビートについて考察を進めてきた。それらは、ラップ・ミュージックを中心に据えた、ビートを巡る議論であった。しかし前回の連載で、私たちは、ヒップホップの地平には、それ自体で自律し言葉を必要としない類のビートたちも存在することを確認した。今回改めて着目したいのは、なぜラップ=言葉を必要としないビートが誕生し、それらが需要されるのかという問いである。

1. 接続する音楽/切断する言葉


 東浩紀は、宇川直宏、黒瀬陽平との鼎談で「音楽は人々を接続するもので、言葉は人々を切断するもの」であると指摘している★1

 音楽の接続性の一面については、前回の連載における「ビートの公共性」を巡る議論で考察した。DJを介して聴衆がグルーブを共有するとき、そこには人々を接続するという音楽の特性が明確に表れている。そしてここで考えてみたいのは、音楽の中でも特に、ラップ・ミュージックについてである。それは接続性を有する音楽でありながら、同時に「過剰に」言葉を持っている。勿論、ポップスやロックのような歌モノも、歌詞=言葉を持っている。しかし歌モノの歌詞は一般的にメロディの音数に制約を受けるため、比較的文字数は少なく、より多くの人々が共感できるような抽象的な詞を持つ楽曲も少なくない。一方でラップ・ミュージックにおいては、言葉は過剰に供給される。単純にその文字数は、多い。

 歌モノの愉しみの1つとして挙げられるのは、その歌詞に共感し、歌われている登場人物に感情移入することだろう。だとすれば、歌詞が長ければ長いほど、同化したい対象の詳細が語られれば語られるほど、その対象と自身の状況にズレが生まれる可能性もまた高くなる。 多くを尽くすほど、その書き手とリスナーを切断するのもまた言葉である。しかしその齟齬を脳内で修正しつつ「これは私のための歌である」と解釈するのも無論リスナーの自由である。

 では、ラップ・ミュージックからラップ=言葉を取り払ったらどうか。12インチのB面を根城とする、インストバージョン。言葉を持たないインストの音楽についても、そこに個人的な体験を重ね合わせたり、感情移入することは可能だろう。この場合に聴衆は、音楽のメロディ、リズムや音質、それらの組み合わせが齎す、ときにメランコリックで、ときに暖かく、ときに暴力的で、ときに溌剌としたイメージそのものに、思うがままに個人的な物語を重ね合わせ、感情移入するといった手続きを踏むことになる。音楽は、それを共有する人々の間を接続するだけでなく、私たち個人の経験=物語とそれに結びつく感情とも接続するのだ。
 しかし言葉の意味と響き、フローを最大限に強調することを眼目にチューンナップされたラップ・ミュージック用のビート群は、個人の物語を重ね合わせる器にはそぐわない側面がある。これらのビートは基本的に何れもシンプルな反復をベースとし、全体としてフラットでダイナミズムに乏しい。「曲展開」と呼べるのは、原則音数が多めで派手になる「サビ=フック」のパートと、比較的抑え気味の音像になる「ヴァース(歌詞の1番、2番などの部分)」の2つのパート間の行き来のみである。つまり、楽曲としての凹凸が少ないのだ。

 私たちは、喜怒哀楽を伴う個人的な経験の伴奏としての音楽に、喜怒哀楽のエモーションを増幅させるような、ある種の劇的さを求めはしないだろうか。出会いの喜び、離別の悲しみ、未来への希望、過去への郷愁、不条理への怒り、自己への嫌悪など、これらの出来事=物語とそれに伴う感情に結びつき支える音楽には、その感情の高まりに併走するような音楽的展開=物語が求められる。

 であるならば、個人の経験に接続する音楽としてのヒップホップのビートに求められるのは、反復ベースのビートに、凹凸=ダイナミクス=物語を付与すること。このアンビバレントな欲望が、言葉は持たないが物語を持つ、インストヒップホップの潮流に結実する。

 言葉を持たないダンスミュージックに物語を希求する人々の態度は新奇なものではなく、DJたちはその登場時から、物語の紡ぎ手としてそこにいた。聴衆たちが夜を徹してダンスフロアーで追い求める、現実からの逃亡劇。それに寄り添い深夜から明け方まで続くロングミックスは、いつも聴衆たちを互いに繋ぎ、鼓舞するサウンドトラックだった。ディスコミュージックからヒップホップ黎明期のアフリカ・バンバータの『Death Mix』(1983年)へ。次々と繰り出されるブレイクビーツの数々は、原曲から切断され互いに接続されることで見事な凹凸模様を成している。

 そして1990年代のイギリスでその延長線上に生まれ落ちた、トリップ・ホップやアブストラクト・ヒップホップと名付けられたビート群★2。それらのラップから自立したインスト・ビートは、従来のインストのクラブミュージックの主流であったテクノなど4つ打ちのビートと比較すると、BPMが遅いために、ダウンビート、ダウナー系と呼称されることもあった。しかしクラブでの聴衆の盛り上がりは、その呼称とは裏腹に激しさを増した。この理由の1つは後で見るように、トリップ・ホップ/アブストラクト・ヒップホップが、激しい盛り上がりを演出する劇的さ=凹凸を備えた音楽であったからと言えよう。

2. 都市へ連れ出されるビートたち


 前回指摘したように、インストバージョンのビートは、ある種の公共性を纏った形で、MCやダンサーたちのフリースタイルを下支えする役割を担ってきた。そしてそれらを鑑賞するリスナーの環境も、伝統的にはブロックパーティやブーンボックスのような公共性を担保したものが散見され、カーステレオの利用のされ方にもそれは引き継がれていた。そしてカーステレオやウォークマンによる聴取空間を獲得したビートたちは、自宅の部屋やクラブから外に連れ出されることになる。

 そしてトリップ・ホップ/アブストラクト・ヒップホップのビート群は、前述のようなクラブでの盛り上がり方とはまた別に、外に連れ出されるに相応しい音楽であると言えよう。しかしその理由を議論する前に、まずここで精察したいのは、そもそも外に連れ出されるのに相応しい音楽(ジャンル)とは何かという問いである。勿論、ありとあらゆる音楽を外で聴きながら移動することを可能にしたのがウォークマンの発明であり、そこにジャンルの縛りなど存在しない。しかし、にもかかわらず、ある特定のジャンルが屋外で聴くのに相応しい、あるいは需要される、というようなことがありうるのだろうか。

 細川周平は、都市におけるウォークマンの機能と効用について考察した『ウォークマンの修辞学』で次のように述べている。


 ウォークマンの作り出しうる「均質空間」は、都市的なるものにおいて、都市を忘却することで成立つ一方、都市なしでは当然存在しえないアンビヴァレントな装置である。表象としてのウォークマンのエアポケット的現前は、聴き手から都市の音(例えば車の音、駅のアナウンス)を排除することと、聴き手に都市的なるものの音(例えばフュージョン音楽)を導入することの二つの要素の絡み合いによって支えられている。★3
 細川によれば、ウォークマンを用いて、都市を背景にヘッドフォンで音楽を鑑賞するとき、そこにはエアポケット的な「均質空間」が立ち現れるのだという。つまり本来はその場所に紐付くはずの環境音は無化され(近年ノイズキャンセル型のヘッドフォンの登場によりこの傾向は高まっているだろう)、フラットな聴取空間が供給される。しかしそのフラットな空間で聴取される音楽は、都市に相応しい音楽、都市のサウンドトラックであるのだから、ウォークマンは都市に対して「アンビヴァレントな装置」なのだと細川は指摘する。

 都市のサウンドトラックとなる音楽として、当時細川はフュージョンを挙げている。マイルス・デイヴィスの『ビッチェズ・ブリュー』やハービー・ハンコックの『ヘッド・ハンターズ』、リターン・トゥ・フォーエヴァー、ウェザー・リポートなどの先進性を持つ例と、彼らに続く画一化されたフォロワーたちの音楽。細川は、これらがウォークマン向きの音楽である理由として「一つの『シリーズ』の一員となることに満足し、それになりきろうとする音楽」であり「差異ではなく反復(余剰)の世界」であると述べている。

 細川の愛聴するセシル・テイラーなどのフリージャズは、集中力を強要する音楽であり、その繊細なダイナミズムは、ヘッドフォンを透けてやって来る都市のバックグラウンドノイズにかき消されてしまう。そこで彼が都市に相応しい音楽と結論付けたのが、フュージョン、ニューミュージックやAORなどの、一定の型を持つ商業ベースの反復の音楽だった。

 この結論は一定の説得力を持つものの、彼が言及しているフュージョンやAORは、商業的であるがゆえ、ウォークマンが登場した1980年代当時の流行に応答する「アーバン」や「スムース」などの言葉で形容される音像を持っていた。そのような音像を形作る手法が一種のクリシェに陥ったため、ジャンル全体が画一化されていたことは事実であろう。しかし端的に、それらが「都市的なるものの音」に聴こえたのは、その音像の印象が、都市に相応しいと思わせる引力を有していたからではないだろうか。つまり、これらの音楽は、当時、如何にも都市に似合いそうな佇まいをしていた。単にそれが、モードであった。

吉田雅史

1975年生。批評家/ビートメイカー/MC。〈ゲンロン 佐々木敦 批評再生塾〉初代総代。MA$A$HI名義で8th wonderなどのグループでも音楽活動を展開。『ゲンロンβ』『ele-king』『ユリイカ』『クライテリア』などで執筆活動展開中。主著に『ラップは何を映しているのか』(大和田俊之氏、磯部涼氏との共著、毎日新聞出版)。翻訳に『J・ディラと《ドーナツ》のビート革命』(ジョーダン・ファーガソン著、DU BOOKS)。ビートメイカーとしての近作は、Meiso『轆轤』(2017年)プロデュース、Fake?とのユニットによる『ForMula』(2018年)など。
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